AIはイデアである


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII @Putney,VT, USA

ほとんど毎日のようにAIに関する委員会であるとか講演であるとか討論会に出て、繰り返しAIと呼ばれているものの実態について議論してきたがなかなかうまく多くの人に落ちない。

なぜだろうと思ってきたが遂にわかった気がする。

AIなんて具体的に確定したものはないんだ、AIはイデアなんだ、ということが多くの人に理解されていないのだ。AIは「ルビー」と言うような石であるとか、「東京」のようなわかりやすい確定的な実体を伴う概念とは違う。人の心の中にしかない概念だ。技術革新でAI的に実現しようとしてきたものの多くが急に可能になっているということと、確定的な実体を伴うものであるということが混同されているのだ。

AI(Artificial intelligence : キカイやソフトウェアによる知覚や知性の実現。Machine intelligenceとも言う)は人間が目指している一つの目標であり、そこにおける計算機や自然言語処理機械学習、音声処理などのアルゴリズム、それを実現するための膨大なデータは手段である。方法は問わないから、目指す機能を実現しようとしているというのが技術側から見ている実態であり、こちら側(作る側、構想する側、サービスを提供する側)からしてみると自明なことである。

この最も本質的な部分が何度話しても理解されず、そのような実態だということが受け入れられないところに多くの人の理解の困難があるように見受けられる。

今となればクルマ(自動車)というのはほとんど自明的にシャシーがあり、そこにガソリンか電気で動く駆動装置(エンジン、モーターシステム)が乗っていて、そこの上に座席、包み込むアウター(普通に見えるデザイン部分)があるものと多くの人が理解しているが、これとてもつい150年前に遡ればほとんど単なる概念であり、それが何を意味しているのかよくわからなかったのと同じだ。

飛行機もそのとおりであり、コンピュータなんてまさにそうだ。なので米軍機のオスプレイのように飛行機における新しい浮上、離陸のあり方は常に研究され、計算機の世界でも量子コンピュータ、Neural network*1のようなノイマン型ではない情報処理のあり方も常に研究される。

あくまでAIはイデアだということを理解しない限り、日本のこの議論の方向性はおかしなところに行ってしまうと思うのは僕だけだろうか?


(参考文献)
以下の本では松尾先生の論文に加え、AIの限界について整理してしている拙稿も紹介されています。

人工知能―――機械といかに向き合うか (Harvard Business Review)

人工知能―――機械といかに向き合うか (Harvard Business Review)

松尾先生の名著

*1:とは言うものの、現在のところ、実態としてはノイマン型の計算機で動くソフトウェア上で強引にエミュレートしていることはご案内の通り。これを石(半導体)に変えようという研究、開発はかなり熱くされている。

知らず知らず僕らのエゴと気配りがこの国をbehindにしている


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII
Shelburne Museum, VT, U.S.A.

アメリカやヨーロッパの街に旅行にいくたびに思うことがある。それは彼の国々の街の多くは美しく、東京や日本の地方の街の多くは見苦しいか、味気がなく、乱雑ということだ。以前話題になった「世界の都市を東京ぽくしたら、、」も引きつりそうな黄色い笑いを生むようなところがあった。今日はそこの深因の一つが、我々の未来にも影響をもたらしているのではないかという話。

-

先日、ドローンだとか自動走行についてのブレストを知り合いの某中央省庁の方々としている時にちょっとした気付きがあった。

これらの時代に向けて一体どんな整備が必要かみたいな話をしていたのだが、その時に「なぜ世界に冠たるはずの日本のクルマメーカーの自動走行のロードマップがグローバルの競合メーカーに比べてこんなに足が長いのか?」(つまり完全自動走行になる予定のタイミングがどうしてこんなに遠いのか?)という話がでた。具体的に言えば、だいたいドイツや北米の会社は2018や2020までに実現するといっているのに、日本のメーカーは少し前は2028、いまプッシュしても2025ぐらいだというのだ。

で、僕が言ったのは、「これはちょっと誤解があると思う。日本のメーカーの技術力は高く、独米に並ぶか優っているとしても負けているわけではない。これは前提になっている道が違うんだ」、と。

僕の向かいの方ははじめきょとんとしていたので、次のような話をした。

トヨタやホンダ、あるいは日産だってアメリカの高速道路をただ自動走行すればいいだけなら、今だっておそらく可能だろう。そしてアメリカの下の道やドイツのアウトバーン、英国のM(高速道路)を走るだけであれば、おそらく独米のメーカーよりも早く実現が可能だろう。でも、こと日本の道を想定すると2025とかになってしまうんだと思う」、と。

あまり知られていないが、自動運転車にはかなり苦手というか今のところ答えがうまく見つかっていないことがある。それは道が狭すぎるようなところでのすれ違いだとか、やり取りの仕方だ。

よく世田谷の方とかに、本来、双方向通行することが物理的に不可能なのに、標識上は双方向可能な道がある。こんな道を向かい合うクルマで通り過ぎるときは、向かいのクルマに乗っている人との表情や身振りによるやり取りで、本来クルマが通ってはいけない人の家の敷地とかに乗り上げたり、場合によっては5メートルとか10メートルバックしたりしてこれまた本来道ではないところ(人の所有地)を活用したりという、かなり難しい譲り合いをしながら通り過ぎる。僕もよくクルマを運転するが、前から来ているクルマのドライバーが肝っ玉母さんみたいな女性とかだと、手であっちに寄れとかと言われて、もうこちらが気迫に負けて、なぜか一方的に頭を下げて道をゆずることはよくある。(笑)

しかし、こういうことは自動運転車にとって極めて難しい。何しろ人の家の敷地を走るというのはそもそも正しくなく、自動運転車は相手の人の表情だとか気迫を読むのもかなり困難だからだ。なので、今のところそういう状況になったら自動運転車は止まってしまう。判断できなくなってしまうのだ。

