数えることは、見ることではない — 日本の博士課程にある二つの伸びしろ

A scholar in his niche. Trinity College, Cambridge (2010)


2008年、このブログを書き始めた頃、読者の方からの質問に答える形で、「大学院教育で何ができると、人が育ったと言えるのか」という論考を書いた。気がつけば、もう18年前になる。

kaz-ataka.hatenablog.com

日米双方の研究大学の大学院に身を置いた目から見ると、日本の大学院における博士号と、米国のPhDは、かなり異なるものを指しているのではないか。そう整理したのが、2008年のあの論考だった。

日本では博士号は、ともすれば、大学院に入り、長い時間研究を続け、論文を書き、学会で発表するなど、研究者になるための「十分な経験」を積んだことを示す資格として受け取られる。何ができるようになったかというより、いわば、一定の苦労のチェックリストを一通り終えたことが重く見られる。

これに対して、米国の、少なくとも僕が経験したような研究大学のPhDは、プログラムが育てるべき能力を定め、候補者がそれを身につけたことを確認したうえで与える資格である。その分野を体系的に理解し、大学で教え、自ら問いを立て、独立して研究を設計・遂行し、成果を伝える。そうした一連の基礎能力を、コースワーク、教育実践、研究の設計と遂行、論文執筆、口頭審査といった具体的な経験のなかで身につけ、示したと、大学が認めるものである。

違うのは、どちらが厳しいかではない。大学が何を育て、何をもって「育った」と認めるかである。

その論考はその後、国内外の研究者にも読まれ、「教育や研究室運営に活かしている」と直接連絡をいただくこともあった。

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それから月日が流れ、大学の無期教員*1となって7年以上がたった。これから書くことは、今になって見えてきた話ではない。2008年に書いたときにも、感じてはいた。ただ、論点としてきちんと立てないまま来てしまった。遅ればせながら、正面から出しておきたい。

日本の博士課程は、博士を育てるために大学が本来引き受けるべき二つの責任を、外に投げてしまっているのではないか。

一つは、博士課程の学生の身分と生活を、本人の財布に投げていること。

もう一つは、学位を与える判断を、論文の本数と匿名の査読者に投げていることだ。

「博士課程単位取得退学」と「論文本数による学位審査」は、別々の問題に見える。だが、その根は同じである。大学が、人を育てる責任と、博士に値する仕事を自ら見極める責任を、十分に引き受けていないのだ。

身分と生活を、本人の財布に投げる

日本の大学の周辺にいると、「博士課程単位取得退学」、いわゆる「満期退学」という経歴を持つ人に、しばしば出会う。

これは、少なくとも僕は日本以外では全く耳にしたことがない言葉だ。

博士後期課程で、学位以外の必要単位を取得し、標準修業年限を終えたものの、博士号を取得しないまま大学を退学する。履歴書には「単位取得退学」と書かれる。

外から見れば、意味を取りにくい言葉だ。学位を取らずに大学を去ったのであれば、単なる退学ではないのか。事情を知らない人には、博士課程をやり遂げられなかった人のようにすら聞こえかねない。

だが実際には、それほど単純ではない。

人文科学や社会科学の多くでは、資料の発掘、長期にわたるフィールドワーク、言語の習得、単著としての大きな構想などに時間を要する。博士後期課程の標準修業年限である三年程度で、博士に値する仕事をまとめることは、分野によっては相当に難しい。

米国でも、博士の取得には相応の時間がかかる。なお、米国では学部卒業後に直接PhDプログラムへ進むことが多く、この年数には日本の修士課程に相当するコースワーク期間も含まれる。

生命科学系の博士課程では、大学院に入ってから学位を得るまで、中央値でおよそ7年を要する。入学した人のうち、10年以内に博士に到達するのは6割強にとどまり、その多くが5〜7年目に学位を得る。5年ほどで取り終える人は、むしろ少数派である。

分野の内側を見ると、この時間差はさらに際立つ。生命科学や社会科学の多くは9〜10年で頭打ちになるが、人文系、とくに英語・英文学や外国語・外国文学、は、10年を経てもなお修了者が増え続け、プラトーに達しない。三年どころか、十年でも閉じきらない時間構造がそこにある。*2

