仕事が進まないときの話

Leica M7, Summilux 50/1.4, RDPIII @ Pienza, Tuscany, Italy

仕事が全然進まない時、というのがたまにある。

実は今もそれで、連休中なのに仕事を持ち帰って来てしまっている。頭の調子が悪いと言うか、うまくかちっとはまらない。

人によると思うが、僕の場合、難しいというより、過度に精神的な負荷が高い仕事が重なると、こうなることがある。

過度に精神的な負荷が高い仕事というのは、なんというか入り組んだ、関係する受け手だとか文脈のことをかなりああだこうだと読み切って、それに合わせて、精妙に組み込まないといけない組み込み細工のような仕事のことだ。

単に疲れているだけのときかもしれないが、そう言うのが折り重なって来ると、お腹いっぱいみたいになって、時たま、心か脳かどこかがダウンしてしまう。

本当に不思議だ。

まあ自然の調節弁なんだろう。

そういうときはどうするか、と言えば、みんなそれぞれのやり方があると思うけれど、自分は概ね次の4つぐらいのことをしている。

1.そもそも仕事するのをしばらくやめる

そう言う時に限って、一分でも大切に仕事をしたいものだが、そこをぐっとこらえて何か全く別のことをする。(実際、今こうやってブログを書いて気晴らしをしている。笑)

自分の仕事とは直接全く関係のない人と話をするというのも悪くない。ただその辺を散歩して来るというのも悪くない。


2.何か簡単だからといって後回しになっているが、どうせ割とすぐにやるべきことをやる

大体、アタマが不調になる時というのは、アウトプットというよりインプットがメインの日が数日続いた時になりやすい。

単に、アウトプットの弁が閉じている感じになっていたりするケースが多いので、何でもいいから書いてみる、出してみると言う感じだ。

To Doリストの行数が少し減るだけで、結構気晴らしになるし、なんであれ、何かが前に進むというのは気持ちがいいものだ。小さな弾みにもなるし、元気にもなる。掃除でもいいからやるというのは悪いことじゃない。それで疲れて動けなくなってしまうと本末転倒だが、それでもそれがそのタイミングでやるべきことなんだったら、そもそもやろうとしていることが多すぎるからそうなっているので、まあしょうがない。


3.ものすごい強烈なプッシュを受ける(笑)

意外と効くのがこの外圧の活用だ。どうにも重い腰が上がらないときなのか、着手が出来ないときは、もうケツを切ってしまうだけでなくて、そのオーダーのもとに接する、という手段だ。

かつてコンサルタントだったときは、とにかく考えて前に進まないときは、深く考えずにクライアントさんのところにいく、いろいろ生のお話をして来る、というのが劇的に効することが多かった。

商売とかマーケティングの話であれば、エンドユーザだとかお客さんのお話をとにかく直接聞いて来るというのも良い。この生の感覚が、観念論的な行き詰まり感を一気に打破してくれる。


4.大切な玉ぐらいに思っている話があれば、それをさっさと出してしまう

これもいい。

後になればなるほど初期的な話とちがったちゃんとしたものを出そうとするが、これがよけいに不思議なプレッシャーになって大したものが出せなかったりする。自分の仕事のクオリティにプライドを持っていたりするとよけいにそれが起こりがちだ。

なので、それを一気にまとめあげる勢いがなくなってしまっているときは、どんなものでもさっさと出してしまう、それで批評と言うかフィードバックにさらされるというのはなかなか効果的だ。

で、それでも行き詰まったときは?

休む!

しょうがないよね。

合わせて、身体を動かすのもいい。

休む気にならないところを強引に休むために、身体を動かすと、日頃全くと言っていいほど運動しない僕は*1、クタクタになってそもそも無理できない性格なので、バタンと倒れて寝てしまう。

次の日に軽く筋肉痛になったりするが、それもまた良し。

少なくとも昨日とは違う自分になったことが実感できて、先に進めたりする。

最終兵器は、放置だ。

もうほっておく。何れにしても人は責任から逃げられないので、ギリギリになったらどうせやる。寝ないでもやるに決まっている。(実際には寝るが。笑)

なので、もう自分を信じて、もういても立ってもいられなくなるまで放置してしまうというのは実はそれほど悪い手段ではなかったりする。*2

読者諸兄姉は、きっと同じようななんだか前に進まない感じになる人は少ないのではないかと思うが、とはいうものの、似たような感じになる人も実はそれなりにいるのではないかと思う。

結構この辺の芸の深さというか、手練手管??が総合的に見た時の人の生産性に直結しているのではないかと思ったりもする。

それが時間と共に磨き込まれたタイムスキルの一つなのかな。

みなさまステキなゴールデンウィークを!




