菌類人類


土が生まれる現場 @山梨県八ヶ岳
1.4/50 Summilux ASPH/ Leica M10P
安宅和人『風の谷という希望』(英治出版、2025)図版8-9より

昨夜、宇野常寛さんの宇野書店にて*1、『風の谷という希望』(#谷本)の出版記念で、対談を行った。

note.com

宇野さんは #谷本 をご覧になった人なら御存知の通り、この風の谷をつくる運動の立ち上げ段階からのメンバーであり、風の谷憲章の起草者の一人でもある。御立尚資さんと僕との3人で、このプロジェクトの様々な班の源流の一つというべき文化・全体デザイン班を担当している。ちなみに、もう一つの源流が熊谷玄さん、大藪善久さんが率いられている空間デザイン班だ。

移動の際にあまり経験したことのないレベルの大渋滞に巻き込まれ、大幅に遅刻してしまったのだが、他にも風の谷側からコアメンバーが何人も参加していたので(白井智子さん、菊池昌枝さん、鈴木款さん、占部マリさん)、うまく場を繋いで頂き心から感謝している。

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僕が25分ほど遅れて加わってからは、まず僕の方から「風の谷」と僕らが呼んでいるものは何なのかという話から始まり、続いて宇野さんとの公開対話、文化・全体デザイン班的な議論が行われた。かねがね重要な問題だと僕らが考えているガバナンスについて、ひとしきり議論が続いた。具体的にいえば、

  • 「谷」の豊かさと成長エンジンである多様性と包括性をいかに育んでいくか
  • 集団行動は苦手だが、谷を愛し、暮らす人をいかに包括し、「谷」をガバナンスしていくか
  • 空間・景観・文化価値に深いダメージを与える人たちの発生をいかに予防するか

といった話題だ。

この延長で、文化・全体デザイン的なメインテーマである、疎空間でありながら、価値創造、変化を生み出し続けられる空間、文化の土壌とは何か?ハレではなくケの中からクリエーションを生んでいく場とは?それはどういう人達でそういう人達が集まってくる空間とは?という投げ込みが宇野さんからあった。

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それを受け、僕が語り、宇野さんと盛り上がったのは次のようなことだった。

谷本をご覧になった人なら理解して頂けると思うが、「土壌」すなわち「土」は、僕らの大好物なテーマであり、ある種、谷作りのすべての前提課題の一つと言える。土は、地球以外のどこにも存在していない。月にも火星にも全く存在しない。なにもないところから人間がつくることも出来ない(『風の谷という希望』第8章、第13章)。

土は、砂利、砂、粘土、莫大な生物の死骸と成れの果て(腐葉土など)、微生物・菌類、大量の水の集合体であり、その土地の豊かさそのものを反映している。水が一滴もなく、生物がいたことすらない月や火星に土がないのは当然と言える。

重要なのは、土壌が豊かになるプロセスだ。単に他所から花を持ってきて植えても、土地は肥沃にならない。過去の生物の死骸を微生物や菌類が分解し、栄養として循環させる環境があってこそ、真に豊かな土壌が生まれる。分解者がいなければ、どんなに立派な植物も根を張ることができない。

その「土壌」を文化・価値創造に当てはめると、どうなるのか。

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水や生命を受け止める、砂利、砂、粘土という物理的な構造は、風の谷的にいえば、多様な人達の異質性を壊さずに受け止める豊かな隙間、すなわち「サンゴ礁」的な空間を意味している(『風の谷という希望』第7章、第14章で詳述)。

森や田畑の生命の栄養源となる「莫大な生物の死骸と成れの果て」は、「谷」においては、そこの土地から生まれた文化、景観、様々な建造物、はたまた文学や絵画なども含まれる。多くが「土地の記憶」と僕らが言っているものだ*2。しかし、これらの文化的遺産や過去の知的蓄積(書籍なども含む)は、そのままでは栄養にならない。それらを解釈可能な形で批評し、咀嚼し、新しい文脈で活用できる形に「分解」する営みがあってこそ、文化創造の土壌として機能する。

土地の記憶は、谷における求心力の「三絶」(絶景、絶快、絶生)の「表面(おもてめん)」に大きく寄与するが、それを生み出す分解作用は「裏面(うらめん)」といえるだろう。谷の三絶は極めて重要な概念であり、可能であれば別途どこかで議論したいが、簡単に言えば、

絶景:都市では得られない圧倒的な景観
絶生:創造性あふれる生活基盤
絶快:土地ならではの出会いと気付き

になる。『風の谷という希望』第6章で詳述したので、関心を持たれた方は手に取ってもらえればと思う。ほとんどの疎空間は、この三絶の複数の側面でかなりの課題、すなわち巨大な伸びしろがある状態だ。

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土における「微生物、菌類」は、谷における文化・価値創造土壌の視点からすると、まさにそこに住む人たちになる。谷の人というと、きれいな花や立派な木のようなイメージを思い浮かべるかもしれないが、どちらかといえば、この豊かな土地を育む膨大な微生物(バクテリア、原生生物、古細菌)、そして菌類のような人、その多様性こそ大切になる。

菌類は様々な生物の死骸を発酵、呼吸過程を通じ分解し、土地の豊かさを作り上げ、大きな循環の円を完結させる。文化の土壌においても同様で、過去の文化的遺産や知識を新しい時代に適した形で解釈し直し、批評し、次世代に引き継ぐ「文化の分解者」こそが不可欠なのだ。他所から持ってきた分かりやすい成果を単に移植するだけでは、その土地固有の文化的豊かさは生まれない。

思えば、風の谷本で論じている文化・価値創造の2つの軸(第7章)、すなわち、多様な人達の異質性を受け止めるサンゴ礁的な空間軸と、文化を育む「熟成・発酵」という時間軸を考えると、この菌類人類の話はこの交点的な話になる。空間的な「隙間と出会い」があって菌類的な人が入ってきても、時間をかけて文化を分解し、発酵させ、新しい価値に変換していく営みがなければ、真の文化創造は起こらない。

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宇野さんはこのような展開を期待して投げ込まれたのかよくわからないが、実に味わい深い問いだった。

この菌類としての人類の話は本当に興味深い話だったと終わったあと、参加者の方々から口々に聞いた。僕らとしても是非掘り込もうと宇野さんと語って終わったのだった。その後、かなりの数の質疑応答が行われたが、これについては宇野さんのPlanetsメンバーになればいずれ公開されると思うのでそちらをご覧頂ければと思う。

www.youtube.com

ちなみに宇野書店では現在、風の谷関連書籍の選書フェアを開催している。現時点で200種類近い関連書籍が展示販売されており(一点しかないものも多い)、圧巻の品揃えだ。

これらの書籍は、他のいくつかの大型書店でも展開している選書フェア(開催書店については英治出版のXアカウント https://x.com/eijipress をご参照)で配布している冊子(写真)に掲載されたリストから、現在入手可能なものを相当量集めたものである。

実はこの選書リストの元となっているのは、風の谷のコアメンバー内で共有している400冊近い基本関連図書リストだ。章ごとに数十冊という膨大な分量のため、書籍の巻末には掲載できなかったが、遠からず風の谷/一般社団法人「残すに値する未来」のホームページで公開を予定している。

宇野書店は人工芝が敷かれた空間で、靴を脱いで気持ちよく歩き回れる。風の谷関連書籍に加え、宇野さんが自ら選んだ約6千冊の興味深い書物を手に取りながら過ごせる、贅沢な読書をしつつ選書できる空間としておすすめだ。


店舗名: 宇野書店
所在地: 東京都豊島区北大塚1-15-5 東邦レオ東京支社ビル2階
オープン日: 2025年8月1日(金)
営業時間:平日 10~21時、土日・祝日 12~20時
定休日: 不定休、フロア面積: 150平方メートル

一般からの問い合わせ先:03-5907-5500(東邦レオ 東京支社)
prtimes.jp


(土に関心を持たれた方々への参考図書)

歴史ある基本図書。下のジャレド・ダイヤモンド先生の種本でもある。

いまや時の人と言える藤井さんによる解説。どれを読んでも相当興味深いです。

様々な古代文明の崩壊と土との関係。歴史に興味のある人におすすめ。

*1:東邦レオさんのサポートを得て時限的に運営されている宇野さんの目利きによるセレクトショップ的な書店

*2:土地の記憶にはこれら以外も含め、5つの広がりがあるがこれも割愛する。『風の谷という希望』第14章で詳述。

海面上昇時代と三大都市圏


The Afsluitdijk, Netherland
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW

風の谷、すなわち過密な都市集中型社会に対するオルタナティブづくりを、100名近い様々な分野の専門家や候補地の方々とともに8年近く検討してきた。これに基づき、先日、存続可能(viable)かつ持続可能(sustainable)な疎空間の条件についての検討をまとめて世に問うたばかりである。

出版してまもなく、東京都副知事宮坂学さんと話す機会があった。白馬村にも活動ベースを持ち、長らくコミットされてきた宮坂さんからは興味深い提案を受けた。疎空間側は方向性が相当にはっきりしたので、次は「残すに値する都市」についても考えてほしい、とお題を頂いたのである。*1

この数年つらつらと考えてきて、東京都の方々や国の方々にもお話してきたが、「谷本」(「風の谷という希望」)には入れようがなかった内容の一つをここで共有できたらと思う。
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今年の夏も記録的な暑さと豪雨が日本列島を襲った。もはや「異常気象」という言葉すら時代遅れだ。気候変動は日常の現実となりつつある。昨日は台風15号富士山静岡空港が水没したという報もあった*2。水害の激甚化はすでに予測の域を超え、現実のリスクとなって久しい。

この現実は、日本の三大都市圏にとって特に深刻な意味を持つ。東京・大阪・名古屋という経済と文化の中枢は、海抜の低い沿岸部に集中して発展してきた。だが気候変動の進行により、かつて立地の利点だったこの条件が、今や深刻なリスク要因へと転じつつある。


三大都市圏の脆弱性

江戸文化を生み、育てた江東五区は、東京の経済と文化の象徴ともいえる存在だ。だがその繁栄の基盤は主要河川と海に近い低地にある。温暖化による海面上昇や高潮リスク、集中豪雨などのリスクが高まるなか、今や首都圏でも最も脆弱なエリアの一つとなっている。