僕が専攻していたneuroscience*3のような領域では、たとえばサルを使う研究であれば、実験に入る前の訓練だけで一年以上かかることがある。一つの実験計画がうまくいかなければ、それだけで研究期間は大きく延びる。学位の取得まで7年、8年とかかることは、米国では決して珍しいことではなかった。







(工学・生命科学は6〜7年で立ち上がるが、人文学は10年でようやく約49%)

それでも、米国には日本の「単位取得退学」にそのまま当たる身分はほとんどない。多くの博士課程では、コースワーク*4を終え、Qualifying Exam*5など所定の審査を通ると、学生は博士候補生(doctoral candidate)となる*6。その後は定期的な進捗評価を受けながら、博士論文を完成させることになる。

もちろん、無条件にいつまでも在籍できるわけではない。コースワークと資格試験には明確な到達基準があり、成績が基準に届かなければ、その段階でプログラムを離れることになる。研究の進捗が不十分な場合も、プログラムを離れることがある。しかし、少なくとも一定期間は、授業料免除と生活費支援を前提に、研究者になるための訓練を受ける。博士課程の学生を受け入れるということは、プログラムがその育成に責任を負うことを意味している。

僕がいたYaleでも、大学院のtuitionは相当に高額だった*7。半期ごとに請求書は届いたが、その後、大学のfellowship*8によって支払われたという通知が届いた。生活費もstipend*9として二週に一度小切手で支給された。学費と生活費をどう支えるかは、大学、部局、フェローシップ、TA・RA、指導教員の研究費などによって異なるが、基本的な考え方は共通していた。

博士課程の学生は、大学に授業料を払う消費者なのではない。研究者として育てるために、プログラムが受け入れた候補者なのである。

一方、日本では、多くの場合、「在学期間=授業料の課金期間」になっている。論文の執筆や審査が延びれば、四年目、五年目にも授業料が発生する。生活費も当然必要になる。研究者としての訓練が続いているにもかかわらず、そのコストは基本的に学生本人に乗る。

この問題を回避するため、日本の大学は奇妙なハックを生み出した。必要な単位を取り終えた学生を、いったん退学させる。そうすれば授業料は止まる。そのうえで、「退学後、一定期間内であれば博士論文を受け付ける」という運用を行う。

これが、単位取得退学という二重構造である。

制度上は大学を退学している。ただし、その後の実態は人によって分かれる。同じ指導教員のもとで研究を続け、数年のうちに博士論文を仕上げる人もいれば、そのまま関係が切れ、学位に至らないまま終わる人もいる。前者にとっては、大学との関係は切れているようで、切れていない。

さらに、退学後の学位申請の扱いは大学によって分かれ、論文博士として整理される場合がある一方、一定期間内であれば課程博士として扱う大学も少なくない。

制度上の整理と、実際の育成過程が食い違う。このねじれ自体が、単位取得退学という奇妙な身分を生んでいる。

文部科学省が、「満期退学」「単位取得退学」を、あたかも博士課程の正規の出口であるかのように扱うことに警鐘を鳴らしてきたこと自体は、理解できる。博士課程に入った学生が、何年も学位を得られないまま放置される。大学は指導責任を曖昧にする。学生は身分も生活も不安定なまま研究を続ける。これは健全ではない。

しかし、だからといって、「在学中に学位を出せ」と年限を締めるだけでは問題は解決しない。大学が博士課程の学生の身分と生活を支える仕組みをつくらないまま、在学年限だけを厳しくすれば、時間を要する研究ほど苦しくなる。フィールドワーク、長期観察、資料発掘、単著型の研究、失敗の可能性が高い実験。そうした、本来時間をかけて取り組む価値のある研究ほど、制度の時間に押し潰されることになる。

問題は、研究に時間がかかることではない。その時間を、大学が制度として引き受けていないことにある。

学位の判断を、論文の数に投げる

大学が引き受けるべきもう一つの責任は、候補者の仕事が博士に値するかどうかを、自らの目で見極めることである。だが、ここにも別の外注がある。

日本の理工系、生命系、医学系の少なくない大学院では、博士論文を提出するための条件として、「筆頭著者として査読付き国際誌に何報以上」といった内規が置かれている。

単位ではない。博士論文全体の中身でもない。論文の本数である。

数が揃わなければ、博士論文の審査に入ることすらできない。

もちろん、査読論文を書くことは重要だ。研究成果を、外部からの批判に耐える形で整理し、世に出すことは、研究者にとって欠かせない訓練である。博士課程の間に論文を書くことを強く奨励するのは当然だろう。だが、査読論文を出すことが重要であることと、その本数を学位授与の機械的な必要条件にすることは、同じではない。

