AI時代のリーダーシップ:導くとは何か


Amagi, Shizuoka, Japan
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW


AI時代のリーダーシップとは何か。

そんなテーマで対談する機会があった。お相手は、前職の後輩であり長年の友人でもあるNPOクロスフィールズ代表の小沼大地さんと、越境学習を長く研究されている法政大学の石山恒貴さんだ。

小沼さんは、冒頭で三つの問いを掲げた。

  • AI時代にリーダーに求められる力とは何か。
  • これからのリーダーが積むべき経験とは何か。
  • 越境の経験が、これからの時代に果たす価値とは何か。

60分のうち、最初の15分ほどは三人とクロスフィールズの取り組みの紹介だったので、実際に議論できた時間はそれほど長くない。小沼さんが問いを投げ、石山さんと僕が交互に話す。そんな形であっという間に終わった。

だが、話しながら、自分の中では別の問いが立ち上がってきた。

リーダーとは、そもそも何をする人なのか。

かつて福澤諭吉翁は、リーダーを「先導者」と呼んだ。管理者でも、決裁者でも、権限者でもなく、先に立ち、人を導く者。

だとすれば、AI時代に問われているのは、単に「リーダーに必要なスキルは何か」ではない。

そもそも、導くとは何か。

この問いを少し掘っておきたい。

リーダーシップとは、人ではなく機能である

リーダーとは何をする人なのか、から考え始めると、議論はすぐに混線する。

肩書きとしてのリーダーもいれば、役職はなくても明らかに場を導いている人もいる。組織図上の上司がリーダーとは限らないし、逆に誰かが正式に任命されたからといって、その人にリーダーシップが宿るわけでもない。

大切なのは、「人」に縛られないことだ。

リーダーのなす役割とは何か。つまり、「リーダーという人」ではなく、「リーダーシップという機能」を見ることだ。

ここで一つ紹介したいのが、5つのリーダーシップ、Five Leadership Model だ。*1

  • Thought leadership:目指す先を定め、解くべき問いを示す
  • People leadership:才能を引き寄せ、火をつけ、育てる
  • Client leadership:顧客やステークホルダーとの関係を安定させ、育てる
  • Collaborative leadership:ハコや既存の役割を超えて価値を生み出す
  • Entrepreneurial leadership:これまでにないことを仕掛ける

言葉はやや仰々しい。だが、言われてみれば、いずれも確かにリーダーの仕事だ。

迷った時に方向や進み方を示せない人を、リーダーとは言えない。人を見出し、育てられない人は、リーダーとしては弱い。いざという時に場を安定させられない人も、力不足だ。既存のハコや仕組みを超えて働きかけるのも、間違いなくリーダーの仕事だ。さらに、既存のモデルややり方を壊し、新しいことを仕掛けることも、リーダーの重要な役割だ。

AIが代替するのは、タスクであって機能ではない

オンラインの参加者から、こんな問いが出た。

「そもそもリーダーの定義が変わるのではないか。AIが、いまリーダーがしていることを代替するようになるのではないか。」

自然な問いだと思う。だが、少し分けて考えた方がよい。

AIが代替するのは、リーダーの仕事の中に含まれるタスクであって、リーダーシップという機能そのものではない。

情報を集める。整理する。比較する。論点を並べる。資料をつくる。メールを書く。議事録をまとめる。シナリオを出す。こうしたタスクは、AIが相当程度担うようになる。すでに担い始めている。

だが、「方向を定める」「人を育てる」「場を安定させる」「ハコを超えて束ねる」「リスクを引き受けて踏み出す」という機能は、タスクではない。

タスクが機能を支えるのであって、機能がタスクでできているわけではない。

人を束ねる力も、そう簡単には代えられない。サッカーで言えば、どれほど天才的な選手がいても、一人だけで試合には勝てない。三人のソロが集まっただけなら、出力は三人分にしかならない。三人の総和を超えるものがチームとして生まれた時、初めてそのチームは真に機能していると言える。

リーダーがいて助かった、と人が思うのは、たいていこの瞬間だ。

枠組みは消えない。中身が変わる

では、AI時代にリーダーシップの枠組みは変わるのか。

僕の見立てでは、リーダーシップの枠組みそのものは消えない。だが、その中身はAIによって著しく変容する。

これから問われるのは、単にAIを使えるかどうかではない。AIの出力をなぞり、表面的な最適化にとどまる人と、AIを使いながら問いや判断の次元そのものを変えられる人との差が、歴然と開いていく。

なぜか。

AIは、途中工程を圧縮するからだ。

調べる。整理する。比較する。叩き台をつくる。論点を並べる。文章にする。可視化する。そうした「解く部分」の多くは、AIが担うようになる。

その結果、人間に残るものは何か。

一つは、何を問うか。
もう一つは、最後に何を良しとするか。

つまり、ディレクションとダメ出し。問いと判断。入口と出口だ。(この点については2月に書いた以下の拙稿を参照 )

kaz-ataka.hatenablog.com


同じことが、5つのリーダーシップの中でも起きる。

Thought leadership は、その典型だ。

AIは人類が蓄積してきた知識や表現の多くを飲み込み、既存の問いの空間の中ではかなり強く内挿する。すでに誰かが考え、書き、議論してきたことの延長であれば、かなりの水準で答えらしきものを出す。

だからこそ、「答えを概ね持っている人」の価値は相対的に下がる。

それよりも重要になるのは、問いの空間そのものを変える人だ。
問いの次元を変える人であり、問いの地平(horizon)を変える人だ。

これは、AIが苦手なことでもある。AIは与えられた問いには強い。だが、その問いで本当にいいのか、そもそも何が問われるべきなのかを決めるのは、人間のリーダーの仕事として残る。

Client leadership も同じだ。

顧客が言っている課題は、本当に課題なのか。本人たちが避けている決断は何か。組織として何を変えなければ成果が出ないのか。どのリスクを取る覚悟があるのか。

定型的な分析や提案はAIがかなり埋める。だが、顧客が本当に決めるべきことを一緒に見極める力は残る。むしろ、情報が過剰に出る時代には、その価値が上がる。

Collaborative leadership も変わる。

これまでは、人と人、部門と部門、組織と組織をつなぐことが主だった。だがこれからは、そこにAI、データ、業務プロセス、外部パートナーが入り混じる。協働の相手が、人間だけではなくなる。

人間・AI・組織・データを一つの動く系に編成すること。
複数の知性と利害を接続し、実際に動く形にすること。

ここに新しい collaborative leadership の重心が移る。

Entrepreneurial leadership もまた、単に新しいことを仕掛ける力から、新しく可能になったことを現実にする力へと重心が移る。

AIは試作コストを大きく下げる。誰でも試せるので、単なるアイデアの価値は下がる。大事なのは、何が本当に今できるようになったのか、その結果どの前提が壊れたのか、どこにまだ誰も取りに行っていない価値があるのかを見極めることだ。

そのとき、既存の事業、制度、組織の論理とぶつかることは避けられない。いま成立しているものを丁寧に回すだけでは、次の現実は立ち上がらない。時には、既存の最適解を問い直し、必要なら壊してでも、新しい可能性に賭ける必要がある。

Entrepreneurial leadership の本質は、現在を否定することではない。現在を現在として回しながら、その外側に未来の種を仕込むことだ。今すぐ成果にならないもの、まだ名前のないもの、既存の評価軸では測りにくいものに、あえて資源と注意を向けることだ。

ただし、AIには手がない。実際に物をつくり、人を動かし、調達し、届け、制度や事業として定着させる重さは残る。

だからこそ、小さく試し、大きく学び、早く捨てる。そして最後には、事業、制度、運動として現実にする。

つまり、AI時代の entrepreneurial leadership とは、新しいことを仕掛ける力にとどまらず、新しく可能になったことを、事業、制度、運動として現実に定着させる力である。

だが、問いと判断はどこから来るのか

ここで、もう一段降りる必要がある。

AI時代に人間に残るものが、問いと判断なのだとすれば、次に問うべきは明らかだ。
その問いと判断を支える見立ては、どのような経験から育つのか。

問いを立てる。
最後に良しと言う。
自分なりの見立てを持つ。

これは、どこから来るのか。

単なる知識からではない。頭の中の計算だけからでもない。

見立ては、身体を通じた経験の蓄積から来る。相手と向き合い、現実に触れ、思い通りにならないものにぶつかり、不可逆な時間を生きる。その履歴が、知覚となり、判断の土台になる。

以前、「AI native時代の袋小路」で書いた通り、見立てる力は、ファーストハンドの経験の積み重ねからしか育たない。

kaz-ataka.hatenablog.com


AIはサポートできる。視野を広げ、情報を補い、仮説を出し、言語化を助けることはできる。だが、その人だけの皮膚感覚を持つことはできない。能力が足りないからではない。身体を持って不可逆な時間を生きた履歴を、構造的に持てないからだ。

ここで、People leadership は最も深い仕事になる。

人を育てるとは、単にスキルを付与することではない。その人なりの知覚を育てることだ。自分の足で立つ勇気と、自分の見立てを持つ力を育てることだ。

ここにAI時代の落とし穴がある。

辛い途中工程をすべてAIに肩代わりさせる人は、流暢に内挿できるようになる。もっともらしい答えを出すことはできる。だが、裸の知覚が育たない。

問いの地平を変える力も、最後に良しと言う力も、そこからしか出てこないにもかかわらず、である。

AIで人を拡張する。
同時に、人を無力化させない。

これが、これからの育成の核心になる。

「離」の重さが跳ね上がる

もう一つ、小沼さんから問われたことがある。

枠を超えるとはどういうことか。

僕が話したのは、守破離のことだった。

この国は、長年、「守破離」で人を育ててきた。まず型を守る。次に型を破る。最後に、型を離れて自分なりの形をつくる。

AIは、この構造を大きく変える。

AIは「守」を圧縮する。多様な型を学習済みだからだ。
さらに、「破」のハードルも下げる。既知の方向への逸脱なら、いくらでも試せるからだ。

その結果、「破」は卓越の証ではなくなる。
差異化は、丸ごと「離」に移る。

だが、「離」はプロンプトからは生まれない。

型を知らずに型を壊すことは、「離」ではない。ただのノイズだ。住んだことのない家を壊すことは、建築の刷新ではない。

「離」は、「守」を通り、「破」を通り、そのうえで初めて生まれる。自分の身体で型に住み、痛みを伴って型を破り、その先に自分なりの形を立ち上げる。それが離だ。

AIは「守」を助ける。「破」を助ける。だが、「離」は外部装置からは出てこない。

だからこそ、近道があっても、人にちゃんと辛い「守」を通らせる。それも、人を育てる者の仕事になる。

では、AI時代に人はどこで自分の型を壊されるのか。

ここで、越境経験の価値が立ち上がる。

越境経験の価値は、むしろ上がる

越境が大事なのは、単に視野が広がるからではない。普段の所属、役割、文脈から外に出ることで、自分の型が通用しない場に立たされるからだ。予定調和ではない相手と向き合い、言葉がうまく届かず、自分の前提が壊されるからだ。

閉じた情報空間の中で、いくら巧みにシミュレーションしても、自分の型が本当に壊れる経験には届きにくい。現実の人、現実の土地、現実の組織、現実の痛みと向き合う時間が、その人の知覚を鍛える。