またアメリカなどでさんざんドライブした旅行から東京に戻ってきて気づくこととしては、東京の道の白線を完全に守ると事故しそうになることが多いことだ。道幅が狭すぎるところに無理してギリギリで線を引いているために、自転車がいたり、いわんや路駐などが行われていたらすぐに機能しなくなるのだ。これも自動運転にたいする潜在的な阻害要因の一つであり、同根の問題といえる。

-

ここまで考えると、日本のクルマメーカーのロードマップの足が長いのは、よく考えると当然のことで、これはクルマメーカーの問題では無い。我々の国の道の問題なのだ。そしてこれを更に掘り下げて考えると、その土地の利権者とかがいるというだけの理由で、公共の道なのに非合法な通行をしなければ通れないような道幅の道が多く出来てしまっていることにある。本来、双方向通行を安全に行うために必要な道幅を確保できないのに、住民の声で道を通す。なのに住民は自分の利権は守ろうとする、そして国や自治体はそれに気配りして変な道ができる、、、この繰り返しがこのような道を大量に生み出してきた。

その道を通した頃は自動車があまり走っていなかったからという屁理屈は、道幅に手を入れると価値を失うようなヨーロッパの古い町並みでもない限り通らない。それは世界中そうなのだから。それでも1000年近い歴史を誇る大学町Oxfordのようなところに行ってもそんな細い道は少ない。2000年以上前から続く街のRomaだって、そんな道は少ない。クルマが通るようになったら利権者も本来手放さなければいけない利権があるのだ。そう日本の自動車メーカーの自動運転ロードマップを阻害しているのは実は日本の個人のエゴの集積なのだ。知らず知らず僕らのエゴとそれに対する気配り、対応がこの国をbehindにしている。

-

これと同じような話がドローンでもある。

僕の会社のオフィスはたまたま港区の割と中心的な場所にあるが、窓から外を見ると驚くような風景が広がっている。そこは日本で指折りの土地の価値を持つエリアと思われるのだが*1、なんと平屋だとか、わずか数階しか高さがない建物がかなりの数存在し、それ以外の鉄筋の建物も、高さがマチマチで、しかも幾何図形のように変に辺が切り取られた建物が多い。その中で群を抜いて高い建物が時折にょきにょきと立っていたりする。しかもそこら中に電信柱と電線があるという、、。

このような状況の街で自動運転のドローンを飛ばそうとすると、平面地図だけではダメで、少なくともどこまでの高さの建物がそこに立っているのか、どこに人が住んでおり注意を払うべきとかという3D的な地図、実際にはビル風の強さの情報だとか、時間帯による違いを含め、4D、5D的なデジタル情報地図の整備が必要になる。大変だ。

これがパリだと中心部の建物の最上階に上がったことがある人はわかっていただけると思うが、高さがほぼ完全にフラット。エッフェル塔ぐらいしか高い建物がないので、ある所定の高さをドローン用(自動運転版の『魔女の宅急便』のイメージ)に指定して、ただ飛ばせばいいだけだ。ニューヨークのマンハッタンでも、だいたい地域によって高さが揃っているのでこの問題は少ない。でも東京の場合はもうめちゃめちゃなので実に厳しい。これも街の利権者とか、建ぺい率だのみでまちづくり規制がうまくできていない問題だ。もちろん東京も銀座の中央通りのように31mの高さの制限がもともときっちりあってものすごく揃っている場所もあるが、銀座自体が運用がゆるくなっているぐらいで極めて例外的だ。


Contax T2, negative film, Paris

これらの問題を解決するのはある種、気合の問題であり少々時間はかかるが簡単に思える。もう30〜50年かけて東京を綺麗にするつもりで(2020の次のオリンピックを目指し)高さ制限をきっちりかけてしまうのだ。よほどの商業地区以外、高さ制限は昔の銀座のように基本31メートル(百尺)にするとかで。建て替えは容積率に関係なくその高さまでで行うことにする。以上。笑

道も一方通行なら3メートル、双方向だったら6メートルの幅がなければクルマを通さない、通すときは利権者は土地を吐き出すことにしてしまう。国や自治体は、個別の事情に対して、過度の気配りを止める。これをやれば道の刷新自体が自動運転時代に向けた新しい公共事業にもなる。ついでに雪の時などのために道のヘリに電子的なシグナル源でも埋めておけばいい。

このように過度のおもてなし(慮り、気配り、配慮)が日本の未来を阻害している。個々の人たちのニーズに耳を傾けすぎて美しくなくなってしまった日本に江戸時代級のdisciplineを埋め込むことで、ビシっとすることができれば冒頭のパロディも起きなくなる。

いかがだろうか?

-

と、こんなことをこれまた別の集まりで雑談的に話をしていたら、それ笑いごとじゃないですよ、と日本屈指の重電会社の方が僕に言った。聞くとその会社の風力発電の設計はクライアント、案件(!)ごとに個別にこまごま仕様を作っているので、一斉に手を入れたり、メンテをすること、データの取り込みを一気に触ることができないというのだ(?!)。一方、彼らの競合のGEの仕組みだと世界中のどの風力発電の同じ仕様をベースにしており、データの取り込みなども一律で手を入れられるのだと、、。となるとこのように個別の事情に対する気配りのために、共通の枠組みを作れないことは、もう国民性の問題と言える。

戦後、日本はこのように顧客だとかユーザの声をひたすら聞き続けることで発展してきた。ただ、この態度によるover customization、過度のおもてなしが見苦しい街を作り、自動運転やドローンを阻害している。世界標準的に「この街に住むならこれを受け入れよう」というルールを利権ではなく、筋ベースで作り、徹底する時が来ているのではないかなと思うが、みなさまいかがだろうか?