奇妙なのは、多くの場合、大学の学位規則そのものには比較的まともなことが書かれていることだ。博士論文は一篇の研究として、その学術的意義、新規性、創造性、一貫性を審査する。

正しい。

ところが、その下にある専攻の内規や運用では、その判断が論文の本数に置き換わる。表では中身を審査すると言い、裏では数を数える。*10

もっとも、本数主義にも、それなりの言い分はある。中身の判断は、どうしても主観に流れやすい。指導教員の胸三寸で、学位が理由もなく遅れることもあれば、逆に身内に甘くなることもある。論文の本数という外形的な基準は、その恣意を排し、誰の目にも明らかな最低ラインを引いてくれる。

だが、それでも、これは審査ではない。外部の査読プロセスを何回通過したか、数えているだけである。

博士号は、大学という仕組みが与える最高学位である。その学位を授与する権限と責任は、大学の本質に属する。にもかかわらず、その中核的な判断を、「匿名の査読者が、ある学術誌への掲載にいつ同意したか」に置き換えてしまう。これは、大学が担うべき審査責任の一部を、外部に委ねていると言わざるをえない。

もっとも、日本の大学院がすべてそうだというわけではない。指導教員を審査委員に加えず、査読論文の本数も要件としない専攻は、確かに存在する。ここで問題にしたいのは、個々の運用の巧拙ではなく、学位の判断を論文の本数に置き換える仕組みが、いまなお珍しくないという構造の方である。*11

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数が足りても、博士に値しない仕事はありうる。数が足りなくても、博士に値する仕事はありうる。少なくとも米国の多くの博士課程では、その両方が起こりうる。査読論文を何本出していても、研究全体が一貫した独立の探究になっていなければ、博士に値しないと判断されることがある。逆に、まだ査読論文として掲載されていなくても、仕事の中身が十分に新しく、深く、独立した研究として成立していれば、博士論文の口頭審査を通ることがある。

なぜ両方が起きるのか。見ているのが、数ではなく、中身だからだ。

博士号を与えるとは、「たくさん研究した」と認めることではない。「一定数の論文が査読を通った」と認定することでもない。自分で問いを立て、研究を設計し、失敗を含めて探索し、何か新しいものを見つけ、それを一貫した知として組み上げる力があると、大学が認めることである。その判断を、匿名の査読者に丸投げすることはできない。

査読と学位審査は、重なる部分はあるが、同じものではない。

査読は、個別の論文が、その学術誌 (academic journal) の文脈で掲載に値するかを判断する。学位審査は、研究全体が独立した探究として成立し、候補者が研究者として自立しているかを判断する。掲載の可否や時期には、査読者、編集過程、学術誌の方針、分野の流行、投稿先の選択が大きく影響する。それを学位の機械的な代理指標にすれば、通すべき仕事を取りこぼし、数は揃っていても博士論文として弱い仕事を通すことになる。

数えることは、見ることではない。歴史には、その端的な例がある。

1924年、ルイ・ド・ブロイがソルボンヌに提出した博士論文は、電子などの粒子が波の性質を持つという物質波の仮説だった。あまりに新奇で、ペラン、ランジュヴァン、カルタンらを擁する博士論文委員会でさえ、その真価を測りかねた。そこでランジュヴァンは、判断を体裁や業績数に委ねる代わりに、その意義を見極められる人物、アインシュタインに論文を送り、意見を求めた。

アインシュタインは、これを「物理学の最も難儀な謎に差した、最初のかすかな光」と評し、「大いなるヴェールの一角を持ち上げた」と書いた。委員会は学位を授けた。三年後、電子線回折によって物質波は実験的に確かめられ(デイヴィソン゠ガーマー、1927年)、ド・ブロイは1929年にノーベル物理学賞を受ける*12

