From CT to DC (5) : DC

(4)より続く

アナポリスの町はとても小さいけれど、とても愛らしく、人も優しい。港のそばの、二百年以上もやっている食事屋で(!)、店オリジナルのパスタを食べる。ケイジャン*1に香ばしくいためた帆立の貝柱とカリッとなるまで外を炭火で焼き上げたエビを、甘口の深みのあるソースに絡めてパスタと共に食べる。辛さと香ばしさ、そして独特の甘みが口の中で対立し、調和していく。絶品である。アメリカといえども二百年はだてじゃない、そんなことを考えながら、ほうほう頬張る。あんまり外の夕陽が美しく、町が優しいので、宿をDCにとったことを後悔する。こんな修学旅行みたいな旅行じゃなくて、この町のような美しいところで、ただヴァケーションをしゃれ込んだ方が良かったかなあ、なんて思ったりもする。移動する度に、日本のことを考えてしまうのにも疲れてきた。あとの旅行はただ「目」に徹することにする。「目」にも心があるにはあるのだが、、、。

-

DCは広い。

面積的には高々十マイル(約十六キロ)四方に過ぎないのだが、キャピトル(国会議事堂)、ホワイトハウス、上院(セネート)、下院(ハウス)、財務省国務省リンカーン・メモリアル、などの連邦政府機関が取り囲むエリアは異様に広い。ざっと見に幅0.5キロ、奥行き五キロメートルぐらいか。これだけの見晴らしの空間を都市のど真ん中で見たことはこれまでない。今後もブラジリアを除けば、見ることなどないのではないか。ホワイトハウス裏から、空にそびえ立つ槍のようなワシントン・モニュメント(初代大統領を祭ってある)まで歩き始める。が、目の前に見えるにも関わらず、いつまでたっても近づいている気がしない。更に近づいてようやくそれが巨大さによる錯覚であったことに気付く。その塔の周りにいる人が蟻のように見える。


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @Washington DC


空が大きい。至る所で、子供達が、凧を揚げている。

懐かしい。子供の頃、二百メーターの特製凧糸なんて使って、良く裏の海で揚げていたのを思い出す。ゲイラカイトが上陸したときはあんまり簡単に上がるので驚きだった。でも結局、奥深い和凧に戻って、しっぽの長さを調節しながら、幼なじみと良く揚げたものだった。独楽(コマ)やビー玉と並んで、子供の頃の、本当に楽しい思い出である。そんなことを思いながら歩いていると、黒人の小さな男女の兄弟が、凧を揚げようとしてうまく出来ないでいるのが目に入る。お姉ちゃんらしい女の子が凧を持ち、弟らしい男の子が糸(巻き)を持っているのだが、一緒に走るので上がらない。女の子の方に、なるべくじっと持っていること、そして男の子の方に、一気に走るんだ、と教える。

瞬く間に揚がり始める。

無邪気な笑顔が広がっている。


Washington DC


(April 2001)


(6)へ続く
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*1:Cajun, 南部、特にニューオリンズ周辺のスパイシーな味付け。

From CT to DC (4) : アナポリス

(3)よりつづく

緑青色の屋根、窓枠に彩られた白亜の建物たちの向こう、フットボールフィールドが広がっている。それを取り囲むフェンスの周りに、十七、八ぐらいの女の子達が何人か、その中で練習に励む若者達を見守っている。若者達の年の頃は二十歳前後。楕円形のボールを投げる度に、鍛えぬかれた身体がしなっている。普通の若者より一回りは大きな身体。華奢な日本人の若者より二周りは大きい。全身から生気と覇気を発する彼らはまぶしい。こんながたいが良く、背筋の通った連中と戦っても勝てない、そんなことが頭をよぎる。

-

Annapolis(アナポリス)には米海軍士官学校がある。将来のアメリカの国防の中枢を担う若者が集い、完全な寮生活の中で、朝六時から夕方八時までの訓練を受けている。ここはWestpoint(米陸軍士官学校)と共に、アメリカで最も「厳しい」高等教育機関である。頭脳明晰だというだけでここに入学を許可されることはない。強いリーダーシップ、頑健な肉体、健やかな精神、明快な判断力、それらのすべてが伴って初めて、入学の検討ラインに立つことが出来る。真のエリートとしての要件をここでは求められる。

