ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing

安宅和人: 脳神経科学とマーケティングの間に棲息

痛みを知らない人への座学


昨日書いた件について、その新人の子に話したきっかけは、その子にメンターとしてついている少し先輩の子が、僕の本のことを説明して紹介しようとしていたことを知ったからだった。


それはちょっとまだ読まない方がよいかもしれない。


僕は思わずそう言った。むしろ今読むと害があるかもしれないと。


そのとき説明しなかったが、経験値の低い中で、あれを読んで、分かったような気になるというのがそもそも危険だと思うことが第一の理由で、もう一つの理由は、本当の意味を理解できるかかなりのところ疑問があるからだった。結果、本来読むことで得られるはずの栄養は逆に得にくくなる可能性があると思ったのだ。


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III @ Pienza, Tuscany, Italy


僕は前の職場も通じて、長い間、新人教育というのをやって来た。この中で、一つ確信を持っていることがある。


それは、痛みを知らない人への座学というのは本当に嫌になるくらい受け手の心に残らない、血肉にはならないということだ。


前職は、しょうがないなと思うぐらいなんでも効果を可視化する文化だった。どんなトレーニングセッションをやった時も、すぐにアンケートをとって、どのぐらい役に立ったのか、何が良くて何が良くなかったのかということをすぐにフィードバックを受けた。で、教え手が誰であろうと五点満点なら五点満点のスケールで何点だったと言う結果が毎回でるのが、ちょっとした恐ろしさであり、ちょっとした面白さだった。


僕のトレーニングは、幸いなことに、前職を卒業する頃は比較的評価が高く、概ね受講者の平均スコアが満点かそれに近いスコアだった。教え手がかなりシニアな人であっても、5点満点で参加者平均が3点台(3.9とか)のセッションもざらにある中では、かなりマシな方だったと思う。


単に一方的な考え方だとかそう言うことだけを伝えてもほとんど何も伝わらないので、多くの場合は何問かの具体的な問題を与えて、一緒に考えてもらい、それを通じて、何かについて理解してもらう。座学とは言っても、それが僕のスタイルだ。


で、「非常に役に立った」「何をどう考えたらいいのか分かりました」とかというコメントがいくつもあったりして、よしよし、今年はちょっとは戦力として期待できるかな、なんてほくそ笑んで戦場であるプロジェクトに戻る。


ちなみに、なぜそこまで、一所懸命に教えるかと言えば、それは彼らがちゃんと育っていなかった場合、痛手を食らうのは、彼らを引き受ける実際の自分らのチームの負担になるからだ。

  • -


で、他のトレーニングも含めて終え、何人か自分のチームに配属されて来た時に自分が教えたことがさぞや残っているのではないかと期待しているわけなのだが、毎回、空けてみて分かることは、彼らの中には文字通り「何も」残っていないということだった。


言っておくが、彼らは一般的なお勉強的な基準でみても、その職場の特殊な基準で見ても相当に優秀な部類であって、活動性、咀嚼能力、自発的な思考力、人間的なチャーム、その他諸々の能力は決して問題のある人たちではない。


その彼らが、頭や心の中になにもかもすっからかんになって、戦場に出てくるのだ。

  • -


そもそも何から考えるべきかも伝わっていない。この局面でのイシュー(今答えを出すべきこと、白黒を付けるべきこと)は何だと思う?と聞いても、イシューとはなんですかと聞き返される始末。*1


確かにイシューというのは分かりにくい概念だし、これを見極める力というのは、本当のところ最後にしかつかず、必要なスキル習得の中でもっとも長い道のりだ *2。それは無理だなとあきらめ、何か分析をやらせてみると、自分が教えたはずの分析の魂について、何ものこっていないというのが普通だ。


たまにそれなりにできる人間がいたとしても、それはほとんどの場合、こてこての理系で、僕が教えたことが残っているからではなくて、単にここまでの人生の中で身につけて来たことを、まるで自転車にのるように理屈ではなく、出来ているケースにすぎないことがほとんどだ。


その証拠に、ちょっとしたことをこづいてみると、しどろもどろになったり、なぜ自分がそう言うことをやっているのか説明できないケースが大半。その答えは何ヶ月か前に僕が教えたことの中にあるにもかかわらず。

  • -


こういう経験を繰り返していると、何かを最初に腰を据えて教えるということ自体の価値をものすごく信じにくくなる。


なので、僕は基本、仕事の経験が殆どない段階で、最初に行なう座学というのは反対派だ。たとえ、どれほど実戦"的"な演習であったとしても、だ。


結局、優秀な人間というのは、本当に価値のあることだけをちゃんと分かっているから優秀なのであって、それ以外のことを無意識にさばいて、どこかにやってしまう力が高いということに他ならない。


習ったことを全て覚えていて、それに縛られるような人間はそもそも優秀ではない。そう言う意味で、僕の教え子たちは確かに優秀なのだ。その何週間、何ヶ月間か、僕が教えたことが本当に大切だという局面に触れなかったため、僕が教えたことを全て忘却したにすぎないのだ。


ということで、相手が優秀であればあるほど、実戦の前の座学の効果は薄くなる。痛い目にあって、いい感じで筋肉痛や、傷がある状態の方が、座学ははるかに効果が高い。これが僕のここまでの、(自分が教えてもらって頂いていた時からも含め)20年以上のこういう経験からの結論だ。


皆さんどう思われるだろうか。

    • -


関連エントリ


拙著に関して以前、糸井重里さんと対談させて頂いた内容はこちら

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

    • -


*1:この辺りの詳しくは拙著をご覧頂ければと。

*2:これはこれでまた別途どこかで書いてみたい