中央防災会議によれば、荒川右岸低地が氾濫した場合、地下鉄の多くが水没することが予想されている*3。このリスクは当該地区にとどまるものではない。後楽園駅神保町駅霞ヶ関駅六本木駅など44の駅では、地上の浸水がなくても地下が水没することが判明している*4

維新後、20世紀の頭まで日本最大の都市であった大阪は、縄文時代には上町台地と河内平野を除けば海だった。大阪駅/梅田駅前の標高は10-25cmだ。名古屋の西側の水田地域が輪中と呼ばれる特別な防潮堤で囲まれていることを、小中学校で習った人も多いだろう。木曽川長良川揖斐川という3つの大河川(木曽三川)が流れ込む伊勢湾の左岸は低地で稲作には適している。一方で水害が多く、伊勢湾台風(1959年)では5000人以上が亡くなり、災害対策基本法の制定につながった。

これら日本のエンジンと言うべき三大都市圏の構造は、想定外の水災害に本当に耐えられるのだろうか。


加速する気候変動リスク

国際的な科学的知見も警鐘を鳴らしている。IPCCや各種報告によれば、日本の湾岸都市では今世紀末までに海面が0.3〜0.45m上昇すると予測されており*5、豪雨・台風の強度増大によって水害リスクはさらに高まる見込みだ*6

南極の氷の減少はこの15年あまり加速している(次図)。日本全体で見ても、明らかに雨の振り方の集中化・激甚化が進み、土砂災害は増えている*7。かねてから本ブログでも訴えてきた地球との共存問題だ。


Source: The IMBIE team "Mass balance of the Antarctic Ice Sheet from 1992 to 2017." Nature, 2018, 558.7709: 219-222. Figure2

kaz-ataka.hatenablog.com

世界の都市リスク分析では、浸水リスクの高い36都市のうち東京が1位、大阪が4位にランクインしている*8。もしこれら三大都市圏が長期かつ広域で水没すれば、経済的損失は地域ごとに数10兆円では済まず、場合によっては100兆円規模になる可能性がある。発生する避難民も100万人単位となる。実際、気候変動による浸水被害の日本全体の損失は、2050年に151–181兆円、2100年に243–455兆円にも達すると見積もられている*9。インフラ・産業・住宅の被害、サプライチェーンの寸断、人口移転などを考えれば、その規模は日本全体の成長軌道を根本から揺るがすだろう。


新たなアプローチの必要性

災害が激甚化する中でどのように生き延びられるレジリエントな空間を作るかは実に大きな問題だ。疎空間は都市の助けが来ないと自分で復旧できず、なおかつ都市部の後回しになりがちで、実は脆弱性が高い(「風の谷という希望」第5章参照)。一方で人口だけでなく文化的にも経済的にも集積する大都市部では、被害規模そのものが桁違いに大きくなるという別の深刻さがある。

日本政府や都道府県、基礎自治体は、防潮堤・排水施設の強化や河川改修など、流域視点を取り込みつつも従来型の治水対策(強靭化≒robustness強化)を進めてきた。だが温暖化が進むなかで、「浸水を完全に防ぐ」のではなく、「浸水を許容しつつ被害を最小化する」適応型(adaptation/alleviation)アプローチへの転換がむしろ必要な局面だ。20-30年スパンで考えれば、防御と適応の先にある都市・インフラ構造の創造的再編(transformation)まで視野に入れるべきだろう。

人口調整局面にある中でも、三大都市圏では大型ビルの建設が進む一方、水没回避の取り組みやプランは上述の堤防と貯水池強化程度にとどまっている。僕が都や国の仕事などで様々なコアパーソンに接する限りでは、リスクを甘めに見ているか、リスクを理解している人は半ば答えがないとして思考停止していると行っても良い状況だ。巨大都市を持続的に守るには、地球との共存を前提とした巨大なインフラが必要なのではないだろうか。

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では、創造的再編の一つの可能性として、どのような選択肢があり得るのだろうか。

インドネシアの首都ジャカルタのように移転する場所があるなら検討もしうるが、この3大都市圏の移転先などどこにも存在しない。仮にどこかに候補地が見つかったとしても、主要施設、会社や人口の移転にはそれぞれ50年程度は最低でもかかるだろう。

防災×都市検討の国を代表する専門家から、江東五区について検討された二階建て都市化のようなアイデアを聞いたこともある。土地の嵩上げはほぼ不可能なので、二階以上を繋いで街にする(いざというときには道が水没して舟に頼る。下水の逆流も止める。)というものだ。しかしその先生も認める通り、社会的・経済的コストを考えれば現実化は難しい。

江東五区では、20世紀、1960年代までの地下水の汲み上げ過ぎで最大5メートル以上、地盤が下がってしまった*10。水と緩やかな砂利や砂構造で支えられていたものが水を抜いたために、最密充填に近づいた結果である。水などを入れても押し上がることはない。原因がわかっても打ち手がない。『風の谷という希望』で強調した通り、コインの裏返しは答えにはならないのだ。


オランダの「海との共存」モデル

ここで一つ参考になると思われるのが、国土の1/4以上が平均海面よりも低く、国是として「海との共存」を徹底的に追求してきたオランダの経験だ。

オランダと言えば風車を思い起こす人も多いだろう。低地から水を恒常的に汲み上げ続けるために広く導入されてきたものだ。キンデルダイクは、歴史的な風景がそのまま残っている場所としてその代表例の一つで、オランダの心象風景そのものだ。


キンデルダイク風車群(筆者撮影)

オランダの首都、アムステルダム自体が水路の街だが、東京や大阪で深い川を見慣れた眼からすると驚くのは、どこの街に行っても水路の水面が路面からせいぜい1メートルしか離れていないこと、そして雨でも路面が水に覆われることなどないことだ。完全に水の流量をコントロールできているということだ。


オランダの歴史ある学術都市、ライデンの街なかの水路(筆者撮影)

そのオランダは現在、アムステルダムを取り囲むアイセル湾(IJsselmeer)を二重の巨大な防潮堤で取り囲み、首都も歴史も文化も守っている。外洋である北海(ワッデン海)とアイセル湖を分離するアフスライトダイク(Afsluitdijk)と、その内側にあり北側のアイセル湖と南側のマルケル湖に分割するハウトリングダイク(Houtribdijk)だ。


Source: Google Maps (accessed September 6, 2025)

いずれも幅は海中の基礎部分までいれると100メートルを超え(陸上部分は約90m)、長さはそれぞれ32kmと26km。現代で作られた最大級に大規模な構造物の一つだろう。クルマで走ると、大半が驚くほど真っ直ぐで、海の上なので当然だが、完全に平坦だ。アメリカ横断などで体験するアリゾナネバダで果てしなく続く道とも全く違う独特の体験だ。


上空から見たHoutribdijk
Source: Snempaa, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
File:Houtribdijk vanuit de lucht.jpg - Wikimedia Commons

このプロジェクトでは、1万年に一度級の大嵐にも耐える堤防を築き、野生動物の生息地と人々の憩いの場も同時に創出した*11。これらは単なる防潮堤ではない。高速道路・再生可能エネルギー施設・地域開発基盤としても機能し、自然環境と共生するインフラとして設計されている。

北海側には世界最大のウィンドファーム(風力発電施設群)も広がり、国土の安全と経済・エネルギーを一体化する未来像を体現している。


The Afsluitdijkとその横に広がる風車群(筆者撮影)

注目したいのは、彼らが築いたのは固いグレーインフラ型の防潮堤ではなく、大半が砂と粘土、石でできている自然環境と共生するネイチャー・ポジティブ(nature positive)なグリーンインフラだということだ。言ってみれば巨大な漁礁なのだ。この新しい汽水域では、うなぎ、スズキ、コイなど様々な魚の養殖や漁もされている*12


アフスライトダイク(Afsluitdijk)の断面図*13

「ネイチャー・ポジティブ」とは、自然環境の損失を食い止め、生物多様性の回復や生態系の健全性を向上させることを目指す概念だ。経済活動や政策を通じて、自然への負の影響を最小限に抑え、積極的に自然を再生・保護するアプローチを指す。*14

小型船やレクリエーションボート、漁船、運搬船などは水門を通じて移動可能だ。大型貨物船やコンテナ船は、アイセル湖やマルケル湖の水深や水門のサイズ制限により、通常は外洋(北海)や別の大型運河(例:アムステルダム港の北西海運河/Noordzeekanaal)を使用している。

まさにオランダの誇りと言える。


日本への適用可能性の検証

では、日本ではどうだろうか?

オランダの成功事例を見ると、「もしこれを東京湾・大阪湾・伊勢湾に導入できたらどうだろうか」という期待が湧いてくる。しかし実現可能性を検証するには、日本固有の条件を踏まえた冷静な分析が不可欠だ。

まず地理的条件を見ると、日本はオランダよりも技術的に挑戦的(challenging)な条件に直面している。

  • 東京湾:内湾は平均水深約15m *15
  • 大阪湾:水深20m以浅が全域の約46%を占めるが一部はさらに深い *16
  • 伊勢湾:平均水深は約20m。湾の中央部で約35m *17

一方、オランダのアイセル湖は平均水深4-6m程度である。日本の三大湾は水深が3〜5倍深い。より深い海での基礎工事やより大規模な構造物設計、さらに地震対策まで考慮すれば、技術的ハードルはオランダの比ではない。とはいえ、これらは日本が世界をリードする技術分野でもある。実際、東京湾アクアライン明石海峡大橋青函トンネルなど、日本は世界でも類を見ない困難な海洋・地下工事を成功させてきた実績がある。

オランダの経験から学びを取り入れつつ進めれば、十分現実的に取り組めると考えられる。日本とオランダは鎖国時代からつながる長い交流の歴史があり、お互いの敬意も心理的親和性も高い。両国の技術交流を踏まえた開発は、世界の海洋土木に新しい地平を切り開くことになるだろう*18

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次にコストである。オランダのアフスライトダイクは80年前の建設費が約1.25億ユーロ、近年の大規模改修でも約8億ユーロだった。しかし日本で同規模の施設を建設すれば、深い水域や耐震要件を反映してざっくりそれぞれ3~8兆円規模程度になると推計される。*19 要素としては以下のようなものが含まれるだろう。