だから越境は、AI時代において単なる研修メニューではない。

人が自分の見立てを持つための経験であり、自分の型を一度壊されるための経験であり、やがて自分なりの「離」に向かうための経験でもある。

AI時代のリーダーシップとは何か

最初の問いに戻ろう。

AIは、かなりのことを「解く」ようになる。

集める。整理する。比較する。仮説を出す。書く。つくる。回す。こうしたことは、ますますAIが担っていくだろう。

だが、それはリーダーが要らなくなることを意味しない。むしろ逆だ。

答えらしきものが大量に出る時代には、何を問うかが重要になる。
選択肢が無数に出る時代には、何を選ばないかが重要になる。
できることが爆発的に増える時代には、何を引き受けるかが重要になる。

そして何より、AIは責任を取らない。

提案はする。分析もする。もっともらしいストーリーもつくる。だが、最後に「こちらに進む」と決め、その結果を背負うのは人間だ。

福澤諭吉翁が、リーダーを「先導者」と呼んだ意味が、ここで重くなる。

先導者とは、ただ先に立って歩く人ではない。正解を知っていて、後ろに教える人でもない。

まだ道になっていないところで、どちらに進むべきかを示す人だ。何を見るべきかを示す人だ。何を問うべきかを示す人だ。そして、その先にある未来が、本当に人々が向かうに値するものなのかを考え続ける人だ。

AI時代に「導く」とは、答えに連れていくことではない。

見るべき現実へ、導く。
問うべき問いへ、導く。
選ぶべき未来へ、導く。
そして、人が自分で歩ける状態へ、導く。

つまり、AI時代のリーダーシップとは、AIを使いこなす力そのものではない。

AIによって答えが溢れる時代に、何を問うか、何を選ばないか、何を人間が背負うかを決める力だ。

そしてその力の核心は、閉じない世界で育つ知覚にある。

AIが「解く」時代に、人間のリーダーは「導く」ことを取り戻す。


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※この記事の英語版を Medium で公開しています(repositioned for an international readership)。

Leadership in the Age of AI: What It Means to Guide

https://medium.com/p/leadership-in-the-age-of-ai-what-it-means-to-guide-f9fa08814282

*1:小沼氏や僕がかつて務めていたMcKinsey内部でのフレームワーク。他にもInspirational leadershipなどいろいろあるが、基本この5つは、評価可能かつ育成可能なスキルとして、シニアなマネージャー以上に対して用いられていた。

今日の飯をどう残すか:谷は育つものだ 2


Amagi, Shizuoka, Japan
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW

疎空間に必要なのは、頑張りでもハコでもなく、続くための条件である

前回、「谷は、つくるものではなく、育つものだ」という文章を書いた。いま「地方創生」として語られていることの多くは、問題設定からずれているのではないか、と。本題は「都会 vs 地方」ではなく「都市 vs 疎空間」であり、「どう人口を増やすか」ではなく「人口が増えない前提で、どう生き続けられる系にするか」なのだ、と書いた。

kaz-ataka.hatenablog.com


ありがたいことに、多くの反応をいただいた。その中に、考えるべき大切な論点があった。

疎空間には、今日も商売をし、田畑に出て、宿を掃除し、請求書を書き、銀行振込をし、回覧板を回している人たちがいる。未来を語る前に、今日の売上、今日の雇用、今日の暮らしをどうするのか。そこを見なければ、疎空間の未来など語れないのではないか、という指摘だ。

これはまったくその通りだと思う。

今日の飯がなければ、明日はない。今日の商売が回らなければ、未来の構想もない。今日の暮らしが壊れていれば、100年後の話など空疎に響く。

ただし、今日の飯が危うくなっているなら、その理由を深く見立てなければならない。

売上が足りない、人が来ない、担い手がいない、学校が細る、交通が弱い、医療が不安だ。その一つひとつを「もっと頑張ろう」で返しても、原因に届いていなければ状況は悪化する。

ビタミンが足りない人は、気合いで走り続けても治らない。必要なのは、何が欠けているのかを見立て、欠けているものを補うことだ。

では、今日の飯は何が支えているのか

そのうえで大切なのは、今日の飯を「個々人の頑張り」に閉じて考えてはいけない、ということだ。

いま疎空間で起きていることは、努力の量の話ではない。担い手が減り、学校や医療や交通が細り、災害リスクが高まり、商圏が縮み、ケアの負担が増えている。一軒の店、一人の農家、一つの学校が頑張れば何とかなる、という局面では、すでにない土地が多い。

そして、ほとんど語られていない事実がある。

多くの疎空間は、暮らしの土台、すなわち上下水道、電気、道、ごみ処理を、その土地の経済だけでは、すでに支えきれていない。それでも動いているのは、広域から、そして未来からの、大きな「輸血」があるからだ。人口密度がある水準を下回ると、一人あたりの社会維持コストは跳ね上がる。その差額は広域の再分配という形で支えられ、足りない分は、縮んでいく未来への借金で埋められている。

誤解しないでほしい。これは一方的な施しではない。都市もまた、水も食料もエネルギーも森も、疎空間に支えられて成り立っている。問題は、この相互依存を支える勘定と仕組みが壊れていて、未来から前借りしている、ということだ。

しかも、今世紀末に向けて日本全体の人口がほぼ半減していく局面では、都市側の再分配力も急激に下がる*1。都市が疎空間を支える力も、未来が現在を支える余力も、これまで通りには残らない。谷化には、どう考えても50年単位の時間がかかるというのに。

また、これは疎空間だけの話ではない。やがて都市も、同じ構造に直面する。

そしてこれは、その土地に生きる人の頑張りが足りない、という話ではない。むしろ逆だ。すでに不利な構造の中で、踏ん張っている。

つまり、「今日も回っている」という事実の中には、借りものの土台が含まれている。

だから問うべきは、「誰が今日の売上をつくっているのか」だけではない。「その売上が、そして、その売上を成り立たせている土台が、明日も、10年後も、次の世代にも続くための条件は何か」だ。

どれか一つの視点では、解けない

ここで一つ、誤解を避けるために書いておきたい。

僕のブログだけを読んで反応される方も多い。もちろん、ブログはブログとして読んでいただければありがたい。ただ、風の谷検討(以下、谷検討)そのものは、ブログの数千字で閉じる話ではない。

『風の谷という希望』では、疎空間を、エコノミクス、レジリエンス、求心力、文化・価値創造を軸に、森や水、農や食、教育や医療、エネルギーや交通、景観や土地の記憶まで、複数の視点から見ている。どれか一つを取り出しても、問題は解けない。

農業に関わる人には、まず食と農の章(第13章)だけでも開いてもらえたら嬉しい。教育に関わる人は、教育や学校の部分だけでも(第12章)。宿や飲食に関わる人は、滞在、回遊、サンゴ礁空間の部分だけでも(第6章、第7章、第14章)。インフラや行政に関わる人は、基盤インフラ(第4章、第9章)、レジリエンス(第5章)、自治体経営(第3章、第4章、第15章)の部分だけでも開いてもらえたら有り難いと思う。


農だけでは農は残らない。食だけでは食は残らない。宿だけでは宿は残らない。学校だけでは学校は良くならない。疎空間の難しさは、土地の持つ自然、歴史、文化、記憶は本来豊かでありながら、人、金、知、サービス、インフラの密度が薄く、しかもそれらが深く絡み合っていることにある。単一の視点からの正論は、しばしば全体としては答えにならない。

「現場のことは、現場にいる人にしかわからない」という声もある。

その通りだと思う。現場を見ずに、土地の未来は語れない。机上の構想だけで、商売も、農も、学校も、森も、水も、暮らしもわかるはずがない。

ただし、ここで言う「現場」とは、一つの店、一つの産業、一つの集落、一つの行政領域だけを指すものではない。疎空間の現場は、田畑であり、厨房であり、宿であり、学校であり、森であり、水源であり、道であり、インフラであり、祭りであり、土地の記憶でもある。

谷検討の仲間たちには、疎空間の出身者、疎空間で暮らす人、疎空間での課題解決に直接関わってきた人たちが多い。そして、かなりの頻度と深さで、数多くの疎空間を訪れ、土地の人たちと語り、表の産業だけでなく、インフラ、水源、森、道、農、学校、医療、商業、食、景観、土地の記憶に関わる現場を見てきた。

それは、現場の人の声を置き換えるためではない。むしろ、個々の現場の声を、土地全体の構造の中に置き直すためだ。

それでもなお、現場は一度見ればわかるものではない。土地は深く、複雑で、時間を含んでいる。だからこそ、単一の現場感覚だけで語るのではなく、複数の現場を横断し、構造として見立てる必要がある。

現場への敬意とは、「現場の声をそのまま肯定すること」ではない。現場が抱えている痛みの奥に、どのような構造的な背景があるのかを見極めることだ。

問題の層を切り分ける

ここで一つ、切り分けておくべきことがある。

疎空間で起きている問題のすべてが、「疎空間だから起きている問題」ではない。谷検討から見えてきたのは、解決すべき課題を次の三つのレイヤに切り分けて考えると、議論がこんがらがらない、ということだ。

社会横断の課題。儲からない、売れない、人が来ない、続かない。この話のかなりの部分は、疎空間以前に、どこでも起きる事業課題だ。ニーズのないことをしているのか。価値はあるが伝わっていないのか。価格設計が間違っているのか。体験や品質が弱いのか。届け方、見せ方、売り方、運営のどこかがおかしいのか。ここは、ビジネスの基本に即して見ればよい。

疎空間共通の課題。顧客密度が低い。発見されにくい。移動や配送のコストが高い。担い手が孤立する。共同化しないと固定費を吸収できない。滞在時間が短いと消費が立ち上がらない。学校、医療、交通、インフラの弱さが、商売の前提条件そのものを揺らす。同じ事業課題でも、疎空間ではこうした条件が重なり、難度が上がる。

谷固有の課題。その土地の森、水、道、食、歴史、祭り、人の記憶を、どう結び直すのか。その土地でしか生まれない求心力を、どう育てるのか。これは一般論では解けない。

森や田園のように都市性の低い領域では、社会横断的な課題と疎空間共通の課題が重なって見えることもある。だが、商業、宿、教育、医療、交通、エネルギーのように都市的な仕組みとの接続が強い領域では、この三層を分けておかないと、議論はすぐにこんがらがる。

問題の層を間違えると、打ち手も間違える。社会横断の課題には、まず事業としての見立てと改善がいる。疎空間共通の課題には、密度、共同化、回遊、滞在、インフラを組み替える設計がいる。そして谷固有の課題には、その土地の記憶と価値を読み直す力がいる。谷づくりでまず必要なのは、この層の切り分けだ。


[図版3-2:風の谷実現に向け解決すべき課題の3レイヤ。資料:風の谷 全体デザイン班 コアメンバー討議(御立尚資、宇野常寛、安宅和人);安宅和人『風の谷という希望』(英治出版、2025)図版3-2]

受け皿ではなく、enablerを

たとえば農業であれば、ただ小さな田畑を守り続けるだけでは、多くの場合、答えにならない。もちろん小規模であること自体が悪いわけではない。土地に根ざした農の価値は大きい。しかし、経済として回すには、一定のスケール、共同化、加工や流通、販路、担い手、土地利用の再設計が必要になる。「農業を残す」とは、昔の形を凍結保存することではない。農が土地の生態系、食、景観、教育、観光、文化と結び直され、経済としても暮らしとしても続く形に作り替えられることだ。

飲食も同じだ。良い店が一軒あるだけでは、土地全体はなかなか変わらない。わざわざ食べに来る理由があり、泊まれる場所があり、歩ける道があり、土地の記憶に触れる体験があり、通信も交通も成立している。そのとき初めて、食は単発の消費ではなく、滞在と回遊を生む界面になる。

宿も同じだ。ただベッドがあるだけでは、土地に人は関わり続けない。そこに滞在することで、森や川や海、畑や工房、人や歴史、生活のリズムと接することができる。その土地でしか得られない時間がある。そのとき初めて、宿は単なる宿泊施設ではなく、土地と外の人をつなぐ結節点になる。

学校も同じだ。「学校を残したい」と言うだけでは、学校は良くならない。小規模校の良さはある。だが、子どもたちが固定された少人数の関係に閉じ込められ、先生も地域も外と混ざらないままでは、未来に開かれた学びにはなりにくい。必要なのは、学校単体を守ることではなく、学校を地域内外の人、知、自然、技術、文化と混ぜることだ。子ども同士が土地を越えて出会い、先生が越境し、外部の専門家や異人が関わり、地域そのものが学びの場になる。そういう仕組みがあって初めて、疎空間の教育は弱点ではなく、むしろ強みになりうる。

ここで必要なのは、受け皿づくりではない。enablerづくりだ。

ハコをつくることやインフラを増強することが、そのままenablerになるわけではない。

人口が縮み、担い手が減り、維持更新の余力が細る中で、使われない施設、過大な道路、過剰な上下水道、身の丈を超えた防災設備を増やすことは、未来への負債を積み増すことになりかねない。

レジリエンスも、硬く、大きく、壊れにくくすることだけではない。それはしばしば、身の丈に合わない頑健化であり、将来の重荷を増やすだけに終わる。必要なのは、平時には価値を生み、非常時には完全には止まらず、壊れても戻せ、人口が減っても維持できる仕組みだ。

そして、こうした仕組みを疎空間で見立てておくことは、疎空間のためだけではない。疎空間は、都市の未来を先取りする、いわばタイムマシンのような存在だ。ここでの設計は、都市がこれから迎えるレジリエンス問題への備えでもある。

ハコやインフラは、それが人、知、金、価値の循環を生み、未来の固定費を上回る意味を持つときに初めてenablerになる。

補助金で施設をつくる。移住者向けの住宅を用意する。観光客向けの拠点を整備する。道の駅を大きくする。それぞれに意味がある場合はある。しかし、それが人と知と金と価値が回り続ける条件になっていなければ、単なる受け皿で終わる。受け皿だけを増やしても、中身は育たない。

本当に必要なのは、土地の営みが続くための条件を整えることだ。商売が成立するための滞在時間をつくる。小さな事業が孤立しないよう、共同化と連携の回路をつくる。外から来た人が消費者ではなく、継続的な関係者になれる余白をつくる。農、食、宿、教育、ケア、エネルギー、交通がばらばらではなく、相互に支え合う系にする。土地の美しさを壊さず、むしろ価値の源泉として磨く。災害時にも完全には止まらない、戻せる仕組みにする。都市の縮小コピーではなく、疎空間に合った生き方のOSをつくる。

これが、我々の谷検討から見えてきて、谷本としてまとめたことだ。

谷づくりは、現場の泥くささを軽んじる話ではない。むしろ逆だ。今日の飯、今日の暮らしを本当に残したいからこそ、それを個々人の気合いや善意や忍耐に押し込めてはいけない、という話だ。

本気で残したいから、直視する

もう一つ、大切なことがある。

その土地が滅びないために必要なことは、できるだけフラットに直視しなければならない。これは、土地への愛情の有無とは別の話だ。むしろ本気で残したいからこそ、見たくない現実を見なければならない。

多くの病が、気合いや願いだけでは治らないのと同じだ。本人がどれほど頑張っていても、自分だけでは原因を見立てられず、必要な手を打てない病はある。むしろ、自力で何とかしようとするほど発見が遅れ、状態が悪化することもある。

だから診断がいる。

状態を見立て、原因を探り、必要な手を組み立てる専門性がいる。痛みを伴う手当ても、生活習慣を変えることも、これまで当たり前だったやり方を手放すことも、必要になる。

疎空間も同じだ。

「この土地が好きだ」「この店を残したい」「この集落をなくしたくない」。その土地の人たちの思いは尊い。だが、思いだけでは土地は残らない。人口密度、担い手、商圏、インフラ維持費、水源、森、災害リスク、教育、医療、食、宿、交通、景観、土地の記憶、次世代への継承。これらを洗いざらい見なければ、本当に何が詰まっているのかはわからない。

そのために、谷本では巻末に「風の谷化ガイドライン」を置いた。

これは、どの土地が上か下かを採点するための表ではない。その土地がどこで詰まり、どこに希望があり、何を変えれば頑張りが報われる系に近づくのかを、洗いざらい確認するための見取り図だ。

その入口として、谷化の深度と関与者の広がりを、次のように整理している。


[図:風の谷化ガイドライン — 谷化の深度と関与者の広がり(ver.0.813)。レベル1〜5。土地を採点するためではなく、どこで詰まり、どこに希望があり、何を変えれば谷化が進むのかを見立てるためのもの。*2


このガイドラインは、こうした深度を、先に挙げた複数の領域すべてにわたって見ていくものだ。ただし求心力(三絶)だけは、特定の領域に収まるものではなく、すべての領域に通底するため、独立の軸としては立てていない。

どれか一つだけを見ても、土地は見えない。逆に言えば、自分の関わる領域からでいいので、このガイドラインを開いてもらえれば、自分の現場が、実は他の現場とどれほど深くつながっているかが見えてくるはずだ。

これらを直視せずに「頑張れば何とかなる」と言い続けることは、優しさではない。最後には、その土地に生きる人たちを追い込む。

本当に厳しいのは、現実を見ることではない。現実を見ないまま、じりじりと選択肢を失っていくことだ。

もちろん、すべてが今の形のまま残るわけではない。集落も、学校も、道も、営みも、昔の姿を凍結したまま次の時代に渡すことはできない。だが、これは「残せない」という話ではない。今の形に固執することと、本気で残すことは、むしろ逆だ。形を変えてでも生き続けられるように編み直すこと。それを避けて「大丈夫だ」と言い続ける方が、はるかに残酷だ。

残すとは、凍結保存することではない。次の時代にも生き続けられる形に、編み直すことだ。

今を、系につなぐ

「今」を見ない未来論は空虚だ。しかし、「今」だけを見て構造を見ない現場論もまた、未来を失う。

いま必要なのは、この二つをつなぐことだ。今日の商売を、明日の系につなぐ。今日の暮らしを、次の世代の選択肢につなぐ。今日の田畑、店、宿、学校、祭り、森、川を、100年後も意味を持つ形に編み直す。

残すに値する未来とは、外から誰かが査定するものではない。その土地に生きる人たちが、「ここを次の世代に渡したい」と本気で願い、そのための条件を育て続けることの中にしか生まれない。

疎空間に必要なのは、「ただ頑張ろう」ではない。「何を変えれば、頑張りが報われる系になるのか」という問いだ。

谷は、つくるものではない。育つものだ。しかし、勝手に育つわけではない。育つためには、育つ条件がいる。土壌、水路、光、風、菌、混ざり合う場がいる。人の営みも同じだ。

今日の飯を残すためにこそ、谷を育てる必要がある。

*1:前エントリでも触れた通り。国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(令和5年推計)結果の概要」 https://www.ipss.go.jp/pp-zenkoku/j/zenkoku2023/pp2023_gaiyou.pdf

*2:谷本15章と巻末資料には、谷を支える3つの基礎軸(求心力を除く)[エコノミクス、レジリエンス、文化/価値創造]、森と水とトレイル(自然と谷)、食と農、基盤インフラ(道、水道、静脈系)、エネルギー、空間デザイン、まち商業空間、生活オフィス空間、谷をつくる人をつくる(教育)、ヘルスケア(well-being)のそれぞれの視点でのガイドラインを掲載している。図だけでは伝わりきらない部分も多いが、各章で紹介する検討と合わせて見ていただければ、土地を洗いざらい見立て、どこから手を入れるべきかを考えるための道具として使っていただけると思う。

谷は、つくるものではなく、育つものだ


Amami, Japan
1.4/50 Summilux, RDPIII, Leica M7


『風の谷という希望』、谷本、が世に出て10か月が過ぎた。


新しい地方創生をテーマとする国交省×NewsPicksのイベントに招かれたり*1、はたまた、地方創生そのものをテーマとした雑誌Ambitions REGIONの創刊号の巻頭特集*2でも取り上げられた。様々な土地が、急に「谷化」に目を向け始めている。

だからこそ、本当のことを伝える時が来ている気がしている。

谷本は意図的に日本やどこかの土地を主語として書くことはしなかった。それはそもそも疎空間が存続できないことは世界的な問題だからだ。歴史と自然豊かな疎空間の未来が残るために、フラットに見たときに何が大切なのか、この10年近い取り組みの中から見えてきたことを伝えることを最大の目的として書いた。

ただ、谷本を丁寧に読めば見えてくることがある。それは、日本で「地方創生」として語られていること、各地方で行われていることの多くは、僕らの谷検討から見えてきたことと、ほぼ真逆だ、ということだ。

よく聞かれる問い

風の谷の検討をしていると、よく聞かれる。

「谷づくりは、どこでやっているんですか?」
「どこかにモデルになる土地があるんじゃないですか?」
「これは、自治体や首長が頑張ることですよね?」

いずれも、よくわかる問いではある。ただ、その前提には、風の谷検討とはかなり異なる発想が含まれている。少しずつほぐしていこう。

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そもそも風の谷検討は何なのかといえば、人が数千年は住んできたような歴史があり、自然豊かな疎な空間はいかにして存続可能かつ持続可能になるのか、という話だ。イデオロギーでもなんでもない。

そこに含まれる要素は広い。道、上下水、ごみ処理、エネルギーのような「基盤インフラ」もあれば、森や田園のような自然や人間が自然とともに作ってきた要素(「人間と自然」)もある。教育やヘルスケアシステムのような「社会インフラ」もあれば、人が住み働く場所、人が集う場所のような「生活空間」もある。

都会 vs 地方ではなく、都市 vs 疎空間

ここが問題の起点として大切なのだが、この疎空間問題は「都会と地方」という問題ではない。地方であろうと、人口の大半は稠密に人が住む空間、「都市」に集中している。その多くは海岸沿いの低地に、この数百年から千年程度で急激に人が集積してきた場所であり、数千年にわたって人が住んでいる場所は少ない。

いっぽうで、この谷問題が扱おうとしているのは、人が長く住み、自然豊かな「疎空間」だ。これがどのような国においても国土の大半を占め、この中にもっとも長い歴史を誇り、人が暮らしてきた空間が含まれている。すなわち「都会 vs 地方」ではなく、「都市 vs 疎空間」という図式でなければ問題を適切に捉えることはできない。