査読論文の本数で決まったのではない。一つのアイデアの破壊力を、見る目のある者が見たのである。

自分たちに測りかねる仕事を前にして、数に逃げるのでも体裁で退けるのでもなく、その中身を見極められる目を探し当てる —— 審査とは、本来そういう営みだ。

本来、博士課程における育成と審査の中核は、独立性を持った博士論文委員会 (thesis committee) にあるべきだ。資格試験を通ったあと、候補者の研究は、指導教員 (advisor) 一人の所有物ではなくなる。指導教員はもちろん重要な一員である。しかし、指導教員が候補者を抱え込み、恣意的に学位取得を遅らせたり、逆に十分でない仕事を通したりすることがないよう、委員会が一定の独立性を持つ必要がある。

その独立性は、運用にも埋め込まれている。

僕が経験したプログラムを例に取ると、博士論文委員会は指導教員が組むものではなかった。候補者自身が、指導教員の助言も受けながら構成を考え、加わってほしい教員に一人ずつ依頼する。委員会の主査 (chair) を自分の指導教員が務めることは認められない。開催の主導権も候補者にあり、進捗の早い学生は半年に一度といった頻度で自ら委員会を開き、公式の場でもそれ以外でも、委員から助言を得に行く。そして、その開催状況を、プログラムが学生ごとに記録し、追っていく。このように指導教員が委員会の判断を一人で支配できないよう、一定の独立性が制度として組み込まれていた。

ここで、先ほどの本数主義の言い分を思い出したい。中身を見る審査は、結局、指導教員の胸三寸に逆戻りするのではないか。本数主義が生き延びてきたのは、まさにこの恐れゆえだった。だが、答えは、数に逃げることではない。判断を、一人の主観から、複数の目と、明示された基準へと開くことだ。いま見た委員会の独立性、すなわち指導教員が主査を務めず、構成も開催も候補者が担い、プログラムが記録する —— は、まさにそのための仕組みである。こうした仕組みによって、少なくとも指導教員一人の胸三寸に委ねる危険は、大きく減らすことができる。

委員会は進捗を見る。問いを見る。方法を見る。失敗を見る。何が新しいのかを見る。候補者が、本当に独立した研究者になっているかを見る。だから、掲載されなかった負の結果も、どの学術誌にも収まりにくい越境的な研究も、博士論文には正当に含まれうる。

二つの責任を、大学に取り戻す

では、この二つの責任を、どうやって大学に取り戻すのか。

必要なのは、年限を緩め、いつまでも研究させることではない。博士課程の段階と責任を、設計し直すことである。

コースワークと所定の審査を終えた者を、いつまでも「授業料を払う学生」として扱うのではなく、博士候補生(doctoral candidate)として明確に位置づける。博士候補生には、通常の授業料とは異なる在籍身分を用意し、大学との関係、研究指導、研究設備へのアクセス、倫理審査、図書館、データベースなどを維持する。可能な限り、生活を支える経済的支援も組み込む。

その一方で、無期限には放置しない。委員会が定期的に進捗を確認する(開かれるべき委員会が開かれていなければ、プログラムや委員会から指導が入る)。研究計画は成立しているか。必要な指導は行われているか。学位取得の見込みはあるか。どの段階で論文を提出すべきか。どの水準に達したら博士に値すると判断するのか。これらを明確にする。

ここで参照しているのは、米国の制度が全体として理想的だ、ということではない。借りたいのは、博士候補生という身分、委員会が審査の主体となる仕組み、そしてプログラムが育成に責任を負うという構造である。

これは学生への温情ではない。むしろ、大学とプログラムの責任を明確にすることである。大学が、誰を博士候補生として認めるのか。どのような条件で指導と支援を続けるのか。どの時点で、博士取得の見込みがないと判断するのか。どのような仕事を博士に値すると認めるのか。それらを、大学自身が引き受けるということだ。

近年、博士課程の学生への経済的支援に国費が向けられるようになったことは、大きな前進である。しかし、研究資金を学生個人に配るだけでは、プログラムの責任は立ち上がらない。個人への支援に加えて、人を受け入れ、育て、学位まで送り出す博士プログラムそのものに、責任と資源を結びつける必要がある。