  • 堤防+道路(2×2車線)+付帯管路等
  • 大型航路ゲート複合体(閘門・可動扉・附帯構造含む)
  • 排水機場
  • 環境影響・調査・補償・漁業対策
  • 取り付け道路・JCT・送配電・不測・設計監理

関西空港の第一期建設費が約1.5兆円だったことを考えれば、大規模ではあるが現実的な範囲内の投資規模だ。

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一方で、この構想が実現した場合の経済効果は建設費を大きく上回る規模になると予想される。

最も直接的な効果は不動産価値の向上だ。高潮リスクが劇的に軽減されれば、これまで水害リスクによって価値が抑制されていた沿岸部の不動産価格は大幅に上昇するだろう。江東五区、大阪湾岸、名古屋港周辺など、現在リスクプレミアムが織り込まれている地域では、数十パーセントの価値向上も十分考えられる。三大都市圏全体の不動産価値向上だけでも、建設費に匹敵する経済効果をもたらす可能性がある。

さらに重要なのは、三大都市圏が長期的に安全だという確証が生む心理的安堵感の効果だ。企業の投資判断、個人の居住選択、都市開発計画—すべてが「この都市は将来も安全だ」という前提で行われるようになる。これまで気候変動リスクによって控えられていた長期投資が活発化し、都市の持続的発展に対する信頼が回復する。

保険業界にとっても大きな変化をもたらすだろう。現在、水害リスクの高まりにより保険料の上昇が懸念されているが、抜本的なリスク軽減により保険料の安定化、場合によっては低下も期待できる。これは市民生活と企業活動の両面で大きなメリットとなる。

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さらに環境面の影響も看過できない。大規模防潮堤は漁場や汽水域の生態系に変化をもたらす可能性がある。しかしオランダの事例は、防潮堤を単なる防災施設ではなくネイチャー・ポジティブなインフラとして設計し、漁業・観光・再生可能エネルギーと統合する道を開いた。

日本でも同様に設計思想を進化させれば、淡水化の影響を最小化しつつ、多機能なインフラとして再構築できる。三大都市圏が繰り返し浸水した場合の経済・社会損失は100兆円単位を超える規模であり、適切に設計された環境影響は比較にならない。

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そして最後に、社会的合意形成の課題が残る。しかし、これまでの大型インフラプロジェクトが示すように、適切なプロセスを経れば解決可能な課題でもある。

東京湾を例に取れば、内湾漁業への影響は避けられず、防潮堤建設は漁場の分断を意味する。一方で、オランダの事例が示すように、新しい汽水域は生物多様性に富み、漁業の新たな機会を創出する。実際、アフスライトダイク周辺では従来とは異なる豊かな漁場が形成されており、漁業関係者の多くが恩恵を受けている。

適切な設計により防災と漁業の両立は十分可能であり、移行期の補償や産業転換支援と組み合わせれば、むしろ漁業の持続可能性を高める機会となり得る。

加えて、東京湾には東京・横浜・川崎・千葉・横須賀・木更津の6港があり、年間20万隻もの船舶が航行する。これは確かに複雑な調整を要するが、同時に防潮堤が新たな物流拠点や港湾機能の拡張基盤となる可能性も秘めている。水門技術やスマートな運用システムにより、物流効率の向上と防災機能の両立が期待できる。

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こうして見てくると、これはあくまで一案ではあるが、江東五区・名古屋・大阪で恒常的に高まる水没リスクに対し、従来の治水対策では対応しきれなかった領域にまで踏み込む、現実的な解決策となる可能性がある。

技術的・社会的ハードルは確かに高い。しかし100兆円単位の被害が想定される三大都市圏において、防御と適応の先にある創造的再編の選択肢として、真剣に検討に値する規模感を備えているといえるだろう。

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とはいえ、これだけの規模とコスト、利害関係を考えれば、段階的なアプローチ以外に現実的な道はない。

仮に奇跡的に今年、三大都市圏で基本的な合意が形成されたとしても、実現には長期間を要するだろう。

第1段階(2025-2035年
最も小規模で技術的検証が可能な場所での実証プロジェクトから始める。おそらく規模の小さい伊勢湾奥部または大阪湾支湾部で、まず可動ゲート単体+短堤防の試行が妥当。

同時に環境影響評価と全ステークホルダーを巻き込んだ合意形成プラットフォームを構築する。

第2段階(2035-2045年
コスト・便益・合意形成・地盤リスクを精査し、大阪湾 or 東京湾を比較選定し、本格着工。政治・経済インパクト重視であれば東京湾、湾口幅・延長の短さ重視であれば大阪湾(明石海峡4km)。

第3段階(2045-2060年)
前段階の知見・実績を基に3湾体制へ拡張。

財源については、防災・減災、国土強靱化の観点から国費を中心としつつ、再生可能エネルギー事業などの収益事業と組み合わせた新たる事業スキームが必要になるだろう。


時間との競争

しかし、この段階的プランには決定的な時間的制約がある。海面上昇や台風の激甚化は待ってくれない。このニーズが切実になってからでは間に合わないのだ。

大規模インフラの建設には20-30年の期間を要する。つまり、2050年代に本格的な被害が予想されるなら、遅くとも2030年代前半には着工していなければならない。しかし合意形成、環境影響評価、詳細設計を含めれば、実質的には今すぐ議論を開始する必要がある。

インドネシアジャカルタは全体として年間1〜15cm、沿岸部では最大20〜26cm/年で沈下し、首都移転を決断した。オランダは数百年かけて段階的に防潮堤を構築してきた。僕らにはそのような時間的余裕はない。

上記の段階的プランでさえ、第1段階から第3段階完了まで35年を要する。2050年代の本格的リスクを考えれば、議論の開始はもはや待ったなしの状況である可能性が高い。


新たな国土デザインの基盤として

当面加速する海面上昇局面における高潮や台風に対する防御だけでなく、新しい交通軸、再生可能エネルギー拠点、そして未来の都市空間を統合した巨大防潮堤構想。それは単なる防災投資ではなく、50年先を見据えた国土デザインの基盤となり得る。

重要なのは、これが単なる巨大公共事業ではなく、人口調整局面下の社会における包括的な国土再編プロジェクトとなることだ。世界最高水準の耐震防潮堤技術、AI・IoTを活用した水位制御システム、環境と共生する建設工法など、建設過程で生まれる技術革新は、将来のアジア沿岸諸国への技術移転という形で日本の新たな成長産業となり得る。

同時に、これは地球との共存という観点からも極めて重要な意味を持つ。気候変動という地球規模の変化に対し、自然を破壊するのではなく自然と調和しながら人間社会を守る。オランダが示したネイチャー・ポジティブなアプローチは、まさに地球との新たな関係性を築く先駆的な試みだ。この取り組みは、世界でも屈指の災害が起きやすい空間におけるレジリエンス強化と環境保護、経済発展を統合する持続可能な社会モデルの実証実験ともいえるだろう。

いまこそ、防御・適応・そして創造的再編の三層構えで、海面上昇と激甚化する台風にどう向き合うのか。それは同時に、地球との共存という人類最大の課題への新たな回答でもある。

時間は限られている。しかし、だからこそ今この瞬間から始めれば、十分間に合う可能性がある。これは単なる夢物語ではなく、技術的にも経済的にも実現可能な選択肢だ。起きてから対応するのでは桁違いのダメージになる。問われているのは、データの意味合いを踏まえ想像する力、決断、そして行動力だ。


(参考)
オランダ国 インフラ省(正式にはMinistry of Infrastructure and Water Management : インフラ・水管理省)による説明サイト、、それぞれ埋め込まれている動画が秀逸なのでおすすめ(各2分ぐらいです)
www.rijkswaterstaat.nl
www.rijkswaterstaat.nl

設計に携わる土木設計事務所のHPでの詳しい説明
hnsland.nl

国交省グリーンインフラ部隊の中心人物の一人である中村圭吾さん(風の谷 インフラ班メンバー)による新刊です。

*1:語り合った後、宮坂さんが書かれたnote。これはこれでとても大切な内容。都市だけでなく、個々の風の谷の候補地がこのような実験地になると素晴らしいと思う。 note.com

*2:YAMAP流域地図によれば、この空港は小さな流域の比較的上部、かなりが分水嶺上にある。これはすなわち想定以上の雨量のときの排水経路確保の問題であったと推定される。

*3:中央防災会議「大規模水害対策に関する専門調査会」平成22年4月 首都圏水没~ 被害軽減のために取るべき対策とは ~ http://www.bousai.go.jp/kaigirep/chuobou/senmon/daikibosuigai/pdf/100402_shiryo_1.pdf

*4:土屋信行『首都水没』文春新書 2014, p.49

*5:Mori, Nobuhito, et al. "Recent nationwide climate change impact assessments of natural hazards in Japan and East Asia." Weather and Climate Extremes 32 (2021): 100309.

*6:「風の谷という希望」第2章参照

*7:安宅和人『風の谷という希望』英治出版 2025, 図版2-3、2-4

*8:These 36 World Cities Will Be Underwater First

*9:Imamura, K., Tamura, M., & Yokoki, H. (2025). Assessing Costs of Adaptations to Sea Level Rise in Japanese Coastal Areas. In Climate Change Impacts and Adaptation Strategies in Japan: Integrated Research toward Climate Resilient Society (pp. 153-165). Singapore: Springer Nature Singapore.