門を入ったときから、空気が違う。実に清涼な、すがすがしい、気持ちの良い空気がそこには広がっている。所々歩いている学生達は、いずれも背筋が伸び、笑顔が美しく、自信と自律をまとっている。不思議と惹きつけられ、辿り着いたここには、まるで三島由紀夫が望んだような力強い世界が広がっていた。人だけではない。建物も、白亜と緑青色で統一され、一つ一つがとても美しく、毅然としている。そこには、覇気とdisciplineが満ちている。知らず心が洗われる。


Contax T2, 38m Sonnar F2.8 @United States Naval Academy, Annapolis


もう二年以上、日本を見ていない。

最後に訪れたとき、渋谷で見た若者達を思い浮かべる。アメリカに来る度に、この国の女の子からskinny*1と陰で言われている日本の若者達。紙は金髪かもしれないが、目が淀み、動物のようなぎすぎすした顔をした若者達。背だけはそこそこだが、二周りも小さな身体をした若者達。つまらぬ試験での一点だけを競い、関われば関わるほど、それら以外の価値の意味を見失っていっている、そしてそのことに気付いていない若者達。いずれは社会を担わなければならないという気持ちなどどこにもなく、何の保証もないのに、大学に入れば入ったで、あたかも将来が保証されたのかのごとく、ただ遊びほうけている日本の若者達。自分の立つところは何か、徹底的に悩むこともなく、かといって快楽におぼれるわけでもなく、恋愛に命を懸けることもなければ、夢もない若者達。

このアナポリスの若者を見れば見るほど、彼らが脳裏に浮かんでは消えていく。


僕が大学生の頃、社会はバブルだった。タカビー、インビー、ゾンビーなどといわれる、金と、中身のない"ステイタス"ばかりに目がくらみ、男たちを、足や、財布として平然と使い、ブランド品に身を包んでいた女達。そういう女達を何とかものにしようと、やっきにその価値の世界において、「力」を身につけようとしていた男達。地上げをしながら、いくらでも金を借りてきては他の土地を転がしているおっさん達、そして「財テク」というなの中身のない(=バブル)投資をし続けた会社達。世の中はそんな阿呆な連中に飲み込まれていた。いずれバブルがはじけたとき、その女達の価値観とスタイルは下におり(彼女たちは今一体どうなっているのだろうか?)、高校生、中学生に移っていった。コギャルの始まりである。貢がせる男などいるわけなどない彼らは、かつてのバブルで遊び損ねたその上の層のオヤジ達にまつわり、世界に名だたる援助交際という名の巨大ブラック・マーケットを作り上げた。狂気を失った男達は、裸の王様である。

この間、久しぶりに『落日燃ゆ』を読む。どれほどABCD包囲網などで追い込まれたにせよ、大東亜戦争、そして太平洋戦争中、どうして軍部、そして日本国があそこまで暴走してしまったのか、以前読んだときと同じく、やはり再び解せなかったのだが、今こうやってアナポリスの風景を見ているうちに、バブルの時、社会そのものが果たした役割が戦時中と全く同じであることに思い当たる。日本の社会には、自己規制能力がない。自己倫理というものが存在しない。口では悪いと言いながら、平然とその同じ構成員が、その問題に加担する。エリートといわれた官僚がそうだった。銀行がそうだった。日本の産業構造の頂点に立っていたはずの興銀も、長銀も事実上破綻した(自力更正が出来ないというのはまさにそういうことである)。そして国民の多くが狂騒した。そういう意味で、バブルは、日本にとっての三度目の世界大戦だったのかもしれない。巨額の負債を残したところも似ている。一度更地にもどして、すべてを整理し、考え直すべき時が来ているのかもしれない。


心に太陽を持て
唇に歌を持て
他人のために言葉を持て


そんな、戦前の小学校教科書にのっていたというラテン語の詩が、ふと心に思い浮かぶ。


(April 2001)

(5)へ続く
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*1:(直訳)骨が見えそうなほどやせている。様々な女の子に聞き続けた結果、これは男ではない、といっているに等しい言葉とのこと。

From CT to DC (3) : バルチモア

(2)より続く

Baltimoreの港は美しい。沖縄戦朝鮮戦争にまで行った軍艦が、こんな地球の裏側でひっそりと佇んでいたりもする。実用船だけでなく、ヨットや帆船がそこいらに休んでいる。空は青く、風が吹き抜ける。ここは、若い、青年の都市である。