もちろん、その財源をどう確保するかは、それ自体が容易でない問いであり、ここで言う責任設計は、それだけで全てを解決する十分条件ではない。だが、誰を、どのプログラムが、どこまで責任を持って育てるのかが定まらないまま金だけを配っても、育成の責任は宙に浮いたままになる。責任の設計は、財源の議論に先立つ前提である。

博士課程とは、本来、プログラムが責任を持って人を育てる仕組みである。どのような教育と訓練を行い、どのような研究者を育て、どの水準に達したら博士と認めるのか。その責任単位は、学生個人でも、指導教員一人でもない。

プログラムである。

日本が本気で博士人材を育てたいのであれば、二つの外注をやめる必要がある。

身分と生活を、学生の財布へ投げるのをやめる。
審査を、論文本数と匿名査読者へ投げるのをやめる。

博士課程を、授業料課金の年限管理から解放する。
博士審査を、論文本数のカウントから取り戻す。

その両方が必要である。

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これは、日本の研究力低下とも地続きの問題だ。失われた30年のあいだ、日本は博士を増やす、研究力を強化する、知識集約型の社会へ移行すると言い続けながら、博士課程そのものの時間設計と責任設計を、十分に作り直してこなかった。

そしてAI時代には、この問題はいっそう重くなる。既存の知を集め、比較し、再構成すること。定型的な分析を行い、文章にまとめること。短時間で答えられる問いを解くこと。こうした仕事は、ますます機械に寄っていく。だからこそ、人間の研究者に問われるのは、長い時間をかけて問いを立てる力、まだ見えていないものを見る力、数えられないものを考える力、言葉になっていない現実をつかむ力である。そのような知が、三年の箱にきれいに収まるとは限らない。

もちろん、だらだらと長く研究すればよいという話ではない。むしろ逆だ。だからこそ、博士候補生という明確な身分、委員会による進捗管理、合理的な期限、経済的支援、明確な評価基準、そして大学自身による本気の審査が必要になる。

博士号は、在籍年限の内側で処理する事務手続きではない。その社会が、どのような時間をかけて知を育てるかという制度である。

数えることを、見ることの代わりにしない。大学が、もう一度、自分の目で見ることだ。それができないのであれば、その博士プログラムは、根本から設計し直す必要がある。

私自身、大学に身を置く一人だ。人を育て、自らの目で見極めるという責任から、私たちのプログラムも例外ではない。まず自分たちから、何ができるのかを考えてみたい。


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参考文献 / References

  • Council of Graduate Schools (2007/2008). Ph.D. Completion and Attrition: Analysis of Baseline Program Data from the Ph.D. Completion Project (R. Sowell, T. Zhang, & K. Redd 著/M. F. King 編). Washington, DC: CGS. 掲載図表のもとになった数値は、同プロジェクトの公開データ("Quantitative Data", Completion Data/Excel)として入手できる. https://www.phdcompletion.org/quantitative-data/
  • Sowell, R., Zhang, T., Bell, N., & Redd, K. (2008). Ph.D. Completion and Attrition: Analysis of Baseline Demographic Data from the Ph.D. Completion Project. Washington, DC: CGS. https://cgsnet.org/wp-content/uploads/2022/01/phd_completion_and_attrition_analysis_of_baseline_demographic_data-2.pdf
  • National Center for Science and Engineering Statistics (NCSES), National Science Foundation. Doctorate Recipients from U.S. Universities / Survey of Earned Doctorates(各年版). 分野別「大学院入学から学位取得まで」の中央値を含む. https://ncses.nsf.gov/surveys/earned-doctorates
  • 中央教育審議会 大学院部会「審議経過の概要──国際的に魅力ある大学院教育の展開に向けて」(学位授与等)https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1407395.htm
  • 中央教育審議会答申「新時代の大学院教育」(2005年)「円滑な博士の学位授与の促進」https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1415111.htm
  • 東京大学大学院理学系研究科 地球惑星科学専攻「博士論文の審査過程、提出要件等について」 https://www-old.eps.s.u-tokyo.ac.jp/students/dissertation-process.html
  • 東京大学学位規則/京都大学学位規程(大学レベルの学位審査に関する規程)。京都大学大学院工学研究科「博士学位論文の取扱いについて」(研究科レベルの学位取得基準の例)。
  • de Broglie, L. (1923). Ondes et quanta. Comptes Rendus de l’Académie des Sciences, 177, 507.(学位取得前に発表された短報の一例)
  • de Broglie, L. (1925). Recherches sur la théorie des quanta. Annales de Physique, 10(3), 22.(博士論文)
  • Bacciagaluppi, G., & Valentini, A. (2009). Quantum Theory at the Crossroads: Reconsidering the 1927 Solvay Conference. Cambridge University Press.(アインシュタインの評、ランジュヴァン宛書簡の引用を含む)

