ちまたにあふれる大学論について思う


Leica M7, 50mm Summilux F1.4 @New Haven, CT

あんまり大学のことばかり書きたい訳じゃないけれど、ちょっと大学、高等教育周りで安易な議論が広まりすぎていてすごくいやなので、少し書いてみたい。*1

僕が気になる安易な議論は例えばこんな感じ。いくつかは既に突き詰めないままimplement*2されているところが更にいや。

  • 国立大学はとにかく多すぎるので統廃合して数を削りましょう
  • 国立大学は国のお荷物だし、私立に対してフェアじゃないのでとにかく民営化してしまえ
  • とりあえず日本における私立は課題の枠外で良い
  • 私立の問題は国立の問題と根本的に違う問題である
  • 大学は就職予備校か
  • 大学は学問する気のない人が来るべきではない
  • 今の日本の大学教員は馬鹿ばかりだから一掃すべき
  • ポスドクがあふれているから大学院は全面的に粛正すべき
  • 金ばかりかかるから大学院に子供や知り合いは行かせるな

なんというかこういう一面的な思いだけでの展開議論があまりにも多い気がする。今日もあるブログエントリを見て、その記事もそうだが、そこに展開されているコメントなどもみてかなりかなしくなった。*3


そしてこういう議論を見るたびに、

  • どうして『大学』はこの世界、社会のために必要なのか、
  • この『大学』という場では何を満たすべきなのか、
  • そもそも高等教育とは何なのか、職業教育とはどう違うのか
  • あるいは重なりがあるとしてどこがどう重なり、どう住み分けるべきなのか
  • この『大学』という名の特別な機能を持つ機関を独立してまわすために必要なのは何か、
  • 『大学』に関わらず、国としての基礎研究を行うためにどのような仕組みが必要なのか、そこで『大学』はどのような役割を果たすべきものなのか、
  • 以上のようなあるべき論、本来の目指す姿と照らし合わせて、現在はどのような健康状態にあるのか、システム全体としてどうあるべきなのか、
  • そのギャップを満たすために日本の『大学』システム全体として、何が必要で、そこに至る道はどうあるべきか、
  • そこにはどうやってどのぐらいの手間をかけてたどり着くことが出来るのか、あるいはどのぐらいの時間的な余裕があると思うのか、

というもっとも根源的な議論、本筋論が全く抜けていることがあまりにも多いことに愕然とする。実際にはそれがないと何一つ、上にあるようなことは判断できないはずなのに、である。

僕にきたいくつかの即物的な相談に対する、僕のお返事返し的かつ即物的な(要はいかに生き延びるか的な)エントリをご覧になって誤解されている人もいるかもしれないが、僕は決して日本の高等教育、大学に絶望はしていないし、もっともっと、いや抜本的に良くならないといけないし、かなりの改善の伸びしろがあると思っている。*4

ただ、大学のような極めて特殊なミッションと機能を持ったものを、正直、政治家だとか官僚などにせいぜい学部生として有名大学に属していたぐらいの経験と認識で、たいした造詣も理解もなく口を出して頂きたくないし、その乗りで安易にメディアにも議論をして頂きたくない。後述の通りそれでは大学の役割のほんの一部しか見ているとは言えず、正しく批判する以前に、正しく現状と課題の広がり、重層性を理解することすら困難だ。これは一歩日本を出れば、世界的にはPh.D.なしに大学で教えることが出来ないのと同じ根の話でもある。

現在MITの総長をやっているSue Hockfieldも、たしか僕が学位をもらったときに*5言っていたが、かつて『大学』というものがヨーロッパに生まれたときにあったオリジナルの非常にピュアな形は、現在は、College(学部)でもLaw schoolなどのprofessional schoolでもなく、Graduate School*6にしか残っていない。そのかなり密接な子弟間での日々の学び、自由なトライ&エラーとその試練、また人類が積み上げてきた膨大な知に対する畏怖を感じること、それらに挑む経験も、更にはその結果としての歴史に対する実感なく大学について語るのは無謀なことだ。