*1:少々恥ずかしい

*2:実は去年アクセス解析サミットというののキーノートスピーチをやったときも、前日の夜11時以降まで別のこれもケツの切れた仕事をやっていて、そこから早朝にかけて用意した。が、結構好評だったようでホッとしている。これ以外にも似た経験は実は多く、「ギリギリさ」と「アウトプットの質」は明らかに関係しないということは経験上断言できる。全く自慢にはならないが、よほど自分を信じていないとこういうことは出来ないとも言える。(たしか同じ週にあった昨年のTEDxUTokyoも前日の夜に頑張った、、。担当の学生の方には多大な心配と迷惑をかけてしまったが、こちらも無事終了した。)

痛みを知らない人への座学


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III @ Pienza, Tuscany, Italy

昨日書いた件について、その新人の子に話したきっかけは、その子にメンターとしてついている少し先輩の子が、僕のいわゆるイシュー本のことを説明して紹介しようとしていたことを知ったからだった。

それはちょっとまだ読まない方がよいかもしれない。

僕は思わずそう言った。むしろ今読むと害があるかもしれないと。

そのとき説明しなかったが、経験値の低い中で、あれを読んで、分かったような気になるというのがそもそも危険だと思うことが第一の理由で、もう一つの理由は、本当の意味を理解できるかかなりのところ疑問があるからだった。結果、本来読むことで得られるはずの栄養は逆に得にくくなる可能性があると思ったのだ。

僕は前の職場も通じて、長い間、新人教育というのをやって来た。この中で、一つ確信を持っていることがある。

それは、痛みを知らない人への座学というのは本当に嫌になるくらい受け手の心に残らない、血肉にはならないということだ。

前職は、しょうがないなと思うぐらいなんでも効果を可視化する文化だった。どんなトレーニングセッションをやった時も、すぐにアンケートをとって、どのぐらい役に立ったのか、何が良くて何が良くなかったのかということをすぐにフィードバックを受けた。で、教え手が誰であろうと五点満点なら五点満点のスケールで何点だったと言う結果が毎回でるのが、ちょっとした恐ろしさであり、ちょっとした面白さだった。

僕のトレーニングは、幸いなことに、前職を卒業する頃は比較的評価が高く、概ね受講者の平均スコアが満点かそれに近いスコアだった。教え手がかなりシニアな人であっても、5点満点で参加者平均が3点台(3.9とか)のセッションもざらにある中では、かなりマシな方だったと思う。

単に一方的な考え方だとかそう言うことだけを伝えてもほとんど何も伝わらないので、多くの場合は何問かの具体的な問題を与えて、一緒に考えてもらい、それを通じて、何かについて理解してもらう。座学とは言っても、それが僕のスタイルだ。

で、「非常に役に立った」「何をどう考えたらいいのか分かりました」とかというコメントがいくつもあったりして、よしよし、今年はちょっとは戦力として期待できるかな、なんてほくそ笑んで戦場であるプロジェクトに戻る。

ちなみに、なぜそこまで、一所懸命に教えるかと言えば、それは彼らがちゃんと育っていなかった場合、痛手を食らうのは、彼らを引き受ける実際の自分らのチームの負担になるからだ。

で、他のトレーニングも含めて終え、何人か自分のチームに配属されて来た時に自分が教えたことがさぞや残っているのではないかと期待しているわけなのだが、毎回、空けてみて分かることは、彼らの中には文字通り「何も」残っていないということだった。

言っておくが、彼らは一般的なお勉強的な基準でみても、その職場の特殊な基準で見ても相当に優秀な部類であって、活動性、咀嚼能力、自発的な思考力、人間的なチャーム、その他諸々の能力は決して問題のある人たちではない。

その彼らが、頭や心の中になにもかもすっからかんになって、戦場に出てくるのだ。

そもそも何から考えるべきかも伝わっていない。この局面でのイシュー(今答えを出すべきこと、白黒を付けるべきこと)は何だと思う?と聞いても、イシューとはなんですかと聞き返される始末。*1