*1:無期教員とは、任期の定めのない教員のこと。数年ごとに契約を更新する任期付き(有期)のポストと対をなす概念で、いわゆるテニュア(終身在職権)を得た教員がこれにあたる。

*2:米国・カナダの主要研究大学で、1992-93〜2003-04年度に博士課程へ入学した学生を追跡したCouncil of Graduate SchoolsのPh.D. Completion Projectによれば、入学から10年時点の累積修了率は、工学64%、生命科学63%、社会科学56%、数学・物理科学55%、人文学49%で、全分野では57%(理工系59%に対し社会科学・人文系53%)である。分野を問わず、入学者の4割強は10年を経ても博士に到達していない。分野別・全国規模の修了率としては現在もこの調査が最も包括的で、その後の大学個別のデータもおおむね同じ傾向を示す。 学位取得までの期間にも大きな分野差があり、NSF(NCSES)のSurvey of Earned Doctoratesによる「大学院入学から学位取得まで」の中央値は、2012年修了者で人文学9.0年、社会科学7.7年、生命科学6.9年、物理科学・工学がともに6.7年、直近(2022年)でも生物・生物医学系で6.4年である。時間を要する分野ほど、本稿でいう「単位取得退学」のような不安定な身分に置かれやすい。 なお、修了率の曲線は、理工系・生命科学系では9〜10年でほぼ頭打ちになる一方、人文系では10年時点でもなお上昇が続く(CGSも、社会科学・人文系の最終的な修了率はさらに上がりうると指摘している)。とはいえ、10年で博士に到達しなかったおよそ4割の多くが、学位に至らないまま課程を離れた(=離学した)ことに変わりはない。時間を要する分野ほど、修了までの時間も、離学の割合も大きくなる。

*3:脳・脊髄・神経系の構造、発達、機能、そして疾患のメカニズムを、分子レベルから行動・認知レベルまで多角的に研究する学問。分子細胞生物学、生理学、認知科学、医学、物理学、工学などが融合した手法横断的な分野として、急速に発展してきた。

*4:コースワーク(coursework)とは、博士課程の前半で課される体系的な履修過程を指す。専門分野の基礎を網羅的に学ぶ授業と評価から成り、これを終えることが次の段階(資格試験・本格的な学位研究)へ進む前提となる。日本の博士課程に比べ、要求水準が高く、比重も大きいことが多い。

*5:Qualifier とも呼ばれる資格試験は、コースワーク修了後に課される関門試験である。これに合格して初めて学生はdoctoral candidateとなり、本格的な学位研究に進む。分野により、筆記・口述・研究計画の審査などの形をとる。

*6:米国では、博士課程を途中で離れる場合でも、多くの大学で在学中の到達段階に応じた学位が授与される。コースワーク相当の要件を満たせば Master of Science (MS) / Master of Arts (MA)、資格試験を経て博士候補生に進級した段階で Master of Philosophy (MPhil) が与えられ、それを持って課程を離れることができる(制度は大学・分野により異なる)。たとえば僕がいたYaleでも、MS・MA・MPhil は博士号への「en route(途上)」の学位として、候補生に進む学期に自動的に授与される。英文学のように、三年目にPhDではなくMPhilを選んで出る道を明示する専攻もある。日本の「単位取得退学」が、何を達成したのかを外形的に示さない曖昧な退学の記録であるのに対し、これらは、大学が「ここまで達成した」と積極的に認定して与える学位である。出口においてもなお、大学が自らの目で中身を見て学位を与える、という構造は共通している。