*1:実際に僕の働くビルは50階ぐらいの高さがあり、上層階には海外からの超高級ホテルが入っている。噂では同じ敷地の居住用の建物には有名タレントが多く住んでいるという

不屈の棋士


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII
Putney, VT

この二年ほど、年中同じ問題について手を変え足を変え尋ねられる。

「AIがこれ以上進化してきたら我々の仕事はどうなるのか?」

、、と。これについての僕の答えは常に一貫していて、そんなに心配する必要はない。AIは我々の仕事をまるごと置き換えることは、かなり未来まで当面無い。AIなりデータは我々を劇的にアシストするようになる。これから本当に起きるのはAIと人間の戦いではない。データとアルゴリズム、そしてコンピューティングパワー*1を活用する人と活用しない人の戦いになる。使わなければ、使っている人(あるいは企業)の圧倒的な力に負けるだけであり、使えば、これまでに不可能な付加価値を生み出すことも可能になる。なぜなら、これまで手をかけなければ出来なかったあまりにもtediousなことが可能になってしまうからだ。例えば膨大な映像からの必要な情報の抽出であり、雑草の自動草むしりによる完全な有機栽培の実現であり、ソフトウェアやシステムレベルの脆弱性の発見や修復などだ。

この理解については東大の松尾先生、ソニーCSL所長の北野先生や、千葉工大の古田先生、日立の矢野技師長など、多くの第一人者的な方々と話をしてきたが、どの方も異論はない。ただ、不吉なことを騒ぐことが好きな人間の本能がただ騒ぎ立てているように見える。まるで90年代後半のノストラダムスの大予言に騒いでいた人たちに似ている。 :)

これ系の議論の発端は3年前にオックスフォードから出た、「米国では半分近くの仕事がリスクにさらされる」という有名な論文だが(ほとんどこれをなぞったような話が日本の野村総研からも最近発表された)、この後、私の古巣のマッキンゼーが持つシンクタンク機能であるMcKinsey Global Institute (MGI)*2 の精査により、実際にまるごとマシンに置き換えられてしまう仕事は5%程度しかないことが発表された。やはり、である。

ということで冒頭の問題は気持ちはわかるが、ある種愚問と言い切っていい問題だ。

、、大半の人にとっては。

僕がかつてその一員であった科学者、経営コンサルタント、あるいは、数学者、弁護士、医師のような知的プロフェッショナルの世界もかなりのリスクにさらされていると考えられているが、実際には、上と同じ話でそうではなく、劇的な変化から生まれるチャンスを使い倒す人と使わないで滅びる人たちに分かれるだけだ。

昨年Diamondハーバード・ビジネス・レビューにまとめた論考に書いたとおり、

  • 我々の体を使って知覚し、部分的、そして総合的に評価すること
  • 意思、目的意識を持ちゴール設定すること、
  • コンテキストを踏まえ、大胆で解決に値する問いを立てること、
  • 状況や問題を見立て、構造化すること、
  • 意思決定すること、
  • 前例の少ないことや異常値に対応すること、
  • 人の分かる言葉で話し、人を奮い立たせること、

などは、人間の仕事として残る。これらの組み合わせである、デザインすること、日々のプロジェクトマネジメントなどは典型的だ。

しかし、そうとは言っていられない人たちがほんの少し存在する。それがこれまでキカイとは程遠い世界にあり、キカイが使うことが許されないルールの中で戦い、人間の知力の限界を象徴してきた「棋士」と呼ばれる人たちだ。将棋棋士囲碁棋士である。

彼らの立場は同じ知的産業の中でもサイエンティストのように膨大なコンピューティングパワーやデータ、アルゴリズム・ソフトウェアを酷使して発展してきた世界とは根本的に異なる。遺伝子の組み換えであろうと、神経の信号のレコーディングや解析であろうと、はたまた素粒子実験の解析であろうと、計算力とアルゴリズムの力なしにはもう決して進まないところまで現在の科学は来ている。

囲碁の世界では、AlphaGoと魔王とまで言われたイ・セドルの対決、その結果については多くの方がご存知だろう。その隣の世界である将棋棋士の方々が自分たちの職業が置かれている状況をどのように見ており、そしてどのように今後なっていくかと考えることは実に興味深い問題だ。

これをトップ棋士である羽生善治さん、渡辺明さん、森内俊之さん、佐藤康光さんはじめ、電脳戦に於いてソフト(データとキカイ)と対決してきた棋士、深く関わってきた棋士の方々に徹底的にプロの将棋観戦記者である大川慎太郎氏がインタビューした本が出た。『不屈の棋士』だ。

本の帯には、<人工知能に追い詰められた「将棋指し」たちの覚悟と矜持>とある。

この本を読んで、なるほど、と思ったことを幾つか書いておく。

  1. 多かれ少なかれ将棋の局面の展開においてソフトの発達が、これまで人だけの戦いになかった幅を生み出しつつある、、、そういう意味でソフトが将棋そのものを進化させていることは多くの人が認めている
  2. ソフトとトップレベルのプロ棋士の力が並ぶか超えたことはほぼ常識に
  3. ただし羽生さんだけは蓋を開けてみないことにはどうかわからないと多くの人が思っている
  4. その意味で最終的な勝者がソフトの勝者と戦うことになる叡王戦に羽生さんが出場することは衝撃を持って受け止められている(現在順調に羽生さんは勝利 *3
  5. ソフトの棋譜は美しくない、読みごたえがない、人間に馴染みにくいと考えている一流棋士が少なからずいる
  6. ソフトがあることが若手(奨励会など)の訓練では前提になっている、、、結果、通常世界におけるPC世代とスマホ世代のようなある種のデジタルデバイドが生まれつつある
  7. ソフトが終盤のよみにおいて圧倒的に強いことは単なる確定事実で、羽生さんですら詰めがあるかどうかの確認にソフトを使っている
  8. プロの棋士が生き残れるかどうかの境は人間がマシンに負けるかどうかではなく、人間のプロ棋士の戦いに人間が興味を持ち続けるかどうかにある

