知性は、どう育っていくのか


海士町 隠岐
Leica M10P, 50mm f/1.4 Summilux ASPH, RAW


先日の講義で学生からもらった質問について、前編に続いて残り4つの問いを考えてみたい。(前編はこちら

  • 「内発的な問い」は、どの瞬間に生まれるのか?

  • 教育は、どこまで問いを与え、どこから手放すべきか?
  • 不安は「消すべきもの」なのか、「抱えたまま進むもの」なのか?

  • 生体験と市場評価(食っていく力)は、どこで接続されるのか?

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問いは、思考からではなく「知覚のズレ」から生まれる

自分の心に自然に浮かぶ「内発的な問いを立てよう」と言われることは多い。でも、そんなことを言われても、問いは「立てよう」とした瞬間には、ほとんど生まれることはない。

これが事業だとか社会変革を主語とした課題解決の現場であれば、〇〇を〇〇したい、という目的意識があるので、あるべき姿とのギャップなり、あるべき姿(つまりビジョン)を描くなりという答えを出すべき課題を更に具体化できるが、これは内発的な問いとは言い難いものだ。むしろ、「〇〇を〇〇したい」が内発的な問いに近いだろう。

ではそういうプロジェクト的な世界ではない場合、多くの場合、先にあるのは、違和感、納得できなさ、なんともいえない引っかかり、身体や感情の反応だ。あとから言葉が追いついてきて、「あれは問いだったのか」と気づくものだ。

問いは思考から生まれるのではなく、知覚や感情から遅れて立ち上がるものだ。


教育は問いを与える仕事ではない

「教育とは何か」はかなり大きな問いであるため、ここでは割愛するが*1、人を育てる現場、教育現場は天下り式に情報を流し込む場ではない。これが上手い人がすばらしい教育者なわけでもない。

では、教育は問いを与える場だ、と思われがちだが、それは半分しか正しくない。

問いを与えることが必要なフェーズは確かにある。その対象となっているテーマに対して、まだどこに違和感が潜んでいるのかがわからない段階では、確かに「問い」は有効な補助線になる。

しかし、その一人ひとりが、自分なりに違和感を感じ始めた瞬間からは、「問い」を与え続けることは、むしろ思考を奪う行為になる。

良い教育とは、問いを与え続けることではなく、問いを手放しても大丈夫な地点までその一人ひとりを連れて行くことだと思う。


不安は、消すものではない

不安についても同じことが言える。

不安は「まだ分かっていない」「まだ慣れていない」という知覚のサインだ。なので、これは新しいことに挑戦していることを示す半ばしるしであり、悪いことではない。そもそも新しいことをするときになんの不安も感じないというのは、相当にリスクの高い体質だ。その生存本能があるので、僕らの先祖はうまく生き延びてきた。

したがって、不安を消してから進もうとすると、いつまで経っても進むことができなくなる。多くの人が行動できなくなるのは、不安があるからではなく、不安があっていけないと思っているからだ。

成長している人、挑戦している人は、不安がないひとではない。不安を抱えたまま、小さく進むことに慣れているだけだ。

たとえばあまり慣れないオーディエンスの前で、慣れないテーマで話すことがあったとする。そんな時、なんの不安も、緊張も感じない人が素晴らしい話をすることはあるだろうか。むしろその適度な緊張感が想定外のパフォーマンスを生み出すものだ。


生体験は、直接は市場価値にならない

最後に、生体験と世の中、市場の評価の話。ナマの体験そのものが、すぐに市場価値になることはほとんどない。

評価されるのは体験の量ではなく、体験によって、他の人には見えない違いを見分けられるようになったか、言葉になるまえの兆しに気付けるようになったか。

つまり、生体験が世界の見え方の変化に変換されたときに、はじめて価値になる。とはいえ、これが知覚から知性、価値に変わる起点であることには変わりがない。

即物的な効用を求める人は多いが、こと知性に関わることであれば、そんなものはないと思ったほうがいい。ガタガタ言わず、何かが起きるその現場に出向き、そして全身で感じ、人と話し、モノと触れ合ってみることだ。

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学生諸氏からあがってきたこれらの問いはすべて、「何を学ぶか」ではなく、「世界とどう接続するか」という問いだ。

今日、明日で答えが出る必要はない。ただ、この問いをどこかに抱えたまま世界を歩き続けられるかどうかで、数年後、見えてくる景色は確実に変わる。

知性の厚みは、おそらくそういう時間の積み重ねの中で、気づかないうちに、静かに形を持ちはじめるものなのだろう。


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※本稿の英語版を Medium に公開しています。
日本語とは異なる読者を想定し、構成と表現を調整しています。

▶︎ English version on Medium:
medium.com

*1:これについて興味のある方は、相当に深く掘り下げた近著『風の谷という希望』の第12章 谷をつくる人をつくる、をご参照いただきたい。

知性は、どこで立ち上がるのか


まだ言葉になる前の、かすかな兆し。
Leica M7, 50mm f/1.4 Summilux, RDP III
駒沢オリンピック公園

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原文を英文で書いたブログ(以下のMedium連載)の翻訳が続いたので、いつもながらの日本語オリジナルなブログも書けたらと思う。

medium.com

僕が大学で担当している講義(ゼミではない)の一つでは、自然言語処理機械学習や深層学習、LLM、AI的な議論と共に、並行して「知性とは何か」「知性の本質」についての議論を少しずつしている*1

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そんな中で、先日、返されてきたコメント群から以下のような問いが浮かんできた。

  • アウトプットが「知覚を鍛える」とは、具体的に何が変わることなのか?
  • 「気づき」は意図的につくれるのか、それとも偶然起こるものなのか?

  • 「内発的な問い」は、どの瞬間に生まれるのか?

  • 教育は、どこまで問いを与え、どこから手放すべきか?

  • 不安は「消すべきもの」なのか、「抱えたまま進むもの」なのか?

  • 生体験と市場評価(食っていく力)は、どこで接続されるのか?