*7:当時でも、個人で負担することが現実的とは思えない水準だった。

*8:ここでいうfellowshipは、返済不要の給付(授業料の免除・支弁)を指す。日本で「奨学金」と呼ばれるものの多くは、実際には貸与、すなわち将来返済を要するローンであり、両者は性格が大きく異なる。米国の主要博士課程では、授業料は基本的にこの給付でカバーされ、学生個人の負担にはならない。

*9:stipendとは、博士課程の学生に生活費として支給される返済不要の給付を指す。フェローシップ、大学の財源、TA・RA、指導教員の研究費など、その財源と法的な性格はプログラムによって異なる。

*10:一例として、東京大学大学院理学系研究科・地球惑星科学専攻の課程博士申請要件は、「申請者を筆頭とする論文が国際誌に1編以上(区分により2編以上)掲載または受理されていること」と定め、しかも「博士論文と直接関係のない内容の論文でもよい」としている。京都大学大学院工学研究科も、研究科として「博士後期課程学位取得基準」を設けている。他方、大学レベルの学位規則(東京大学学位規則、京都大学学位規程など)は、博士論文そのものの学術的意義や独創性を審査すると定める。表(学位規則)では中身を、裏(専攻内規)では本数を —— という二重性が、ここに見てとれる。

*11:沖縄科学技術大学院大学(OIST)の科学技術研究科や一部の国際連携プログラムなどがその代表例。ハラスメント防止や国際標準への適合を目的に、指導教員を審査委員から完全に外し、査読論文の機械的な本数基準ではなく「博論そのものの質」を国内外の外部審査員が評価する仕組みを導入している。

*12:ド・ブロイの学位審査の経緯について、二点補足しておく。第一に、ランジュヴァンがアインシュタインに送り、返ってきた評として記録に残るのは、「物理学の最も難儀な謎に差した、最初のかすかな光」および「大いなるヴェールの一角を持ち上げた」(1924年12月16日付ランジュヴァン宛書簡)である。しばしば流布する「これは博士号ではなくノーベル賞に値する」という言葉は、後世の脚色とみられ、一次資料では確認できない。本稿では確実な方の評のみを用いた。第二に、ド・ブロイが学位取得前に発表していたのは、主にComptes Rendus(フランス科学アカデミー紀要)への短報であり、アカデミー会員を通じて公表される短い通報だった。現代的な意味での、査読を経た通常の長さの原著論文が何編も揃っていたわけではない。業績が皆無だったのではないが、要点は、本数の充足ではなく、一篇の論文(博士論文)が体現するアイデアの重要性そのものが、見識ある目によって評価された、という点にある。

価値はスケールしない。発酵する。

Koji room at Horikawaya Nomura, a centuries-old soy sauce and miso brewery in Gobo, Wakayama, Japan.
文化、関係、大地には、経済とは別の時間がある

英語の culture という言葉には、少し不思議な二重性がある。

一つは、人間がつくる文化。芸術、習慣、ものの見方、共有された意味の世界だ。

もう一つは、生物学的なculture。微生物を培養し、育てたものを指す。ワイン、チーズ、味噌、醤油、日本酒。そこでは、目には見えない生き物の集まりが、与えられたものを別の何かへと変えていく。

文化と微生物のcultureは、まったく違うもののように見えて、実はかなり近い。

どちらも生きたものの集まりであり、ただ蓄積するのではなく、異質なものが交わり、時間をかけ、受け取ったものを新しい価値へと変えていく。

どちらも、急がせることができない。

別々の道から、同じ場所へ

先日、メルボルン大学で建築・都市・地域について研究しているDan Hillさんから、『風の谷という希望』は英語で読めないのか、という問い合わせをいただいた。

Danさんは、日本を含む各地のslowdown cultureを研究しており、鹿児島を題材に、文化としてのcultureと、発酵を生むcultureを重ね合わせた論考を書いていた。

medium.com

読んで驚いた。

僕らが「風の谷」の検討のなかで長く考えてきたこと、とりわけ『風の谷という希望』第7章で扱った価値生成の考え方と、かなり近い場所へ、まったく別の入口から到達していたからだ。

