「知る」ことと「わかる」こと


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III, @ Tuscany, Italy

「知る」ことと「わかる」ことは違う。そんな話をこの間、大学を出て入社したばかりの新人の子とした。まっすぐで、頭のいい子だ。

その二つってどう違うって思う?

そう聞くと、その子は、

  • 「知る」というのはその言葉を知っていること、
  • 「わかる」というのは人に説明できること、

かな、と自信なさげに言った。

悪くはない。けど、それは僕の理解とは違うんだ。、、僕はそう言った。

「知る」というのはあくまで他人事(ひとごと)として、そのことを知ること。「わかる」というのは自分がその感覚も含めて、自分の感覚を通じて理解することだ、と。

いくら説明できても実体のない「知っている」は沢山ある。*1

例えば、痛いという感覚、これは痛い目に遭わないと到底理解できない。観念論で、「痛さとはつらさを感じるような不快な感覚」などと、いくら言われてもダメだ。心が折れるというのもそうだ。本当のところ心が折れたことのない人には分からない。

恋心だって同じだ。子供の頃は、恋する話や場面がある本で出てくると、甘酸っぱい気持ちってなんだろう、的な感じで、まるで恋に憧れたり、恋に恋する感じになる。けれど、いつか大人に近づいて、いざ本当に誰かのことを好きになったりすると、突然「わかる」。

ああ、恋するってこういうことなんだな、ある人を好きになって甘酸っぱい想いというのはこういうことなんだな、って。

すると突然、子供の頃読んでいた同じ本の同じ部分を読んでも、突然、本当に甘酸っぱい気持ちになり、本を閉じてしまいたくなるかもしれない。それがほんとうに「わかっている」、そんな状態なんだよ、って。

ここまで言うと、その子も僕が言っていることの意味を理解したようだった。

ここから彼らはお勉強ではない、ほんとうの世界に入る。これまでもリアルな世界だったかもしれないけれど、それはどことなく観念論的でひと事の世界だった。客観視しても全然構わないし、自分の実感として経験できる場すら与えられない、そんな世界だった。

これからはそうじゃない。全てのことに重さが伴う。実体がある。そして自分の日々の一瞬一瞬が引き起こすことから逃れることなんて出来ない。そして、たとえちょっとした数字であろうと、ほんとうに重さのあるものであって、その数字の背後にある、あるいは数字が表している何かをちゃんと理解しないととんでもないことを引き起こしてしまう。そして判断を見誤ってしまう。その温度感を持たずに判断することは極めて危険、そんな世界だ。

そう言う世界に入ったんだよ、リアルな世界に入って来ておめでとう、そう伝えるつもりで投げ込んでみた言葉だった。

どのぐらい伝わったことなのか分からない。いつか彼らが、もう少し大人になって、自分の毎日を振り返るとき、このことの意味に気付いてくれたら素敵だな、そんなことをふと思う。

君らがこれからしていくことは、沢山のことを「知る」ことではなく、「わかる」ことを増やしていくことなんだ。

この言葉を彼らへのプレゼントとしてこのウェブの片隅にそっと置いておこうと思う。



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*1:似た話として、例えば、いま朝のNHKでやっている「あまちゃん」の中に出てくるゆいちゃんは、本当に東京のことに詳しいが、東京に行ったことがなく、何もリアリティを持って語ることが出来ない。