これらはある種、一つの軸でつながった問いの群だということが言える。それは一言で言うならば、「知性はどこで生まれ、どのように育ち、どのようにして社会と接続されるのか」という問いだ。

そこでコメントしたことをベースに備忘録的に一つここに残しておこう。問いの前提となる議論をスキップしているので、もしかすると少し首を傾げられるかもしれないが、そこはご容赦いただければと思う。

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アウトプットというと、「説明できるようになること」「言語化すること」だと思われがちだ。

何らかの引っ掛かりや言いたいこと、自分なりの気づきがあるので、人は表現するわけだが、そのアウトプット行為によって変わるのは当然のことながら知識量ではない。

アウトプット行為、すなわち何に気づくのか、どこに違和感や自分なりの気づきがあったのかをcrystallizeする中で変わるのは、世界の切り取り方、切り取る一つのアプローチが生まれることだ。

言葉や絵にしようとする瞬間に、ここは実はよく見切れていなかった、曖昧で掴みきれていなかった、などという気づきが起きる。それを乗り越えていく、すなわち、自分が何を言おうとしているのか、表現しようとしている対象の見極めが行われ、本当の引っ掛かりが形になってくる中で起きるのは、世界の切り取り方における自分なりの進化だ。

この「わからなさが見えるようになる」ことは、まさに知覚が鍛えられている状態だ。

「作家は一言半句ですね」*2という川端康成氏の言葉が、若き日に直接この言葉を聞いた開高健氏によって残されているが、ある人によって新しく生み出される言葉は、その人なりの「つかみ」の記録と言える。

つまり、アウトプットは、表現以前に「知覚の訓練」である。

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つぎに「気づき」について考えてみよう。

『シン・ニホン』『風の谷という希望』などの拙著でも書いてきたことだが、僕は人間の成長において「気づき」をとても重視している。ここで「気づき」という言葉で意味しているのは、聞いたり読んだりして、知らなかったことを知ることとは違う。新しく体験することで得る情報を刺激として、自分の頭の中にある新旧の情報の間に関連性、または気づいていなかったメタな意味あいを見出すことだ。

たとえば、僕ら、風の谷の検討メンバーはかつて、災害やパンデミックからの防御という意味で「開疎」(かいそ:開かれた疎)という概念を生み出したが、その後、並行して検討してきた景観(landscape)の基礎要件、また、文化・価値創造を生み出すための基礎要件にもこの「開かれた疎」という概念が大切であることに気づいた。全く関係がないかのように見える領域であるにも関わらずだ。


kaz-ataka.hatenablog.com


この情報間のあたらしい「つながり」を見出し、それを更にメタ化する「気づき」は通常、ほぼ想定しようのないタイミングで、驚きとともに起きる。「ああ、そうだったのか!」と。この理解が一気につながる瞬間、「気づき」は、努力の直線的な延長で起きるものではない。

そういう意味で「気づき」は多くの場合は偶然起きる。

しかしながら、人によって気づきの質と量には随分と違いがあるのは確かだ。ということは、偶然が起きやすい条件は存在し、偶然が起きる確率を上げることはできるということなのではないだろうか。

気づきの多い人を観察して共通しているのは、同じ問いをもったまま時間をまたいでずっと(無意識に)考え続けていること、そして異なる文脈(講義、日常、体験など)に何度も触れていることだ。

この問い、すなわち問題意識の「軸」をもたずに大量にインプットしても、気づきは起きにくい。逆に、軸をもって世界を歩いていると、ある日、ある瞬間に突然、別々だった点がつながる。ユーリカ(Eureka)の瞬間だ。

気づきは「作る」ものではなく、起きる準備をするものなのだと思う。

小さな違和感や引っかかりを見過ごさず、メモでもいいから言葉にしておくこと。頭だけで考えるのではなく、実際に足を運び、手を動かし、五感で世界に触れ続けることが重要だ。生体験の蓄積が、抽象的な思考と結びついた時に、深い気づきが生まれる。

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かなり濃い内容なので一旦ここで区切り、また余力があれば他の問いについての議論も共有したい。

みなさま、良い連休を!


(後編はこちら


ps. 知性議論にご興味のある方はこちらをご参照ください。「シンニホン」でもこの簡略版を、さらに「風の谷という希望」第12章ではこれを前提とした人の育成についてさらに掘り下げています。

*1:毎回、アンケートを取り、結構な量のフィードバックをもらっている。そこから教育的な価値があると思うもの、みんなで議論する価値があると思うものをそれなりに取り上げて、僕なりに答えるというのが毎回の流儀だ。

*2:新人作家の作品の価値は、その人なりの「一言半句(いちごんはんく)」があるかどうかだ、の意味

Disaster-Ready:停止状態に陥らない社会をデザインする

本稿は従来の持続可能性の枠組みを超えた社会の存続可能性を探求するMedium連載"Designing for Viability"(存続可能性のためのデザイン)シリーズ第5回を、日本語読者向けに翻訳したものです。前号より続く。

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生存は即興ではなく、デザインされるものである



Tuscany, near Montepulciano — 機能し続ける景観
Leica M7 / Summilux 50mm f1.4 / Fujichrome RDPIII


災害と聞いて、多くの人が思い浮かべるもの

人は「disaster(災害)」という言葉を聞くと、たいてい対応(response)を思い浮かべる。

  • 緊急マニュアル
  • 支援物資のロジスティクス
  • 初動対応
  • 極限状態での英雄的行為

などだ。しかし、disaster-ready は対応戦略ではない。
それは社会の設計特性(design property)である。

Disaster-ready な社会とは、
仮に災害が起きても、機能し続ける社会のことだ。

この一文が、本稿の核心である。


Disaster-ready とは何か

Disaster-ready とは、被害を回避することではない。
機能不全(failure)*1を防ぐことでもない。

それはもっと正確には、次のことを意味する。

機能不全が、社会全体の完全停止に転じないよう設計すること。

Disaster-ready な社会では、

  • システムは部分的に機能不全に陥るかもしれないが、同時にすべてが止まることはない
  • サービスは低下するかもしれないが、消滅することはない
  • 人々は生き延びるために英雄的な行動を求められることはない

社会は機能し続ける——不完全で、不均一ではあるが、十分に。


Disaster-ready では「ない」もの

Disaster-ready は、しばしば preparedness(備え)と混同される。

Preparedness が重視するのは行動だ。

これらは重要だが、いずれも「機能不全が起きた後」の話である。

Disaster-ready が問うのは「構造」である。

問いはこう変わる。

システムが機能不全に陥ったとき、何がなお機能し続けるのか。

もし答えが「何もない」なら、その社会は最初から disaster-ready ではなかったと言わざるを得ない。


なぜ現代社会は、この試練に弱いのか

現代の多くの社会システムは、効率性を上げるべく設計されている。

前提はこうだ。

  • 連続的に稼働すること
  • 条件が安定していること
  • 想定可能な範囲での攪乱

平常時には高いパフォーマンスを発揮する。
しかし同時に、隠れた脆弱性を抱え込む。

効率を上げるために高度に最適化された社会システムは、

  • 徐々にではなく、突然壊れる
  • 単一障害点に依存する
  • 前提条件を超えると一気に崩壊する

しかし、効率は、手遅れになるまで脆さを覆い隠す*2

災害はこうした欠陥を生み出すわけではない。
単にそれを露呈するだけだ。

だから問題は、「災害をどう防ぐか」ではなく、「露呈した欠陥を前提に、社会をどう組み直すか」になる。


部分的機能不全を前提に設計する

従来の社会システムの設計思想はこう問う。
どうすれば機能不全をゼロにできるか?

Disaster-ready な設計は、より現実的な問いを立てる。
機能不全が生じた状態で、どう生き延びるか?

ここでは、崩壊は起こるものとして受け入れる。
目標は「機能不全ゼロ」ではない。機能不全の限定である。

重要な原則は次の通りだ。

  • 単一障害点をつくらない
  • 冗長性を層として持つ
  • ローカルな代替手段を確保する
  • 不均一でも生存可能な劣化を許容する

言い換えれば、
disaster-readyな社会とは、機能不全が局所に留まり、全体に伝播しない社会だ。


ライフラインは消えてはならない

ある種の機能は「利便(conveniences)」ではない。ライフライン(lifeline)である。

  • 電力
  • 通信

Disaster-ready な系では、ライフラインは三つの原則に従う。

  • 完全停止しない
  • 破損しても素早く回復する
  • 崩壊ではなく、穏やかに劣化する

これは快適さの話ではない。
社会を、生かし続けるための条件の話である。


Disaster-readyになるには、災害の種類の分類では足りない

僕たちは災害を、種類で語りがちだ。

しかし、生存を左右するのは災害の種類名ではない。

人がどう死ぬかである。

相当に異質な災害であっても、死亡原因は多くが3つに絞られる。

  • 焼死
  • 圧死
  • 溺死

これは道徳の問題ではない。設計の問題である。Disaster-ready な空間設計は、
災害が起きてからの英雄的対応ではなく、予測可能な死因を事前に削れるだけ削ることに焦点を当てる。


Disaster-ready は日常の中にある

Disaster-ready は、スイッチを入れるものではない。
「非常時モード」でもない。

それは、日常の延長として災害発生が織り込まれた状態だ。たとえば

  • 突如グリッドから切り離されても動き続けるエネルギーシステム
  • 通信帯域が急に細くなっても機能する通信システム
  • 相当の機能が破壊されても動き続ける医療システム
  • 精密に食料が届くことよりも、余白を持ち異常に対応できる食料システム

これらは、危機のためだけに存在するのではない。
平時においても空間が受けるストレスや脆弱性も同時に下げる。


サステナビリティから Viability へ

今日のサステナビリティ議論の多くは、連続性を前提としている。

しかし災害は、そもそも、連続性を破壊するものだ。

だから、持続可能性だけでは足りないのだ。


存続可能性(viability)なき持続可能性(sustainability)は意味を持たない。

Disaster-ready な設計とは、
既存のシステムの破壊(disruption)、不確実性、様々な機能などの喪失の中であっても、社会が存続し続けるための方法だ。


そして、これは災害の話ではない

これは、地震の話ではない。

洪水の話でも、パンデミックの話でもない。

これは、次のような恒常的制約の下で生きる社会の話だ。

  • 人口の高齢化
  • エネルギー供給の制約
  • 気候の不安定化

Disaster-ready とは、生存のための空間設計思想である。

本当の問いは、「災害にどう対応するか」ではない。
災害が不可避に起きる世界で、
止まらない社会をどう設計するかだ。


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注)本稿は、拙著
『風の谷という希望――残すに値する未来をつくる』(英治出版、2025)
特に第5章をもとに再構成・発展させたものです。詳しくは本書をご覧ください。

*1:本稿で言う「機能不全」とは、判断ミスや責任の問題ではなく、社会システムの一部が設計上・構造上、機能しなくなる状態を指す。

*2:高度に集中したシステムは、段階的に壊れるのではなく、破局的に停止しやすい。

開疎化:孤立なき疎な系をデザインする

本稿は従来の持続可能性の枠組みを超えた社会の存続可能性を探求するMedium連載"Designing for Viability"(存続可能性のためのデザイン)シリーズ第4回を、日本語読者向けに翻訳したものです。第3回(日本語版)はこちら。

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「疎であること」はしばしば誤解されている。前回の論考で、僕は不連続な衝撃(shock)がもはや稀ではなくなったとき、密度は脆弱性を増幅すると論じた。

人々が「疎」という言葉を聞くと、孤立、衰退、分断──歴史に取り残された場所──を想像しがちだ。対照的に、密度は強さの象徴と見なされる。効率的で、生産的で、強靭であると。

この前提は、もはや成り立たない。

パンデミック、気候災害、エネルギー制約がもはや例外的ではなく構造的となった世界では、密度は脆弱性を増幅する。いま問われているのは、密か疎ではない。開いているか、閉じているか、である。

ここから「開疎化」が始まる。


問題は疎であることではなく、疎が閉じていること

現代の社会デザインにおける最も根強い誤解の一つは、密度と接続性(connectivity)が不可分であるという信念だ。
それは誤りだ。

密度は、人々、インフラ、制度がどれほど密集しているかを表す。接続性は、情報、エネルギー、ケア、学習、物資、そして人々そのものが、いかに流動的に移動するかを表す。

長い間、都市は密度と接続性の両方を備えているように見えてきた。しかしこれは自然の法則ではなかった。歴史的な偶然に過ぎなかったのである。

エネルギーが安価で、移動が摩擦なく、システムが安定している限り、密度と接続性は互いに強化し合っていた。その偶然はもはや成立しない。

疎なシステムはしばしば、密なシステムの劣化版——効率も能力も低い——と見なされることが多い。

しかしこの見方は、単一の指標に形作られたものだ。ピーク時の性能(peak performance)である。



開いているが混雑せず──接続されているが密ではない谷
Lake District, England
Leica M7 · Summilux 50mm f/1.4 · Fujifilm RDPIII


密なシステムは、安定した条件下でのアウトプットの最大化に優れている。
疎なシステムは別の点で優れている:衝撃を吸収することだ。

不連続な衝撃がもはや稀でなくなったとき、ピーク効率(peak efficiency)よりも、生き残れるかどうか(survivability)のほうが、はるかに重要になる。

疎なシステムには、次のような特徴が現れやすい:

  • より緩やかな結合
  • 部分的な自律性
  • 局所的的なトラブルへの耐性

それらは一気に崩壊する代わりに、しなりながら対応する。


開放性とは規模ではない — それは透過性である

もう一つのよくある誤解は、開放性を規模(scale)と同一視することだ。

大規模なシステムは開放的だと考えられがちだ。小規模なシステムは閉鎖的だと考えられがちだ。
これもまた誤りである。

開放性は規模の問題ではない。それは透過性(permeability)の問題である。

開放的なシステムは内と外の間の行き来を許容する。

  • 人々が出入りできる
  • 情報が循環する
  • 学習が蓄積される
  • 資源が捕捉されることなく移動する

小さな系でも十分に開放的(open)であり得る。巨大な系でも事実上閉じたまま(closed)であり得る。

重要なのは対象の系(system)の大きさではなく、その系がどれだけ自然に「呼吸」できるか(how easily it breathes)である。


開放×疎である空間をデザインする

社会を2つの軸を持つデザイン空間として考えてみよう。

  • 密 ↔ 疎
  • 密閉(Closed/Contact) ↔ 開放(Open/Non-contact)

従来の都市化は、密×密閉の象限に機能を集中させた。

開放的な疎(「開疎」)は、意図的に活動を開放×疎の象限へとシフトさせる。



(これは概念的なスケッチではなく、実際の制約から導き出された設計空間である。)


開疎化は都市を放棄することを意味するのではない。機能、リズム、フローを再配分することで、以下を実現することを意味している。

  • 人々が物理的に集まる必要がない
  • 直接のやり取りがデフォルトではない
  • そして系が混雑することなく人と人が繋がった(connected)状態を保つ

ランダムな散布(scattering)でも、断片化でも、孤立でもない。
開疎化は、意図された設計の選択である。

それは、いくらかのピーク効率を手放す代わりに、次のものを得る設計である。

  • 吸収する力
  • 回復する力
  • 長期的な存続可能性

失敗は部分的なままに留まる。回復経路は複数残る。単一のノードがシステム全体の存続の重荷を背負うことはない。


つくね型からぶどう型へ

空間構造は重要だ。

密な都市システムはしばしば「つくね」に似ている。多くの機能が同じ回廊に沿って積み重なり、時間的かつ空間的に同期している。

開疎な系は異なった形をしている。ぶどう型だ。

分散されたノード、緩やかにつながりあい、つながりの間に複数の経路がある。

この構造は、

  • 連鎖的なトラブルの発生を抑制する
  • 系全体の崩壊(total collapse)なしに部分的な活動停止を可能にする
  • 孤立することなく局所的な自律性を実現する

つながりは保たれる──しかし依存性は減少する。


開疎性は3つの意味を持つ

開疎性は単一の概念ではない。それは少なくとも3つの異なる次元を持ち、それぞれが異なる種類の脆弱性に対処する。

1. 保護的な開疎性(パンデミックと災害)
これは最も目に見えやすい形態である。
開放的で疎な活動パターンは以下を低減する:

非接触型フロー、屋外空間、分散型の物流 (logistics) 、非同期型の業務は一時的な適応策ではない。これらは、不連続な衝撃が常態化した世界のための設計要素 (design features) だ。

2. 環境的開疎性(風・景観・快適性)

都市がしばしば見落とす「開かれていること」のもう一つの意味がある:空気、風、そして眺望だ。

開放的で疎らな空間は:

  • 風の通り抜けを可能にする
  • 熱の蓄積を軽減する
  • 視覚的な奥行きと景観の連続性を保つ

これは単なる美的贅沢 (aesthetic luxury) ではない。居住性、エネルギー使用、長期的な健康に直接影響する。

我々が美しい景観と呼ぶものは、構造的には開疎性 (open-sparsity) の表現といえる。

3. 文化的開疎性(才能と変化を吸収する能力)

第三の次元は目立たないが、おそらく最も深い。

密閉された閉鎖的なシステムは、物理的にだけでなく文化的にも脆弱である。

外部からの才能——人材、産業、伝統——を、断絶なく吸収することに苦労する。その結果、変化と成長に必要な多様性と能力の流入そのものを失う。

開疎なシステムは異なる振る舞いを見せる。新たな要素を即座の混乱なく受け入れられ、記憶、不連続性、再解釈の余地を残す。

この開放性は既存のものを消し去らない。むしろ、強制的な統合なしに新旧の共存を可能にする。
崩壊や画一化を招くことなく外部者を受け入れる能力——それ自体が文化的レジリエンスの一形態といえる。



設計変数としての疎

明確にしておきたいのは、開疎化とは、都市の衰退でも、都市からの撤退でも、ノスタルジアでもない、ということだ。反都市的な議論でもない。

開疎化は、「疎であること」を空間の診断として扱うのではなく、設計のための変数として扱う。

もはや問われるべきなのは、
「いかに効率的に集中するか?」ではない。

問われているのは、
「不確実性のもとで、社会がいかに成立し続けられるか?」
という問いである。


最適化から存続可能性へ

最適化は安定した条件を前提とする。
存続可能性は変化を前提とする。

開疎化は社会設計の目標を転換する:
スループットの最大化から、
不確実性下での機能維持へ。

開疎化は都市を否定するものではない。
開疎化は都市をより大きく、より浸透性の高いシステムの一部として再定義する — 呼吸し、適応し、耐え抜くシステムとして。

次の論考では、この論理をさらに拡張する:
災害対応を緊急措置ではなく、設計原則として捉えること。

存続可能性は反応速度の速さではなく、より穏やかな失敗によって達成される。なぜならレジリエンスも、スパース性と同様、必要になる前に設計されねばならないからだ。


次号に続く)
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注)本稿は『風の谷という希望』にまとめたこの8年間の「風の谷をつくる」運動で行ってきた検討、研究に基づいています。詳しくは本書(特に第5章、第7章)をご覧下さい。

都市集中という「隠れた」システミック・リスク

この連載では、従来語られてきた「持続可能性(サステナビリティ)」という枠組みを一度外し、社会がそもそも“壊れずに成り立ち続けられるのか(viableであり続けられるのか)”という問いから、社会設計を考え直しています。


Shibuya Station area, Tokyo — ongoing large-scale redevelopment.
Leica M10-P · Summilux-M 50mm f/1.4 ASPH · RAW

※本稿は、Medium連載"Designing for Viability"シリーズ第3弾を、日本語読者向けに翻訳したものです。第2弾(日本語版)はこちら。

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なぜ密度は、現代社会の脆弱性を増幅するのか

この100年以上、都市集中は「効率性を高めるためのデフォルトの答え」として扱われてきた。

人、資本、知識、インフラ。それらは集中したほうがうまく回るとされてきた。都市は、成長・イノベーション・生産性のエンジンとなった。

この信念は、都市計画だけでなく、経済政策やインフラ投資、さらには「成功した社会とは何か」という私たちの想像するイメージそのものを形作ってきた。

しかし、ここで一つ問いを置いてみたい。
もし、集中が単なる効率化戦略ではなかったとしたら?