確かにイシューというのは分かりにくい概念だし、これを見極める力というのは、本当のところ最後にしかつかず、必要なスキル習得の中でもっとも長い道のりだ *2。それは無理だなとあきらめ、何か分析をやらせてみると、自分が教えたはずの分析の魂について、何ものこっていないというのが普通だ。

たまにそれなりにできる人間がいたとしても、それはほとんどの場合、こてこての理系で、僕が教えたことが残っているからではなくて、単にここまでの人生の中で身につけて来たことを、まるで自転車にのるように理屈ではなく、出来ているケースにすぎないことがほとんどだ。

その証拠に、ちょっとしたことをこづいてみると、しどろもどろになったり、なぜ自分がそう言うことをやっているのか説明できないケースが大半。その答えは何ヶ月か前に僕が教えたことの中にあるにもかかわらず。

こういう経験を繰り返していると、何かを最初に腰を据えて教えるということ自体の価値をものすごく信じにくくなる。

なので、僕は基本、仕事の経験が殆どない段階で、最初に行なう座学というのは反対派だ。たとえ、どれほど実戦"的"な演習であったとしても、だ。

結局、優秀な人間というのは、本当に価値のあることだけをちゃんと分かっているから優秀なのであって、それ以外のことを無意識にさばいて、どこかにやってしまう力が高いということに他ならない。

習ったことを全て覚えていて、それに縛られるような人間はそもそも優秀ではない。そう言う意味で、僕の教え子たちは確かに優秀なのだ。その何週間、何ヶ月間か、僕が教えたことが本当に大切だという局面に触れなかったため、僕が教えたことを全て忘却したにすぎないのだ。

ということで、相手が優秀であればあるほど、実戦の前の座学の効果は薄くなる。痛い目にあって、いい感じで筋肉痛や、傷がある状態の方が、座学ははるかに効果が高い。これが僕のここまでの、(自分が教えてもらって頂いていた時からも含め)20年以上のこういう経験からの結論だ。

皆さんどう思われるだろうか。

関連エントリ

拙著に関して以前、糸井重里さんと対談させて頂いた内容はこちら

*1:この辺りの詳しくは拙著をご覧頂ければと。

*2:これはこれでまた別途どこかで書いてみたい

「知る」ことと「わかる」こと


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III, @ Tuscany, Italy

「知る」ことと「わかる」ことは違う。そんな話をこの間、大学を出て入社したばかりの新人の子とした。まっすぐで、頭のいい子だ。

その二つってどう違うって思う?

そう聞くと、その子は、

  • 「知る」というのはその言葉を知っていること、
  • 「わかる」というのは人に説明できること、

かな、と自信なさげに言った。

悪くはない。けど、それは僕の理解とは違うんだ。、、僕はそう言った。

「知る」というのはあくまで他人事(ひとごと)として、そのことを知ること。「わかる」というのは自分がその感覚も含めて、自分の感覚を通じて理解することだ、と。

いくら説明できても実体のない「知っている」は沢山ある。*1

例えば、痛いという感覚、これは痛い目に遭わないと到底理解できない。観念論で、「痛さとはつらさを感じるような不快な感覚」などと、いくら言われてもダメだ。心が折れるというのもそうだ。本当のところ心が折れたことのない人には分からない。

恋心だって同じだ。子供の頃は、恋する話や場面がある本で出てくると、甘酸っぱい気持ちってなんだろう、的な感じで、まるで恋に憧れたり、恋に恋する感じになる。けれど、いつか大人に近づいて、いざ本当に誰かのことを好きになったりすると、突然「わかる」。

ああ、恋するってこういうことなんだな、ある人を好きになって甘酸っぱい想いというのはこういうことなんだな、って。

すると突然、子供の頃読んでいた同じ本の同じ部分を読んでも、突然、本当に甘酸っぱい気持ちになり、本を閉じてしまいたくなるかもしれない。それがほんとうに「わかっている」、そんな状態なんだよ、って。

ここまで言うと、その子も僕が言っていることの意味を理解したようだった。

ここから彼らはお勉強ではない、ほんとうの世界に入る。これまでもリアルな世界だったかもしれないけれど、それはどことなく観念論的でひと事の世界だった。客観視しても全然構わないし、自分の実感として経験できる場すら与えられない、そんな世界だった。