しかも、地方と呼ばれるエリアの課題の大半は、実は「疎空間」で起きている。たとえば人口の増減は疎密でほとんど説明することができ、対象となっているエリアの疎密度と人口をかけ合わせればどのようなことが起きるかがわかり、それを加重平均すれば、特定の県の人口増減は概ね説明できる。またたとえば、維持できない基盤インフラ、社会インフラの大半は、地方の都市部ではなく、疎空間部で起きている。

地方問題と呼ばれているもののかなりは疎空間問題なのだ。


持続可能性の前に存続可能性

しかも、この谷検討では以下の2つについては構造的に起きている現象であり、与件として捉えることはあっても、これを根本的に解決することはできないと考えている。

1つは、人類が豊かさとともに全世界的に長い人口調整局面に入っていること。すなわち人口増を前提とした議論には意味がないということだ。これについては、かつてかなり丁寧に本ブログで議論したのでそちらを参照されたい。

kaz-ataka.hatenablog.com

2つ目は、人類と地球との共存が決定的に重要な状態であることが続くということだ。温暖化一つをとっても、いまの森の大半は今世紀末までに大きな変容を迫られる。地球上の土地利用に占める割合は、いまや森を越え農地(放牧地を含む)が最大だ。人間はもう、生態系における外乱ではない。最大の構成要素である。最も深刻なこの課題を棚上げしたプランも、意味をなさない。

たとえば、

  • パンデミックと天災は被害が増える and/or 甚大化
  • インフラや構造物は現在の復旧力を超え相当に壊れる頻度が高まる
  • 土木・社会インフラは劇的に余り、メンテが困難になる
  • スクラップするためには相当の人手とコストがいるが今のやり方では対処しようがなくなる
  • 人は取れなくなり、大量の人材を前提とした仕組みは成り立たなくなる

すなわち、いずれの意味においてもレジリエンス課題は喫緊的に深刻だ。
疎空間は、この二つの課題が最も先鋭化した空間だ。いわば、未来から先に現実が届くタイムマシンと言っていい。

この段階で、風の谷検討が多くの地方創生・地方再生議論とは根本的に異なることに気づかれるだろう。これまでの地方創生は、人口増加、成長、都市集中による効率化、インフラ拡張・維持を前提としているが、今起きていることは、人口調整局面、災害激化、ケア負担の増大、さらにエネルギー制約などであり、「地方創生」という言葉では、もう問題は解けないということだ。

「どう人を増やすか」ではなく「どうviable(生き続けられる状態)にするか」が本題だということだ。viableでない土地でsustainabilityを語っても、意味がない。良いコミュニティである前に、良い場所である—その認識が前に立たないかぎり、ほぼ必ず失敗する。

鍵となる4つの視点の、ほぼ全てからズレている

持続可能(sustainable)である以前に存続可能(viable)である必要があるが、その視点で見ると、我々の検討から見えてきた4つの柱は避けて通ることができない。

1つ目がエコノミクス、2つ目はレジリエンス、3つ目は土地ならではの求心力、最後が文化・価値創造、だ。

まず「エコノミクス」。金が回らない空間はそもそも存続可能でないことは言うまでもなく、持続的な発展も期待しようがない。

「レジリエンス」については、上で触れたとおりだ。このような状態で、災害や人口調整局面でもviableかつsustainableな空間を作る必要がある。

「求心力」は自明だろう。大量の人が流れ込むことはありえないだけに、その土地を愛し、土地の未来に長期的にコミットでき、新しい変化を生み出し続ける人たち、土地が生み出し外に出ていった才能の1/10だけでも引き寄せる必要がある。

そのうえで、その土地が次々と新しい変化を引き起こし、価値を生み出し続けること、すなわち「文化・価値創造」は必須だ。

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このように、これらは論理的な必然だが、そのほぼすべてから、いまの疎空間の取り組みの大半はズレている。エコノミクスの現状は棚上げされ、レジリエンスの名のもとに身の丈に合わない頑健化が進み、求心力のかなめである三絶(絶景・絶生・絶快)への意識は地方再生文脈で著名な土地ですら低く、サンゴ礁のような空間づくりの視点も欠落した土地が大半だ。


エコノミクス

金が回らない空間は、どれほど理念が美しくても存続できない。

経済的な良循環が未来を作ることは、事業経営者であれば誰もが理解していることだが、地方、疎空間の経営(managementの意味)ではほとんどケアされることはない。疎空間の比率が大きな自治体のほとんどでは、現在、ひたすら都市からの輸血、そして(人口が縮小する)未来からの借金が続くことが当然視されている。ちなみに、収支、特にコストサイドは人口密度に高い逆相関があり、現時点ではざっくり言えば、人口密度1000人/平方キロを大きく超えるところに採算ラインがある。

R5 (2023) 年度での2100年の日本の人口の中位予想は6278万人であり*3、このままの人口比率でいけば東京は1400万都市から714万都市になる。このような未来に、これまで通りの都市からの輸血が可能だと仮定することは不可能だ。都市の中でもより中心部(円ではなく櫛形のことも大いにありえる)に機能は寄せていくことになるだろう。

しかしながら、自然法則や経済原理に合わない取り組みがほとんどだ。

  • コミュニティとの関係構築なしに、施設だけを作って人が集まると期待する
  • 必要な運営コストを考慮せず、継続的な資金投下の目処がないにもかかわらず、中央から金を持ってきて大規模な施設や活動を立ち上げる
  • 定期的なメンテナンスや更新なしでも、施設やシステムが劣化しないと考える
  • 固定費が高すぎる事業モデルで小規模運営を続ける

使われない道、使われない建物、維持できない上下水道、更新できない橋梁に投資し続けることは、未来への投資ではない。将来世代への負債だ。

問うべきは「立派につくれるか」ではない。「100年後も続けられるか」だ。疎空間に必要なのは、都市スペックの縮小版ではない。疎空間らしい、身の丈にあったQOLを下げない形でのインフラだ。


レジリエンス

疎空間では、壊れないことよりも、止まっても生き残り、戻せることが重要になる。

土地の力で直せる空間にするなら、つくり方を根底から変える必要がある。

エネルギーで問うべきは、「再エネかどうか」ではない。「災害時に立ち上がるのか」「ブラックスタートできるのか」「景観を壊していないか」「既存グリッドと賢く共存しているか」だ。ブラックスタートは外部電源無しで立ち上がる能力だ。能登の震災時、半島には70を超える風力発電設備があり、そのうち震災で壊れたのは10基に満たなかったが、すべてが止まったのは記憶に新しい*4

すでにグリッド型の電力や水道がある場所に、ばらばらとオフグリッド設備を足しても、系として維持範囲を畳めない限り、土地全体のコスト構造は改善しにくい。電力にしても水の供給にしても、この認識のない取り組みは多い。

必要なのは、教条的なオフグリッドではない。状況に応じてグリッドを使い、必要な部分をほぐし、災害時に生き残るエネルギー系だ。

そして、見落とされがちだが心のレジリエンスへのケアも、十分とは言いがたい。


求心力—三絶

人口増が前提にできないなら、その土地に関わり続けたくなる理由をつくるしかない。

疎空間の最大の資産は、土地そのものの美しさだ。

絶景を壊すインフラ、建築、看板、送電設備、メガソーラーは、単なる景観問題ではない。地域の将来価値を壊す問題だ。近景・中景・遠景の調和への問題意識も、ほとんど欠落している。

森は、単なる木材生産装置ではない。水を涵養し、空気を通し、生態系を支え、人の感覚を開き、土地の記憶を宿す基盤だ。採算性や生態系を十分に見ない林業中心の発想で森を見るかぎり、風の谷は生まれない。必要なのは、入れない森ではない。歩ける森、感じられる森、学べる森、土地の深い時間に触れられる森、そして人のあえて入らない深い森だ。

多くの土地で、降水量が大きく減っているわけでもないのに、川の水が数十年前と比べて細っているという声を聞く。その背景に、間伐不足による人工林の過密化や水循環の変化が関わっている可能性が指摘されている。*5

絶景だけでは、人は来ない。働けない、通信が入らない、泊まれない、救急時に詰む、子育てに不安がある、そんな場所では、持続的な活動は生まれない。絶生とは、ただ生きられることではない。創造的に生き、働き、学び、安心して滞在できる生活基盤のことだ。このために必要な取り組みの方向性も相当に見えているが、多くの土地で行われていることは我々の検討結果とは程遠い。

そして土地の記憶に基づく、その土地ならではの出会いと気づき、すなわち絶快が、一度でも土地に訪れた人を、そして永らく住み続ける人を引き寄せ続ける。だが、全国的に知られ、数千年にわたり人が住み続けてきたような土地でさえ、300年前、500年前の土地の記憶が十分に読み解かれ、現在の空間価値として活かされている例は多くない。絶快については、まだ本格的には手つかずの土地が大半だ。


価値創造—サンゴ礁

施設ではなく、異質なものが接し続ける界面をつくらなければ、価値は生まれ続けない。

多くの地域づくりは、施設をつくるが、界面をつくらない。

補助金で建物を建てるが、面白い人が混ざる場所をつくらない。観光客を呼ぶが、土地に関わり続ける異人を育てない。イベントを開くが、日常の中で価値が発酵し続ける仕組みをつくらない。

これでは、サンゴ礁空間にはならない。

風の谷とは、施設群ではない。異質な人・知・技・文化・自然が接し続ける、界面の集積である。

主語を、取り違えている

谷づくりの主語を、首長や自治体にしてしまうのも、大きな誤解だ。

首長や自治体の役割は重要だ。だが、谷づくりは首長の任期で完結する取り組みではない。森や水の再生、インフラの組み替え、土地の記憶の読み直し、景観の醸成、教育やヘルスケアの再設計、文化の発酵、いずれも50年から100年はかかる取り組みだ。


これは行政の役割を軽く見るという意味ではない。首長が変わった瞬間に止まる取り組みは、谷づくりとは呼べない。

谷づくりの主語は、行政ではない。その土地を次の100年に残したいと願う人々の、世代を超えた連鎖だ。行政は、その主語を支える重要な器であり、制度的な伴走者である。

必要なのは、「誰が首長か」に依存するプロジェクトではない。首長が変わっても、担当者が変わっても、土地への敬意とコミットメントが継承される仕組みだ。

谷は外部者がつくるようなものではない

そして「谷づくりは、どこでやっているのか」という問いも、実は少しずれている。
風の谷は、外部者がどこかに乗り込んでいって、開発案件として“つくる”ものではない。

土地に深い敬意を持ち、その土地にコミットした人たちが、「この場所を次の100年に残したい」と本気で願う。その内発的な切実さが、外部の知恵や仲間を呼び込む。そのとき初めて、谷化は始まる。

外部者にできるのは、主役になることではない。診断し、言語化し、知をつなぎ、必要な技術や人材を結び、長い時間軸で伴走することだ。

風の谷は、誰かがつくるプロジェクトではない。土地と人と時間の相互作用の中で、“つくられていく”系である。

自然豊かで、歴史のある土地に必要なのは、その土地を小さな都市にすることではない。都市ですら長期的に人口が減り続ける局面で、自分たちの人口が増えると考えること自体が相当に無理のある発想だ。

大切なのは、疎空間を、疎のまま、生き続けうる系へと育てることだ。

谷は、つくるものではない。育つものだ。
そして、育つためには、長く強く、しなやかにコミットし続ける、その土地を本気で残したい人たちが、いなければならない。

谷づくりは、正しい現状認識から始まる。

*1:参考: 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/report/press/kokudoseisaku03_hh_000269.html youtu.be

*2:Ambitions編集部 (著, 編集) Ambitions REGION (VOL.01) 大型本 – 2026/5/25

prtimes.jp

*3:国立社会保障・人口問題研究所 「日本の将来推計人口(令和5年推計) 結果の概要」https://www.ipss.go.jp/pp-zenkoku/j/zenkoku2023/pp2023_gaiyou.pdf

*4:東京新聞:能登半島地震は「風力発電」にも大打撃、発生直後にすべて停止 風車が破損、電源は使用不能に 2024年3月11日 06時00分 www.tokyo-np.co.jp および筆者も一員を務めた石川県 能登地震 復旧・復興アドバイザリーボード会議での知見より。

*5:Bosch, J. M., & Hewlett, J. D. (1982). A review of catchment experiments to determine the effect of vegetation changes on water yield and evapotranspiration. Journal of hydrology, 55(1-4), 3-23. ほかを参照

AI native時代の袋小路 ― 見立てる力はどこから来るのか


美山、和歌山、日本
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW


このところずっと頭の中から離れない一つの課題についてここに置けたらと思う。

2月の頭に、「スマイルカーブの終焉と『コ』の字型社会の到来」というブログをポストした。これからサイバー空間で閉じうる領域では、人間に残るのは、ディレクションとダメ出しだけになる、という話だ。

kaz-ataka.hatenablog.com

仮に、そのサイバーに閉じてしまう世界*1の場合、ディレクションを出したり、ダメ出しを行う人は今はいくらでもいる。莫大な経験を積んできた人たちだ。

一方で、現在すでに米国西海岸のエンジニアの世界などで起き始めているのは、この能力がない若い人は要らないという事象だ。急激に熟練Skillの低い新卒の需要が落ちていることは海外で顕在化しつつある。そしてシニア世代 ― いわゆるgray hair ― がAI時代に強いということが起き始めている。*2

Gray hairが現役のうちは社会は何とか回る。彼らが判断の最終防衛線として機能するからだ。しかし、このような形で十分な経験を持たない人たちが大半になった時、そして現在、ディレクションやダメ出しを行っている人たちがいなくなった世界で、一体、だれが舵を取るのだろうか。

ここに、次世代固有のさらに深刻な問題が重なる。次世代は、そもそも判断力そのものを獲得する機会を失う。判断力のない人間が "最後の責任を担う人(responsible person)" の席に座る。彼らはAIの出力を「承認」するが、本質的にそれを判別する身体知を持たない。

責任のクリーニング構造は完成する ― 誰も判断していない、誰も責任を負っていない、しかし社会は何かを決定し続けている、という構造として。

これが、このところずっと僕の頭を離れない問題だ。

判断は経験を蒸留したもの

現在、ディレクションやダメ出しが的確にデキる人(そもそも相当に少ないが)は、ほぼ例外なく、過去に相当量の判断過程を自分で行って来た人たちだ。やってみる。うまく行かない。煮詰まる。トラブルが生まれる。工夫する。三人よれば文殊の知恵が湧いたりする。寝かせてさらに知恵を出す。そんなことの繰り返しの中から、見出してきたポイントや抑えどころがどのような仕事にも大量に存在する。

しかも、一つの目的関数で判断できるような仕事は相当に少ない。実際には、たとえば飲料を自販機で売るみたいなときですら、自販機のロケーションオーナーと、その飲料を買う人のように、複合的な価値の受け手(顧客)が存在し、このバランスを取っていく必要がある。仕事の価値判断は基本、人が行うため、数字的に問題がなくとも、問題があればその案件は終わってしまう。

現場のナマのトラブルや、圧、摩擦を経て判断はこなれていく。これはハードなモノづくりの現場においてもそうだ。生産ラインを歩き回り、どのような調達と搬入過程、また搬出過程であるということをわかりながら、人の導線も見つつ最適化していく。それらはそんなに簡単な話ではない。

また、その中で、莫大なシステムの導入や新たなキカイの導入やプロセスのインプリをしながら人は判断を学んでいく。「これでは回らない」「これではアカン」という判断の後ろにどれだけ多くの経験があるか。その違和感や滑らかさを判断することは実際にはかなり生身的、身体的な活動になる。根本的にサイバーフィジカルシステムの人間版なのだ。

その蓄積が現在のシニア層の見立てや、ディレクション、ダメ出しの母胎になっている。つまり、上流に置かれた判断能力とは、大量の現実のナマの、場合によっては下流の経験を圧縮し、蒸留したものだと言える。

見えない供給システム

考えてみれば、社会はこれまで、判断力の育成を特別に設計してくることはなかった。にもかかわらず、ディレクションやダメ出しのできる人材は、世代を超えて再生産され続けてきた。

なぜか。

それはその判断力は実務の副産物として、ほぼ自動的に育成されてきたからだ*3。それなりにポテンシャルを持つ人間に、一定量の経験を与えれば人間はその能力を身に着けていく。

調達の伝票を切る作業の中で、「この支払いは何かが引っかかる」という感覚が育つ。契約書を読み込んでいるうちに、「この条項のこの一言は危ない」という嗅覚が育つ。現場の段取りを組むうちに、「この組み方では当日朝に必ずなにか問題を起こす」という知覚が育つ。コードを書くうちに、「ここで安易に近道をすると半年後に技術的負債として効いてくる」という知覚に基づく判断基盤が育つ。*4

これらの仕事の表面上の目的は、伝票を切ること、契約書を読むこと、段取りを組むこと、コードを書くことだ。しかし、その作業を通過する過程で、副産物として、見立てる力という社会の命綱が、無償で、ほぼ自動的に育成されていく。

ここで、もう一つ大事なことを書いておきたい。これらの仕事の多くは、本人がもともと「好きで」選び取ったものではない、ということだ。物流、ロジスティックス、調達、与信、品質保証、コンプライアンス、保守運用 ― 社会を実際に回している仕事の大半は、世の中に出るまで多くの人がその存在すら知らず、当然、好きになる機会もないままアサインされる類のものだ。やってみて初めて、その奥行きと面白さに気づく。あるいは、面白いと感じる前に、まずは現場の摩擦を受け、そこで判断の嗅覚を育てていく。

近年、若い世代に対して「好きを極めよ」「情熱を持てる仕事を見つけよ」という言葉がよく語られる。それ自体は悪いことではない。しかし、判断力の育成という観点から見ると、「好き」を入り口に据える発想だけでは決定的に足りない。なぜなら、社会の根幹を支える仕事の多くは、好きになる以前に、まず存在を知ることすらないからだ。そして、その「存在すら知らなかった仕事」に放り込まれて格闘した経験こそが、後に他の領域に転用できる判断力を生む。好きなことだけをやって育った人間は、好きなことについては詳しくなる。しかし、ディレクションやダメ出しに必要な、領域を越えて働く嗅覚は、必ずしもそこからは育たない。

これは、徒弟制度、丁稚奉公、OJTと呼ばれてきた人類が長らく無自覚に使ってきた知性継承の仕組みだ。誰も明示的に設計したわけではないが、社会のシステムとしてそうなっていた。仕事を回せば人が育つ。人が育てば仕事が回る。この循環の中に、社会の知的再生産が組み込まれていた。そしてその循環は、「本人が好きかどうか」とは独立に作動していた。

パイプラインが断ち切られるとき

ところが、コの字型社会への移行は、この副産物のパイプラインそのものを断ち切る。

最初からAIに包まれて育つ世代は、現場で「摩擦」を受けることがない。制約の中で、ヒリヒリする極限的な環境の中で、見極め、判断する経験を持たない状態になる。

伝票は切らなくていい。契約書は読まなくていい。段取りはAIが組む。最初のコードはAIが書く。これらの主要作業であった「中間工程」がきれいに消えていく。これは確かに生産性の観点では大きな前進だ。しかし同時に、社会がこれまで何百年もかけて無自覚に使ってきた、見立てる力の育成回路そのものを失うということでもある。

コの字型の論考では、人間は例外的な問題だけを対応する社会、言ってみれば修羅場対応に特化することになる、という話をしたが、その修羅場対応は多くの現場ではより的確な判断を行うシニアがやることになる。平常の仕事すら任せられない若手にそれをいきなりさせるというのは、訓練なき状態でリアルな戦場に放り込まれるのと同じだからだ。

その結果、生まれてくるのは、もっともらしい言葉を(キカイの力を使って)発することはできるが、現実には何も判断できない、本当の意味では何も回せない人たちになる。形だけのディレクション、形だけのダメだし、形だけの最終責任。中身は当然のことながら空洞になる。

現在は最初の表面化にすぎない

冒頭で書いた、西海岸で熟練Skillの低い新卒の需要が落ちているという話は、この構造変化の最初の表面化にすぎない。本当に怖いのは、その新卒たちが10年後、20年後にどう育つのか、誰も答えを持っていないことだ。伝票を切らせなくていい時代に、何によって若手の判断の嗅覚を育てるのか。コードを最初から書かせなくていい時代に、何によって若手に技術的負債の痛みを経験させるのか。

このパイプラインは、これまで「ただ存在していた」がゆえに、改めて設計するという発想すら生まれてこなかった。気づいた時には消えている、というのが副産物の宿命だ。これは個人の能力発達の問題であるだけではない。社会全体で本当の意味での深い知性をどのように育成し、担保し続けるのか、という問題だ。

本当のジレンマ

しかし、この変化が本当に厄介なのは、誰かが愚かだから起きるわけではない、という点だ。

むしろ逆である。

AIを徹底的に使い倒した組織や個人ほど、短期的には強くなる。伝票処理も、契約レビューも、コード生成も、マーケ施策立案も、AIを深く組み込んだ側が、速度でもコストでも競争優位に立つ。現場レベルで見れば、「AIを使わない」という選択は、もはや合理的ではない。

つまり、各組織・各個人が合理的に振る舞った結果として、社会全体では「見立てる力」の育成回路が消えていく。これは典型的な局所合理性と全体合理性の衝突だ。

若手に時間をかけて伝票を切らせる。コードを書かせる。契約書を読ませる。段取りを組ませる。短期的には非効率でしかない。AIにやらせた方が速いし、安いし、品質も安定する。しかし、その非効率の中でしか育たない判断力がある。

だから問題は、「AIを使うか、使わないか」ではない。使わなければ競争に負ける。しかし、使い方を誤れば、社会は長期的に判断力を失う。

ここに、AI native時代の最も深いジレンマがある。
これは単なる教育論でも、若者論でもない。

観察では届かない

ここで、次のようなことを言う人もいるだろう。

「いやそれでも、見立てる力の源泉は、必ずしも自分で全部やった経験ではないのではないか。鷹匠は自分で空を飛ばない。外科の教授は最新術式を全部自分で執刀しているわけではない。優れた編集者は自分で全部の作品を書いてはいない。だとすれば、AIの出力を大量に観察し、批評し、修正する経験は、それ自体が新しい形の経験蓄積になり得るのではないか」

実際、僕自身も、いまの自分の見立てる力の多くは、たしかに色々やっては来たことから育った部分が大きい。しかし、何もかも自分でやってきたわけでもない。大きいのは、大量に現場で観察し、学び、比べ、引っかかりを感じ、なるほどという背後の仕組みや動き方について理解を深めてきたことの積み重ねだ。なので「全部自分で手を動かさなければ、見立てができる力は育たない」というシンプルな主張は正しくない。

しかし、ここからが本当に大事なところなのだが、観察によって見立てる力が育つには、絶対的な前提条件がある。それは、観察する側の身体に、すでに染み込んだナマで多様な経験が相当量存在することだ。

ある領域で高い判断力を持つ人が人の仕事を見て即座に「これは違う」と感じられるのは、若い頃に自分の手で実装し、現場で失敗し、痛い目に遭った経験 ― 言ってみれば身体知 ― が身体の側に残っているからだ。その身体知が観察の解像度を作っている。だからこそ他者の経験を「自分のこと」として咀嚼でき、比較でき、違和感を持つことができる。

外科の専門医が最新の術式を見て、抑えどころが見抜けるのは、若い頃から自らの手で多くの手術を経験し、想定外のトラブルも色々起き、それをさばき、時には失敗もし、救えなかった夜も経験してきたからだ。大学の演習ぐらいでしか手を動かしたことのない人が同じ術式を見ても、何が優れていて、何がリスキーなのか、この辺がポイントなんだなということは見えやしない。すぐれた編集者が原稿を見て、ここを大きく見直しましょう、とドンと見抜けるのも、長年、テキストを形にする中で、しびれ、考え抜いてきた経験が身体に染み込んでいるからだ。その経験がない人間が観察をしても、違いは見えてこない。

判断の空洞化

AIが人の育成現場で与件となってしまう世界の到来が本当に恐ろしいのは、まさにこの最初のナマ経験すらスキップさせかねないという点だ。

実装したことのない人間が、AIの出すコードを「批評」する。契約書を一度も書いたことがない人間が、AIの出す契約書案を「承認」する。現場に立ったことのない人間が、AIの出す段取りを「判断」する。顧客と向き合ったことのない人間が、AIの出すマーケ施策を「決裁」する。

形式上、批評・承認・判断・決裁は成立している。しかし中身は何もない。なぜなら、何が良くて何が違うのかを判別する身体側の根拠が、そもそも存在しないからだ。

本人にも周囲にも、見立てが空洞であることが見えない。形式は完璧に整っている。アウトプットは出ている。組織は回っているように見える。会議は進行している。決裁印は押されている。

しかしそこで下されている「判断」は判断ではない。AIへの追認にすぎない。そして、追認している本人すら、自分が追認しているだけだということに気づかない。なぜなら、追認と判断を見分ける身体側の物差しを持っていないからだ。

ここに、コの字型社会の最も深い問題がある。これはかつて書いた『責任のクリーニング構造』 ― いや、『責任の漂白構造』といっていいかもしれない ― が、次世代に⾄って完成する姿だ。

ではどうするか

ではどうするか。打つべき手は、おそらく三つの層に分かれる。

第一は、教育における「人間が通過すべきプロセス」の再設計だ。教育の目標を、アウトプット効率ではなく、知性形成プロセスそのものに置き直す。具体的には、若い世代に「AIに任せてもいいこと」と「自分で苦労してでも通過すべきこと」を意図的に分離する規範をつくる。スポーツでウェイトトレーニングを「効率が悪いからやらない」とは言わない。判断力の筋トレとして、わざわざ非効率なルートを残す。それが社会的に合意されている必要がある。そう、これはAIを排除するのでも、AIに任せるのでもなく、人間が通過すべきプロセスを意図的に守る設計だ。あわせて、「好きなこと」だけを入り口にせず、本人がまだ存在すら知らない領域に意図的に放り込む経験を残すこと ― これも社会的に守るべき設計の一部だ。

第二は、組織における判断力育成を意図的に設計しなおすことだ。これまで実務の副産物として無償で得られていた判断力育成を、AIに作業を奪われた後の世界で、意図的に作り直す。若手にあえて責任を背負わせる場を作る*5。AI出力の批評・修正・再設計をスキルとして体系的に訓練する。gray hair世代の判断パターンを、単なるノウハウではなく「どんな兆候を見て、どう疑い、どう確かめるか」という判断プロセスとして言語化し、継承する。データサイエンティスト協会のスキル定義v6で、僕らが「価値創造リーダー/デザイナー」という新しい役割を打ち出しているのも、ここに踏み込む試みだ。*6

第三は、AIの届かない領域 ― 「閉じない世界」 ― を意識的に残すこと*7。物質、身体、時間の一回性の中にしか成立しない経験。育児、介護、職人仕事、自然との関係、現場の身体労働。これらは構造としてAIが最も触れにくい領域であり、同時に、人間の判断力の最初のナマ経験が育つ最後の砦でもある。僕らが取り組んでいる「風の谷をつくる」運動も、結局のところこの話と地続きだ*8。都市最適化アルゴリズムが導き出す「効率的な生」から一歩外れ、自分の身体で世界に触れる場を残すこと ― それは単なる地域論ではなく、次世代の判断力を育てる土壌を社会的に残す試みでもある。

最後に残るもの

AI時代に最後まで価値を持つのは、おそらく単なる知識ではない。「現実と長期間格闘した痕跡」だ。その痕跡なしには、本物の判断力は育たない。判断力なしには、AIをどう使うかも、最適化関数をどう書き換えるかも、決められない。*9

僕らがいま打つべき手は、これからますます高度化するAIを使いこなす技術を磨くことではない。AI時代にも人間が現実と格闘し続けるための仕掛けを、教育と組織と社会の作りのすべてのレイヤーで設計し直すことだ。地味で、面倒で、すぐには成果の出ない仕事だ。

しかし、ここで手を打たなければ、社会は確実に痩せる。
そしてその痩せ方は、しばらくの間、誰にも見えない。

これが大きな分岐点となることをしっかりと意識し、未来に向けて仕込んでいけるか、それが今、僕らに問われている。


ps. 英語版はこちら:
“Where Does Judgment Come From? — The Hidden Dead End of the AI Native Era”
medium.com

*1:特に顧客フロントでも、商品やサービスを開発するバックエンドでもない世界、いってみればミドル領域

*2:実際、海外のAI専門ベンチャーの動向を見ても、数万人規模の熟練専門家を破格の条件で雇用してAIの教育(ディレクションの模範)を行わせる企業が急成長する一方、市場では22〜25歳層のエンジニア・フリーランサーの雇用が急速に失われ、経験に基づく「仕様定義・ディレクション能力」を持たない若年層の需要低下が顕在化している。Lodefalk, M., Löthman, L., Koch, M., & Engberg, E. (2026). Same storm, different boats: Generative AI and the age gradient in hiring (Working Paper, No. 2/2026). Örebro University School of Business. Available at: https://hdl.handle.net/10419/339320 他を参考

*3:少なくともこの中で気づく力の高いリーダー層はそうなる。そうではない人は、リーダー層の知恵を型紙化してもらい、それを学習することになる

*4:これらの業務の多くはそもそもその世の中に存在していたのかすら、その個人はアサインされるまで知らなかったりする。が、しかし、そのような経験を積んでいくうちにSkillは育っていく。

*5:昨年年始に落合陽一氏と対談した際、「修羅場 with AI」というフレーズが出てきた。これは、AIを取り上げて若手を素手で修羅場に放り込むのでもなく、AIに任せて修羅場そのものを回避させるのでもなく、AIを使いながら本物の修羅場を一緒にくぐらせる、という発想だ。氏が小中学生向けのワークショップで実際に試しているのは、AIと共に考えなければ完了しない難度の課題で、そうした課題を与えられた子供たちはむしろ「キラキラしてくる」という。これは、AI時代の判断力育成の方向性を示す重要な手がかりだと思う。(参考)「超イヤな世界が待っている」死にたくてもAIが生き続ける…人間をどうスクリーニングする?2060年の世界大予測【安宅和人×落合陽一】NewsPicks /ニューズピックス https://www.youtube.com/watch?v=h153FOAJ5tU

*6:www.datascientist.or.jp

*7:kaz-ataka.hatenablog.com

*8:

aworthytomorrow.org

*9:最適化関数の話については以下の論考をご参考。 kaz-ataka.hatenablog.com

年間二千人じゃだめなんですか? — 社会は高度知性をどう使うのか


Numbered, in the storm.
Rusutsu, Japan
Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


2015年春、文部科学省とROIS(情報・システム研究機構)による緊急の集中討議で、ビッグデータ・AI時代の人材育成についての総合検討が行われていた*1

その際、僕は、

  • リテラシーレベル(年間約50万人)
  • 専門レベル(年間5万人) 上の約1割がここに進む
  • トップ人材・リーダー層レベル(年間5000人) そのまた1割がここに到達

という三層構造での人材育成を提案した。

「これは一部の専門家の話ではない」 からであり、裾野の広がりが国としてのその分野の本当の基礎体力、強さになるからだ。明治において、世界の主要国に大きく遅れることなく進めた学制の制定と展開の話に近い*2

-

僕があの場で言ったのは、

「法学であれ経済学などの社会科学であれ、はたまた歴史や哲学のような人文系の分野であれ、形態素解析や統計解析、あるいは機械学習を用いて研究を行うことが、いずれ当たり前になる。逆に言えば、こうした素養を持たない人は、知的労働市場で急速に苦しくなる」

そして実際、多くの分野でそうなりつつある。

つまりこれは、新しい専門職を作る話ではなく、社会の基本素養を書き換える話だった*3

ところが、その議論の最中、検討の責任を担っていた文科省側のトップの方から、こんな問いを受けた。

「年間2000人ではだめなんですか? そんなに育てて、社会の受け皿はあるんですか? その責任は誰が取るんですか?」

提案した50万人に対して、2000人。提案の 0.4%以下 である。
その時、僕はこう返した。

「これは専門技能ではなく、新しい時代の“読み書きそろばん”なんです。我々の子や孫たちを路頭に迷わせたくなかったら、専門が何であろうと、やるべきなんです」

結果として、この集中討議は、その後の「数理・データサイエンス・AI教育」の立ち上げや、理研・産総研・NICTによる三つのAIセンター構想へと繋がっていった。だから、議論そのものは決して無駄ではなかった。

ただ、議論の入り口でこの問いが出てきたという事実は、いまも僕の中に残っている。この問いには、日本社会の「知の使い方」そのものが現れていたように思う。

-

最近、主要国のPhD(博士号取得者)の分野構成やキャリア構成を眺めていて、改めてそのことを考えさせられた*4

主要国の新規博士号取得者 分野別実数(推定値)

同じ問いは、実は、より「上」のレイヤーでも繰り返し問われてきた。リテラシー層だけでなく、高度抽象知のレイヤーでも、構造的に同じことが起きている。

日本の博士号取得者は年間約1.6万人程度。そのうち4割超が保健・医学系であり、人文・社会科学系は合計でも1割に満たない。

一方、米国や欧州では、理学・工学・社会科学・人文科学が比較的厚く存在している。もちろん単純比較はできない。国ごとに制度も文化も違う。ただ、構成比を見ていると、それぞれの社会が「何を高度知性として重視しているか」が透けて見える。

中国は工学が突出している。国家建設と産業競争力強化への集中投資だろう。 フランスは理学と人文が厚い。理論知や教養知への強いコミットメントを感じる。 日本は保健系が極めて厚い。これは臨床医の学位取得文化とも関係している。

それ自体が悪いわけではない。 だが同時に、日本では社会科学や人文科学のPhD層が、極めて薄い。

25歳人口1万人あたりの新規博士号取得者数(概数)

人口補正をすると、日本の特異性はさらに際立つ。日本は「博士が少ない国」というより、「高度知性を、極めて限定的な領域にしか配分していない国」に近い*5

-

実は、僕は2008年から2009年にかけて、これに近い話をブログで書いている。当時のテーマは「ポスドク問題」だった*6

日本は、人口比でアメリカの2.4分の1しかない。にもかかわらず、主要大学から生み出されるPhDの数はアメリカと遜色ない。一方で、産業側の吸収余力はライフサイエンス系で言えばアメリカの10分の1しかない。「アメリカの10分の1のバケツに、同じ量の水を流し込んでいる」と、当時の僕は書いた。

いま振り返ると、当時の僕は、この問題を「供給過剰」として捉えていた。だが、17年経って気づくのは、問題はそこだけではなかったということだ。
本質は「人数」ではない。バケツとバケツの間に、水が流れる回路があるかどうかだ。
高度抽象知を持つ人材が、社会のどこに流れているのか——本当に重要なのは、そこだ。

-

よく誤解されるが、米国でも欧州でも、PhD取得者の大半がテニュア教員になれるわけではない。むしろ逆だ。

米国NSF(国立科学財団)の追跡調査でも、ライフサイエンス系などで最終的にテニュアに到達するのは10〜15%程度とされている*7。理学系・社会科学系全般を見ても、感覚的には1割前後と言っていい。
では残り9割はどうなるのか。 ここに、社会構造の差が現れる。

-

欧米では、PhDは「大学教員資格」ではなく、 高度な抽象化能力・構造化能力・問題設定能力を持つ人材 として扱われる。

これも同時期にまとめたが、米国の主要大学のPhDプログラムは、明確に二つの能力育成を目的にしている。「independentな研究のプランニング・遂行能力」と「大学における教育能力」だ*8。研究者の基礎免状であると同時に、教員の基礎免状でもある、という発想が、制度として組み込まれている。

だから、研究そのものだけでなく、構造化された文章を書く力、議論する力、若い人を導く力、プロジェクトを設計しマネジメントする力、といった移植可能なスキルが体系的に育てられる。これらは、研究を離れても通用する。

そして米国ではこの動きが「Alt-Ac(Alternative Academic)」として概念化されており、テニュアを目指しつつ、そうならなかった場合の展開も学位取得の段階から視野に入れるのが、ごく普通の設計になっている。アカデミアの外に出ることは「脱落」ではなく、戦略的な転回(pivot) だ。

だから、大学の外に広い受け皿がある。

テック企業では、心理学・言語学・哲学の博士がUX設計、AI倫理、自然言語処理の評価などに入る。 歴史学の博士が、リサーチやインテリジェンス、政策分析に関わる。 社会科学系PhDが、政府、中央銀行、国際機関、シンクタンクで意思決定を支える。日本の大学関係者から見ると驚かれるだろうが、大学のadministratorがPhD保持者であるのは日常的であり、積極的に求められる。

つまり、社会全体に「知の市場」が存在している。 大学・政府・産業が、高度知性を介して循環している。

-

一方、日本では、博士人材、とりわけ文系博士の出口が極めて狭い。

企業側には、「専門しかできない人」「実務に向かない」という固定観念が根強い。 逆に大学側も、「アカデミアに残れない=敗北」という空気をいまだに引きずっている。

加えて、「一度民間に出てから、実務家教員として大学に戻る」という双方向の流動も乏しい。最初からテニュア一本に賭けて敗れる、という極めてハイリスクな構造が温存されている。

結果として、

  • 大学
  • 行政
  • 産業
  • 社会実装

の間で、知が流動しない。 高度抽象知が社会に埋め込まれない。

-

だが、AI時代には、この問題はむしろ深刻になる可能性が高い。
なぜなら、実行部分がAIによって急速に圧縮されるからだ*9

コーディング、分析、制作、調査、翻訳、要約、、これらの「実行」過程はAIに代替されていく。

その時、人間側に残る価値は何か。

  • 問いを立てる
  • 構造を読む
  • 意図を設計する
  • 文脈を扱う
  • トレードオフを捉える
  • 何を最適化するかを決める

そうした領域に寄っていく。

以前から「コの字型社会」という言い方をしてきた。スマイルカーブが「両端が高い」形だとすれば、コの字型は「実行という中央が圧縮されきって、両端だけが残る」形だ。人間の価値が、「方向づけ」と「最終判断」に偏っていく構造である。

つまりAI時代は、「高度抽象知を社会にどう埋め込むか」が競争力そのものになる。

-

2015年当時、「そんなに育てて受け皿はあるのか?」という問いは、ある意味では自然だったのだと思う。
当時、多くの人には、データサイエンスやAIはまだ「特殊技能」に見えていた。

だが実際に起きたのは、特殊技能化ではなく、 "読み書きそろばん化" だった。

そして今、同じことが、より広い意味での「高度知性」全体に起き始めているように見える。

-

本当に問われているのは 「PhDを何人育てるか」 ではない。

むしろ、社会は高度知性をどう循環させるのか、だ。

*1:https://www.rois.ac.jp/open/pdf/bd_houkokusho.pdf https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu23/002/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/11/19/1364662_002.pdf

*2:kaz-ataka.hatenablog.com

*3:これらの数理データサイエンスAIスキルはこれからの時代の読み書きそろばんであるということは2013年春のDS協会設立の直後から言い続けてきたが、ついに定着したように思う。

*4:本数値は、文部科学省 科学技術・学術政策研究所(NISTEP)「科学技術指標2024」および各国の公的教育統計(米国NSF、中国教育部等)の2020〜2021年前後の実績値を基に、分野別の構成比から算出・概算。各国の学術体系の違いにより、細部の分類(例:心理学の帰属先など)に差異があるが、全体的な構造比較(日本の保健系偏重や中国の工学重視、欧米の社会科学層の厚みなど)を可視化するために再集計を行っている。

*5:国際比較の精度を高めるため、総人口ではなく学位取得年齢に近い「25歳単年人口」で正規化。数値は国連(United Nations)"World Population Prospects" における2024年時点の各国の25歳(単年)推計人口を使用。https://population.un.org/wpp/Download/Standard/Population/

*6:kaz-ataka.hatenablog.com kaz-ataka.hatenablog.com

*7:米国国立科学財団(NSF)の「学位取得者追跡調査(SDR)」および米国国立衛生研究所(NIH)の諮問委員会報告書(2012年)に基づく。1970年代以前は取得者の過半数がアカデミアに残る構造であったが、近年の供給過多とポストの固定化により、バイオ医学や理学系を中心に、学位取得後5〜6年時点でのテニュアトラック到達率は15%を下回る水準まで低下している(Science誌掲載のP. Stephan教授らによるマクロ分析等でも「1割台」が定説となっている)。米国国立科学財団 (NSF) SDR調査: https://ncses.nsf.gov/surveys/doctorate-recipients ; NIH 若手研究者キャリア報告書: Biomedical Research Workforce Working Group Report

*8:kaz-ataka.hatenablog.com

*9:kaz-ataka.hatenablog.com

AIの透明性とはなにか?


Inspiration is not traceable
Daruma Temple, Takasaki, Gunma, Japan
Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


いつだったか、映画her*1の主人公サマンサ(パーソナリティを持つAI)の声であった、女優スカーレット・ヨハンソンが、OpenAIが生み出す音声に酷似しているということでちょっとした揉め事になったことがあった。

www.wired.com

サム・アルトマン(OpenAIの発起人)はスカーレットに事前に打診したが、色々思案した上、彼女がNOといったにも関わらず、自分の声そっくりの声が使われていたからだ。

この一件は、「似ている」「依拠している」という問題の象徴的な例だ。

だが本質的な問いは、「どこまで似ているか」ではない。AI時代において、何をもって透明性が担保されたとみなすのかだ。

-

様々なテキストや画像、音声、動画などを生み出す生成AIが社会に浸透し、多くの人が依存するようになるようにつれ、AIの透明性議論が盛んになりつつある。

そのアウトプットが、特定のコンテンツに依存(依拠)している度合いがどのぐらいあるのか。これはコンテンツホルダー側としては権利問題に直結し、利用者側にとっても安心して使えるかどうかを左右する。

この論点が整理されない限り、生成AIの社会実装は広がっても、安心して使える基盤にはならない。これからの社会は、生成AIを所与(given)のものとして動いていく可能性が高い。極めて重要な問題だ。

-

一見すると、この問題は「そのアウトプットがどのコンテンツに依拠しているかを特定できるか」という問いに見える。しかし、それは表層的だ。

実際に起きているのは、人間同様に、いやむしろ人間以上に貪欲に膨大な情報を学習した生成AIが、その自らの意思ではなく、利用者の意思により、学習した内容を使いながらアウトプットを生成するという構造だ。

これは人間のオマージュや剽窃とは構造的に異なる。

-

人間と生成AIの違いは、少なくとも三つある。

第一に、AIは巨大な確率分布として学習しており、個々の着想の起源を自己申告できない。人間もまたインスピレーションの起源を説明できると感じることはあるが、それは多くの場合、後付けの解釈に過ぎない*2。AIの場合、その知識が分布として埋め込まれているため、この問題はより顕著になる。

第二に、学習した主体と出力を求める主体が分かれている。人間は自らの経験*3をもとに自発的に*4何かを生み出すが、生成AIは学習した主体と利用する主体が分離している。この非対称性が依拠性の議論を難しくする。

第三に、出力がプロンプトという外部入力に強く依存する。人間の場合はそもそも明示的なプロンプトもなく何かを生み出すわけだが*5、生成AIの場合は、入力条件によって出力が大きく変わる*6

かつて深層学習において画像を識別するコンボリューション(畳み込み)的なモデルを触ると、人間における夢のような出力が実際には自発的に生み出しうるという話があったが、これと現在の生成AI出力の議論はだいぶ違う。

-

では、透明性はどのように担保されるべきなのか。現在の議論はやや極端だ。「元ネタを吐き出せ」「URLを示せ」という要求がなされることも多い。*7

しかし、これをそのまま制度要求とするのは現実性が低い。むしろ、「元ネタを完全に遡及できるはずだ」という前提そのものが、AIの構造と整合していない可能性がある。

これはデジタルマーケティング分野におけるattributionの困難性についての議論に近いが、モデルの巨大さと学習規模を考えれば、その困難性は桁違いだ。

また、人間の創作に対して完全な起源追跡可能性が求められたことは歴史上一度もない。にもかかわらず、AIにだけそれが要求されているとすれば、その正当化は極めて慎重に検討される必要がある。

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そもそも、学習データを全て保持し、後から参照可能にするというモデル自体が現実的ではない。

Webのアーカイブ(魚拓サービスなど)ですら完全ではない。今後、Physical AI*8が進展し、リアルワールドの情報を継続的に学習するようになれば、その全履歴を保存することは不可能に近い。エッジ(端末側)のみで取捨選択しつつ学習しているものの全対象を取っておくということも当然ほぼ不可能だ。