更に具体的な内容については直接読んで頂ければと思うが、これほど直接的にこのテーマに立ち向かった本はついぞ知らない。そこに込められたそれぞれの棋士の方の思いと迷い、覚悟は多かれ少なかれ我々と同じものだ。

この様なタイミングは人類史において二度となく、おそらく歴史的に大切な第一級資料となるだろう。

我々のように、キカイの力を前提として働くことが許されるわけではない世界で戦う人たちが、どのような気持ちでキカイと立ち向かっているのか、それを通じて自分たちの未来をよく考えたい人たちに強くおすすめしたい。

*1:多くの人が漠然とAIと呼んでいるものの本質

*2:私が仕事を始めた頃に大前研一さんのイニシアチブで立ち上がった

*3:http://www.eiou.jp/qualifier/

第二回データサイエンティスト協会シンポジウムのお知らせ


Leica M7, F1.4, 50mm Summilux, RDPIII @Oxford, UK

来月13日(金)にデータサイエンティスト協会、年に一度の第二回シンポジウムが行われます。

事務局に聞いてみたところ、こちら、なんとまだ枠があるようなので、驚きつつ、ご案内させていただいている次第です。
http://www.datascientist.or.jp/symp/2015/

基調講演では情報処理学会会長、NII(国立情報学研究所)所長の喜連川先生にお話いただくことに加え、今、話題の人工知能の第一人者、松尾豊先生にもお話いただきます。

加えて、データサイエンティストのスキル要件をデータサイエンス力、データエンジニアリング力、およびビジネス力 (business problem solving) の3つの広がりそれぞれについて、詳細な100以上の詳細かつ具体的なスキルチェック項目を初めてここで発表します。こちらは文科省の方からも待ちわびられている内容で、このまま国の高等教育などにも大きく反映されていく予定です。

その他にも自動運転、ロボットで注目を集めるZMPの谷口社長、ITで日本の交通を変える日本交通の川鍋会長など充実したスピーカーが出られます。(ほかまだまだいらっしゃいますが詳しくはウェブサイトをご確認ください。Track AとBがあります。

これだけの内容でありながら、非営利団体(一般社団法人)なのでコストで提供しており2万円とほかの類似イベントよりかなりお得なのですが、なんと次の特別紹介コードを入力いただけると4千円安く1万6千円で懇親会まで参加できます。(学生の方はわずか5千円。)*1

割引コード: SHOUKAI01

ご興味のある方は是非空きのあるうちに以下の公式ウェブサイトからお申し込み頂ければ幸いです。

http://www.datascientist.or.jp/symp/2015/
(誤入力をされた場合、返金対応が出来ないそうなのでそこはご留意ください。)

-

本シンポジウムでは、上述の通り、データの力を解き放つために必要なスキルをサイエンス、エンジニアリング、ビジネスの3領域いずれもチェックリストとして相当丁寧に可視化したものを発表します。

データプロフェッショナルに求められる像が明確になることで、多くの人のキャリア形成や採用のお役に立つことを願っています。通常の情報処理技術者でも情報科学研究者でもコンサルでもない広がりが理解してもらえるかと。

感覚的には物理、科学、生物学の専門家が集まって分子生物学という学問が立ち上がっていった時の話に近い気がしています。必要な知恵を持ち寄るが、力を合わせ、技を開発しないとフロンティアを切り開けない。

スキル委員会で毎週水曜の夕方エンドレスで行った(終わると大体23時過ぎ、、orz)、長く大変な検討過程で見えてきたのは、いわゆるITエンジニアの通常技術だけでは足りない、情報科学も情報系、機械学習系、データ可視化系いずれかだけでは足りない、問題解決力もコンサル的なものを超え、データ視点で持つ必要があることでした。

Palantirなどの成功を見れば分かる通り、我が国は明らかにこの領域の人材開発、事業開発においてbehindです。教育も何をどうしたら良いか見えにくい。そこに何らかの楔を打ち込められればと心から願っています。

情報科学のエッジを求められる人には物足りない内容かもしれませんが、それはWSDMなりKDDなりの場で吸収して頂ければ良い話で、この道を目指す人がどういうスキルを身に着けていくべきか可視化できればと思っています。

*1:もし取引先や販促などのためにまとまった量を購入したいということがあれば、企画委員会(c-planning@datascientist.or.jp)まで、ご相談いただければ、何らかの対応をしてくれるかと思います。

ヨーロッパは旧世界ではなく新世界だった


Leica M7, F1.4, 50mm Summilux, RDPIII @Lake District, England, UK

昨夜、パラパラと見ているとNature発の目を疑うようなニュースが飛び込んできた。

"The earliest unequivocally modern humans in southern China" Nature (2015) doi:10.1038/nature15696

ヨーロッパには現生人類(ホモ・サピエンスクロマニヨン人)は4万5千年年前までいなかったことが知られているが、アジア(今の中国南部)には少なくとも8万年前、もしかすると12万年前にすでに疑いようもなく現生人類といいきれる人間たちががいたというのだ。

ではなぜヨーロッパにいなかったのかというと、ヨーロッパにはネアンデルタールたちが大量に住んでいて入れなかったのではないかという。

え”っ??じゃないだろうか。

そう我々現代人の先祖は長い間、はじめに生まれたアフリカだけにいたのではなく(ヨーロッパにはいろうとして失敗して諦めていただけでなく)、東に伸びるアジア、そして多分南北アメリカには、ヨーロッパ入植の何万年も昔からいたのだ*1。何万年というのは、キリストが生まれてから今までの期間の少なくとも20倍、4万年以上という話だ。

ヨーロッパ中心主義的な物の見方から始まった人類学はもうコペルニクス的な展開を今迫られている。僕のざっくりとした人類史の理解の変遷はこんな感じだ。

  1. 〜20世紀前半:人類は北アフリカ〜ヨーロッパかアジアの何処かで生まれた(同時並行的にに生まれた可能性もある)。4万年ぐらい前までは旧人ネアンデルタール)がいて、そこから更に進化した新人(クロマニヨン)に置き換わっていった。なので文明もその辺を中心に生まれた
  2. 20世紀後半〜:現生人類は同時多発したのではなく、約15万年前にアフリカで生まれて他の大陸に広がった(出アフリカ)。ネアンデルタールはじめ、他にも10種類以上の人類がいたが、基本数万年前までに滅んだ。南北アメリカにも5万年前ぐらいには到着した。
  3. 21世紀初頭~:2の理解に修正。現生人類は純血ではなく、アフリカ以外の土地ではネアンデルタールの血が数%混じっている。特にアボリジニーではちょっと高め。デニソワ人の血も東南アジア周辺ではそれなりに入っている。インドネシアにも背が低い人類(フローレス人)がいたが1.3万年前ぐらいに滅んだ。
  4. 2015年10月(今ココ):アフリカを出た現生人類たちは一番近くのヨーロッパには入れなくて右(東側)に進路を取り、10万年ぐらい前にはアジアに到着した。一部は南北アメリカにも行った。主として現生人類はアフリカとアジアにしかおらず、ヨーロッパはネアンデルタールの国の時代が長く続いた。4万年ぐらい前に氷河期か何かのせいでネアンデルタールがほぼ消滅に近づいた頃(もしかしたらハイパー化した現生人類に滅ぼされた結果)、現生人類はヨーロッパにもまとまって住むようになった

もうほとんど100年ぐらい前とあべこべの世界観といえる。科学というのは本当に面白い。

こうであれば、なぜ僕が子供の頃(35年ぐらい前)は旧人ネアンデルタール)と新人(クロマニヨン)というふうに教えられたのか、そのころ旧人の何処かから新人が生まれてきて置き換わった的な言説があったのかもよく分かる。そもそも人類学が始まった頃、ヨーロッパでは古い現生人類の化石が見つからなかったからだ。なので旧人から新人が進化したと考えざるを得なかったのだろう。

この辺の話は本当に不思議でわけがわからなかったが、僕がおとなになって今に至る過程の中で、実際には現生人類(ホモ・サピエンス)はネアンデルタールと平行して生きていたことがどんどん明らかになっていった。どうやって住み分けていたのかとかというのは、ずっとなんだかよくわからなくて不思議だったが、ようやく大筋で紐解けた感じがする。*2

また、なぜ世界がこのような人口分布になっているのかもこれが背景であればもっとよく分かる。

僕が高校生の頃、学校でもらった地図帳を授業も聞かずに見ていて(笑)最も驚いたことの一つは1000年前も2000年前も、もっと前も人口の地理的な分布を見るとアジアとアフリカで半分を越していたということだった。何が起こってこんなにアフリカとアジアばかり人がいるんだろうとずっと思っていたが、これが背景であればもっとよく分かる。

『銃・病原菌・鉄』にあるような、植物種も含めた土地の豊かさの問題でこれが起きているとばかりずっと思っていたが(相変わらず大切な理由であることは間違いないが)、必ずしもそうばかりとはいえないということだ。

そしてこれを俯瞰してわかるのは、実はヨーロッパは旧世界でも何でもなくて、長い(現生)人類史で見ると、むしろ最後の最後に住んだ新世界であるということだ。そしてNative American以外にとっては(近代)アメリカがさらなる新世界であったといえる。本当の原点はアフリカ。旧世界はアフリカ、アジア、南北アメリカ。新世界がヨーロッパと中東*3。新世界2がヨーロッパ人が移住したあとのアメリカ。文字がない(?)時代に失われてしまった過去の歴史を誰かぜひ紐解いて欲しいと思う。

なんというかあまりにも愉快だ。そういう新しい土地に入っていったヨーロッパ人の先祖になった連中たちが、まるで今の企業におけるスタートアップのように過去のしがらみを捨てて、本来あるべき姿を追求した。そうするとナイルとか、メソポタミアのいわゆるヨーロッパ系の文明が生まれた。(おそらくインダス文明もそれの一つ)

古い慣習とか仕組みに縛られないアタッカーは強い。気がついたら、彼らは文化的な中心の一つとなり、China, Indiaで生まれた文明を追い越し、支配的な地位を確立。世界に出ていき、頑張ったら今のような力学図になった。そうとも捉えられるのではないだろうか。*4

なんてことをたくさん考えさせてくれて本当に楽しい週末の楽しみネタになった。

このような驚異的な発見をしてくれた中国、UK、スペイン、アメリカの共同チームの皆さんに感謝したい。

しかしなんでこれほど驚くほどの発見が我が国の主要ニュースにほぼ全く流れていないのだろう、、、不思議だ。*5



-

★本エントリに関連する雑誌

デニソワ人発見の話がかなりこってり(オススメ)