これからはそうじゃない。全てのことに重さが伴う。実体がある。そして自分の日々の一瞬一瞬が引き起こすことから逃れることなんて出来ない。そして、たとえちょっとした数字であろうと、ほんとうに重さのあるものであって、その数字の背後にある、あるいは数字が表している何かをちゃんと理解しないととんでもないことを引き起こしてしまう。そして判断を見誤ってしまう。その温度感を持たずに判断することは極めて危険、そんな世界だ。

そう言う世界に入ったんだよ、リアルな世界に入って来ておめでとう、そう伝えるつもりで投げ込んでみた言葉だった。

どのぐらい伝わったことなのか分からない。いつか彼らが、もう少し大人になって、自分の毎日を振り返るとき、このことの意味に気付いてくれたら素敵だな、そんなことをふと思う。

君らがこれからしていくことは、沢山のことを「知る」ことではなく、「わかる」ことを増やしていくことなんだ。

この言葉を彼らへのプレゼントとしてこのウェブの片隅にそっと置いておこうと思う。



関連エントリ

*1:似た話として、例えば、いま朝のNHKでやっている「あまちゃん」の中に出てくるゆいちゃんは、本当に東京のことに詳しいが、東京に行ったことがなく、何もリアリティを持って語ることが出来ない。

来るべし、見るべし、やるべし


Leica M7, Summilux 50mm F1.4, RDP III @ near Pienza, Tuscany, Italy


昨日も今日も本当に久しぶりにグルイン*1ばっかりやっていたので、少々疲れた。でも、たくさんのエネルギーと生々しい感覚を得た。生肉を食べた気分。

マーケットに肉薄するのはやっぱり楽しい。そしてこのintrospect(肉化した状態で見えてくるもの)こそが、大切だなといつもながらにしみじみ実感。

特にモデレータとして直接接している時の情報量はマジックミラー越しと比べると桁違いに多い。(ミラー越しは紙で見るまとめの100倍は情報が多いので、もう計り知れないほどの情報量と言える。)

理屈より市場、数字より実体!

来るべし、見るべし、やるべし。


ps. あまりにも長く書いてこなかったので、少々反省し、何かちょっとしたメモでも書いていこうと思います。

*1:グループインタビュー。Focus Group Interview。FGIと呼ばれることも。取り扱うテーマの視点から比較的近しい属性の人を集めて、生の声を聞くインタビュー方法のこと

落としどころ文化と積み上げ文化


50mm Summilux, Leica M7, RDPIII @Grand Canyon


仕事柄、様々な国の人と話をすることが多い。仕事なので、きっちりと前に進めないといけない、あるいはすくなくともケリを付けていかなければいけない話がほとんどだ。

その度に、痛感するのが、海外の人とのやり取りにおける日本人の受け答えのはまりの悪さだ。基本的にほとんどかみ合っているように聞こえない。結果、大きなストレスを相手に与え、これがあとあと、腹を割って話せる相手と思えるかどうかの境になってしまう。

これは広義には英語力の問題なのかもしれないが、通訳、あるいはその場に参加している通訳的な役割を担う人間がいるケースでむしろ顕在化することを見ると、単純に言葉の問題とは考えにくい。決して、アメリカ人、ヨーロッパ人のようないわゆる「外人」だけでなく、中国人、韓国人、インド人、シンガポール人と言ったアジア人が相手であってもこの問題は発生する。なので、ハイコンテキスト文化だからとかそういうことでも説明できない、むしろ日本と海外の思考スタイルの相違の問題と考えるべきかと思う。

これまでの観察では、日本人は、自分なりの理解の元に、先の先を読んで、結局のところコレなんじゃないかとアタリを付けた思ったポイント、落としどころについて、結論的に話し始めるケースが多い。

実は、そのアタリを付けたポイントは、その時点では決して話の流れ上、クリアになっているわけではなく、そこの確認自体が論点、あるいは議論の進展であり、そのポイントについてどういう風に考えるのか、というアプローチの議論自体が、更に多くの場合、論点であり、議論そのものだ。

結果、相手側からすると、話の立脚点がハッキリせず、しかもその上、そこからどの議論をどう整理するのかもハッキリさせることが出来ないまま、前に行ってしまい、混乱してしまうということがしばしば起こる。

そうなると、相手は黙って(=要は不可解なのでちゃんと聞くのをやめ)別の作業をはじめるか、コチラ側の話が通じそうな人間に、ちょっと廊下で話そうと声をかけ、あれは一体どういう本当の意図なんだ、と確認をとるということが起こる。さっきオレが言ったことについて何の明確な返事ももらったいないのに、なんでこの話の流れであんなことを今話しているんだ?ということになる。

後者が起こればある種ラッキーだが、コレがない場合、コチラの読み込みの意図とは真逆に、双方にとって、非常に非生産的な(=時間投下しているだけの価値を感じられない)時間となってしまうことは言うまでもない。

なぜこんなことが起こるのか?

日本人側のコチラとしては、向こうの事情を出来る限り推し量り、更に自分たちとしての内部文脈的な「落としどころ」をねじ込みつつ、話をしているつもりなのだが、向こうはアメリカ人であれ、アジア系の人であれ、概ね、前提としてはっきりさせておくべき議論のポイント(イシュー)をお互いに確認して、それを積み上げる中で詰めていこうとすることが大半だからだ。

結果、何かおかしそうだと思ったとしても、日本人はなぜこんな手前の議論ばかりしているのかと訝しかるがごとく、より一層、更に先の話をしようとし、外国人側は、自分が確認を求めたはずのポイントについて、なんら明確な返事も、ポイントの理解の言葉すら得られないまま次に話が進むので、状況が更に悪化することが多い。

平たく言えば、落としどころという名の「結論」から逆算して「すりあわせポイント」を探る議論と、あくまで節目節目での「すりあわせポイント」を明確に確認した上での議論の違いと言える。真逆のアプローチだ。日本人にとっては、落としどころを成り立たせるために、キレイにすべき「バリ」に過ぎないものが、外国人側には、議論の前提の確認、議論のbuilding blocksになってしまう。

では、どうするべきか?

僕はこの問題に関しては、まずは向こうの土俵に載る以外、答えはないのではないかと思っている。僕の知りうる限り、落としどころありきの議論をして、擦り合わせの中で論点を拾い、解決していくスタイルは、我が和朝特有のもので、誰かが異文化的なつなぎをしない限り、ほとんど相手側の理解を得られることがないからだ。

といっても、この「つなぎ」の生産性を高めるために、我々がやるべきことは簡単だ。その場、その場の解決、進展のために、議論の背後に眠っている節目節目を拾い上げ、リフレーズ、整理をひとつひとつしていくだけだ。この数分に一回程度の整理、直接的なスタンス表明があるかどうかで、議論の生産性、相手の満足度が劇的に変わっていく。

とここまで書いたところで、これがいわゆる西洋的な価値観における知的生産のアプローチそのものと、我々の文化の持つ知的生産のアプローチの違いを示していることに気づく。明確に前提になるものを検証なり、納得させられる状況にして積み上げて行くことが、ビジネスという基本行動の基本になっている国と、それが主というより従になっている国の違いだ。

日本の落としどころありきのやり方は、西洋的なissue-drivenなアプローチ(イシューありきの考え方)に対して、insight-drivenなアプローチ(洞察ありきの考え方)ということもいうことができる。一足飛びに結論に到着することがうまくできれば効率的だが、ふとすると、それまでの議論を全て無視して、「取りあえず、いったん全て忘れて」とか、「それはそれとして」というようなこれまでの全ての積み上げを無視したような、大変相手に対して失礼な議論をしてしまいがちなリスキーなアプローチでもある。国のパフォーマンスに対する評価が落ちている現在、場合によっては、こちらの知性そのものを疑われる可能性のある行為であることは、認識しておくべきだろうと思う。

重層的な議論が必要な、現在、僕らの国を取り囲む国難と呼ぶべき局面では、落としどころをただ探る典型的な日本のアプローチでは、このアプローチの特徴として、あとあと大きな問題(イシュー)がどうしても表出する可能性が高い。短絡的な二元論などに陥らないよう、現状の正しい理解、その構造的な理解など、きっちりとファクトベースで詰めて頂きたいと、一市民として心から願うばかりだ。



(ご参考)以下、本エントリのきっかけになった安西 洋之さん 、中林 鉄太郎さんとの対談記事です。(お二人の日経ビジネスオンライン上のの連載です。他の記事も大変興味深いのでお勧めします。)

「これじゃあ、日本のモノが売れないはずだ!」

ps. 震災があり、全く着地しないフクシマの問題があり、何を書いても、、、という気分が長らく続いていましたが、精神のリハビリもかねておいおいと何か書いていければと思います。

ps2. twitterでのアカウント、2年以上ほとんど止まっていましたが、徐々に使い始めました。ハテナと同じハンドル名です(@kaz_ataka)。よろしければご笑覧ください。