Danさんは斎藤幸平さんの脱成長論と鹿児島から出発し、僕らは人口が減り、薄くなっていく谷や沿岸部から出発した。

別々の道から、同じ膜の両側にたどり着いたように感じた。

このやり取りをきっかけに、これまで考えてきたことを、改めて一つの形にしてみたいと思った。


成長か、脱成長か

僕らはいま、成長をめぐって少し違う問いを立てているのではないだろうか。

一方には、経済は成長し続けなければならないという考えがある。もう一方には、有限な地球の上で無限の物質的成長はあり得ず、豊かな国は意図的に経済を縮小すべきだという脱成長論がある。

脱成長論が指摘する環境的な制約は正しい。有限な系のなかで、物質的な拡大を永遠に続けることはできない。

ただし、経済をそのまま縮めればよいのかというと、僕はそうは思わない*1

金利とは、単なる金融技術ではない。将来の経済は今日より大きくなるという、社会全体が未来に対して置いた賭けだ。

年金も、信用も、投資も、多くの社会制度も、将来の経済がいまより大きくなることを暗黙の前提にしている。経済が縮小しても、過去につくられた複利の請求は消えない。小さくなるパイを、増え続ける請求が食べていく。

だから、脱成長をそのまま実行すれば、穏やかに速度を落とせるとは限らない。成長を前提としてつくられた構造のなかで縮小すれば、制度そのものが人を食い始める。

しかし、成長至上主義もまた、反対側から同じ間違いをしている。

文化に資金を投入したからといって、文化が倍速で生まれるわけではない。信頼に投資したからといって、信頼が翌四半期に二倍になるわけでもない。

成長論も脱成長論も、すべての価値が一つの時計で動いていると考えている。

だが、そうではない。

本当の問いは、増やすか減らすかではない。

その価値は、どのような時間で育つのか、だ。

四つの資本、四つの時計

一つの場所を生きたものとして成り立たせている資本には、少なくとも四つある。

経済資本、文化資本、関係資本、自然資本だ。

経済資本は複利で増える。金が金を生み、密度と効率によって投資が投資を呼ぶ。現代社会が最もよく理解してきたのは、この時計だ。

しかし、文化資本は同じようには増えない。

文化は、異質なものが出会い、混ざりきらないまま影響し合い、時間をかけて発酵することで生まれる。

関係資本、つまり信頼や互酬性は、熟成する。築くには何年もかかるが、たった一言で壊れることもある。時間に対して極端に非対称な資本だ。

自然資本は、循環する。季節、土、水、森。一本の木には何十年分もの太陽が蓄えられている。これもまた、金を積めば翌年に再生できるものではない。

経済は複利で増える。
文化は発酵する。
関係は熟成する。
大地は循環する。

価値には、それぞれ異なる時計がある。

問題は、経済資本の時計を、ほかのすべての価値に押しつけることだ。

文化を早く完成させようとする。信頼を短期間で調達しようとする。森を投資回収の時間で評価する。

発酵を早めようとして温度を上げすぎれば、菌は死ぬ。

価値を育てようとしたはずの資本が、その価値を壊してしまう。

価値は"膜"で生まれる

発酵には、時間だけでなく、界面が必要だ。

生物は、"膜"の上で価値を生み出している。

細胞は、ミトコンドリアの膜を隔てた勾配によってエネルギーをつくる。神経細胞は、シナプスという隙間を越えて情報を受け渡す。*2

"膜"は壁ではない。

壁は、内と外を分断する。膜は、内と外を区別したまま、必要なものを通す。

完全に混ざってしまえば、違いがなくなり、新しいものは生まれない。完全に切り離されていれば、そもそも何も交わらない。

価値が生まれるのは、その間にある"膜"だ。

人の集まりも同じだと思う。

外から来た人と、その土地に長く暮らしてきた人。新しい技術と古い技。都市と谷。異なるものが、互いを消さない距離で出会う。

油と水は、かき混ぜてもすぐに分離する。しかし、両方と結びつく乳化剤があれば、一つの新しい状態をつくることができる。

地域にも、こうした乳化剤のような人が必要になる。

有名な移住者でも、伝統を守るだけの人でもない。その土地を内側から理解しながら、外の世界とも自然に行き来できる人。どちらかをどちらかに同化させるのではなく、両者の間を何度も渡ることのできる人だ。

地域を「活性化」しようとする多くの試みは、この膜と乳化剤の設計を見落とす。

外から人や資本を急激に入れすