AI native時代の袋小路 ― 見立てる力はどこから来るのか


美山、和歌山、日本
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW


このところずっと頭の中から離れない一つの課題についてここに置けたらと思う。

2月の頭に、「スマイルカーブの終焉と『コ』の字型社会の到来」というブログをポストした。これからサイバー空間で閉じうる領域では、人間に残るのは、ディレクションとダメ出しだけになる、という話だ。

kaz-ataka.hatenablog.com

仮に、そのサイバーに閉じてしまう世界*1の場合、ディレクションを出したり、ダメ出しを行う人は今はいくらでもいる。莫大な経験を積んできた人たちだ。

一方で、現在すでに米国西海岸のエンジニアの世界などで起き始めているのは、この能力がない若い人は要らないという事象だ。急激に熟練Skillの低い新卒の需要が落ちていることは海外で顕在化しつつある。そしてシニア世代 ― いわゆるgray hair ― がAI時代に強いということが起き始めている。*2

Gray hairが現役のうちは社会は何とか回る。彼らが判断の最終防衛線として機能するからだ。しかし、このような形で十分な経験を持たない人たちが大半になった時、そして現在、ディレクションやダメ出しを行っている人たちがいなくなった世界で、一体、だれが舵を取るのだろうか。

ここに、次世代固有のさらに深刻な問題が重なる。次世代は、そもそも判断力そのものを獲得する機会を失う。判断力のない人間が "最後の責任を担う人(responsible person)" の席に座る。彼らはAIの出力を「承認」するが、本質的にそれを判別する身体知を持たない。

責任のクリーニング構造は完成する ― 誰も判断していない、誰も責任を負っていない、しかし社会は何かを決定し続けている、という構造として。

これが、このところずっと僕の頭を離れない問題だ。

判断は経験を蒸留したもの

現在、ディレクションやダメ出しが的確にデキる人(そもそも相当に少ないが)は、ほぼ例外なく、過去に相当量の判断過程を自分で行って来た人たちだ。やってみる。うまく行かない。煮詰まる。トラブルが生まれる。工夫する。三人よれば文殊の知恵が湧いたりする。寝かせてさらに知恵を出す。そんなことの繰り返しの中から、見出してきたポイントや抑えどころがどのような仕事にも大量に存在する。

しかも、一つの目的関数で判断できるような仕事は相当に少ない。実際には、たとえば飲料を自販機で売るみたいなときですら、自販機のロケーションオーナーと、その飲料を買う人のように、複合的な価値の受け手(顧客)が存在し、このバランスを取っていく必要がある。仕事の価値判断は基本、人が行うため、数字的に問題がなくとも、問題があればその案件は終わってしまう。

現場のナマのトラブルや、圧、摩擦を経て判断はこなれていく。これはハードなモノづくりの現場においてもそうだ。生産ラインを歩き回り、どのような調達と搬入過程、また搬出過程であるということをわかりながら、人の導線も見つつ最適化していく。それらはそんなに簡単な話ではない。

また、その中で、莫大なシステムの導入や新たなキカイの導入やプロセスのインプリをしながら人は判断を学んでいく。「これでは回らない」「これではアカン」という判断の後ろにどれだけ多くの経験があるか。その違和感や滑らかさを判断することは実際にはかなり生身的、身体的な活動になる。根本的にサイバーフィジカルシステムの人間版なのだ。

その蓄積が現在のシニア層の見立てや、ディレクション、ダメ出しの母胎になっている。つまり、上流に置かれた判断能力とは、大量の現実のナマの、場合によっては下流の経験を圧縮し、蒸留したものだと言える。

見えない供給システム

考えてみれば、社会はこれまで、判断力の育成を特別に設計してくることはなかった。にもかかわらず、ディレクションやダメ出しのできる人材は、世代を超えて再生産され続けてきた。

なぜか。

それはその判断力は実務の副産物として、ほぼ自動的に育成されてきたからだ*3。それなりにポテンシャルを持つ人間に、一定量の経験を与えれば人間はその能力を身に着けていく。

調達の伝票を切る作業の中で、「この支払いは何かが引っかかる」という感覚が育つ。契約書を読み込んでいるうちに、「この条項のこの一言は危ない」という嗅覚が育つ。現場の段取りを組むうちに、「この組み方では当日朝に必ずなにか問題を起こす」という知覚が育つ。コードを書くうちに、「ここで安易に近道をすると半年後に技術的負債として効いてくる」という知覚に基づく判断基盤が育つ。*4

これらの仕事の表面上の目的は、伝票を切ること、契約書を読むこと、段取りを組むこと、コードを書くことだ。しかし、その作業を通過する過程で、副産物として、見立てる力という社会の命綱が、無償で、ほぼ自動的に育成されていく。

ここで、もう一つ大事なことを書いておきたい。これらの仕事の多くは、本人がもともと「好きで」選び取ったものではない、ということだ。物流、ロジスティックス、調達、与信、品質保証、コンプライアンス、保守運用 ― 社会を実際に回している仕事の大半は、世の中に出るまで多くの人がその存在すら知らず、当然、好きになる機会もないままアサインされる類のものだ。やってみて初めて、その奥行きと面白さに気づく。あるいは、面白いと感じる前に、まずは現場の摩擦を受け、そこで判断の嗅覚を育てていく。

近年、若い世代に対して「好きを極めよ」「情熱を持てる仕事を見つけよ」という言葉がよく語られる。それ自体は悪いことではない。しかし、判断力の育成という観点から見ると、「好き」を入り口に据える発想だけでは決定的に足りない。なぜなら、社会の根幹を支える仕事の多くは、好きになる以前に、まず存在を知ることすらないからだ。そして、その「存在すら知らなかった仕事」に放り込まれて格闘した経験こそが、後に他の領域に転用できる判断力を生む。好きなことだけをやって育った人間は、好きなことについては詳しくなる。しかし、ディレクションやダメ出しに必要な、領域を越えて働く嗅覚は、必ずしもそこからは育たない。

これは、徒弟制度、丁稚奉公、OJTと呼ばれてきた人類が長らく無自覚に使ってきた知性継承の仕組みだ。誰も明示的に設計したわけではないが、社会のシステムとしてそうなっていた。仕事を回せば人が育つ。人が育てば仕事が回る。この循環の中に、社会の知的再生産が組み込まれていた。そしてその循環は、「本人が好きかどうか」とは独立に作動していた。

パイプラインが断ち切られるとき

ところが、コの字型社会への移行は、この副産物のパイプラインそのものを断ち切る。

最初からAIに包まれて育つ世代は、現場で「摩擦」を受けることがない。制約の中で、ヒリヒリする極限的な環境の中で、見極め、判断する経験を持たない状態になる。

伝票は切らなくていい。契約書は読まなくていい。段取りはAIが組む。最初のコードはAIが書く。これらの主要作業であった「中間工程」がきれいに消えていく。これは確かに生産性の観点では大きな前進だ。しかし同時に、社会がこれまで何百年もかけて無自覚に使ってきた、見立てる力の育成回路そのものを失うということでもある。

コの字型の論考では、人間は例外的な問題だけを対応する社会、言ってみれば修羅場対応に特化することになる、という話をしたが、その修羅場対応は多くの現場ではより的確な判断を行うシニアがやることになる。平常の仕事すら任せられない若手にそれをいきなりさせるというのは、訓練なき状態でリアルな戦場に放り込まれるのと同じだからだ。

その結果、生まれてくるのは、もっともらしい言葉を(キカイの力を使って)発することはできるが、現実には何も判断できない、本当の意味では何も回せない人たちになる。形だけのディレクション、形だけのダメだし、形だけの最終責任。中身は当然のことながら空洞になる。

現在は最初の表面化にすぎない

冒頭で書いた、西海岸で熟練Skillの低い新卒の需要が落ちているという話は、この構造変化の最初の表面化にすぎない。本当に怖いのは、その新卒たちが10年後、20年後にどう育つのか、誰も答えを持っていないことだ。伝票を切らせなくていい時代に、何によって若手の判断の嗅覚を育てるのか。コードを最初から書かせなくていい時代に、何によって若手に技術的負債の痛みを経験させるのか。

このパイプラインは、これまで「ただ存在していた」がゆえに、改めて設計するという発想すら生まれてこなかった。気づいた時には消えている、というのが副産物の宿命だ。これは個人の能力発達の問題であるだけではない。社会全体で本当の意味での深い知性をどのように育成し、担保し続けるのか、という問題だ。

本当のジレンマ

しかし、この変化が本当に厄介なのは、誰かが愚かだから起きるわけではない、という点だ。

むしろ逆である。

AIを徹底的に使い倒した組織や個人ほど、短期的には強くなる。伝票処理も、契約レビューも、コード生成も、マーケ施策立案も、AIを深く組み込んだ側が、速度でもコストでも競争優位に立つ。現場レベルで見れば、「AIを使わない」という選択は、もはや合理的ではない。

つまり、各組織・各個人が合理的に振る舞った結果として、社会全体では「見立てる力」の育成回路が消えていく。これは典型的な局所合理性と全体合理性の衝突だ。

若手に時間をかけて伝票を切らせる。コードを書かせる。契約書を読ませる。段取りを組ませる。短期的には非効率でしかない。AIにやらせた方が速いし、安いし、品質も安定する。しかし、その非効率の中でしか育たない判断力がある。

だから問題は、「AIを使うか、使わないか」ではない。使わなければ競争に負ける。しかし、使い方を誤れば、社会は長期的に判断力を失う。

ここに、AI native時代の最も深いジレンマがある。
これは単なる教育論でも、若者論でもない。

観察では届かない

ここで、次のようなことを言う人もいるだろう。

「いやそれでも、見立てる力の源泉は、必ずしも自分で全部やった経験ではないのではないか。鷹匠は自分で空を飛ばない。外科の教授は最新術式を全部自分で執刀しているわけではない。優れた編集者は自分で全部の作品を書いてはいない。だとすれば、AIの出力を大量に観察し、批評し、修正する経験は、それ自体が新しい形の経験蓄積になり得るのではないか」

実際、僕自身も、いまの自分の見立てる力の多くは、たしかに色々やっては来たことから育った部分が大きい。しかし、何もかも自分でやってきたわけでもない。大きいのは、大量に現場で観察し、学び、比べ、引っかかりを感じ、なるほどという背後の仕組みや動き方について理解を深めてきたことの積み重ねだ。なので「全部自分で手を動かさなければ、見立てができる力は育たない」というシンプルな主張は正しくない。

しかし、ここからが本当に大事なところなのだが、観察によって見立てる力が育つには、絶対的な前提条件がある。それは、観察する側の身体に、すでに染み込んだナマで多様な経験が相当量存在することだ。

ある領域で高い判断力を持つ人が人の仕事を見て即座に「これは違う」と感じられるのは、若い頃に自分の手で実装し、現場で失敗し、痛い目に遭った経験 ― 言ってみれば身体知 ― が身体の側に残っているからだ。その身体知が観察の解像度を作っている。だからこそ他者の経験を「自分のこと」として咀嚼でき、比較でき、違和感を持つことができる。

外科の専門医が最新の術式を見て、抑えどころが見抜けるのは、若い頃から自らの手で多くの手術を経験し、想定外のトラブルも色々起き、それをさばき、時には失敗もし、救えなかった夜も経験してきたからだ。大学の演習ぐらいでしか手を動かしたことのない人が同じ術式を見ても、何が優れていて、何がリスキーなのか、この辺がポイントなんだなということは見えやしない。すぐれた編集者が原稿を見て、ここを大きく見直しましょう、とドンと見抜けるのも、長年、テキストを形にする中で、しびれ、考え抜いてきた経験が身体に染み込んでいるからだ。その経験がない人間が観察をしても、違いは見えてこない。

判断の空洞化

AIが人の育成現場で与件となってしまう世界の到来が本当に恐ろしいのは、まさにこの最初のナマ経験すらスキップさせかねないという点だ。

実装したことのない人間が、AIの出すコードを「批評」する。契約書を一度も書いたことがない人間が、AIの出す契約書案を「承認」する。現場に立ったことのない人間が、AIの出す段取りを「判断」する。顧客と向き合ったことのない人間が、AIの出すマーケ施策を「決裁」する。

形式上、批評・承認・判断・決裁は成立している。しかし中身は何もない。なぜなら、何が良くて何が違うのかを判別する身体側の根拠が、そもそも存在しないからだ。

本人にも周囲にも、見立てが空洞であることが見えない。形式は完璧に整っている。アウトプットは出ている。組織は回っているように見える。会議は進行している。決裁印は押されている。

しかしそこで下されている「判断」は判断ではない。AIへの追認にすぎない。そして、追認している本人すら、自分が追認しているだけだということに気づかない。なぜなら、追認と判断を見分ける身体側の物差しを持っていないからだ。

ここに、コの字型社会の最も深い問題がある。これはかつて書いた『責任のクリーニング構造』 ― いや、『責任の漂白構造』といっていいかもしれない ― が、次世代に⾄って完成する姿だ。

ではどうするか

ではどうするか。打つべき手は、おそらく三つの層に分かれる。

第一は、教育における「人間が通過すべきプロセス」の再設計だ。教育の目標を、アウトプット効率ではなく、知性形成プロセスそのものに置き直す。具体的には、若い世代に「AIに任せてもいいこと」と「自分で苦労してでも通過すべきこと」を意図的に分離する規範をつくる。スポーツでウェイトトレーニングを「効率が悪いからやらない」とは言わない。判断力の筋トレとして、わざわざ非効率なルートを残す。それが社会的に合意されている必要がある。そう、これはAIを排除するのでも、AIに任せるのでもなく、人間が通過すべきプロセスを意図的に守る設計だ。あわせて、「好きなこと」だけを入り口にせず、本人がまだ存在すら知らない領域に意図的に放り込む経験を残すこと ― これも社会的に守るべき設計の一部だ。

第二は、組織における判断力育成を意図的に設計しなおすことだ。これまで実務の副産物として無償で得られていた判断力育成を、AIに作業を奪われた後の世界で、意図的に作り直す。若手にあえて責任を背負わせる場を作る*5。AI出力の批評・修正・再設計をスキルとして体系的に訓練する。gray hair世代の判断パターンを、単なるノウハウではなく「どんな兆候を見て、どう疑い、どう確かめるか」という判断プロセスとして言語化し、継承する。データサイエンティスト協会のスキル定義v6で、僕らが「価値創造リーダー/デザイナー」という新しい役割を打ち出しているのも、ここに踏み込む試みだ。*6

第三は、AIの届かない領域 ― 「閉じない世界」 ― を意識的に残すこと*7。物質、身体、時間の一回性の中にしか成立しない経験。育児、介護、職人仕事、自然との関係、現場の身体労働。これらは構造としてAIが最も触れにくい領域であり、同時に、人間の判断力の最初のナマ経験が育つ最後の砦でもある。僕らが取り組んでいる「風の谷をつくる」運動も、結局のところこの話と地続きだ*8。都市最適化アルゴリズムが導き出す「効率的な生」から一歩外れ、自分の身体で世界に触れる場を残すこと ― それは単なる地域論ではなく、次世代の判断力を育てる土壌を社会的に残す試みでもある。

最後に残るもの

AI時代に最後まで価値を持つのは、おそらく単なる知識ではない。「現実と長期間格闘した痕跡」だ。その痕跡なしには、本物の判断力は育たない。判断力なしには、AIをどう使うかも、最適化関数をどう書き換えるかも、決められない。*9

僕らがいま打つべき手は、これからますます高度化するAIを使いこなす技術を磨くことではない。AI時代にも人間が現実と格闘し続けるための仕掛けを、教育と組織と社会の作りのすべてのレイヤーで設計し直すことだ。地味で、面倒で、すぐには成果の出ない仕事だ。

しかし、ここで手を打たなければ、社会は確実に痩せる。
そしてその痩せ方は、しばらくの間、誰にも見えない。

これが大きな分岐点となることをしっかりと意識し、未来に向けて仕込んでいけるか、それが今、僕らに問われている。


ps. 英語版はこちら:
“Where Does Judgment Come From? — The Hidden Dead End of the AI Native Era”
medium.com

*1:特に顧客フロントでも、商品やサービスを開発するバックエンドでもない世界、いってみればミドル領域

*2:実際、海外のAI専門ベンチャーの動向を見ても、数万人規模の熟練専門家を破格の条件で雇用してAIの教育(ディレクションの模範)を行わせる企業が急成長する一方、市場では22〜25歳層のエンジニア・フリーランサーの雇用が急速に失われ、経験に基づく「仕様定義・ディレクション能力」を持たない若年層の需要低下が顕在化している。Lodefalk, M., Löthman, L., Koch, M., & Engberg, E. (2026). Same storm, different boats: Generative AI and the age gradient in hiring (Working Paper, No. 2/2026). Örebro University School of Business. Available at: https://hdl.handle.net/10419/339320 他を参考

*3:少なくともこの中で気づく力の高いリーダー層はそうなる。そうではない人は、リーダー層の知恵を型紙化してもらい、それを学習することになる

*4:これらの業務の多くはそもそもその世の中に存在していたのかすら、その個人はアサインされるまで知らなかったりする。が、しかし、そのような経験を積んでいくうちにSkillは育っていく。

*5:昨年年始に落合陽一氏と対談した際、「修羅場 with AI」というフレーズが出てきた。これは、AIを取り上げて若手を素手で修羅場に放り込むのでもなく、AIに任せて修羅場そのものを回避させるのでもなく、AIを使いながら本物の修羅場を一緒にくぐらせる、という発想だ。氏が小中学生向けのワークショップで実際に試しているのは、AIと共に考えなければ完了しない難度の課題で、そうした課題を与えられた子供たちはむしろ「キラキラしてくる」という。これは、AI時代の判断力育成の方向性を示す重要な手がかりだと思う。(参考)「超イヤな世界が待っている」死にたくてもAIが生き続ける…人間をどうスクリーニングする?2060年の世界大予測【安宅和人×落合陽一】NewsPicks /ニューズピックス https://www.youtube.com/watch?v=h153FOAJ5tU

*6:www.datascientist.or.jp

*7:kaz-ataka.hatenablog.com

*8:

aworthytomorrow.org

*9:最適化関数の話については以下の論考をご参考。 kaz-ataka.hatenablog.com