組織で働くということ

知識労働者は、組織があって初めて働くことが出来る。この点において彼らは従属的である。しかし彼らは、生産手段すなわち知識を所有する」. . . . . 『ポスト資本主義社会』P.F.ドラッカー(上田惇生・佐々木実智男・ 田代正美訳、ダイヤモンド社

前職のプロフェッショナルファーム時代から、今に至るまで友人や知人から、よく受ける質問の一つに、どうして独立しないのか、というのがある。

これだけの経験、実績があれば、一人でも十分食べていけるだろうし、その方が自由が効いて、楽しいだろう。一つの会社でやっていく意味などそれほどないのではないか、というのだ。また独立してしまえば、会社による中抜きもなくなるし(笑)、更に手取りも増えるのではないか、という。

それは確かに表面的にはそうかもしれないが、僕はちょっと違うと思っている。


Leica M7, 50mm C-Sonnar F1.5, RDPIII @ London, England

第一に、仮に知的プロフェッショナルとして働こうと思うと、常に最前線の知識と経験、もっとも際どい課題、テーマに挑んでいない限り、必ず力が鈍る。これ自体は、組織に属していなくても、すぐれたクライアントの方さえしっかりとした関係がいくつかあれば、確かに一見可能だ。ただ、実際には、自分が独立してメシを食べていくとなると、そういうエッジの効いた(=多少以上のリスクがあり、能力的な限界が問われる)仕事がメインになるというより、生活、収入の安定の観点から、日常のコメ的なお仕事がメインになる。結果、力はどうしても鈍る。

また、第二の理由として、結局のところ、そのようなエッジの効いた前人未到系の仕事は、そもそも組織の内部で処理を進めることが多く、仮に外力を使うとしても、一人でやっている人には依頼も来づらい。組織的に、その分野や課題領域について経験を積み、知見を貯め、総合して解決する人たちにはかなわないことが多いからだ。仮にきたとしても、余程のことがないと1人で飯を食べている人には解決できない課題であることが多い。結果、特定の狭い領域に専門を絞っていれば別だが、僕のビジネス上の専門である消費者マーケティングのような、かなり広範なマネジメント課題の半分近くにからむような領域全般を対象にして、本当のピンの力を個人で保ち続けることはかなり難しい。

第三に、上の知的集積の背景でもあるのだが、そもそも考える環境の土壌の豊かさの問題がある。単に専門誌、専門書一つをとってみても、ライブラリー的に個人の財力でそろえることはかなり困難だ。また、ちょっとしたことで相談できるプロの仲間が近くにいるのといないのでは、考えの展開のスピードが桁違いだ。これが大学と言う、様々な分野の専門的研究者、教育人の集団による組織が、人間の知的生産の主な中心の一つであり続ける最大の理由の一つであり、ある程度のグローバルな規模と人の質を持つプロフェッショナルファームが他の追随を許しにくい理由でもある。特定分野の専門会社が単なる一発の新興会社につぶされにくい大きな理由の一つも実はここにある。

更に、知的プロフェッショナルとして生き続けるためには、絶え間なく、自分のスキル、知見を向上させていく必要があるが、これは組織的なバックアップがないとどうしても偏る傾向がある。目線をしっかりとあげ、上のレベルとは何かを考えていき、同じような問題意識を持つ、それなりにスキルレベルの高い人間の中で、磨き合わなければ、ある種の自己満足の世界に到達する可能性が高い。*1 自分のスキルレベルに合った体系的なトレーニングも、自分を磨き、成長し続けていくためには、本来不可欠だが、個人では、今よりも上のレベルに上がるために、そもそも何をどうやっていくべきなのか自体がクリアにならない。これが第四の理由だ。

また、最後に、これは上のプロフェッショナルとしてのピュアな能力、成長の視点とは違うのだが、ビジネスの世界では、余程時流に乗り、また突出した強みがない限り、ある程度力のある組織に属さずに、大きな目に見える変化、インパクトを産み出すことがかなり困難だ。同じ100億円の売り上げのインパクトを出そうとしても、ベースが5千億円の場合と、10億円の場合では、それにかかる負荷は雲泥だ。仮に、あなたが人の20倍ほどの仕事ができる超人的な人であっても、それは20人力に過ぎない。その人が1000人の組織を動かして同じようにやれば、1万人力の結果を生むことも不可能ではない。、、、ある程度の力のある組織をベースに行うことで、自分の限られた力でも、組織をテコにすることで、自分一人では決して不可能な変化、デルタを産み出すことが出来る。