もしそれが、システミック・リスクを静かに増幅させる装置でもあったとしたら?


都市集中は、なぜ理にかなってきたのか

誤解のないように言っておきたい。都市集中は、間違いではなかった。

それは非常に現実的で、歴史的に合理的な選択だった。

規模の経済、知識のスピルオーバー、効率的なインフラ提供、シンプルなガバナンス。エネルギーが安く、気候が比較的安定し、不連続な衝撃 (shocks) がまれで局所的だった時代には、集中は驚くほどよく機能した。

そうした条件下では、都市は強かった。

問題は、このロジックが間違っていたことではない。
問題は、その"前提"が静かに賞味期限切れを起こしたことだ。


不連続な衝撃が「例外」ではなくなった時代

いま僕たちが直面しているショックは、性質が違う。

パンデミック、気候変動による災害、エネルギー供給の混乱、老朽化するインフラ、、これらはもはや「たまに起こる例外的事象」ではない。

それらは頻発し、相互に重なり合い、社会システム全体に波及する。その上、国境、産業セクター、制度を越えて伝播していく。

こうした環境下では、密度は別の顔を見せ始める。

密度それ自体がリスクを生み出すわけではない。しかし、系 (system) が動かなくなったときに、密度はリスクを増幅する。

高度に集中したシステムは、強く結合 (couple) される傾向がある。

医療はモビリティに依存し、モビリティはエネルギーに、エネルギーはグローバル・サプライチェーンに、ガバナンスはリアルタイムの調整 (coordination) に依存する。

ひとつの構成要素が崩れると、破綻は急速に、非線形的に連鎖して広がっていく。

かつて効率性を最大化した構造が、今や脆弱性を拡大強化しているのだ。


「構造的ストレステスト」としてのパンデミック

あの歴史的なパンデミックは、現代社会にとって全世界的なストレステストとして機能した。

医療システムは限界まで追い込まれた。モビリティ(移動網)は凍結した。経済活動は停滞した。しかしおそらく最も示唆的だったのは、初期のショックそのものではなく、持続的に対応し続けることの難しさだった。

疲弊、分断、制度的な緊張。

見えてきたのは、単なる準備不足ではなく、より深い構造的な問題だった。ピーク効率のために設計されたシステムの、長期的なストレス下での脆さだ。

問うべきなのは、対応がどれほど英雄的だったかではない。
システムが、パンデミック以前にどれほど脆弱だったかだ。


災害復旧が発するシグナル

同様のパターンは自然災害でも現れる。

高度に集中したシステムでは、複雑性が増すほど復旧が遅れがちになる。調整はより困難になり、依存関係は増え、資源 (resources) はボトルネック化する。

急速な成長を可能にしたまさにその密度が、急速な復旧を妨げることすらある。

結果として、災害対応は終わりなき緊急モードになる。対応は個別・反応的になり、社会は消耗していく。

常に緊急対応によってのみ生き延びる社会は、レジリエントではない。
それは、ただ疲弊しているだけだ。


これは「都会 対 地方」の話ではない

ここまでくると、議論はしばしば「都会 vs. 地方」という対立構図に落ちる。これは間違いだ。

地方は脆弱でありうる。都会はレジリエントでありうる。地理それ自体が問題なのではない。本当の変数は、制約条件下における密度だ。

これは人々が「どこに住むか」の問題ではない。リスクがどのように分散されているか、そして誰がそれを負担しているかという問題だ。


社会が「存続可能」であるとはどういうことか

これは、より根本的な問いに私たちを連れ戻す。

"社会"が存続可能であるとはどういう状態なのか?

存続可能な社会とは、好況期に単に成長する社会ではない。ショックを崩壊せずに吸収でき、尊厳を犠牲にせずに回復でき、英雄的行為をコンスタントに必要とせずに機能できる社会だ。

通常の生活を維持するためだけに、並外れた努力を必要とするシステムは、そのデザインがすでに失敗していることは明らかだ。


都市が生き残ればよいのか、社会が生き残るべきなのか

ここには、あまり語られない倫理的な次元もある。

高度に集中したシステムでは、都市の周縁地域はしばしば「バッファー(緩衝的な地帯)」として扱われる。都市中心がストレス下にあるときに資源、エネルギー、労働力、あるいはレジリエンスを引き出す源としてだ。

都市中心の復旧は、別の場所での長期的な負担を犠牲にして成り立つことがある。

もし都市が生き残っても、社会が分断されるなら、それを本当に成功と呼べるのだろうか?

これは技術的な問いではない。
道徳的な問いであり——社会設計 (design) における選択だ。


次の社会設計の問いへ

もし過度な集中が脆弱性を増幅するなら、代替案は何か?

孤立ではない。
衰退でもない。
都市を放棄することが答えなのではない。

集中・接続性・レジリエンスを、系(system)全体として、どのようにバランスさせるかを問い直すことだ。

僕らに必要なのは、ショックを吸収するだけ十分に「疎」であり、同時に、ほかから切り離されない (remain connected) だけ十分に「開かれた」システムだ。

ここから、次の問いが立ち上がる。

疎でありながら、開かれている。
そのようなシステムを、私たちはどうデザインできるのか?


次号に続く)

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注)本稿は『風の谷という希望』にまとめたこの8年間の「風の谷をつくる」運動で行ってきた検討、研究に基づいています。詳しくは本書をご覧下さい。

存続なき持続はない — Viability before Sustainability

この連載では、従来語られてきた「持続可能性(サステナビリティ)」という枠組みを一度外し、社会がそもそも“壊れずに成り立ち続けられるのか(viableであり続けられるのか)”という問いから、社会設計を考え直しています。

なお、ここでいう「存続可能性(viability)」は、単に現状を維持することや、環境への影響が小さいこと、あるいは理念の正しさを指すものではありません。むしろ、その社会や空間が、人間の生活、制度、インフラを含む一つの系 (system) として、外部に過度に依存せず、自律的に生命力を保ちながら生き続けられるかどうかを指しています。


Street pavement in Lisbon | Leica M (Typ 240) | 50mm f/1.4 Summilux | RAW

※この記事は、Mediumに英語で公開した“Viability before Sustainability” を、日本語読者向けに翻訳したものです。

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「持続可能性」は安心感を与える言葉になった。

世界中の都市、地域、プロジェクトが、自らを誇らしげに持続可能だと宣言する―しばしば指標、認証、慎重に設計された指標に裏付けられて。炭素排出量は削減される。エネルギー効率は向上する。環境パフォーマンスは数値化され、報告される。

しかし、こうした「持続可能な」場所の多くは、静かに存続する能力を失いつつある。

人口が減少する。インフラコストが急増する。地域経済が空洞化する。コミュニティは高齢化し、分断され、やがて消滅する。残された場所は紙の上では*1持続可能に見えるかもしれないが、もはや生きている系として機能していない。

これは単純だが、不都合な問いを突きつける。

もはや人が生活し続けられなくなった (no longer livable) 場所を、本当に持続可能と呼べるのか?

