大学院教育で何が出来ると人が育ったと言えるのか



Contax T2 @Sterling Hall of Medicine, Yale University

この間の「人を育てるラボの特徴」というエントリについて、ブクマコメントで頂いたこと、

>大学院教育において、どうなったら「人が育った」と評価できるのか、その基準も合わせて教えていただけると嬉しいかも。「研究を進めるための実務的な能力」が身についたということでO.K.?(pollyannaさん)

について少し考えてみたいと思う。

これって「大学院教育って(受け手側からすると)何のためにあるのか」という極めて重要な課題そのもの。深遠かどうかはこのエントリの後で考えて頂くとしても、大事なテーマであることは間違いない。

で、ここでは日本の大学院と米国の大学院をちょっと分けて考えてみたい。前エントリにも少し書きましたが、私個人として、某旧帝大と某Ivy schoolの間で、ラボがどうというより、graduate program(大学院教育プログラム。文字通り訳すと、学卒者対象の教育プログラム)としてあまりにも受けた教育の質が違いすぎて、混乱してしまうからです。つまり「人が育った」の基準は両国でかなりちがうのではないかと僕は思うのです。

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僕の経験からの印象では、日本の大学院の与える"学位"(博士号のこと)の意味は、

  1. 大変な院試を通ったので知識は教科書レベルで大体知っている、
  2. 当然のことながら、やってきた研究周りの手技はそれなり以上に自信がある、
  3. それなりの数の人のセミナーも聴いた、それなりに研究分野については論文も読んできた、
  4. ある程度、ペーパーを書く経験もした、
  5. 何度か学会で発表したし、
  6. まあ長い間研究をやりました、5年以上の苦痛にも耐えられます、
  7. ラボの若いやつの面倒も多少見た、

ということのように見える。自分の受けた教育が、我が国における真剣な取り組み例の一つだとして考えてみると、まあこんな感じ。(私のいたプログラムは、当時としては例外的に修士入学者の9割近くが博士課程に進学)日本で理科系の、博士課程が充実した大学院を多少なりとも経験された人であれば、恐らく多くの人があまり違和感がないのではないかと思う。

すなわち、スキルがあるとか、何を育成というより、こういうxxxxをしたという「十分な経験」ということ、苦痛のチェックリストを終了した(笑)、ということが、その場合,学位を取ること(=日本における育つこと)のかなりの意味のように見える(うがち過ぎ?)。それと共に、極度にラボというか特定のファカルティの役割が大きいこともわかる。言い換えれば、弟子入りさえ出来れば、「プログラム」でなければならない必然性が低い。(ここに「論文博士」なる日本国特有の仕組みが発生している理由があると思う。)

で、アメリカのresearch university(十分な資金を持ち研究に注力する大学)は、というと、原理原則としてかなり明確に二つの能力を育成することを大切にしているように思われるし、しばし公言している。その二つとは、

  • independentな研究のプランニング、遂行能力
  • 大学における教育能力

すなわち、Ph.D.とは研究者としての基礎免状であると同時に、大学教員としての基礎免状でもある、ということだと思う。世界有数の大学として学位を与える以上、前者も後者も質を担保しなければ、評判が下がり、必ず長期的にダメージがくるという話を、私も何度か聞いた。Ph.D.を与えるということは、単に沢山研究したということでは全くないんだと。

以上を受け、僕のいたプログラムでは,少なくとも以下の7つの力の育成を重視していた。

  1. その学問分野における偏りのない、大学教員ができるレベルの体系的な知識
  2. その学問分野における現在の重要課題とその背景の包括的理解
  3. 論理的な批判力、論点、課題推敲力
  4. 強いanalyticalな文章を書く力。特に論文とグラント申請、、、"Science is a writing business"と言って非常に重視
  5. 人前での発表、対応力
  6. 自分で活動を設計し、活動をマネジメントしていく力。これにはアドバイザーや必要な周りの人も含めた調整力も含まれる
  7. Undergraduate(=賢いが無知な人)にわかりやすいように教え、幅広い質問に答え、導き、encourageする力

ということで、向こうで僕が受けた教育に基づくと、上の二つの目的を満たすために、この7つのスキルが「英語で」出来るというのがアメリカの学位の意味、すなわち育つことなんだろうと思う。非常に体系的に考えられていることが分かるし、学生数も常にかなり絞り込むことで、またかなり具体的なハードルを複数回、設けることで、このクオリティは相当担保されている。

また、結構この「英語」、というのがミソで、英語圏での教員、研究力育成なので、当然のことながら全て英語で出来ないと意味がない。発表はまだしも、「毎週何ページかのペーパーを英語で書き、それをもとに議論する」「賢い学生を相手に英語で教える」「英語のエッセイやペーパー、試験をきっちり採点し、コメントする」のはネイティブでない私たちには実に至難の業だ。実際の研究の現場と同じく、外国人だからといって当然全く容赦はない。(それだけに乗り越えれば得るものは大きい。)

米国、ヨーロッパの多くのファカルティ募集の要項を見れば自明だが、担当プログラムのコースワークをきっちりとまんべんなく英語で教えることが出来、いくつかのクラスを持つことが出来る,というのが学位、研究実績に加え、通常、ファカルティ採用の必須条件になっている。クラスを持つとなれば、どのクラスも驚くほど綿密にシラバスも組まないと行けない。この点は、日本で学位を取ってアメリカのポスドクをやり,そのままアメリカに残って研究を、という人にとってはかなりのハードルであり、スポンサーとちゃんとしたlawyerさえいれば実は結構、何とかなる永住権などより遥かに高いハードルと言える。

ということで、結果として僕はかなり博士(理学)とPh.D.は異なるものになっている、「人が育った」と思う基準が違うと思うのです。

そもそもこういう意識なくプログラムが組まれているので、若干無理がありますが、強引かつシンプルに対比すると、、、(左が日本、右がアメリカ)

  1. 基本専門知識:知識中心の院試合格レベル+deepな研究テーマ周りの知識 vs. 研究テーマに関わらず体系的に大学教員が出来るレベル(自分のテーマについては最先端にいることが前提)
  2. 先端課題認識:自分の研究分野、トピック中心 vs. 研究テーマだけでなく、学問分野全体での大きな課題の理解
  3. 問題解決力:ラボでの輪読、日々の議論 vs. 幅広いファカルティとの継続的な訓練
  4. written communication:期末レポートおよび論文経験 vs. 体系的な論文,図表表現手法の理解と高頻度の実戦経験
  5. oral communication:ラボでの輪読、学会発表経験 vs. 左に加えラボを越えたプログラム、学科での研究、論文発表
  6. project management:放任 or 指導教官が圧倒的発言力を持つ vs. オーナーシップは学生。Thesis committeeがサポート
  7. coaching capability:特に体系的教育なし vs. How toに加えプログラムの一環として相当量経験
  8. 一番大切なのは?:がんばった苦労量と論文数 vs. 体系的なスキルと目に見える経験

こんな感じ。

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この辺りは、アメリカのPh.D.プログラムで実際に何をやっているのかを見ると非常にクリアになると思うのですが、これについては(気力があれば)できたらまた日を改めて書いてみたいと思う。:)

以上、多少なりとも偏った経験に基づくものではありますが、pollyannaさんのご質問に私なりにお答えできていれば幸いです。


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内容については、次のエントリをご覧頂ければと思います。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

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