ということで、冒頭に引用したドラッカーの指摘は実に正しいのではないかと僕は思っており、これまで組織の中で属してきたし、これからも事業サイドにいるにしても、縁があってアカデミアに戻るとしても、一人で生きていくことは当面ないだろうなと思う。(また、結果、大学にも、事業体や研究所などの組織にも属さずに、フリーランスとして、一流の仕事をし続ける人を僕は純粋に尊敬している。)

現在も、一つの分野におけるある種の中心的な場所にいるために、実に多くの、正直なところ外部のプロフェッショナルの頃では体験できなかったほどの密度かつスピードのテーマに数多く触れている。そのおかげで、僕一人では決して起こすことの出来ない大きな変化を起こす現場に立ち合うことも出来、これまで考えなかったタイプの負荷を受けて、成長の必要性も肌で感じることが出来る。

以上が、一見、よく知っている人から見ると組織人とはほど遠い僕が(笑)、今も組織の中で仕事をしている理由だ。

そういう質問をしてくる友人や知人たちが、このウェブの片隅の小さなブログの記事を読んでくれるとは思わないが、この間、本を出したために、またこの類の質問を随分受けることが増えたので、取りあえず、僕は基本として今はこう考えているというのを、自分のメモもかねて残しておこうと思う。

皆様、良いクリスマスを!


ps. 文中でも触れましたが、これまで、沢山頂いたみなさまの声に少しでもお応えできればと思い、一冊の本をまとめました。(2010.11.24発売)知的生産に本格的にご興味のある方は、どうぞ!内容については、次のエントリをご覧頂ければと思います。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

ps2. twitterでのアカウント、2年以上ほとんど止まっていましたが、徐々に使い始めました。ハテナと同じハンドル名です(@kaz_ataka)。よろしければご笑覧ください。

*1:余談になるが、どれほど偉大な人間であったとしても、組織力なしに、若く才能のある人たちを集め、育て、結果を産み出し続けるのは難しい。ジョン・D・ロックフェラーほどの国家に匹敵する富と力があっても、特定の何人かにどんと投資するのではなく、シカゴ大学や、ロックフェラー医学研究所のようなまとまった機関を作ることにしたのも、このように持続性のあるインパクトの視点から見たら当然と言える。シカゴ大学が数多く(80名以上)のノーベル賞学者を産み出した世界のトップスクールの一つであることは多くの人がご存知だと思うが、マンハッタンの超一等地にあるロックフェラー医学研究所は、野口英世博士の研究していた場所といえば、あそこかと分かって頂けるかもしれない。現在は、生命科学分野に特化した世界屈指の教育・研究機関、ロックフェラー大学として知られている。

脱アドレナリンワークのすすめ


Leica M7, 50mm Summilux F1.4, PN400N


昼間は非常に元気なんだが、帰る時は虚脱しきっている人がいる。


例えば、僕の職場で比較的近くにいる、ある女性の場合、僕の方がどちらかと言えば早く来ているし、どちらかと言えば長く働いているのだが、何ともいえず、帰る時は圧倒的にか細くなってしまう。


僕は決してgood shapeとはいいがたいし、若い時に運動しすぎて、腰を痛めてから、それほど運動している訳でもないので、体力もさしてあるわけでもない。が、僕のようにぜい肉がついている訳でもなく、中年にさしかかっている訳でもない彼女は、明らかに僕よりも何倍も疲労困憊して帰る。昼間は人並みはずれて元気に声を出しているエネルギッシュな人なのに、である。


帰りにたまに声をかけて話をしてみると、本当に使い切ったと言う感じで帰るようだ。あれでは夜、まとまった活動も出来そうにない。仕事は確かに大切だけれど、人は仕事という畑だけから全ての欲しいものを得ることはできない。将来のための種まきも、目先の仕事だけでは無理だ。そう言う意味で、ちょっと心配している。


自分でも原因が分からないという。体力がない訳ではない訳だから、何か理由があるはずだ。

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彼女を見ていて、思い出したのは、学生の頃のある鮮烈な経験だ。