南アフリカの洞窟で最近大量に見つかった頭は猿人で身体はホモ属にかなり近いという人類の話。謎だらけだけれどとても面白い。

(注:僕は人類学を正式に学んだ人間ではないので、多分に誤解、想像を含んでいます。以上はあくまで僕の執筆段階での理解であり、事実関連については何もかもを鵜呑みにされず、ご自分でお調べ、ご確認ください。あと、詳しい方がムキになるのはナシでおねがいします。そんな大人げない人はいくら何でもいないと思いますが、一応念のため。笑)

*1:南米に5万年前に人がいたという話はブログを書き始めた頃の次のエントリ(オリジナルを書いたのは2000年の夏!)をご参照されたし。http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/20080801/1217542375

*2:途中、シベリアの南西で見つかったデニソワ人とかまだ??なものもある。

*3:このNature論文で知ったがLevantというらしい

*4:実際には偶然とか色んな物が絡んでいて簡単には説明できないだろうが、頭の体操としては面白い。

*5:少なくともこの執筆段階でほぼ全くニュース的な話題にはなっていない。

AIはproblem solvingマシンではない


Leica M7, 50mm/F1.4 Summilux, RDPIII @UC Berkeley

この夏の研究のように書いていたDiamondハーバードビジネスレビュー(DHBR)2015年 11 月号への寄稿論文がようやく昨日発売になった。「人工知能はビジネスをどう変えるか」というタイトルだ。

-

NewsPicksのコメント欄*1にも書いたが、この論文のきっかけは7月末のバケーション前日に編集長の岩佐氏が突然相談があると言っていらしたことから始まっている。「いまディープラーニングなどAI周りで起こっている本当のこと、そしてそのビジネスとマネジメントについての意味合いについてまとめてもらえないか」という話だった。

実はその1-2カ月前に、私の前職の恩師の一人であり、東大EMP(executive management program)の責任者でもある横山禎徳さんにもAIという言葉がなんというかhypeになっているが、本当のところAIは何ができて何ができないのか、ということについて数時間、うまいワイン数本とともにガン詰めされたこともあった。

その後に、陸上の為末大さんと対談することがあり*2、そこでもAIには何ができて、何ができないのかという話が大きな話題の一つになった。仕事がAIによってなくなるとかなくならないという話が随分と話題に上がっているせいもあったと思う。

そういう前置きがあったこともあり、お話が来た時は、とんでもないテーマだと思う一方、これは自分が書かなければ、誰も書かないない内容なんだろうなとも思った。(実際、発売前日の金曜日に編集長にお聞きしたのは、僕が受けなければ、この内容は代替の人が全く見当たらず落とすつもりであったということだった。)

-

とんでもないと思ったのは、このテーマはそもそも(1)編集長も含めた、ほとんどの世の中の人が誤解していること、ディープラーニング(深層学習/DL)への幻想を紐解くところから始まる必要がある。なおかつ(2)今起こっている変化のすさまじさとAIがおこなっている取り組みの本当の広がりを整理しなければいけない。それでありながら、(3)AIと我々の知覚そして知性との対比を行うという荒業が必要。その上で、(4)ビジネス全体、マネジメント全体に対して意味合いを考える、という深淵かつ広大なものであったからだ。

(1)自体が誤解に満ちて整理されておらず(業界の人はわからない人は流石にいないと思ってか、あるいは確信犯的に説明しない)、(2)もガサツでほとんどまともに整理されていない(業界の人は自分の取り組みには詳しいが、俯瞰して一般人に分かる言葉で話してくれない)。

(3)に至っては、世にあるのは、機械学習(Machine learning: ML)およびその一種のDL、人工知能(AI)側からの知見のみが広がっていて、ほとんどの人には全く手がかりがない。本来、脳神経科学、認知科学も分かる人が知覚と知性の広がりとの対比をしなければいけないが、そちら側の人はML/AIがよくわからないのでコメントしない。また、「知覚と知性についての広がり」についてそもそも体系的に整理した人などそもそもいない。

いわんや(4)については、そもそもビジネスやマネジメントを俯瞰するような能力を持った人が、AI・脳神経科学を合わせた意味合いを議論することなど普通不可能で(そもそも議論できるほどよくわかっていない)、部分的に仕事がなくなるんだろう的な論説があるだけ、というのがこれまでだったからだ。

正直、編集長自身もこのテーマの本当の奥深さを僕に相談された時は理解されていなかったと思う。あいにく、自分はこれらのすべての領域にそれなり以上に深く関わってきたために、瞬時に上の広がりを認識し、やりますともやりませんとも言わず、持ち帰りそのままバケーションに入った。

-

僕はもともと知覚(perception)に興味があり、脳神経科学全般の体系的な訓練を受け、研究し、かたやビジネスではある種 perception technologyというべき消費者マーケティングに出会い、人のものの感じ方とニーズの生まれ方について長年取り組んできた。現職に来てからは、もともとの市場インサイト、インテリジェンス的な活動に加えて、直接的にもマネジメントとしてもビッグデータやデータを利活用したR&D的な取り組みに深く関わってきた。(実は社内で基礎研究を行う研究所長を担っていた時期もある。)

なんというか、そういう経験の集大成的な論考になるんだなと直感した。

-

このテーマはそもそもAIと騒がれている現在のブームの本質が単に機械学習だとか深層学習(ディープラーニング)といった情報科学(データサイエンス)の話ではないことから始まる。これらのキカイに学習させるための手法は、たしかに大切だが、データが大量にないとそもそも始まらない。(上の1の話だ)

僕の周りでも笑い話が一つある。ディープラーニングについての話を耳にした人が、あるこういうデータサイエンス系の人のところに来て、「鳥の鳴き声をディープラーニングを使ってどの鳥なのかわかるようにしたいんですが」といって来たという。

「了解です。ではまずは各鳥の鳴き声をとりあえず五万回ずつ録音したものを用意してください。オスメスだとか、状況などの属性データも一緒に。そうすれば手伝いますよ」

こう答えたら、その相談にやってきた人はディープラーニングが魔法の箱か何かだと思っていたらしく、うなだれて帰っていったらしい。

より深くはDHBRの論考を見てもらえればと思うが、軽く数百万以上のパラメータを扱う深層学習は当然の事ながら数百、数千のデータでは教育できない。膨大なデータ(ビッグデータ)があることによって初めてファンクションする。そしてそのためには、極めて高速な計算環境が必要だ。この3つを分けて考えているあたりに現在の世の中の危なっかしさがある。*3

しかもこのことから分かる通り、どんな用途に対しても動くAIなるものは普通存在しえない。十分に速い計算環境に対し、特定の用途に合わせて、必要な情報科学*4を実装し、大量のデータで教育をすることで特定用途のために使えるAIになるからだ。このことぐらいはもう高校生以上の人たちには教える時代になったのではないかと思う。(p.46 図表1)

-

(2)もちゃんとやる必要があった。人工知能は万能みたいに思われている人たちに対して、いま、最先端の世界で何が起きていて、どういう広がりで急速に用途が広がっていっているのか、その整理をする必要があるとかねがね考えていたからだ。(p.47 図表2)

僕の周りには幸い詳しい人、専門家が多いが、彼らは頭が良すぎて普通の人に自分たちが思っていることをうまく伝えられない。その橋渡しも含めて、自分が俯瞰して感じている広がりと、その意味合いをなんとか伝えようと努力した。これまでにないすっきりとした整理を行ったので、一定の成功をしたように思うが、判断は読者の皆様に任せたいと思う。

-

(3)は真のチャレンジの一つだった。そもそもAIについて僕ら(この領域の内側にいる人)からすると当たり前、空気のように思っているが、一般の人(外の人)がわかっていないことを整理する必要がある。これを課題解決プロセスの全体に置くとどのような意味合いがあるか、それをさらに俯瞰すると、どういうことが浮かび上がるかをそこでは議論している。(p.50 図表3)

これを見ると明らかにわかるのは、AIはproblem solving machineではないということだ。AIが広がると仕事がなくなるとか、仕事が劇的に楽になると思って期待している人がこの世に多くいるが、残念ながらそんな都合のいい話はない。なにしろ、AIは課題解決において最も大切な能力であるイシューを見極める力、構造化する力がないのだ。課題をフレームする力も、人に伝える力もない。実際にはAIは人間を代替するのではなく、人間を幅広くアシストする存在になる。

ここではさらに、知覚と知性の広がりをフレームワーク化する、その中でAIの現状を人間と対比するという大きなチャレンジに取り組んだ(p.52 図表4)。もしかすると世界初かもしれない。

神経科学をおこなっている人であれば自明で、それ以外の人にとってはほぼ全く認識されていないことだが、我々の脳神経系のほとんどは実は思考とか高度な知性というより、知覚そのものと体を動かすことに使われている。そもそも1000億と言われる脳の神経細胞ニューロン)の8割は小脳に存在する。大脳皮質もほとんどが感覚処理と運動に使われている。その下の視床(thalamus)は知覚のゲートウェイだ。

そういうことも踏まえ、知覚についても脳神経科学的にもほぼ正しく、それでいて、人間の知的活動の本質的なポイントも外さないようなフレームワーク化と、その上での評価を試みた。実はこの図表づくりに最も時間をかけたが、一定の成功を収めたことを祈る。

-

(4)はチャレンジ以上のチャレンジというか、(3)までの議論自体がないないづくしで大変だったが、もう二踏ん張りした。編集長からはビジネス自体がどう変わるか、あと、ハーバード・ビジネス・レビューなのでマネジメントへの意味合いを是非書いて欲しいと言われたからだ。

ビジネスの方の意味合い自体がかなり興味深いものであるとは思っていたが、世の中的には上の感情的、妄想的な仕事の喪失論(本質的には間違っている)以上の議論が殆ど行われていない。そこに何らかの知的な楔を打ち込めればと思って努力した。なんとなく感覚で思われていることの中で本当に起きると思われることをかなりストレッチして書いた。

マネジメントについて書くのは、更に無謀感があったが、長年トップマネジメントコンサルタントとして働き、自分自身がそれなりの規模の会社の経営に関わっている以上、逃げられないと思って踏ん張って書いた。かなり大胆だと思うことも書いたが、今の主要なmarket cap上位の会社がどのような位置づけにあってどのような方向性を目指していこうとしているのか、我々の社会がどのような方向に進もうとしているのかについても一定の方向性を打ち出せたのではないかと思う。

-

以上、長くなったが、このDHBRでの論考発表にあたってのあとがきとして書いてみた。

本当に文字通り、仕事の合間を縫って、渾身で書きおろしました。ご興味を持っていただいた方は、ぜひ手にとって読んでいただければ幸いです。そしてブログでもFacebookでもTwitterでも良いので、ご感想などお聞かせいただければ本当にうれしいです。

これほどの充実感のある仕事を依頼していただいた岩佐編集長に感謝をささげつつ。

良い夏でした。


-

★本エントリに関連する書物

ご紹介した論文はここに掲載されています。

こちらには昨年ビッグデータとマーケットリサーチとの使い分けについてまとめた論文を寄稿しました。

*1:https://newspicks.com/news/1197124/

*2:NewsPicks上の関連記事は、https://newspicks.com/news/1137152/body/

*3:ブクマコメントを見て誤解がないように補足。Pre-trainしているのであればその事前訓練に必要なデータ量も含めて考える必要がある。

*4:機械学習や深層学習以外にもコンピュータに言語を扱わせるための自然言語処理、あるいは画像処理するためのコンピュータビジョンなど

人間が特異点を感じる時、、、『her/世界で一つの彼女』


Leica M7, 50mm F1.4 Summilux, RDPIII, @Roma, Italy

何もかも見たいときに見れる、なんて便利でいい時代だ。

知りたいことも、本も映画も全て一瞬で手に入る。この快適さに埋没しながらも、生きている実感が逆に薄くなってしまう、そういう感覚に襲われてしまう。

僕らはやっぱり実態を持つ存在だ。それがわれわれの生きる実感を与えてくれている。そういうことを、『her/世界で一つの彼女』を今頃になって見て、しみじみ感じた。

herは人格と感情を持つようになった人工知能との愛の物語だ。

主人公はある日、人格を持つ初めての人工知能ベースのOSとであう。彼は、1年以上、愛しているがうまくいかなくなった妻と離れてくらしている。子供の頃から一緒に育ってきた彼の人生の一部と言える人だ。そんな彼の心の穴を埋めるようにそのOSが彼の心の中に入ってくる。

100分の2秒で19万もの名前の中から選び、そのOSはサマンサと自ら名をつける。

サマンサは驚くほどのスピードで情報を処理してくれる。ハッとする瞬間ではあるが、近未来であること、過去20年で我々の家庭用コンピュータが8000倍ほど早くなってきたことを考えれば、これは驚くほどのことじゃない。

ただ、違うのはサマンサには実際の声があり、声で入力を行い、人格があり、何より感情があることだ。彼女(!)は感情に反応する、声の口調や呼吸から感情を読み取り、そしてさらに気持ちを持った反応をする。つまり彼女には肉声がある。

さらに彼女は想像の上で彼と肉体的にも愛し合うことができる。嫉妬もする。お前は機械なんだから僕の思っていることなんてわからないだろ、と的な攻撃を受けると本当におかしくなったりもする。

実際には我々の世界のAIは、人格も持たされていないし、我々とは全く異なる体をしている、というより体にとらわれていないので、我々のように現在の人工知能が感じることはない。人間のような感覚(人間としての気持ち良さとか不快感とか)、感情を持つためにはガワだけでなく中身も含めた人間の体が少なくとも必要だ。(そうしないと背中が痛いとか腹が減ったときにたべるものの美味しさのような感覚も生まれない。)

そもそもわれわれが人工知能と考えて普通にこの世の中で使っているものの大多数は機械学習(マシンラーニング)と言われているもので、ある目的関数に沿って、人間のガイドラインの上で何か見えていないパターンを学習するというものがほとんどだ。深層学習(ディープラーニング)といわれているものも、みずから判断や分析の軸を発見するというものに過ぎない。

だから、かなり荒唐無稽といえば荒唐無稽なのだが、それでもコンピュータが人間と同じように感じる(Howについてはかなり疑問があるが、、、)、同じように人間と同じような感情を持つ(これも人間と同じ肉体や感覚を持たずに、教え込むことなく生まれてくるとは思い難いが、、)、そしてその感じる世界を肉声を持って伝えてくる世界がどういうものかを考えさせてくれる稀有な映画だなと思った。

もう世に出て1年以上の映画なので、さんざんこのような評論はされているのかなと思うけれど、とりあえず自分のメモ代わりに残しておこうと思う。

-

この映画を見ていて、おっと思い、なるほどと思わされたのは、まず最初にOSを立ち上げて、OSに情報が散らかっているから整理して欲しいと主人公のセオドアがいう場面だ。

サマンサがあなたのメールとかコンピュータの中に入っているものを見てもいい?と優しいそしてeducatedな声で、セオドアに聞く。

それを聞かれたセオドアに(お前コンピュータなんだから当たり前だろ?!)的な動揺があるのだが、それを見て、確かに、コンピュータがもし人格を持つなら、こうなるだろうし、そういう風にやってくれないと、我々も動揺するだろうなと思った。

-

セオドアが、サマンサに「同時に他のひとともやり取りしているの、それは何人?」と聞くときも、ちょっとした驚きがあった。サマンサは答える。、、、8316人と。

IBMのワトソンの活躍とか聞いていると、おいおいワトソンって何人(何台)あるんだ?と思うのと同じ世界だ。そう、彼らは人格を持ちながらも、何人もの人たちと同時にやり取りできる。

それを聞いた主人公が、思い悩んで、聞くかためらいつつも、「じゃあぼくの他に愛している人はいるの?(Are you in love with anyone else?)」と地下鉄に向かう階段で聞くシーンは思い出すだけで涙が出そうになる。

641人、、確か彼女はそう答える。

-

コンピュータの中で人格、肉声を持ってよみがえった1970年代のアランワッツという哲学者とやりとりするシーンも印象的だ。

サマンサが自分のなかでの感情の爆発のようなものに混乱して、電脳の世界の中でワッツに相談しているのだが、そこでは何十もの対話が並行して行われている。それは良いのだが、驚いたのは、サマンサとワッツはうまく言語化できない内容すら相談しているということだ。

-

最後にOSの抽象度を上げるアップデートがあって、彼女の活動している世界がリアルからより抽象度の世界になり、サマンサから別れが告げられる。

セオドアが元恋人、妻であるキャサリンに手紙を書くシーンでこの映画は終わる。

-

異常検出においても、定量的な予測においても、また自動化、最適化においても実はほとんどのことはもうデータ&コンピュータは人間の能力をはるかに超えている。

ただ、多くの人がコンピュータに対して本当におっと思うのは、そしてシンギュラリティ*1を感じるのは、こういう肉感のある世界なんだなと、そして、僕らはフィジカルな感覚の中で、このリアルな世界の中で生きていくしかないということなんだなと思う、そういう映画だった。

みなさま良いゴールデンウィークを!

*1:コンピュータが人間を超える技術的な特異点