*10:工業用水をただで得るためだけでなく、天然ガスが出たために汲み上げが加速した。これを止めるためには東京都が汲み上げ権を全部買い取るという荒業が必要だった。#谷本 に詳述。

*11:"The project has created a dyke that is able to withstand storms that occur once every 10,000 years, while also providing a new home for wildlife and a space for people to enjoy the outdoors. " The Houtribdijk: a world first reinforcement in water safety and nature conservation by Ministry of Infrastructure and Water Management

*12:養殖は生態系を乱さないよう、EUのWater Framework DirectiveやNatura 2000保護区のルールに基づき管理され、Marker Waddenプロジェクトのように、自然島の構築で魚の産卵地を増やし、養殖を支援している。

*13:By D McParland - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=130409568

*14:持続可能な開発や気候変動対策の一環として注目されている。世界でも先んじて取り組まれている英国の資料を参考までにあげておこうhttps://www.nature.org/content/dam/tnc/nature/en/documents/TNC_BiodiversityNetGain_England.pdf

*15:東京湾水環境再生計画(案) 平成18(2006)年3月 | 社会資本整備 | 国土交通省 関東地方整備局

*16:大阪湾の状況について - 大阪府https://www.pref.osaka.lg.jp/documents/823/1-2_r30830.pdf

*17:伊勢湾の環境:地形|伊勢湾環境データベース

*18:オランダのこの分野の土木技術は当然のことながら世界最高レベルにある。オランダの科学大、MITというべきデルフト工科大との早期連携がまずは第一歩かと。

*19:引き方による。コスト試算の前提条件:オランダのアフスライトダイク(長さ32km、幅90m、現在の改修費約8億ユーロ)を基準とし、日本の建設物価水準(約1.3倍)、水深の違いによる工事難易度上昇(2-3倍)、地震対策などの追加要件(1.5-2倍)、インフレ調整等を考慮した概算。実際の建設費は詳細設計、環境対策、用地取得費等により大幅に変動する可能性がある。

3つのスキル


Shelburne, VT, USA (1.4/50 Summilux, Leica M7, RDPIII)

僕の主要な取り組みの一つは、データサイエンティスト協会(DS協会)のスキル定義委員会での「データ×AI時代において、データ×AI プロフェッショナル(≒ データサイエンティスト)に求められるスキルとタスク」の定義だ。

このブログの何処かにも書いたかもしれないが、2012年末、ビッグデータという言葉だけが先走り、多くの人が実態を掴めない時代に*1、「このままでは日本が遅れをとる」と産学の有志が集まった。国に任せていたら間に合わない、と。そこで2013年春、手弁当で立ち上げたのがDS協会だ*2

2014年のデータプロフェッショナルの定義*3と3つのスキル群*4、4つのスキル段階の定義*5に始まり、2015年には世界でもいち早く詳細に必要なスキルチェックリストを作り、以来、2年毎に改訂してきた。2017年からはIPAさんも加わって頂き、共同で発表している。(更新年でなくとも月に一度、更新年は1-2週に一度は夜7時からスキル定義委員で、サブチームごとの事前準備をベースに大議論を行う。)

途中、数理データサイエンスAI教育の必修の必要性を国に訴え、それが方針として認められてからは、モデルカリキュラムづくり、これを採用される高等教育機関(主に大学)の認定制度づくりにも深く携わってきた。

今年も改訂の年で、11月のシンポジウムでver.6を発表予定だ。

かれこれかなりの変遷を経てきており、協会設立当初はそもそものperspectiveの整理と(啓蒙・啓発が最初のお仕事)、ビッグデータのハンドリングと基礎的な機械学習、テキスト処理技術の世界だったが(いまの若い人たちからすると信じられないかもしれないが、当時ほとんどの人が機械学習形態素解析などという言葉を知らなかった)、そこに深層学習、クラウドが必須なスキル群として加わり(当初多くのBig Dataを扱う会社がオンプレミスと呼ばれる自社環境がメインだった)、GAN/deep fake問題に続き、diffusion model/transformerなどが次々に現れ、LLMの登場は決定的で、前回の改訂(ver.5:2023年秋発表)において、ついにタスクリストを2つに分離した。AI利活用スキル群もそれに伴い整理を行った。


(データサイエンティスト協会 2023年シンポジウム発表より)

それほどの変化を断行したので今回は比較的楽になるかと思っていたら、Agent時代が到来し、今回も歴史的な改変/刷新を予定している。

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こんな議論の最中で、今週のスキル定義委員会で一つ議論を投じて、多くの若いメンバーが関心を示したのが、僕が説明した一般的にスキルと呼ばれているものの広がりとその意味合い、また、これらと仕事のステージの関係性の話だった。

  1. 世の中でスキルと呼ばれているものには大きく3つある - 基礎スキル、専門スキル(Expertise)、リーダーシップ
  2. 仕事のステージ的なroleは大きく5つある
  3. Expertise以外のスキルが未来に大きな影響を与える

という話だ。

ある種、自明だと僕は長らく思っており、会社の自分のチームの人達には常々説明してきた。実際、手元に残っている資料を見ると、2011年秋に京大のiCeMS(物質-細胞統合システム拠点)のセミナーに「キャリア形成とスキル育成」というお題で呼ばれて話に行ったときには、すでにそこに集まった院生やポスドクの方々に話している。

スキル定義委員会に集まる、優秀な、しかし最近加わった面々に、DSスキルの最初のバージョンを作ったときは、この議論もしつつ作ったんだという話をした。すると、皆かなり驚いた様子で、それを私たちが個別に説明するのは大変なので、是非まとめてもらえないですか、という。

このブログの読者諸兄姉にも関心を持たれる方もいらしゃるかも、ということで簡単に説明できたらと思う。

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1. 世の中でスキルと呼ばれているものには大きく3つある

一般的にスキルだと思われているもの(体系的かつ深い知識を含む)はExpertise(専門スキル)であるものが多い。曰く、プログラミング、英語、データサイエンス、ファイナンス(財務)、法務などだ。物理、水文学、土木、情報学、建築など、理工系の学問は基本的にこれに該当する。専門学校、専門課程、大学院(graduate schoolとprofessional schoolsではかなり違うが割愛する)で育成の主眼とされているものも大部分がこれと言えるだろう。

リーダーシップはこの国では単なる適性だと思われる人が多いかもしれないが、多くの場合、後天的に習得可能だ。生まれ持って社長のオーラを持っているというような人もいるかも知れないが、実際には稀だろう。

これは状況を整理し、方向性を見出すなどの知的な(thought)リーダーシップだけではない。複数の異なるinterestを持つ人達を束ねる(collaboration)、新しい変化を生み出す(initiative taking)、はたまた才能をattractし、育てる(people)リーダーシップも存在する。顧客などステイクホルダー(client/stakeholder)とのトラブル時にそれを解決するのもリーダーの大切な仕事だ。すべてのリーダーシップ軸で突き抜けている人などいないので、いくつか自分の強みをしっかり育てることが大切だ。

基礎スキルは、業務や業界に関係なく求められるスキルだ。その人が営業をやっていようと、マーケティングをやっていようと、製造現場にいようと求められる能力だ。そんなものがあるのかと言われるかもしれないが、ある。

具体的には解決すべき課題を適切に捉え、それに適切に答えを出していく力(problem solving)、関わる人に適切に意図や、情報を伝える力(communication)、そして自分やチーム、部門がコミットした価値をしっかりと生み出し届ける力(activity management)だ。


(2011年10月 京大iCeMSでの投げ込み資料より)

ちなみに、この3つを背骨として支える最大のポイントが、本来は基礎スキルの一部である「解決するべき課題の見極め」である、というのが、僕がかつて書いたイシュー本の趣旨だ。

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2. 仕事のステージ的なroleは大きく5つある

これらの3つのスキルを利活用する段階には大きく5つあり、その段階によって求められるスキルの性質が変わる。

  • 一人でやる
  • チームを回す(managementする)
  • 複数のチームを回す
  • 部門/BUレベルを回す
  • 複数部門を束ね、回す

どれほど優秀な人でも一人でできることは限られている。ある程度以上大きなことをやろうとすれば必ずチームが必要になる。それが会社やDS協会のような組織が必要な理由だ。もっと大きなことをやろうとすれば複数のチームが必要になる。それが更に組み合わさってさらに大きな系(組織)を作る。

一つチームを作るとしてそこに5人の人が集まったとする。そこで5以下の仕事しかできないのであれば、チームを作った意味があまりない。本当は掛け算になる必要がある。例えば、本田技研が生み出されたとき、スーパーエンジニアの本田宗一郎さんだけで世界のHondaが生み出せただろうか。そうではない。資金繰り、販売、組織づくりを全面的に任せられる藤沢武夫さんなしには不可能だったはずだ。これがチームを作るということの意味だ。

僕の経験上、様々な人が育ってくるのを見てきた中で、この中で最も大変な変化は、一人からチームになる時だ。スーパープレイヤーが素晴らしいチームリーダーになるとは限らない。現場で強い人がいきなり複数の人を束ねる段になると、メンバーがなぜ出来ないのかが理解できず、なかなか軋轢が生じるケースが多い。

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3. Expertise以外のスキルが未来に大きな影響を与える

一般的には、学校や教育プログラムがそうであるように、Expertiseだけをスキルと捉える傾向にあるが、それは正しくない。成功する人は、特定の領域において平均以上のExpertiseを持つことが多いことは事実だが、圧倒的であることは少ない。ここは『キングダム』などの漫画を見ていると勘違いされるかもしれないが、戦闘力がただ高い人が、将軍になることはないという話と同じだ。

では何が違うかと言えば、上のリーダーシップであり、それを支える基礎スキル側が大きく違うケースが圧倒的だ。よく「勘」と呼ばれる状況の察知能力*6が外れやすい人について行く人はそれほどいない。この人と働きたい、この人についていきたいと思われる人の求心力は極めて高い。

例えば、僕が2008年にヤフー(現LINEヤフー)に移ってきてから一緒にお仕事をさせていただいてきたトップマネジメントの方々、孫正義さん、井上雅博さん、宮坂学さん、川邊健太郎さん、小澤隆生さん、出澤剛さんはいずれも驚くほどチャーミングな人たちだ。

そしてこの方々の人に伝える力は極めて高い。生の言葉でも、その伝えるタイミングと言う意味でも、図表などでの表現力でも!!というものだ。

チームを持つ前の段階の人(ピンでやっている人)は、その人の働きが信頼に値するか、どこまで当てにできるか、という言ってみればmembershipというべきものが大切になる。チーム全体の大切な課題を他に知らせず抱え込んでしまう、簡単にケツをまくるようでは信頼は得られない。

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この意味で、データプロフェッショナルにおいても、Expertise以外を統合したスキルが必ず鍵になる、これ無しでデータサイエンス(統計数理及び情報科学)、データエンジニアリング(計算機に大量のデータを裁かせるスキル)だけでやっていると必ずどこかで〇〇屋化して行き詰まる。その視点で、サイエンスとエンジニアリングを統合し方向感を見出し、チームを作る「ビジネス力(business problem solving)」というのを最初にしっかりと立てたんだという話を数日前の現場でしたのだった。

結局のところ、僕らが日々議論しているのは「未来にどんな人が必要か」という問いだ。技術がいかに進んでも、必要とされるのは、問題を正しく捉え、仲間と協働し、新しい道を切り拓く力を持つ人材になる。

DS協会での活動は、その答えを形にする一つの試みだ。そして、これはデータの世界に限らない。一人ひとりが、自分の持つ基礎スキル・専門スキル・リーダーシップをどう育て、どのステージで発揮していくかを考えることが、未来を形づくる大きな力になる。

この秋発表するver.6も、そんな問いへの最新の答えの一つになるはずです。ぜひ注目していただければ幸いです。

*1:多くの人がイメージ出来ないのは、現在もそうかもしれない

*2:実際に政策的に一気に取り込まれていく流れは、DS協会側の議論が相当に進んだ上での2015年春の文科省/情報・システム研究機構、同年秋の経産省産業構造審議会 新産業構造部会の議論まで待つ必要があった

*3:データサイエンス力、データエンジニアリング力をベースにデータから価値を創出し、ビジネス課題に答えを出すプロフェッショナル

*4:data science(サイエンス:DS)、data engineering(エンジニアリング: DE)、business problem solving(ビジネス:BZ)

*5:見習い、一人前、棟梁、業界代表レベル

*6:problem solvingのベースとthought leadershipの一部

『風の谷という希望』(#谷本)をどう読んだらよいか?(保存版)


Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW

本書の執筆・構造化・完成をともに伴走いただいた岩佐文夫さんからは「まず頭から通して読むのがよい」とコメントいただいています。それは間違いなくベストな読み方です。

note.com

ですが、地方や疎空間に関わる多くの方々にとっては、関心が特定の領域に集中しているのが実情です(我々のコアメンバーですらそうです)。ですので、「まずは関心のあるところから読んでみる」でまったく問題ありません。

どの領域(章)も相当のプロがガチでゼロベースから検討しており、なので「新規性がない」などという感想は、おそらくちゃんと読めていないものと思われます……。

以下に、関心テーマ別のおすすめ読み方を整理しておきます。
※第1章は前提知識としてぜひ読んでください。
※第2章・第3章は、以下のいずれかの章を読んだあとに戻ってくると、さらに深く染みます(この理解が甘いと、全体が見えにくくなります)。

🔹自然、森づくり、水循環、獣害に関心のある方
→ 第8章・第6章・第14章
🔹水害・天災・気候変動への備えに関心のある方
→ 第2章・第5章・第8章・第4章・第14章(特に「ほぐす土木」)

🔹疎空間での人材育成・教育に関心のある方
→ 第12章・第7章・第3章
🔹土木インフラやエネルギーに関心のある方
→ 第4章・第9章・第10章・第14章・第5章

🔹農業・食料生産・食文化に関心のある方
→ 第13章・第8章・第6章
🔹生活空間づくり・土地の求心力に関心のある方
→ 第6章・第7章・第14章

🔹ヘルスケア・幸せな生き方に関心のある方
→ 第11章・第4章・第6章・第7章
🔹ランドスケープ・空間設計に関心のある方
→ 第6章・第14章・第9章

🔹エコノミクス・地域の全体設計に関心のある方
→ 第4章・第15章・第14章・第7章
🔹コモンズ・マネジメントに関心のある方
→ 憲章・第1章・第3章・第15章

どこから読んでも、きっと何かが響く構成になっています。ぜひ、自分の関心から“谷”に入ってみてください。

この一冊が、残すに値する未来につながる、意味のある一石となることを検討メンバー一同、心から願っています。


ps. 参考までに作ってみた各章の関係図です。


(参考)
kaz-ataka.hatenablog.com
kaz-ataka.hatenablog.com
note.com

谷本とイシューアナリシス


Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW

谷本は巨大なイシューアナリシスと言うべき一冊だ。

何をやりたいという意思がなければイシューなど設定のしようがないと、イシュー本の改訂版に書いたが、意思があればイシュー(真に解決すべき課題)が見えるわけでもない。

それはいくらなんでも甘かっちゃんである。

意志はある、しかしどうやって作ったらいいのかわからない未来(目指す姿)を描くこと自体が大きな課題である際に、どのように考えたらいいのかという、谷本はまさにビジョン設定型の課題解決(problem solving)の巨大な実例と言える。

そもそもどういう問題意識なのかの見極め(e.g., 風の谷憲章)、それに対するスタンス(e.g., 風の谷文法)自体が最初は大きなイシューだ。これを明確化することから全ては始まる。このレベルの内容は、相当の見立てが必要だが、検討の進捗により見直していくことになる。

aworthytomorrow.org

なお、存続可能(viable)かつ持続可能(sustainable)な疎空間を我々は便宜上、風の谷、略して谷と呼んでいるが、憲章にある通り、谷がなくとも良い。

「疎空間」は、都会と地方(あるいは田舎)という図式では捉えきれない課題を捉えるために僕らが生み出した言葉だが、密空間、つまり都市、に対する対立概念として定義される(この二つの見方があることを見出し、片方を選ぶこと自体が大きなイシュー)。目安としては人口密度50人/平方キロ以下の空間だが、日本の場合、土地の約四分の三が疎空間に当たる。詳しくは図版1-7を御覧いただきたいが、日本の場合、国土の半分以上の土地に人は住んでいない。

また最初の段階では、似て非なる概念の多くとの関係性をある程度以上に整理する事自体が重要なイシューとなる。リゾート、国立公園、コンパクトシティ、村おこし、エコビレッジなどとの違いの議論だ。荒れ果てた地方都市の再生とも全く違うこともここで明らかになる。

それがある程度整理されても、どのような広がりで考えたらいいのかという話がある。また、そこで見落とせない空間価値を判断する視点の持ち方の話がある。これらの問い立て、問い設定の上での答えの見極め自体がそれぞれ基礎的なイシューになる。その整理結果が、次に示す第1章:図版1-12のヨコ軸とタテ軸だが説明は本文を参照されたい。この議論の延長で、軽視されがちだが極めて大切な時間軸的な意味合いも明らかになる。

更に、この谷の実現に向けて掘っていくと様々な課題が上がってくるが、この中には、疎空間には関係がない社会全体の課題が随分とあることが見えてくる。疎空間特有の課題もあれば、風の谷を「つくる」視点でなければ出てこない課題もある *1。この切り分けのナイフも必要だ。それが次に示す図版3-2になる。

ちなみに、この視点なしにはほとんどの領域はぐちゃぐちゃになることがのちほど領域別検討の際に明らかになる。この一番左の課題群は実は疎密に関係なく社会全体が抱えている課題であり、これについては都市に住む大半の人にとっても無視し得ない話となる。

まさにその視点で、第2章ではそもそも現在の人類が共通で抱えている2つの課題が整理される。それらが最も先鋭化した形で存在する疎空間で解決しうるのであれば、ほとんどの人類の空間の未来が明るくなることがここで議論される。このような視点の見極めと意味合い出しも全体論としては不可避なイシューと言える。

さらに問題意識を理解した人たちに何を留意して貰う必要があるのかの整理と、そのポイントのdeliveryが大切になる。それが第3章だ。ここで掲げたバックキャストではなくビジョン設定型の思考、エコノミクス視点、系として考えることの重要さは都市部での取り組みも含めて強調しきれないほど大切だが、多くの人がそもそも??ということが多いので、それをしっかりとしかし端的にどれも説明している。各ページに収められている情報は相当に密であり、馴染のないことの消化には時間が掛かるだろう*2

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ここまでが序だとすると(第I部)、次にこれらが総合された全体として回るということは何を意味しているのか、それは何を満たす必要があるのか、ということに対する見極めが必要になる(第II部:第4~7章)。

実際にその太い柱を見出すのはそれほど簡単な話ではない。通常、政治家マターとされ、表立って議論されないエコノミクス視点での掘り込み自体がなかなかの曲者であり、どのような視点、切り分けのメッシュ、オーダーで掘り込んだらポイントが見えてくるのか、自体がある種のイシュー設定となる(第4章)。

ここでほとんどの疎空間でEVバスなどが採算が合わないなどという問題の前のもっと根深い問題に切り込みが入る。一言で言えば、(1) 都市型のインフラをそのまま持ち込んでいる限り、疎空間のエコノミクスが改善することはない、ということであり、(2) 現在の生産性のままでは未来は暗い、ということだ。ここから2つの改善レバーがあることが明らかになる。

第2章の議論(人類の2大課題)を受けた、疎空間にとっての死活問題、レジリエンスが第5章で議論される。ここでどのような視点が鍵になるのか、それぞれどのような方向性の取り組みが必要になるのかは疎空間のパンデミックや災害に対する弱さと谷づくりの時間軸の長さを考えれば避けては通れない問題だ。

様々な土地の課題と向かい合う一方で、個別の領域検討をしながら、再度持ち込まれた視点もここに出てくる。ここでは開疎、Disaster-ready、NBOという極めて大切な概念が登場する。

エコノミクスの収入サイドの変数である求心力、価値創造視点の議論が第II部の後半になる。こここそが第II部の華というべき内容であり、「三絶」「サンゴ礁」という二大概念が鍵になるが、これは読んでからのお楽しみということにしておこう。

このようにビジョン設定型の課題解決の場合、数多くの新規の概念なしに目指す姿を掴むことは困難だ。疎空間がその一つであり、つなぐ道とつながる道、グリッドの枝刈り、逆土木、開疎などなどだ。したがって、これらに適切な名前を与えていくことも大切な活動になる。これら新規の概念の見極めと命名も振り返れば、どれも大切なイシューだったと言える。例えば、「サンゴ礁空間」という概念なしに、谷を考えることは不可能だろう(第7章参照)。

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ここまでの全体観だけでおなか一杯に感じるかもしれないが、実際には、個別領域にその見えてきた太い命題を当てはめていくということは何を意味するのかをしっかりと考えないことには、viableかつsustainableな疎空間を生み出すことはできない。

これを、人間と自然、土木インフラ(道、上下水、ごみ処理)、エネルギー、ヘルスケア、教育、食と農、空間づくり、それぞれの広がりにおいて、どのように考えたらいいのか、を考えるというのが次のステップ(第III部以降)になる。

各領域はどういう広がりとして考えるべきであり、どのような価値をデリバーすることがミッションなのかの見極め自体が大きなイシューになる。これをあまり深く考えずにgivenで、例えば森であればただ林業と獣害について考えるために問題が解けなくなる。またインフラの定義や場合分けもここでは必要になる(その時点ではそれがイシューになる)。

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その上で、各領域において基盤となるべき知識や、系を回す視点の抑えどころの見極めも大切になる。2017年年末に始まった谷活動が、2018年に少しずつ領域別検討を始めるようになり分かったのは、これが驚くほどまとまっていないということだ。世の中の専門家たちの領域の捉え方が相当に細分化されているため、その面でも随分とどの領域でも苦労した。

例えば、基盤インフラは道、橋梁、トンネルなどハードコアな土木系と、水利用の全体、灌漑、上水道、下水道、ゴミ処理等は専門により激しく分離されている。また例えば、医学書やwell-being、社会保険料の分配についての語りは多いが、それを超えて健康とはなにか、ヘルスケアシステムを俯瞰するということは通常行われない。

それを敢えて、専門書や論文、様々なプロからのインプットを通して全体を学びつつ、あえて初めてその領域を見たかのような視点で勘所を押さえていく。多くの場合、これ自体がなかなかのことになる。

例えば、エネルギーの章(10章)冒頭の基礎となる視点と書いて数ページにわたって書いているものを、我々なりに取捨選択しつつ、全体感を把握するのは相当のプロセスだった。領域の専門家たちはこれらを空気的な所与(given)としているためにそもそもまとまっておらず、どの領域も相当の時間をかけて理解を深めてきたというのが正直なところだ。教育分野など、分野によっては、重要性の一方でそもそも所与とすべき基盤がはっきりしないまま議論されていることも多いことが次々と明らかになった。

この過程で、例えば道や土木の基礎だと次のようなもの(先ほど自室のある棚を撮影)をざっと見つつ学び、更に様々に飛び散った公的情報などを掘り起こしながらつなぎ合わせていくことになる。

ちなみに、それぞれの専門書は例えば、ここにも写っている「道路土木要項」(道の世界の基本書)一つとっても6930円とかする。*3

以上の基礎的な部分で終わるわけでは当然ない。各領域ごとにどのような状態が疎空間であるべきなのかの見極めが必要になる。その前提として、現在何が課題であるのかの見極めも当然必要になり、第II部で整理した4つの視点も頭に置きつつの検討になる。当然のことながら、どの領域でも、我々のような4条件の視点を持って、疎空間についてフラットに検討している人がいないために、基礎分析から必要になるケースが大半だ。

この過程で見えてきた分析結果はいずれも興味深いものが多く、谷本を読む最大の楽しみの一つだと思うので、ここでは掲載するのをやめておこう。土木と教育のような一見かけ離れた領域の分析を並行して行っているからこそ見えてきたことも多い。レジリエンス課題、土木、森、食料生産を同時に考えることで見えてくること、これを感じていただくのはこの本を読んで頂く最大の喜びの一つになるのではないだろうか(少なくとも検討してきた我々の大きな喜びのもとであった)。

そこから見えてくる疎空間における森と水、インフラ、エネルギー、教育、ヘルスケア、食と農のあるべき姿は、通常、都市型社会、関連産業のみの視点から言われているものとはかなりかけ離れていることが明らかになる。

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最終的に第IV部に移した空間の章(第14章)は本当に巨大で驚かれる人が多いだろう。2段組で138頁あり、実際ここだけで9万字、つまり新書1冊分ある*4。しかも図版も57枚とどの章よりも多い。何を議論してきても結局のところ空間という器(うつわ)に流し込む必要があり、景観デザイン(landscape design)、土木(civil engineering)、建築/物理設計(architecture)、都市計画(city planning)、クリエイティブ(creative direction)などの広範な専門家が様々に知恵を寄せ合い、アウフヘーベンした内容だ*5

僕らがどのように疎空間における「空間」とその関連課題を捉え、どのようにアプローチしたのか、これ自体が高度なイシューアナリシスそのものなのだが、それを合わせて味わって頂ければと思う。多くの都市計画はいきなりここばかりが議論されるが、疎空間の再生に向けては、ここまでの骨格的な議論なしには上っ面のどうでもいいことばかりが議論されることになるのは言うまでもない。

本章では谷づくりにおいて、最も大切な取り組みと言って良い「土地読み」について体系的に整理する。またつくね型とぶどう型、空間フェロモン、3つの間(ま)、抗体構造、Hackable、土着×モダンなど谷における空間づくりの鍵となる数多くの概念を紹介する。

泣く泣く割愛した内容もあるものの、おそらく本当にこのテーマに悩んでいる人が読まれたときの味わい深さは格別だと思う。実際、東大景観学教室出身で、景観デザインのある分野を代表する方に、事前に読んでいただいたが、かなりの驚きと喜びを持ったfeedbackを頂いたことを付け加えておきたい。

本検討に対して想定される批判への応答も本章では触れている。端的に言えば、現実を直視せず、非現実的な前提で動いているのは、現在の疎空間だということだ。

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最終章である第15章は系として、ここまで紹介した谷検討全体を取りまとめるとても濃い内容になっている。ここまでをしっかりと読まれた人であれば相当に深く味わっていただけるだろう。谷化のガイドラインもここと巻末資料で整理する。現在、表層的に議論されがちなモビリティやコモンズ論はここで登場する。系として考えねば考えようのない課題だからだ。モビリティについては、どのような人たちが、どのようなインフラを前提として、どのように時間を使うのかの視点がなければ考えようがない。ここまでを読んできた人だけに味わえる喜びがそこにはある。よく聞かれる初手についてもここで触れる。

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本書は巻末の索引を眺めるだけでも楽しい珍しい本だと思う。

ちなみに、あとがきにも書いたが、第III部(第8章)以降は章ごとに極めて専門性が高く、新しい章を書き始めるたびに「この絶壁を登るのか」と途方もない苦痛を感じたことを付け加えておきたい。

書く当初からわかっていたことは、各章の読者は本物のプロになるということだ。だが、そのプロは隣の章に行けば素人になる。そしてその読者はプロの目で自分のわかる章についてコメントすることになるのだろう。実にきつい縛りである。しかしながら、誰かが通しで整理して分析し直し、統一された文体でまとめなければ、これほど広範な内容をreadableにし、redundancyを削りつつも、相互参照的にすることは難しい。そういうわけで本検討の発起人である自分がこの18ヶ月、土日も、祝日も、正月も朝も夜もなく取り組み、まとめたものがこの一冊になる。

どの章も各領域のプロの仲間がそれなりにコミットして検討してきた内容ではあるが、それでもどこかで地雷を踏む可能性がある。それでも、都市集中型社会に対するオルタナティブをもし生み出そうとするなら、今なんとしてもまとめる必要がある。たくさんの仲間たちの努力と熱中、そしてきらめくインスピレーションをなんとか届けたい、彼らの顔に泥を塗るわけにはいかない、その一心でこの本をまとめました。

どうかそういう本だと思って手にとっていただけたらとてもうれしいです。

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これだけをカバーしていることを考えれば、厚いは厚いが極限的に薄い、が正直なところです。風の谷の基盤というべき森と水の循環(自然と人間)を扱う第8章でもたった68ページ、教育という重いテーマでも80ページに過ぎない。ただ全体が一つの系であることを正しく理解していただくにはどうしても一つのまとまりにいれる必要があり、一冊にすることにこだわりました。ハンディさが必要な場面は電子版もあります。ここでも分離していないことがとても大切です。

ここまで広いテーマであれば、第III部以降は毎週1〜2章、心のスピードで読めば十分です。このペースを守って読めば、全体像はむしろ見通しやすく、読破できる手応えがあります。途中で色々調べたくなったら、それは図書館に行くなり、追加で本や論文を読むなりして寄り道すればいいでしょう。

一気に読んだという人は気にしなくていいです。こんな広い範囲について専門性をもって理解している人は普通いるわけがないので(なので書くのが実にしんどかった)。その方もまた戻ってきて、何かをきちんと理解し直す必要があることは間違いないです。

ちなみに値段については、森林学、水文学、土木、空間デザインなど各分野の基本書を揃えれば分野ごとに数万円はすぐにかかる。それを理解する時間と手間は更に重い。しかも地方の問題を扱いつつ、領域ごとにゼロベースで捉え直し、対象を疎空間に定めてここまで横断的に論じた本はまずないことを考えれば、十分妥当な価格設定だと思うがいかがでしょうか?

だからこそ、手元に置き、必要なときに開いてほしい。ページをめくるたびに、きっと新しい景色が見えてくる。むしろ、ゆっくり読んで寄り道して戻ってきて……その繰り返しが、この本との正しい付き合い方なのではないかと思っています。

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この一冊が、残すに値する未来への小さくも確かな一石となることを、心から願いつつ。

 

 

(参考)
kaz-ataka.hatenablog.com

kaz-ataka.hatenablog.com

note.com

*1:即座にはできないという意味で、我々はcreatingではなく、cultivatingという英語を当てている

*2:すぐに分かったと思った人はわかっていない可能性が高い

*3:巻末に相当数のreferenceを紹介したが、大半が英語論文になる。本プロジェクトの関係者用に共有している基本図書は約400冊に及ぶ。

*4:新書は通常8-12万字

*5:内部事情的には、空間デザイン班、インフラ班、建物班、生活オフィス班、まち商業班、サンゴ礁班という歴史的に6つの班で様々に検討してきたものを束ねたものになる。

『風の谷という希望』、ついに本になります。


隠岐、摩天崖
Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH

みなさん、お元気ですか?本当に久しぶりの更新となってしまってすいません!ブログとして書きたいネタも随分有りましたが、ぐっとこらえ、23年の年末からずっと一つの本を土日も祝日もなく書き続けてきました(この間、ほぼすべての講演・取材依頼をご辞退)。本日はそれがようやくまとまりそうだ、という報告です。

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7年半にわたって取り組んできた、都市集中型の未来に対するオルタナティブ検討、「風の谷をつくる」プロジェクト。

このここまでの検討をようやく一冊の本としてまとめ、世に出せることになりました。

タイトルは 『風の谷という希望 – 残すに値する未来をつくる』。2025年7月30日、配本予定です。

200年の祈りを込めています。

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このプロジェクトについて、実はこのブログでも一度触れたことがありました。
覚えている方もいるかもしれません。2019年7月のこちらのエントリです:

kaz-ataka.hatenablog.com

当時はまだ、都市にしか住めない未来というのはどうなんだ、それしか僕らが残せる未来はないのか、という問題意識から始まったこの検討を、様々な分野の有志で集まり検討し始め、まだ1年半あまりの段階でした。

このあと、コアメンバーの一人である宇野常寛さんの「遅いインターネット」で連載のようなかたちで参加メンバーの声が随分とあがったことをご存知の人もいらっしゃるかもしれません。

slowinternet.jp

2020年の2月に出した『シン・ニホン』の最終章で少し触れたこともあり、肌感覚的には、この取り組みに対する静かな注目度は相当に高く、国だとか、都道府県、さらに「疎空間」で様々な取り組みをされている随分多くの方々に、風の谷の取り組み、検討から見えてきたことについて教えてほしいと聞かれてきました。各地で取り組みをされている人は多くとも、本当にしっかりと問題を診断し、構造的な課題が見えている人がいないからだということがどうも原因のようでした。だからこそこのような状況になるわけですが。。

疎空間というのは聞き慣れない言葉だと思いますが、都会 vs 田舎の図式では答えを出せないこの問題に対し、密空間(都市)に対立する概念として、整理したものです。「人口密度が低く、社会基盤の維持が困難とされがちな場所」を、あえて“再設計”の対象とし、都市とは異なる原理で成り立つ空間として捉えなおすために、この言葉を用いています。

とはいえ、数年前に糸井重里さんと対談させて頂いたときに糸井さんがふと言われたように、「人類の体は疎空間の時にできている」のです。人類、あるいはそれぞれの社会の文化が育ってきた、自然豊かな空間が今急激に捨てられそうになっている、それを知恵や技術を使い、なんとか見捨てることなく存続しうる未来は生み出せないのか、それが僕らの問題意識の根源にあります。

www.1101.com

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そうした関心の高まりもあり、まだ公開できないといいながらも、国交省環境省の基本計画策定のみなさんとの議論にも随分となけなしの時間を使ってきました。東京都の東京ベイeSGプロジェクトの検討にも何度か依頼を受け投げ込みに行きました。群馬県富山県の基本計画には相当量の僕らの言葉が散りばめられている状況です。

が、その概要、全体像についてすら一度も実はまとめて語ってこなかったことに気づかれている人も多いでしょう。

僕ら検討メンバーの中では、全体論から空間全体、道やエネルギーのような基盤インフラ、教育やヘルスケアのような社会インフラに至るまで、実に多くの検討チームに分かれて、検討をし続けてきました。コアな大人メンバーだけで30人前後、一時的な検討メンバーまで含めれば100人近く、更に僕の慶應SFCの研究会(ataka lab)の学生の多くも携わり、100を超える検討が行われてきました。今も相当数の検討を行っています。

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そこから見えてきたことは随分と多く、ついに疎空間が存続可能(viable)かつ持続可能(sustainable)に成立するために必要な太い命題(解決すべき課題)は概ね見え、個別、といっても随分広いそれぞれの領域における抑えどころ(領域ごとに解決すべき課題)もだいぶ見えてきました。Viableかつsustainableな状態にある疎空間を「風の谷」、以下、「谷」とも呼ぶことにします。

これまでのやり方では解決できず、そもそも放置されてきた課題であるからこそ、あらゆる事を極力ゼロベースで考え、エコノミクス、自然と人間、ランドスケープ、土木やヘルスケアなどの個別領域への理解などをすべて合わせて束ねてきた検討になります。ワイルドで、実に面白かったのですが、実に大変な検討でもありました。

人に会うたびに聞かれるぐらいなので、その僕らの問い立てから、どのようなものが見え、どのような方向感が見えてきたのかを皆さんにお届けすることはきっと価値があるだろう、そう信じてがんばってまとめた、それがこの一冊になります。

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全体は4部構成。第I部は風の谷とはなにか。

  • 問題意識と構想(第1章)
  • 人類の2大課題(第2章)
  • 谷づくりにマインドセットとアプローチ(第3章)

第II部以降の議論に必須になる全体観を紹介します。第2章では、都市も疎空間も前提とせざるを得ない前提について整理します。多くの空間で行われている検討が風の谷づくりとは似て非なる存在であることも第I部で明らかになります。

第II部は全体論としての疎空間問題の構造。4つの大きな命題の解決が鍵であること、その実現のために鍵となる視点を整理します。

  • エコノミクス(第4章)
  • レジリエンス(第5章)
  • 求心力と三絶(第6章)
  • 文化・価値創造(第7章)

第4章の頭出し的な部分は、小泉進次郎さんと落合陽一さんが主催された「平成最後の夏期講習」などで触れてきましたが、本当のディープな部分は開示したことがありません。ここだけでも相当に味わい深いと思います。

dwango.co.jp

世界がCovid-19という未知の局面を迎えた際に紹介した視点や、国のデジタル防災検討(未来構想チーム)に座長として携わった際の知見が第5章で統合されます。疎空間にとってのレジリエンスは、311や能登を見れば明らかな通り文字通り生命線です。これを考えない谷づくりはありえないというのが我々の考えです。2つの鍵となる概念を紹介します。

kaz-ataka.hatenablog.com
デジタル・防災技術ワーキンググループ未来構想チーム 提言

6章と7章は、この風の谷検討から見えてきた一つの華というべき内容になります。ここで紹介する「三絶」や「サンゴ礁」の概念はいずれ人口に膾炙するだろうと思います。

システム思考から、エコノミクス解析に至るまで相当の盛りだくさんで、ここまでだけでかなりお腹いっぱいになる人も多いかもしれませんが、第III部こそが個別の具体領域の検討になります。

  • 人間と自然の調和 – 森、流域、田園(第8章)
  • 空間構造の基盤:インフラ – 道、水、ごみ(第9章)
  • 人間の活動を支えるエネルギー(第10章)
  • ヘルスケア – 肉体的・精神的・社会的健康(第11章)
  • 谷をつくる人をつくる(第12章)
  • 食と農 – 育てる、加工する、食べる(第13章)

どの領域も、相当のプロが中にはいりながらも、僕らなりにゼロベース検討してきた結果をまとめています。

流域論や林業、水文学、獣害など様々に議論されてきた谷における自然と人間の問題が第8章になります。森というものの捉え方から我々は考え直す必要があると考えています。

健康な体は健康な肉体に宿る、という言葉はまさにインフラに当てはまります。基盤的なインフラ部分が9章、10章。社会インフラ部分が11章、12章です。土木インフラもエネルギーも、はたまたヘルスケアも教育も、都市の視点では答えが出ないことがここで明らかになります。いずれの章も相当に凝縮していますが、どの章も相当に読み応えがあるかと思いますし、我々なりのfindingsの中でも核となる部分をふんだんに紹介しています。

なお、専門家であっても、他領域にまたがると“プロではなくなる”のがこの本の難しさであり面白さでもあります。だからこそ、どの章も初学者に寄り添うように配慮しつつ、いずれのセクションも専門家の方々に読まれることを想定し、書いています*1

そういう意味でこの検討は実に幅広く絡み合う、ある種の人を解き放つための素養、リベラルアーツといえるかもしれません。検討している側、書いている側も本当に大変で、このような書物の場合、誰かが通して書かざるを得ないために、運動の言い出しっぺである僕が頑張って書きましたが、セクションや章が変わるたびに、単に分析を再チェック的にやり直すだけでなく、膨大な書物や論文に目を通しつつ、なんどもなんども、言葉を失うほどのしんどさを感じました。

昨今、主食のコメ、また温暖化による世界的な干ばつなど相当に議論になる食料生産(農と漁業)は疎空間の基幹産業であるとともに、景観の要でもあります。またその恵みから生まれる酒などの加工食品も含む食は土地のもつ求心力そのものと言えます。これをどう考えるのかが13章になります。

どの一章たりとも手を抜いていません。

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第IV部「実現に向けて」は再び全体論に戻ります。

  • 谷の空間をデザインする(第14章)
  • 風の谷という系を育む(第15章)

以上のすべての要素が流し込まれる谷全体の器、空間づくりとは何を意味し、そこでは何が鍵になるのか。どのような要素が求められ、どのような視点が大切になるのか、ランドスケープデザイナー、クリエーター、建築家、ストラテジストなど幅広い才能が様々な角度から検討してきた膨大な検討のエッセンスをまとめたものが第14章です。ボリューム的にも内容的にも驚くほどリッチです(書く側も悲鳴を上げつつがんばりました)。通常の都市デザインといかに違う視点が必要かがおそらくわかって頂けると思います。また、ここでは「土地読み」という谷づくりにおいて必須の概念を体系化します。

最後の章は谷を全体として系として考え、どのようにたちあげていくかについて検討してきた内容をまとめています。統合性の高いテーマであるモビリティも例に取りつつ、コモンズとしての谷をどのようにマネージしていくか、谷化のレベル感をどう捉え、どのように着手するか、というかなり大切な議論を行います。

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疎空間の存続可能性や持続可能性を真剣に追いかけるなかで、僕らが何度も突き当たったのが、「都市の偉大さ」でした。

現代の私たちは、エネルギー、教育、医療など、多くのインフラやサービスを都市の集積力に依存して生きています。単に中世や古代の生活様式に戻ればよいという話ではありません。

けれど、不思議なことに、都市とは対極にある疎空間を見つめるという行為が、結果として、都市そのものが抱える課題や可能性をも浮かび上がらせてくれました。だからこそ、この本の問いかけは、疎空間に関心のある方々だけでなく、むしろ都市に暮らす方々にもこそ、深く響くかもしれないと感じています。

本書を通じて、「風の谷」という構想に向き合ってきた多様な仲間たちの情熱と英知が、少しでも読者のみなさんの心に届けば幸いです。

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注釈込みで全66万字(通常の新書が8-12万字)。読み応えしかない一冊になっています。バラバラにしてしまっては面白くなく、またそれでは全体観を見失い、永遠に「谷」ができない、、そう感じたため、一冊にまとめることにこだわりました。2段組で、900頁強となる予定です。