実験でウズラだったか、ニワトリの子供に、アドレナリンを相当に薄めて、ごく微量、投与したことがある。


その反応は劇的なもので、羽と言う羽が逆立ち、もの凄い興奮状態になった。ほぼ気がふれたという状態になって私も周りの人間も驚愕した。相当に希釈して(=うすめて)いたので、正直、想定の範囲を超えていて、これは自分たちに打つととてつもないことになるな、というのを実感した瞬間でもあった。ホルモンと言うもののパワーを見せつけられたし、このようなごく微量で存在するものを何千、何万という腎臓から取り出し(正確には腎臓とは別の副腎という場所から分泌される)、それを精製するサイエンスというものの力を見せつけられる一瞬でもあった。

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アドレナリンは、日本近代科学の父の一人である高峰譲吉先生が、1900年に世界で最初のホルモン抽出、結晶化に成功したあの物質だ。高峰博士は、理化学研究所の創設に深く関わり、ワシントンDCのポトマック川沿いに桜の木を植え、三共製薬の初代社長としても知られるのはこのブログの読者の方なら、ご案内の通りだ。


生物系、医学系の教育を受けた人であれば、よくご存知だと思うが、このホルモンはFight or Flight(闘争か逃走か:名訳!)のホルモンと呼ばれ、何か大変なことがあった時に、体中の余力を危機対応に回すという役割をなしている。消化などにエネルギーを回すのを停めて、酸素と糖を一気に脳と筋肉に回すのだ。


体中のエネルギーを一気に使い切るためのホルモンと言っても良い。緊急時の病棟でよく心停止になった患者に対して、エピネフリンを打っているが、あれがまさにアドレナリンそのものだ。*1

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まさにこれではないかな、と思ったのだ。


通常は、火事だとか、喧嘩だとか、アクシデントとか、これ的な非常事態で出るはずのホルモンなのだが、これが日常生活である仕事においても、ガンガン出ていて、それが仕事のドライブになっているのじゃないかな、と。


そういう話をしてみると、まさに確かにそう言う仕事のやり方をしていると思う、という。


でも、それが原因の一つかも、と意識できるだけでも、大きく変わる気がする、そう彼女は言ってくれた。


これでやられている人が、きっと、私以外にも、世の中に沢山いると思うので、広めてください。そういうので、小さな石ではあるものの、このブログの片隅に投げ込んでみたいと思った。

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彼女の話に戻る。


それでは疲れるはずだ。たとえ、どんな大きなことをやっているにしても、日常そのものであるはずの仕事が、危機だとか闘争では身体が持たないはずだからだ。


結果、消耗するし、よれよれになって帰ることになるのも無理はない。そうやって見回したり、これまでの色んな仕事であってきた人たちを思い出してみると、確かにある一定の、しかも結構な割合でそういう人がよく仕事をしている人に存在する。パニックになっている訳ではないが、こんなに毎度大騒ぎしていると、身体持たないけれど、大丈夫かな、なんて思った人もいた。(今有名になっている知人でもいる。)


一方、これまで出会った非常に大きな成果を出して、どんどん組織や世の中を変えているような人たちは、もっと落ち着いて、しかし力強く仕事をしている人が大半だった。なので、非常な事態になっても、その人の声を聞けば安心して、さて、正気に戻ってがんばろう!になったものだった。落ち着きすぎている訳ではない。が、異様な危機的状態になっている訳でもない、そんな「熱いが冷たい」働き方をしている人を見るたびに、力と落ち着きが与えられたものだった。僕が今、そう言う状態なのかと言えば、必ずしもそうではないと思うものの、アドレナリン的な状態はなるべく避けたいと思っている。


そう言えば、90年代の初めの頃、アドレナリンジャンキーという言葉があった。いつもアドレナリンが出ているかのような状態で、不思議なハイ状態の人に対して使った言葉だった。これが、この社会不安の中で、うっすらにしても、変な意味で広まっているのだとしたら、それはどうだろうと思う。


アドレナリンの要らない、もっとJoy of Life的な働き方が、世の中に広まることを願いつつ。


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ps. このエントリに限らず、写真にもスターなど頂けたりするととてもうれしいです。また、よろしければ下のリンクをクリックして頂けると幸いです。

*1:なぜエピネフリンという名前が医学の世界で使われているのかは、長くなるので省略する。エイベルなるアメリカ人がオレが先に見つけたと言い張り、その彼のつけた物質名がエピネフリンだったから、というのが話の発端。