しかし、この国(日本)はブログはおろか、名の通ったマスメディアでもあまりにも安易に大学について議論しすぎている。ほとんど芸能ネタのノリだ。

僕は肌感覚レベルで分かる外国はアメリカぐらいしかないが、少なくとも米国では、大学ネタというのはかなりuntouchableなところがあり、そう簡単に口を出すことは難しい状態になっているのとは対照的だ。10年ほど前になるが、かつてHarvardでNobel laureateのラボの一つから優秀なポスドクの自殺者が出たときに「アメリカの大学院制度、ポスドク制度は大丈夫か」という特集をNatureが連続で組んだときがあったが、それでも大学そのものを簡単に削れとか、大学システムそのものを変えろとかという外部からは口を出しにくい問題に踏み込むなどということは見たことがない。


現存する世界最古の大学University of Bologna*7のschool mottoである"Alma Mater Studiorum"*8から生まれた、alma matarという言葉が、少なくとも英語の世界では「母校」という意味で使われて久しいが、この言葉の重みをひしひしと感じることが出来ない経験をしている人が大学を問わず、日本ではほとんどだということがこの問題の中核にあると僕はにらんでいる。

『憎しみは憎しみによって止まらない。愛のみによって止まる』

、、、そう説いたのは、かれこれ25世紀ほど前の仏陀であったと記憶するが、この「愛」がかなり根本的に欠けている。だから、本筋の議論に戻らない。何らかの憎しみ、怒り、不愉快、そんなものをベースに議論しても、あるべき論にいかないのは当然であるし、筋がずれていくのも当然だと思う。Star Warsにおけるdark side (of the Force) そのものだ。Fear, Anger, Aggression . . .

まず、本来何を求めるのか、現状はどうなのか、そのギャップをどう考えるのか、そこから全ては議論を始めない限り、何をか言わんやと思うのは僕だけなのだろうか。

なんだか非常に引っかかりのあるエントリがあり、それに対して直接的に反論するようなことでもなく、しかし、話はやっぱりずれてしまっていると思うので僕の個人的なメモとしてここに少し残しておきたい。

ちょっと僕としてはかなり珍しいタイプのエントリですが、何か書かないとイライラして眠れそうにないので(苦笑)ちょっとだけ。

皆さんおやすみなさい。


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内容については、次のエントリをご覧頂ければと思います。

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

  • 作者:安宅和人
  • 発売日: 2010/11/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:なにしろ人生の四分の一、10年も大学にいたぐらい僕は「大学」という存在、空間が好きであるし、大切に思っている。大学こそは人類が生み出した最高のコンセプトの一つなのではないかとすら思っている。金さえ無限にあれば、ずっと大学にいたいと思うほどの人間である。

*2:実行、実施に移されること

*3:具体的にどのエントリ、ということは差し控えたいが、それが僕の知り合いとおぼしき人間が書いているところが更に嫌になった。私の誤解の可能性があることは否めないが。

*4:ただ同時に、日本における大学人、高等教育関係者、基礎研究関係者は、もっともっと切実に外に目を向けるべきだし、もっともっと学ばないといけないと滅びるとも思っている。現在、世界の大学システムのリーダー的な立場にあるアメリカの先端大学、あるいは学術研究システム(グラント、人材育成なども含む)と比べれば、明らかに日本のシステムは負けている、あるいは劣っている部分が多く、僕は、日本における近代大学の創始者福沢諭吉翁がかつて150年以上前に感じていた以上の必死さを持って学ばないといけない、システムを見直さないといけないと思っている。

*5:当時の僕の学校のDeanだった

*6:Ph.D.を授与する機関

*7:創立1088年、920年以上の歴史

*8:英語で言えばNourishing Mother of Studies。あえて日本語に訳すと「学究に栄養を与え育てる母」