図版(チャート、分析、写真)も数百枚入り、読み進めるうえで大きな助けになるはずです。できるかぎり論理的に構造化しましたが、新規の概念や見方が多く、まったく速読などに向かない本でもあります。第三部以降は一章を数日から一週間ぐらいで読み続けていただくようなイメージです。

一冊1万円ほどになってもおかしくない分量と構成ですが、できるだけ多くの実践者の手に届くよう、価格は大幅に抑えてもらいました。税抜き5,000円(税込み5,500円)です。風の谷の運動が生まれた瞬間からの賛同者に原田英治さんがいらしたご縁もあり、英治出版から刊行されます。

また、この風の谷検討はこれまで我々コアメンバー手弁当、ポケットマネーでやってきたのですが、今後スケールするに当たり原資が必要ということもあり、この本の売上の一定割合はこの風の谷をつくる活動に配分されます。なので買っていただくと活動の応援にもなります。特別なスキームをご提案頂いた英治出版の皆様に心から感謝しています。

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一旦以上です。

この本では、森、水、インフラ、エネルギー、教育、医療、文化、食と農、空間設計など、いわば「生きる」を支えるすべての領域にわたって、「どうすれば、自然豊かな疎な空間を、持続可能な場として再設計できるのか?」を描いています。

地域で何かを始めようとしている方や、社会の変化に向き合う専門家、そして、ぼんやりと違和感を抱きながらも動き出せていない方、、そんな方たちに少しでも役立ってもらえたらと思って、文字通り命を削って書きました。もし心に引っかかるものがあれば、手にとって頂けたら嬉しいです。

そうそう、amazonや版元.comにはすでに上がっており、予約受付も開始しているようです。

今回はまず、報告まで。
よければ、少しだけ、楽しみにしていてください。

長く待っていてくださった方にも、初めて知る方にも、この「風の谷という希望」が何かのきっかけになることを願っています。



(参考)
kaz-ataka.hatenablog.com
kaz-ataka.hatenablog.com
note.com

*1:言うは易しで猛烈に大変でした。というかこの執筆の最大の難しさと面白さがこのあたりにあったように思います。

お金とはなにか?

1995年の春、金融領域におけるコンシューマーマーケティング*1の先駆け的なプロジェクト(僕のいた会社の慣習で以下「スタディ」と書く)があり*2、初めて大手銀行のお仕事をした。そこまでに、消費財分野において、次々と現れる強烈な競合ブランドの登場で相当厳しい状況にある歴史あるブランドを劇的にテコ入れする、市場のど真ん中を撃ち抜く商品を生み出す*3、などの取り組みを経て、かなりコテコテのマーケティングストラテジストになっていたため、マーケティング研究グループのリーダーのお一人*4と一緒に異種格闘技戦的に投下されたのだった。

そのスタディのワーキングメンバーには僕以外は金融やオペレーションのプロが入っていた。僕は消費財分野はそれなりに経験してきたが、金融についてはほとんど何もわかっていない状況だった。上記のような効果が期待されていたため、過度のガイダンスは僕にはされなかった。その異質間の化学反応が期待されていた。

マーケティング視点を持ったストラテジストワークの核心の一つは、市場の深い構造的な理解に基づき、具体的なアクションそのものというより、それを生み出す中長期的に価値のある本質的な取り組みの方向性を見出すことにある。僕はプロジェクト内でのそんな特殊な立ち位置もあり「銀行は一体何を消費者に売っているのか?」について随分とゼロベースで考えた。飲料で言えば、止渇であり、目覚めであり、仕事におけるリズムのような深い役割、ベネフィット*5に当たるものは何かということだ。

たしか最初の週の週末、朝風呂に入ろうとしていたかしたときに唐突に気付いた。預貯金やローンはお金を売ってるのではなく、「お金の利用権の売買」をしているんだと。お金を預けるときに、利子はだから付くのだ、借りるときに払っている利息はその借りているおカネの利用権なんだと。だから金融と言うんだなと。僕自身はかなり興奮したのだが、これを金融研究グループの人間に話してもふーん、、ごめんそれ何がイシューなの?という感じで全くもって、僕的なsignificanceは殆ど伝わらなかったのではあるが。笑 *6

その視点で考えれば、ローンを組む際に、本当のところお金が欲しい人なんて別にいない。住む家が欲しくてローンを組む、特定のクルマが欲しくてローンを組む、特定の学校での教育を得たくてローンを組む、事業者だって未来に向けて必要な投資(未来への賭け)がしたくてお金を借りる。つまり、本当にやりたいことがあって、そのためにお金がある、お金だけを考えていても何も答えにならないという結論に到達した。その人のやりたいを支援して初めて、そのお仕事の価値があると。

また、上のスタディが終わってからも時折金融系の仕事にも入った。これまでにないハンディなペイメントの仕組みをゼロベースで検討、設計するとか*7、まとまった金融グループの全体戦略を考えるなど、お金の仕事を様々に行うたびにお金について随分と考察した。

それ以外は多様な産業分野でのマーケティング的な視点を持つ綜合的なストラテジスト的なお仕事が主で、なにかやろうとすれば、そのために自由になるお金、つまりおカネの一定の利用権、が前借り的に必要になることを毎度つくづく実感してきた。

これらの検討の中で、ほとんどの銀行や金融機関はやるべきことをまだ到底やれていない。あたかも人や会社をただ査定しているだけの人たちにも見えるとも理解された。伸びしろに満ちていたということだ。今はどうかわからないが、20年以上前にあるところで調べたときには、なんと銀行はその辺の交番に行くよりも行きたくない場所という驚くべきデータが出たこともある。

なにか欲求、解決したい課題があるとき、金さえあればなんとかなる、ということが多いのは事実だが、お金で得るものはお金とは似ても似つかぬものばかりだ。お腹が空いたときは美味しいものが食べられればよいだけで、それはお母さんのおにぎりでもよく、近くの中華やイタリアンでもいい。デートのときだったら、相手も楽しく感じてもらえるそれなりの雰囲気となかなか幸せに感じられるものを一緒に食べられたという充実感、何より楽しく話せたという時間がほしいだけだ。

特定のカメラがほしいときは、それをとにかく保有したい、あるいはそのカメラでしか撮れない写真を撮りたい、ということもあるだろう。僕は30年近く写真を撮るのが趣味になってるが、この20年ほどフィルム時代から五台ほど使い続けているLeica(ライカ)はもうあの形とファインダーが体に馴染んでしまって、あれ以外をもう持てないというのが正直なところだ*8銀塩時代のプロのデファクトだったNikon Fユーザ、フルサイズデジタルの嚆矢であるキャノン5Dユーザも同じだろう。BMWメルセデス、ハーレーの乗り心地、ペダルの踏み心地、サウンド、その他のフィール(感じ方)は独特であり、スタイルも独特だ。単に乗り物としての移動手段を超えて、それらを得たいというのが殆どの購入者の欲求の中心だろう。

売る側もその価値をしっかりと見定めて、それをなんとか買い手ではなく、使い手に届けようと命を削ってそれを生み出している。これがわかっているのが本物の歴史あるブランドと呼ばれるものであり、わかっていないのがただ機能だけをデリバーしている人たちということになる。信用という言葉に秘められた中身は重い。

こういったことを考察するようになって、かれこれ30年ほどだが、今の世の中ではお金に考え方が乗っ取られたような感じになっている部分をよく感じる。お金がないと動かない世界はたくさんあるが、それはなぜか?こういうこともこんがらがっている人がとても多いように思う。

おカネはまるで物質の世界、原子と原子、分子と分子、における電磁気力的に異質をつなげることができる。過去と現在も、現在と未来もつなげることができる。いま目の前に必要な支払いを行うこと(消費/consumption)と、未来に対するbet(投資/investment)のバランスを取ることで、現在と未来へのリソースの張り方も変えることができる。

拙著『シン・ニホン』の一大テーマである社会功労者であるシニア層や子育て世代の解き放ちとケア(生活、ヘルスケア)も別におカネが究極的に大切なわけではない。社会での活躍の場があることであり、安心して生活できることが本当のところ解決されなければいけない課題だ。円や原油の値段は表面的な需給ロジックでは説明できなほど下がったり、上がったりもする。これは一体何の欲求を反映しているのか、こういったことを俯瞰的に考察することはとても大切だと思う。

こちら田内 学さんの『お金の向こうに人がいる』は随分前に書店で手にとってこれはヤバイ本だなとおもってだいぶ前から本棚においてあったのだが、最近、ようやく手に取って、開いたらあっという間に読み終えた。まさに今述べてきたことが更に多面的に考察された素晴らしい一冊だった。若いときに欲しかったとも思った一冊でもあった。ただその時だったら今ほどありがたみを感じられたかわからないが。笑。

読み終えたときのタイトルの味わいが格別。さすが佐渡島庸平さんが関わられただけのことはあると感服。

また、同じく田内さんの小説風になっている一冊『きみのお金は誰のため: ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」』も最近出ていることを知って、そちらも合わせて読んだ。正直涙ぐんだりもした。とても良い本で、中高生の推薦図書にしたほうがいいかもと思った。【読者が選ぶビジネス書グランプリ2024 総合グランプリ「第1位」受賞作】として耳にされた人もいるかも知れない。コテコテに考えてきていない人はまずはこちらから手にとっても良いかもです。


ps. 参考までに目次を貼っておこう。

*1:consumer marketing : 今風に言えばB2C marketing、法人向けの場合は現代語的にはB2B marketing

*2:正確には複数のチャンクがあり、その一つがこれ

*3:ありがたいことに毎年相当規模で愛され、30年経っても今でもコンビニで売っているようなものもある

*4:僕の師匠の一人であるメディヴァ創立者の大石佳能子 さん。規制改革推進会議医療・介護WG座長 「悪貨が良貨を駆逐しない」仕組みづくりが必要 - 大石佳能子・規制改革推進会議医療・介護WG座長に聞く◆Vol.2 | m3.com

*5:benefit : 効用、便益、、needsを満たすものであり必ずしもneedsとは一致しない

*6:だから銀行側が中央銀行とやり取りする金利がかなり世の中のアクセルやブレーキになったりするのだなということもこのとき初めて理解した。笑

*7:いま人口の相当割合の人が使っている様々なサービスの原型となるものだったりする

*8:ずいぶん高いと言われるが、クルマ、ゴルフやヨットなどと比べれば大人の男の趣味としては安い部類だと思う