(このPhysical AIが産業と競争の構造そのものをどう変えるかについては、以下のエントリで論じている。)

kaz-ataka.hatenablog.com

-

現実の研究・実務で行われているのは別のアプローチ、memorizationの検証だ。

すなわち、同様の条件やプロンプトのもとで、同一または極めて近い出力が再現されるか。既存コンテンツとの完全一致(exact match)が起きるかというような話だ。なお、Memorizationはあくまで閾値の設定であり、完全遡及とは次元が異なる。このようにアウトカムベースで判断するのが、現時点で最も現実的な方法だ。*9

人間におけるオマージュや影響関係を一定程度許容しながら、AIにだけ完全な起源追跡可能性を求めるのであれば、その差はどこにあるのかという説明が必要になる。

-

これを踏まえると、現実的な制度設計は次のような方向になる。

一つは、依拠性を確率的に評価することだ。すなわち、特定の作品への依存度をbinary(白黒)ではなく、段階的に評価する(例えば8〜16段階程度)。一定の閾値を超えた場合にのみ、著作権的な問題として扱う。

これは、AIの本質が確率分布である以上、自然な整理でもある。

-

依拠性の確率的評価が制度として機能するためには、より本質的な問題は別にある。

それは依拠性の哲学ではなく、それをどう運用するかという取引コスト(transaction cost)の問題だ。

人間の手による創作物*10は数が限られている。しかし生成AIのアウトプットは桁違いに多い。従来の個別判断・個別交渉型の仕組みは、このスケールでは成立しない。

必要なのは、個別証明ではなく統計的な把握、手作業ではなく自動化、個別交渉ではなく標準化だ。すなわち、APIベースで自動処理されるone-stop clearingの仕組みである。

-

ここでようやく見えてくる。問題は透明性(transparency)の有無ではない。

「何を開示するか(disclosure)」ではなく、「どの程度観測できるか(観測可能性:observability)」であり、さらに「どのように制御・運用できるか(operability)」だ。

ここでいう観測可能性とは、個別の起源を特定することではなく、出力の性質や再現性、依拠の度合いを統計的に把握できることを指す。

AI時代に必要なのは、「何を学んだか」を完全に遡及することではない。「何がどの程度再現されるのか」を現実的に観測し、必要な対価と制御を滑らかに回せる制度である。

透明性は、開示の問題から、観測と運用の問題へと移りつつある。

それは、AI時代において「何を知るか」ではなく、「何を制御できるか」が問われ始めているということでもある。

-

次の図は、この整理を模式的に示したもの(AI時代の透明性の再定義:Transparency Stack in the AI Era)だ。人間だけがアウトプットを生む時代とは、いかに異質な仕組みを用意せねばならないか、感じてもらえるのではないだろうか。

*1:この印象的な映画についてエントリを書いたことがあるのでよかったらご覧頂ければと思うkaz-ataka.hatenablog.com

*2:思いつきに近いものの場合、なんとも言えないものも多い。

*3:本のような生経験をした人の作品を通じる部分も多分にある

*4:あえて"意思"とは言わない

*5:とはいえ、試験の回答だけでなく、自力で言語的に課題設定できる人もいないわけではない

*6:通常何らかのプロンプト(実際にはコンテキスト的なものの読み取りも含む)をベースに出力する。

*7:追記:本ポスト公開後、透明性の定義についていくつか議論があったので補足しておく。 いわゆるブロックチェーンや金融トランザクションのような「閉じた計算系」においては、検証可能性や不変性を基盤とする透明性は極めて有効であり、本質的な要件でもある。 一方で、生成AIのように外界から継続的に情報を取り込み、学習と生成が分離された「開いた学習系」においては、完全な検証可能性を前提とすること自体が難しい。 この違いを区別しないまま透明性を論じると、現実の構造と整合しない要求が制度として組み込まれるリスクがある。

*8:『現実世界で自律的に判断しながら動けるAIシステム』全般を指し、必ずしも『ロボット』とは限らない。生成AIが頭脳なら、Physical AIは頭脳だけでなく体も持ったAI。

*9:逆に学習したものを全部記録しておき、かなり難しい特定のoutputに対するattributionを出せというのは本来無理な話だ。

*10:油絵やスタジオで記録される音楽など

第六の象限


Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


2015年の秋、ハーバード・ビジネス・レビューの誌上、そして経産省 産業構造審議会の場で、ひとつの地図を示した。縦軸にモノ・カネ、横軸にデータ・キカイをとった産業マトリックスだ。当時、多くの論者の目はGAFAを筆頭とするNew economyの台頭に向いていた。しかし僕が注目していたのはそこではなかった。リアルとサイバー両方の強みを持つ「未開領域」に、第三の勢力が現れる。そこが本当の主戦場になる、と。

その見立ては、おおむね当たった。TeslaがGM (General Motors) の企業価値(時価総額)を初めて上回ったのは2017年4月*1のことだ。販売台数で100倍以上の差があった相手に。これは単なる逆転劇ではない。富を生む方程式が変わったことの、最も明快な証拠だった。

Uber、Kiva(現Amazon Robotics)、Alibaba。彼らが示したのは、リアルとサイバーを統合した設計の力が、アセットの規模を超えうるということだった。

当時、この第三勢力を「電魂物才」という言葉で表現していた。サイバーマインドを持ったリアルの企業、という意味だ。しかし実際に台頭してきた企業たちを観察するうちに、重心は逆だと気づいた。勝ち筋はモノとリアルへの圧倒的な執着を核に置き、そこにデジタルの才覚を組み合わせることにある。「電魂物才」ではなく「物魂電才」だ、と2022年に書いた。


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そして今、地図をもう一度更新しなければならない時が来た。

あの4象限の図に、新しい象限が加わっている。右下、New economyのさらに先に、OpenAI、Anthropicといった「AIプラットフォーム (PFs)」が出現した。同時に右上、第三勢力の先にも、未踏の領域が広がっている。4象限は6象限になった。これは単なる区画の追加ではない。競争の次元そのものが変わったことを意味している。

新しく加わった列は、他の象限と何が違うのか。

Old economyが競っていたのは実行力とアセットの規模だった。New economyが競っていたのはデータとプラットフォームの支配力だった。第三勢力が示したのは、両者を統合する設計の力だった。では、AI PFsが持ち込んでいるのは何か。

それは判断基盤の設計、すなわち「何を最大化するか」という関数そのものを定義する力だ。

なお、New economy側も手をこまねいているわけではない。MicrosoftはOpenAIに計算基盤を提供しつつその恩恵を受け、GoogleはGeminiで自らAI PFになることに賭け、AWSはAnthropicを支えながらクラウド基盤を握ろうとしている。

第六象限とその周縁をめぐる争いは、外からの挑戦だけではない。隣の象限からの越境でもある。本稿でいう「第六象限」とは、この新しい列の中核に位置するAI PFs(何を最大化し、何を選別し、どこで閉じるかを設計する層)を指す。

日本にも、AIで価値を生み出しているプレイヤーはすでに少なくない。彼らの多くはAI PFsの内側ではなく、その縁に位置する。PFsを使い倒しながら成長する存在であり、同時にPFsに吸収されうる存在でもある。この力学は、第六象限の内側だけでなく、その境界上でも形づくられている。

スマイルカーブの終焉のエントリで書いたように、生成AIとエージェントが統合されると、サイバー空間で閉じる仕事の「途中工程」がほぼ消える。残るのはディレクションとダメ出し、判断の両端だけだ。この構造が成立するとき、価値の帰属先は実行の現場ではなく、最適化の前提を設計した側に移る。AI PFsはまさにそこに位置している。


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しかも、この第六象限の怖さは静けさにある。関数主権のエントリで論じたように、モデルが外部基盤に依存すれば、判断のOSが外にあることになる。組織は「人間が最終確認した」と言う。確認者は「AIがそう推奨した」と自分を納得させる。判断主体は霧散し、責任だけが残る。自覚なき主権移転だ。


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AI PFsが握る力の本質は、単なる設計力ではない。閉じない世界の中で、どの摩擦を取り込み、どこで閉じるかを決める力だ。

しかし第六象限をめぐる話は、ここで終わらない。

Physical AIの台頭だ。Physical AIとは、関数(何を最大化するか)が、現実世界の動作として実装される段階である*2。TeslaのOptimusやFigure、1Xなど、ヒューマノイドはすでに工場や物流の現場に立ち始めている。これは第三勢力と接続しながらも、第六象限の展開領域として理解すべきだ。リアルとサイバーの統合がついに「身体」を得た瞬間だ。4象限の図でいえば、右上の未開領域への侵入が、これまでとは桁の違う速度で始まっている。

ただし正確には、Physical AIは第六象限そのものではなく、その展開領域にあたる。とりわけミッションクリティカルな用途では、クラウド依存では成立せず、エッジや閉域を含む新たな構成が前提となる。

しかもPhysical AIの構造は単純ではない。ヒューマノイドは身体を持つが、その判断基盤はAI PFsが握っている。つまり第六象限の関数が、ついにアクチュエーターを得たということだ。サイバー空間で閉じていた設計の支配が、物理世界の実行をも包含し始めている。軽いものが重いものを支配するという構造が、ついにリアルの身体にまで及ぶ。

この図で示しているのは、Physical AIが産業を右上へ押し上げる力として働いているということだ。

閉じる世界と閉じない世界のエントリで、天ぷら職人や陶芸家を例に、身体と物質と時間の一回性はAIには圧縮できないと書いた。その論は今も正しいと思っている。しかしPhysical AIは、その「閉じない世界」の境界線に、明らかに近づいてきている。完全には侵食できない。ただ、その境界がどこにあるのかは、もはや自明ではない。

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では、第六象限の外に立つプレイヤーはどうすればいいのか。

選択肢は二つある。一つは、自ら設計の中心に立つ道。判断モデルを内製し、最適化関数を自分で定義し、データ統合基盤を握る。もう一つは、自分の領域に踏みとどまりながら、第六象限で起きている変化を観察し、組み込み、使いこなす道だ。後者は受動ではない。むしろ高度な主体性を要求する。自分の領域に固有の摩擦、技術・制度・文化・運用の摩擦を、どこまで設計に昇華できるかが勝負になる。

Physical AIが本格的に展開する世界では、この問いはさらに切実になる。ヒューマノイドが現場に入ってくるとき、その動作を支える判断基盤を誰が設計するのか。現場固有の摩擦、すなわちその工場の、その工程の、その素材の、その季節の摩擦を誰が知っているのか。それを設計に織り込めるのか。ここに、まだ勝負の余地がある。

モノ・設計・運用データの三点を統合する主体が、次の競争を制する。かつての「物魂電才」という表現は、今の変化を前にすると枠組みとして狭くなってきた。名前より構造だ。

Physical AIが物理世界に着地するとき、その着地点に何を置くか。そこに残る固有の摩擦を、どう設計の言語に変換するか。それがいま、問われている。

2015年は、どこで戦うかの時代だった。
2020年は、誰が勝つかの時代だった。
2026年は、何で支配するかの時代だ。

だが『支配するか、されるか』という問い自体が、すでに第六象限の論理の内側にある。

第六の象限と自分の間に何を置くか。
それは戦略ではなく、設計の問題である。

自分たちは、何を最大化するのか、
それが問われている。

*1:トヨタの企業価値を上回り、世界で最も時価総額の大きい自動車メーカーになったのは2020年7月1日

*2:デジタル情報だけでなく、現実世界の状態をセンサーで捉え、AIが判断し、ロボットやシステムを通じて物理世界に作用する技術領域