着いてみると、Hopkinsのメディカルスクールは町の高台にある。ガラージ(立体駐車場)からつながった通路を抜けて病院に入ると、受付の黒人のお姉ちゃんに用件や目的などを聞かれる。「なにか約束はあるのか?」「?、ない。」「?、じゃあ何しに来たの?」「いや、ちょっと観光で。」「???」「かのホプキンスをただ一度見てみたいと思って」などとやりとりしている内に、彼女も明らかにどうでもよくなってきて、胸に貼る黄色いシールをくれる。Visitor(訪問者)とある。「まあいいわ、あんたそんな怪しそうな人間でもないし、でも変なところうろつかないでね」、そんな感じである。

この国に来てから僕は着るものに気を付けている。シャツは襟があるものを、ズボンもなるべくジーンズを避けている。言葉も、なるべくニューイングランド風かつ教育を受けた人風の発音と言葉遣いを心がけている(完璧にはほど遠いが)。自由の国アメリカにしては意外と思われるかもしれないが、着るものと英語のアクセント、言葉の使い回しで露骨に人を判断(すなわち差別)する国だからである。例えば大統領。南部の発音と話し方では決してなれない。クリントンは、アーカンソー(Arkansas)というアメリカ人でも正しく州名を発音できるか分からないくらいの南部の田舎の州出身だが*1、彼がニューイングランドまで法律を学びに来て、その訛りの大半をたださなければ、大統領候補にすらなれなかったというのは、どうも本当のことらしい。この国の人にとっては、あまりにも常識的な話らしいので話題にも上らないことが多いが、ときたま、「クリントンのxxxの発音にはまだアクセントがある」(つまり訛っている)なんて話が出るとそういう話になる。

帰国子女、そしてアジア系アメリカ人の多くが、ヨーロッパ系のアメリカ人以上にネイティブしかしないような発音(つまり外国で育ったあなたには出来ないでしょう的な発音)にこだわるのは、彼らのそういう経験と関わりがないわけではあるまい。発音によって内的に差別化し、社会に同化し、アイデンティティを築こうとしたけなげな努力の結果とも言える。中学校ぐらいで唐突に放り込まれた人などに出会うと、よく頑張ったね、と心の中で声をかけてあげたくなるときもある。きっと何百回も泣きたい思いをしながら身につけたものに違いない。一方、時たま半けつを出したジャージ姿の日本人の若者を町で見たりすると、不安に思うのは僕だけではあるまい。


A statue of medical saint

素晴らしい施設である。なにより空気が澄んでいる。造りが良くて、垢抜けているのは他のuniversity hospitalも同じだが、ここはキャフェテリアなど一つ一つの施設が大きい。まるでショッピングセンターのモールのようである。偉そうな様子は微塵もないが、自信と、強さ、そして清潔さと安らぎがここにはある。こんな病院に来る(いや、来なければならない)と言うことは、よほどの病気なのだ。そんな時ぐらい、人が気持ちよく過ごしたいのが人情である。ふと、何かの用事で行った東大病院を思い起こす。壁紙が所々はげ落ち、ところによって蜘蛛の巣がかかっていたあれは、一体何だったのだろうか。

そうこうして抜けていく内に、正面の玄関に辿り着く。前面に、US News(Time, Newsweekに準ずる全国的な週刊誌)の病院ランキング号の拡大表紙が'91年から十年分並べ、掲げてある。これまで、途切れることなくこの病院が全米一位にランクされてきたことが分かる。

病院の建物を出、辺りを回る。中心部だけ回ることにするが、その建物の数と、大きさ、そして広さに驚く。キャンパスの中心にある、いかにも古くから立っている建物は、爽やかでありながら、落ち着きがある。かたや、そのキャンパスの端で、さらに新しい研究棟を建てようとしているのが目に入る。研究、そして医療の成功が、さらなる投資を呼び込んでいるのが分かる。良循環である。日本の大学医療関係者、大病院の運営者にはまずここを見てほしい。医療は技術だけではない。


Johns Hopkins Medical Center (a historic building)


(March 2001)

(4)へ続く
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*1:彼が大統領になったので状況は改善されたと思われる。

From CT to DC (2) : I-95

(1)より続く

I-95は伸びる。どこまでも伸びる。このボストンからフロリダまでをつなぐ、東海岸の大動脈は、恐ろしいほど強く、逞しい。この上をずっと走っていると、一体自分が走っているのか、それとも道が動いているのか、果たして分からなくなる瞬間がある。これと言って曲がることもなく、前後の車もずっと止まって見える。そこを時速75から80マイル(120-130 km)というスピードで走りすぎる。


An American Highway

この国のハイウェイ、とりわけinterstate(州間)highwayは本当に素晴らしい。I-95のIはinterstateのIである。ニューヨークの周辺など一部例外はあるが、ほぼ常に道は力に満ち、頼もしい。これだけ国土を持つ国家で、これだけのハイウェイ網を維持していくのは容易なことではあるまい。ほとんどすべての主要な町がつながれ、しかも「無料」である。金を取られるとしても大きな橋ぐらいしかない。それもせいぜい三ドルか四ドル。車がなければ、スーパーでの買い物一つ出来ないこの国では、道の保全こそが最大の社会福祉、つまりインフラとなっている。

雪がどれだけ降っても翌朝には完全に除雪される、そのパワーは眼前にしないと信じがたいものがある。雪国から来ただけに、僕にはその大変さと、それを事も無げにやってみせるこの国の力が身に染みてよく分かる。そして同時に、税金を湯水のように使い、それでも尚、平然と随分な利用料を巻き上げる日本という国の高速網(いや、低速網と言うべきか)と、その運営者たちの問題意識の欠落に唖然とせざるを得ない。官僚得意の言い訳は百も万もあるだろうが、国土の広さの違いを考えれば十分フェアな議論のはずである。言い訳する前に、その兆単位の税金を得るために、僕が今飲んでいるダイエット・コークだったら何本、今使っているラップトップなら何台、国民が生産し、売らなければならないか、そしてそれがどれほど大変なことか、その連中はまず考えるべきである。

さて、ニューヨークの町中にでも住んでいれば話は別だが、少しでもこの国の持つ選択肢の広さを満喫するには、(そして国土の広大さと豊かさを実感するには)どうしてもクルマがないといけない。スーパーだけではない。服も買えない。靴も買えない。例えニューヨークに住んでいたとしても、税金をかけずに買い物しよう、あるいはアウトレットで手頃な値段で買いたいなどと思えば、最低でもバス、といったなんらかのクルマがないとどうしようもない(この国の電車は役に立たない)。ニュージャージーに行けば、服も、鞄も無税。アウトレットに行けば、世界的ブランドも三割、五割引は当たり前、方や川向こうのマンハッタンでは高額の税金を取られしかも定価。町中には、アイキア(IKEA : 家具*1)も、トイザラス(玩具)もベビーザラス(赤ちゃん用品)もない。そういう国なのである。ゆめゆめ、マンハッタンやLAなどの大都市の中心部だけで消費し、アメリカを理解、そして経験したなどと思ってはいけない。

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そうこうしている内に、ペンシルヴェニアの州境を越え、Baltimore(バルティモア)に着く。BaltimoreはMaryland(メリランド州)最大の都市。七十万以上の人が住むという。アメリカの町としてはかなり大きい。全米で十何番目とのこと。牡蠣の養殖で有名なチェサピーク湾沿いにある。

お目当てはJohns Hopkinsジョンズ・ホプキンス大学)。ここには、全米一のメディカル・スクールがある。医学教育の場として卓越しているなだけでなく、そのbiomedical scienceにおける研究力は驚嘆すべきものがある。DNA解析の元締めである制限酵素はここで発見された。Blue babyと呼ばれる、心臓に欠陥のある赤子の治療はここで開発された。ここで発見された、あるいは始まったものを書いていくだけで、20世紀の生物学、そして医学の歴史のアウトラインが掴めるほどだ。

歴史は百数十年と短いが、collegeばかりに権威があり、医学教育は付け足しだった時代に、厳しい入学基準とカリキュラムをいち早く設けたところに、この成功の礎があるらしい。とにかく、いつも論文で目にしているこの一大研究センターを目にしようと、そこに向かう。アメリカの主要大学ではありがちなことであるが、ここでもメディカル・キャンパスと、それ以外のメイン・キャンパスは分かれている。後で知ったことであるが、国際関係の専門家養成で名高いSAIS (School of Advanced International Studies) は更に分かれ、DCにあるらしい。


-

資料1: 北に大きなニューヨーク州。僕の住むコネティカット州、すなわち出発点が右下に見える。マンハッタンを含むニューヨーク・シティ(地図の南の黄色い辺り)はその隣である。

資料2: ニュージャージー州。南の張り出しを避けて隣のペンシルヴェニアに向かう。

資料3: ペンシルヴェニア州。エンパイアステート、ニューヨーク州と並んで、かなり巨大フィラデルフィアを含む主要都市が海岸沿いに集中する。

資料4: メリランド州。湾と町だけとってそれ以外の山とかは他にあげた、そう見える。左下にあるのが、首府DC。メリランドとヴァージニアからの割譲により出来た町。

(3)へつづく
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(March 2001)

*1:最近日本にも上陸。日本ではイケア

From CT to DC (1) : フィラデルフィア(米国東海岸縦走記 )

Hello!

みなさんすてきな週末をお過ごしのことと思います。

このままでは教育サイトになってしまいそうなので(笑)、最近記事を書く時間もままならぬこともあり、2001年(まだテロ戦争の始まる前です!)に、当時住んでいたコネティカット*1からワシントンDCまで旅に出た時の記録を少し載せていけたらと思います。(元々書いていた、夏のアメリカ横断記も書けるところでまた続きを書くつもりですが、それはそれとして。)

Brazil - ブラジル旅行、探検記 (←都会の喧噪、日常の閉塞から脱出したい人にオススメ!)と同様、当時、友人にメールで送っていたものです。日本に対しては、画像添付が問題になっているようなネット環境であったことが、当時のやり取りから見えてちょっと隔世の感があります*2。当時、僕はアメリカの大学の中という、ギガビット土管そのものの上にいたので、ホントその辺の日本の事情について不感症気味でした。そういえば。(当時迷惑を賭けた方々、申し訳なし!)

ではでは! Hope you will enjoy it!

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Advisor(指導教官)のVincentがフロリダに里帰りするというので、急遽、鬼の居ぬ間に僕もどこかに出かけることにする。11月に買った新車があるので、車で出かけられる場所がいい。医者をやってる高校の友人がいるモントリオール(Canada)まで行こうかと思ったが、まだこちらも寒いことを考え、南下することにする。狙いは国都Washington DC、そして最初の国都PhiladelphiaNew Englandの中や、New York, New Jerseyまでは割と気軽にふらふらしているが、この二つの都市には、どちらもまだ行ったことがない。途中、出来たら、その他、気にかかる町に訪れることにする。

初代大統領の名と、ヨーロッパ人にとってのアメリカ大陸発見者の名の両方を冠したWashington DC (District of Columbia) は西海岸にあるワシントン州(シアトルのある場所)と区別するために、ただDCと言われることが多い。我々と先祖を同じくする民族が、数万年以上も前に、命を懸けてベーリング海峡を伝って、文字通り未知の世界に移り渡ってきた、その驚くべき冒険心と、勇気を考えると、僕には到底、コロンバス(Columbiaはスペイン語読み)をアメリカ大陸発見者とは呼べない。彼は、黄金の国ジパング(すなわちマルコポーロの描いた日本)からの略奪を求めて、ぎらぎらした虚栄心と共に、国王からの援助と共にやってきた人である。

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さて、
まず寄ったのは、Philadelphia。独立宣言、合衆国憲法の草案が書かれ、イギリスからの独立後、最初に合衆国政府が置かれた町である。ここに午後着き、その日と翌朝、大学、そして町を見て回る。

綜じた印象は滅びた都市。Phillyと呼ばれるこの町の荒廃は激しく、かつて自由の鐘が鳴らされ、まず最初の首都であった栄光は彼方。DCへの首都移転以来、ずっと衰退を続けて来たのではないか。City Hallと呼ばれる町の中心に立つ建物が百数十年前に建てられるとき、この建物は世界一の高さになる予定だった。が、しかしこの建物が完成したときには、他にいくつもこれ以上の高さの建物が建っていたという。ふと耳にしたこんな話に、この町のおかれた悲しい流れを感じる。

ハイウェイの上からざっと見たところ、町の全域の半分はスラムに近い。それらのエリアの大半では、二間ほどの幅で、階に一つしか窓のない、アメリカらしからぬ痛々しいほど小さな家が立ち並ぶ。中心部に入っても、町の中の道は、古い町であるためか、最初の町の設計ミスからか、それともその後の開発の失敗からか、やたら狭く、駐車スペースもない。古い町で車を停める場所がないのはボストンも同じだが、この町には、ボストンのやさしさがない。車はタクシーでなくとも、むやみにホーンを鳴らす。Mean(卑)である。

U Pennこと、ペンシルヴェニア大学を訪れ、更にショックを受ける。科学者でもあり、建国の立て役者の一人でもあるベンジャミン・フランクリン*3によって設立されたこの大学は、二百年以上の歴史を誇る、合衆国で最も古い大学の一つであり、Harvard(創立後約350年)、Yale(同300年)、Princeton(同250年)などと並び、八校あるIvy leagueの一つに並び称される。その歴史を誇るCollege(学部機能)に加え、最古のビジネススクールの一つであるウォートン校が有名である。

それほどの大学であるはずなのだが、この大学には、活気も投資している様子も感じられない*4。Medical School, Collegeなども歩いてみたが、立ち登るものを感じない。こんな荒れたIvy schoolがあるのだろうか、と正直驚く。古いキャンパスの中心の方はそれほどでもないのだけれど、全体としてみると引きつけるものと生気に全く欠ける。さすが上述のWharton Business Schoolの中だけは、妙に覇気があったが、ここは正直異空間であった*5



Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @U Penn, Philadelphia


この町を訪れ良かったのは、独立宣言、合衆国憲法などを議論し、制定された、最初の合衆国議会の部屋を見、感じ、考えることの出来たこと。その横で、合衆国の独立が認められた時、すなわち建国の際にまず打ち鳴らされたLiberty Bell(自由の鐘)を見ることが出来たのも良かった。気分の少し洗われたところで、更に南に向かう。


(March 2001)


Independence Hall, Philadelphia


Liberty Bell, Philadelphia

(2)へつづく
kaz-ataka.hatenablog.com

*1:東海岸に詳しくない方のために多少付け加えておくと、コネティカットは、ニューヨーク市の右上にあり、ニューイングランド地方の最南端。長らく全米一豊かな州として知られている。マンハッタンに働く豊かな人たち、例えばlaw firm(法律、弁護士事務所)のパートナーであるとか、有名な映画俳優などの多くが、南端の町や海岸沿いの高級住宅地域に居を構える。GE、ゼロックスなどの本社があるのに加え、全米の保険会社の大半がその州都ハートフォードに本社を持っていることでも知られる。

*2:例えば、写真くっつけてメール送んないでくれとかなんとか。今から考えるとちょっと笑ってしまいますが、当時のみなさんは結構マジです。

*3:そうあの雷の実験で有名な人です!めったにみない100ドル札の表紙の顔でもあります。

*4:建物はいずれもさすがに立派である

*5:これも含めいずれも当時の私の感想、印象であり、もちろんno offenseです!期待が大きくて気落ちした部分もあると思って差し引いてお読み頂ければ幸いです。

Brazil 26:Ciao! (最終回)

Brazil 25より続く)


旅立ちの日が来た。サンパウロのきれいなシティ・ホテルで朝ご飯を食べる。パパイヤがおいしいのは相変わらずだが、なにやら空虚である。物理的にはまだブラジルだが、ここはもうアマゾンではない。既に体の半分はニューヨークに、アメリカに帰ったようなものだ。巨大都市はどれも一つの型に収斂している。排気ガス吹き出し走る車を目の前にすると、悲しさと形にならない重さが背中と腕にたれ込めてくる。

山根先生の案内で、メルカド、そしてサンパウロ大学を見て回る。清潔できれいな、そして花と果物の多いメルカドは、自分が都会に戻ってきたことを否応なしに思い知らせる。ここにはもう剥き出しの生はない。花屋、魚屋は日系人が多いことに気が付く。

一つ収穫だったのは、魚屋で、遂にティーグレ・デ・リオ(河の虎)ことドラドを見ることが出来たことである。ドラドはブラジル、アルゼンチン国境に広がるパンタナルに棲息する、名前の通り黄金色に輝く魚である。この魚は世界でも屈指のゲーム・フィッシュとされ、アマゾンでトクナレを釣らずに釣り師といえないのと同様、パンタナル周辺でドラドを釣らずに釣り師とは言えないと言われる魚である。全身がこれ筋肉であり、跳ねる、跳ぶ、潜る、その闘いぶりは経験しなければ信じられない程のものだという。鮭を丸めてごつくしたような顔をしている。威厳がある。死してなお逞しい。闘うときはさぞやと期待される。いつかきっともう一度、南米に来てこの魚を攻めることを決意する。平均が十から十五ポンド(五から八キロ)、それ相応のタックル(用具)も用意せねばなるまい。それを見ている間だけ、一時つらさを忘れる。


ブラジルの最高学府、サンパウロ大学のキャンパスは広い。ひょっとするとモスクワ大学に次いで大きいと豪語するスタンフォードのキャンパスより大きいかもしれない。メディカル・スクール(医学部)は全く別キャンパスというと聞いて更に驚く。とても車なしで回れる広さではない。元は隣のブタンタン研究所付属の牧場だったという。血清を取るために使っていたらしい。

回りながら、専攻別入学、物理的な隔離による学部間の断絶であるとか、入学の難しさのために塾、私立高校が幅を利かせて金のある奴だけが教育を与えられると問題になっているだとか、学費が安い(ただ)のため居心地が良くて寮から出ていかない学生が随分いるだとか、寮に関係ないはずの奴が気が付くと随分住み着いているだとか、やめたはずの老教授が役にも立たないのに七十、八十になっても影響力を持ちすぎて困るだとか、まるで東洋の某国、某大学に来ているのかと錯覚するような問題を次から次へと聞かされて目を白黒する。ちなみに学生の約半分は日系人だという。USP(ウスプ:サンパウロ大学のこと)に入りたければ、日系人の受験生を一人殺せばよい、というジョークまであるらしい。ここ地球の裏側にあっても、我が和朝伝統の教育熱はいよいよ盛んである。

昼食に、サンパウロ大学の渡辺先生のおうちに招かれる。渡辺先生は日系人として最初にサンパウロ大学で自然科学系の正教授になられた方である。とても優しい顔をされている。先生の専門は同位体を利用した年代測定で、知的なドイツ系ユダヤ人の奥さんを交えて食事をしていると、まだ誰もいなかったはずの南米大陸に、五万年以上前、既に人がいたことが分かったとか、アマゾン流域の生い立ちの謎だとか、今度是非もっと時間をかけてお話をお伺いしたい興味深い話が次から次へと出てくる。椰子の芽のサラダが実にうまい。腰のあるアンティチョークといった感じである。その後、日本とアメリカの大学院を比べてどう思うか、など教育熱心な渡辺先生らしい話題に盛り上がる。楽しい時間が過ぎて、前庭にあるコーヒーの木の前で記念撮影をしてお別れをする。ムイト・オブリガード。(注:ムイト=沢山)

午後、サンパウロ随一のショッピングセンター、その名もエル・ドラド(黄金郷)、を回った後、夕日の中、空港で山根先生とお別れする。知らず涙ぐむ。素晴らしい旅だった。近く必ずもう一度訪れることを先生に約束する。


Ciao!



(Brazil 完)

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写真説明

1. 河の虎、ドラド。黄金色に輝く。

2. サンパウロメルカドで見かけた小さなボニータ

3. ブラジルで見た最後の夕焼け。眩しい。


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読者諸兄姉(みなさん)、ここまでご愛読ありがとうございました。こうやってここまでたどり着くことができたのも、これまで頂いた多くのご声援のお陰です。本当にありがとうございました。

これだけまとまったもの、しかもこのような言葉に通常しない空気のようなもの、名前だとか数字などではないもの、を伝えることが主眼の文章を書いたのは初めてで、正直、途中でどれ程音を上げそうになったか分かりません。この場で名前を挙げることが出来ないのが残念ですが、おそらく八割以上の読者の方から励ましの言葉を頂きました。心から改めてお礼申し上げたいと思います。

これまで何か言葉を頂いた方も、そうでない方も、もしよろしければ、読後の感想、読んで感じられたことなどお聞かせ願えると幸いです。

(July 2000)

Brazil 25:ブラジルで出会った食べ物たち(2)

Brazil 24より続く)


シュラスコ

ブラジル独自のバーベキュー。ステーキといった方がいいのかもしれない。サーベルとでも呼ぶべき巨大なナイフに肉塊をいくつも刺し、その周りに岩塩をつけて、時間をかけて焼く。焼くときは、大きなオーブンに十本も二十本も並べる。誰かが付きっきりで番をして、時折、それを転がす。テーブルに座ると大きなナイフを持ったお兄さんが三人も四人もひっきりなしにやってくる。みんなどれも異なる部位の肉を持っている。必ずしも牛の肉ばかりではなく、鶏の心臓なども食べる。これが強くて、濃くて、なおかつさっぱりしていて、なかなかイケル。また、インドコブ牛の背中のコブの肉はクッピンと呼ばれ、焼け立てのものは絶品。クッピンは、赤身と白身が交互に重なり、霜降り状になっている肉のトロである。残念ながら、脂が多いため、お兄さんが持ってきてしばらくすると、冷えて固くなりあまりおいしくなくなる。ただ、心配しなくても、テーブルの上の丸いカードのミドリ側を上にしておけば、どんな部分でも頼めば、文字通り「果てしなく」持ってきてくれるのでそれはムリして食べなくても良い。ここの部分は稀少だから、などとけちなことを言われることはない。逆に腹がいっぱいになれば、そのカードを裏返し、赤いのを上にしておけばよい。これらのメインのシュラスコ以外に、取り放題のサラダ、カレー、シチュー、魚のソテー、などがあって大体、一人約八百円(サンパウロの場合)。うまさと安さにウナル。三食の内、二食はカルネ(肉)だというブラジル人ならともかく、普通の日本人が行けば、三日ぐらい肉を見たくなくなるのは必至。


マテ

僕と働いたことのある人なら見たことがあるかもしれない。ヒョウタンの上を切って銀色のリングを取り付けた容器に、マテの葉?の粉をドバッと入れて、お湯を入れる。専用の銀のストローをそのままそのヒョウタンの容器に挿して飲む。見ないと何だかよく分からないと思うが、そのストローの先は平らな円形に広がり、小さな穴が沢山空いているため、茶こしが要らない。画期的なストローである。仲間や家族で回しのみをする。赤道直下のマナウスでは見ないが、南部に行くと何よりも愛飲されている。フォス・ド・イグアスに行ったとき、渡し舟のお兄さんが回しのみしているのを見て、思わず飲ませてくれないかと言いたくなった。

マテは味が出る限り、何度でもお湯を注いで飲める。しかも一回、一回異なる表情を見せる。薄くなれば葉を入れればよい。いずれ容器が粉でいっぱいになるので、そうなると中身を捨てる。個人的には、五回目か六回目の出し汁が好みである。始めの一、二回は濃すぎ、小さな粉が出て来すぎるので若干飲みづらい。日本ではマテ茶と呼ばれているが、これはいわゆる茶ではない。はずなのだが、確かに茶に通じる野性的な味がする。カフェインは含まないといわれているが、なぜかとても癖になる。確かレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』にも魔性の飲み物として出てきたように記憶する。ローストした茶色のものがあるらしいが、緑のものしかこれまで見たことがない。


カイ・ピリーニャ

ブラジルで恐らく最も有名なカクテル。田舎の小娘。サトウキビから作ったブラジルの焼酎、ピンガに、砂糖と、たっぷりのライムを絞って飲む。甘くて、酸っぱくて、強くて、なにやら体の奥が熱くなる、サンバのような、恋愛のような酒である。取りあえず、ブラジルを味わいたければ、これを一杯作って飲んでみるのが正解である。まだいるのか分からないが、恵比寿のにんにく屋の一階のバーにブラジル人のお姉ちゃんがいて、頼めばいつも作ってくれた。但し三年前のお話。何とかピンガをどこかで手に入れ、氷をたっぷり入れたロックグラスで各自試されたし。


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写真説明
1. シュラスカリアのお兄さん

2. メルカド。汚れを知らぬ青空がまぶしい。

3. メルカドの外にあるマナウス港の風景



Brazil 26(最終回)へ続く

(July 2000)


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これが噂のブラジル旅行記の原点。レヴィの本。マテ茶はブラジルだと激安だけれど、日本だと紅茶並みにする。有機と書いてあるけれど、そもそも有機以外があるのか不明。(笑)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)