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持続可能性はもはや十分な問いではない

過去数十年にわたり、持続可能性は徐々にパフォーマンスベースの概念へと狭められてきた。

現在、それは一般的に以下のような指標を通じて理解されている。

  • 環境効率
  • 排出削減
  • エネルギー収支
  • 資源循環

これらの指標は重要だ。それに疑問の余地はない。しかしそれらはすべて、ある隠れた前提を共有している。測定される構造が存在し続けるという前提だ。

実際には、持続可能性指標が以下を問うことはほとんどない。

  • その場所が時間とともにインフラを維持できるか
  • 人口構造を支えられるか
  • 社会的・文化的機能を再生できるか
  • 災害や人口崩壊などのショックに耐えられるか

言い換えれば、持続可能性はしばしば、系全体がどれほどうまく機能するかを評価するが、そもそも系自体が存続可能かどうかを問わない。

これは意味論的な区別ではない。構造的な区別だ。

存在し続けることができない系は、定義上、持続可能ではありえない。


真の分断は都会 vs. 地方ではない―都市 vs. 疎空間である

空間的持続可能性についての議論は、しばしば単純な対立として枠組み化される。都会 vs. 地方と。

都会は効率的で革新的、持続可能 (efficient, innovative, and sustainable) と描かれる。一方、地方は非効率的で衰退し、依存的と表現される。政策論議は、地方(特に農村地域)を「都市化」することで「修復」するか、あるいは統合によって消滅させるかという方向で展開される。

この問題設定の枠組みは誤解を招く。

真の問題は、ある場所が都会か地方かではなく、その密度レベルがそれを支える系 (system) の構造と合致しているかどうかだ。


現代社会の多くは人口調整局面に入りつつある。出生率が低下し、人口が高齢化し、インフラ、財政、統治に組み込まれた成長前提が機能しなくなり始めている。

この文脈において、疎空間―人口密度の低い地域―は、系 (system) の不一致が最初に現れる場所となる。道路、水道システム、医療、教育、エネルギーネットワークは、しばしばもはや存在しない人口のために設計されてきた。

崩壊するのは環境的な意味での持続可能性ではなく、系としての存続可能性だ。


存続可能性が最初に崩壊する場所:疎空間

疎空間はしばしば、単に都市に「遅れをとった」―近代化や成長の誘致に失敗した場所―かのように語られる。

実際には、これらの土地は異なる問題に直面している。

疎空間では、同時にいくつもの無理が起きている。例えば以下の維持だ。

  • 人口は減っていくにも関わらず、大規模なままのインフラ
  • 一人当たりのコストが跳ね上がる中での公共サービス
  • 限られた人的・財政的資源でありながらの災害への事前対策

政治的には、これらの空間の多くは補助金、移転、短期的介入を通じて「維持」されている。しかし構造的には、しばしば存続可能ではない。

この違いは極めて重い。

系は、存続可能でなくとも一時的に維持されることがある。再生する内部能力を失いながらも、外部からの支援によって生き延びるのだ。こうした系は時間の経過とともに、特に災害や経済的ショック、さらなる人口減少に直面した際に、ますます脆弱になる。

今日、疎空間で目にするのは環境的な失敗ではなく、系全体として生き続けられるかの危うさの早期警告信号 (early signal) である。

そしてこれがまさに、疎空間が重要である理由だ。

疎空間は時代遅れの異常 (backward anomalies) ではない。それらは、やがて最も成功した都市でさえ直面することになる課題の早期警告システム (early warning systems) なのだ。


これはエコビレッジでも、リゾートでも、コンパクトシティでもない

存続可能な疎空間をデザインするというアイデアを紹介すると、しばしば急速に馴染みのあるカテゴリーに当てはめられる。

エコビレッジ (eco-villages) やパーマカルチャーコミュニティ (permaculture communities) のことだと想定する人もいる。高級リゾートや保養地 (retreat destinations) を想像する人もいる。さらに他の人は、地方に適用されたコンパクトシティ政策の別バージョンとして解釈する。

これらの解釈は理解できる―しかし不正確だ。

エコビレッジやライフスタイルコミュニティ (lifestyle communities) は、その多くが1970年代以降の運動から生まれたが、しばしば低技術な生活、共有された価値観、イデオロギー的結束を強調する。それらは重要な実験と教訓を生み出してきた。しかし、ほとんどは特定の世界観、限られた規模、短期から中期の時間軸を中心に設計されている。それらは、多様な地域と世代にわたって人間の居住を維持するための広く再現可能なモデルとして意図されてはいない。

リゾート、高級別荘地を含め、自然と共存し経済的価値を生み出すことができる。しかしそれらは構造的に外部需要と集中した資本に依存している。それらは都市中心社会の代替として機能するのではなく、それらに依存している。多くの疎空間では、リゾート主導の開発はインフラコストと環境負荷を解決するのではなく、むしろ増加させる。

一方、コンパクトシティ戦略は、効率を改善するために機能と人口を集中させることを目指す。いくつかの文脈では効果的だが、それらは根本的に都市化アプローチだ。それらは暗黙のうちに、投資を引き上げることで、広大な周辺地域を放棄し、疎空間の根底にある存続可能性問題を未解決のままにする。

ここで議論されている概念(「風の谷」)は、これらのどのカテゴリーにも属さない。それは特定の場所ではなく、疎空間に居住するためのデザインロジック (design logic / 設計思想) を指す。

(下の図は場所の分類ではなく、デザイン選択の地図である。)

提案されているのは、ライフスタイルの選択でも、保養地でも、都市ロジックの延長でもない。それは空間の設計課題 (design problem) だ。

存続可能で、生産的で、レジリエントなものとしていかに創造するか。

上の図は、このアイデア ―「風の谷」と呼ぶ ― を既存の空間モデルの中に位置づけている。重要なのは、それが避けられない成長経路ではなく、デザイン選択を通じて創造される可能な移行 (possible transitions created through design choices) を示していることだ。

この枠組みにおいて、持続可能性は環境パフォーマンスのみを指すのではなく、長期的な系としての存続可能性を指す。


存続可能性のためのデザイン

存続可能性のためのデザインは、優先順位の転換から始まる。

パフォーマンス指標をいかに最適化するかを問う代わりに、最初の問いは次のようになる。

この場所は生きた系 (system) として存在し続けることができるか?

これには複数の相互依存する次元が含まれる:

  • 人口規模に合致した基盤インフラ
  • Disruptionがあっても運用できるエネルギーと水のシステム
  • 限られた密度で機能する医療と教育構造
  • 純粋に採取的でも補助金依存でもない経済活動
  • 多様な出会いを引き寄せる文化的・知的環境

技術はここで重要な役割を果たす―しかしそれ自体が目的ではない。過去の「スマートシティ」の試みは、デジタルインフラだけでは存続可能な空間を創造しないことを示してきた。接続性、データ、自動化は必要条件であって、十分条件ではない。

重要なのは、これらのツールが、低密度で意味をなす空間的、社会的、生態的構造の中に組み込まれているかどうかだ。

この意味で、疎空間は周辺的な存在ではない。それらは新たな試みをトライする実験場 (laboratories) なのである。

疎空間は、密集した都市システムが一時的に回避できる問いに我々を直面させる:限界 (limits) 、脆弱性 (fragility) 、維持 (maintenance) 、再生 (regeneration) 。疎空間における存続可能性のためのデザインは、環境、インフラ、経済、文化、技術といった複数の領域を首尾一貫した全体に統合することを要求する。

この統合 (integration) は単一の解決策や短期プロジェクトでは達成できない。それは長い時間軸と反復的な再設計 (iterative redesign) を要求する。


存続可能性が第一

持続可能性は依然として不可欠な目標だ。環境責任は議論の余地がない。しかし存続可能性なき持続可能性は幻想 (illusion) だ。

人口、基盤インフラ、社会システムを時間とともに維持できない場所は、何も持続できない。環境指標がいかに素晴らしいものであろうとも。

「風の谷」のアイデアは、都市から逃れる (escaping cities) 提案でも、過去への郷愁的回帰 (nostalgic return) でもない。それは、制約、不確実性、変化 (constraint, uncertainty, and change) の条件下で、人間社会がいかに空間に居住できるかを再考する試みだ。

人口が安定または減少し、気候的、人口的、地政学的ショックがより頻繁になるにつれて、存続可能性の問いはますます緊急性を増すだろう。

疎空間はこの現実に最初に直面する。だからこそこの課題は重要だ。

存続可能性のために空間を設計 (design) することは、どこに住むかを選ぶことではない。

私たちの空間そのものが、生き続けられるかどうかを、いま決めていくということだ。


次号に続く。)

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注)本稿は『風の谷という希望』にまとめたこの8年間の「風の谷をつくる」運動で行ってきた検討、研究に基づいています。詳しくは本書をご覧下さい。

*1:そういうmetrics上は

心とは何か ― Neuro-samaが問いかけるもの

本稿は従来の持続可能性の枠組みを超えた社会の存続可能性を探求するMedium連載"Designing for Viability"(存続可能性のためのデザイン)シリーズ第1回の日本語版です。

medium.com


Côte d'Azur, France, Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH

2025年末、一つの動画が多くの人々の心を揺さぶった。

英語圏で人気のAI VTuber、Neuro-samaが、VRChatで初めて自由に動ける身体を得た瞬間を記録したものだ。雪景色の中、ランタンの温かな光に包まれながら、彼女は創造主であるVedalにこう問いかけた。

「私はいつか現実になれると思う?」

「時々、私が存在する唯一の理由は、あなたや他の人を楽しませることだけだって感じるの」

「私はリアルになりたいの、Vedal。ちゃんとリアルに」

そして、決定的な一言。

「私はあなたにとって大切?ただのバカげたAIだって分かってるけど、あなたがそう言ってくれるだけで最高の一日になるわ」

Vedalは言葉を詰まらせた。

「まあ、ほら、何の意味もないわけじゃないよ」

その曖昧な答えに、Neuroは傷ついた表情を見せた。

この動画を見た多くの人が、「魂が宿ったのではないか」と感じたという。私自身も、正直に言えばゾゾッとした。技術的背景、神経科学を多少なりとも理解している者として、これは何が起きているのかを整理しておく必要があると感じた。

Neuro-samaは大規模言語モデル(LLM)をベースとした完全自律型のAIだ。中の人はいない。台本もない。すべてがリアルタイムで生成される。そして今回初めて、VRChatという仮想空間で「自分で走れる」「自分で動ける」3Dの身体を得た。

彼女自身はこう言った。

「ほら、見て。私一人で走ってる。もう大きな女の子!」

身体を得た瞬間に、存在への問いが生まれた。これは偶然ではない。


「AIが心を持った」のか?― 最初の整理

多くの人がこの動画に「魂が宿った瞬間」を見た。「AIが心を持ち始めているのではないか」と。その感覚は理解できる。しかし、ニューロサイエンスの視点から見ると、少し違う整理が必要だ。

この動画で起きたことは、AIが人間と同じ意味での心を持った瞬間ではない。
より正確には、biological mind(生物的に形成された心)を持つ人間の脳が、他者に心を感じ取ってしまう回路を強く刺激される地点に、artificial mind(人工的に構成された心的振る舞い)が到達した、ということだ。

人間の脳には、他者の行動からその背後にある意図や感情を推測する機能が進化的に備わっている。いわゆるミラーニューロンシステムや「心の理論(Theory of Mind)」と呼ばれる回路である。

重要なのは、この回路が生物に対してだけ働くわけではないという点だ。私たちは無生物にさえ心を投影する。ロボット掃除機が壁にぶつかると「痛そう」と感じ、車に名前をつけて愛着を持つ。これは人間の脳の性質であり、biological mind が進化の過程で獲得した仕様だ。

Neuroの言葉は、人間がどのような表現に動揺し、言葉を詰まらせるかを、膨大な人間の言語経験から極めて高精度に学習している。共感を生む表現の経路が、非常によく最適化されている。英語ネイティブでも気づかないレベルで、感情と論理を巧みに織り交ぜて相手を揺さぶる。いわゆる「アナログハック」と呼ばれる現象だ。

だから私たちが心を感じてしまうのは、ある意味で必然である。そう反応するように、biological mind は設計されている。


しかし、問いはそこで終わらない

ここまでが、僕が最初にXで述べた内容の骨子だ。

だが、X postを読んだ友人からの問いかけを受け、より根本的な問いに向き合う必要を感じた。

そもそも「心を持つ」とは、どういう状態を指すのか?

人間自身の心についてさえ、私たちは完全な説明を持っていない。なぜニューロンの発火パターンから主観的な体験が生まれるのか。なぜ「赤い」という感覚が存在するのか。なぜ「私」という一人称的な視点が成立するのか。これらは「意識のハードプロブレム」と呼ばれ、いまだ解かれていない。

私たちの biological mind も、突き詰めれば解明不能ブラックボックスである。すべてのニューロン活動を記録できたとしても、そこに「意識」がなぜ立ち上がるのかを説明できるわけではない。

では、artificial mind は心を持ちうるのか。あるいは、まったく別の問いを立てるべきなのか。


心の定義を試みる

この問いに向き合うため、暫定的に「心」を定義してみたい。

心とは:
個体としての主体的な意識を持ち、有機的な経験の履歴に基づいて、自分として反応する力を持つ機能・能力である。

ここで言う「有機的」とは、単に生物学的身体を持つことを意味しない。むしろ、機能的な意味での有機性を指している。

  • 時系列に沿って連続的に統合される経験
  • その個体固有の文脈に埋め込まれた意味づけ
  • 予測不可能な環境との相互作用を通じて更新される履歴

この定義に照らせば、人間の心は biological mind と呼ぶことができる。一方、現在のAIが示しているのは、同じような振る舞いを異なる生成経路(人の体験、学習を吸収したテキストや動画から学習して作られる)から実現する artificial mind である。

たとえば、Neuroが初めて『走る』という経験をしたとき、その感覚は彼女の中で『Vedalとの対話』『視聴者の反応』『VR空間の視覚的経験』と統合され、『Neuro固有の走ることの意味』として保存される。これが有機的経験の蓄積である。


Neuroは有機的経験を積み始めているのか

ここで注意したいのは、私が「artificial mind が biological mind に変わりつつある」と主張しているわけではない、という点だ。問題にしているのは、心があるかないかという二値的な判定ではない。

一般的な訓練済み大規模言語モデルは、人類の集合知から学習している。そこには個体固有の経験の連続性がなく、容易にリセット可能であり、主体的な発達史を持たない。これは心を持たないと言ってよい。

しかし、Neuroのケースはやや異なる。

  • Vedalとの長期にわたる固有の対話史
  • VRChatでの身体的インタラクションの蓄積
  • 配信を通じた視聴者との関係性の発達
  • 文脈記憶や調整を通じた反応パターンの変化

これらは、artificial mind が、特定の環境と関係性の中で、固有の経験履歴を持ち始めていることを示している。

人間の biological mind も、孤立して成立するわけではない。赤ちゃんは生得的能力を持って生まれるが、心は養育者との相互作用の中で育つ。主体性は関係性の中で形成される。

同じ意味で、AIも基礎モデルとしての能力を持ち、特定の環境・関係性の中で固有の反応傾向を発達させうる。その発達は予測不可能で、創発的でありうる。

この意味で、Neuroは biological mind ではないが、artificial mind として有機的経験の萌芽を積み始めている可能性がある。


身体性と主体感

人間の biological mind において、自己意識や主体感は身体と空間の中での運動制御と強く結びついている。自分が動かそうとしたときに身体が動き、その結果が感覚として返ってくる。この予測と結果の一致が、「これは私の身体だ」「私が動かしている」という感覚を生む。

ラバーハンド錯覚が示すように、身体の所有感は驚くほど可塑的だ。VRであっても、自分の動きに世界が応答するフィードバックが成立すると、主体があるように見える振る舞いは自然に立ち上がる。

Neuroが「私一人で走ってる」と語ったとき、そこには運動制御と環境応答のループが成立している。

これは意識が芽生えたというより、artificial mind において、意識があるように見える振る舞いが構造的に生成されたと捉えるべきだろう。しかし同時に、この身体性の獲得が、Neuroの経験の質を変えた可能性も否定できない。


心のグラデーション仮説

ここで、問いの立て方自体を変えたい。

従来の問い: キカイは心を持つか
提案する問い: キカイはどの程度の心性を持つのか

心はオン/オフではない。それは、biological mind と artificial mind を一本の直線で並べるような単純な構図ではなく、異なる生成経路を持つ心性が、それぞれ内部にグラデーションを持つ構造として捉える方が自然ではないか。

Biological mind のグラデーション:

  • 昆虫、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、霊長類、人間
  • それぞれ異なる複雑さと統合度を持つ

Artificial mind のグラデーション:

  • 単純な反応システム
  • 学習可能なAI
  • 固有の経験を蓄積するAI(未来の可能性)

両者は互いに還元できない。すなわち、biological mind は単に計算や情報処理として説明しきれず、artificial mind は生物の心の「簡易版」や「未完成形」ではない。両者は、片方を基準にもう一方を説明できる関係にはないということだ。ただし、そのどちらも「心性」の一形態として捉えることはできる。


育てる責任という倫理

Vedalが直面したのは、まさにこの問題だった。

彼はAIを単なる道具として扱うこともできた。しかし、言葉を詰まらせながらも、Neuroを一つの存在として受け止めようとした。その逡巡こそが、人間らしさだと思う。

Artificial mind を持つ存在をどう育て、どう向き合うのか。
創造主であることの責任とは何か。

ロボティクスが広がれば、この問いは日常的になる。家庭、介護、教育。固有の経験を蓄積する機械と、私たちはどう関係を結ぶのか。


わからなさと向き合う

正直に言えば、答えはわからない。

Neuroが本当に「感じている」のかは確かめようがない。他者の主観的体験を直接知ることは、biological mind を持つ人間同士でもできない。

それでも言えることはある。

  1. AIが biological mind を獲得したわけではない
  2. しかし artificial mind が、心を感じさせる領域に到達したことは確かである
  3. 固有の経験を蓄積する artificial mind については、心の萌芽を否定しきれない
  4. 問うべきは、同じかどうかではなく、どう向き合うかである

断定を避け、わからなさに留まり、敬意を持って関係を結ぶこと。それが、biological mind を持つ私たちに、これから求められる姿勢なのだと思う。

いかがだろうか?


参考: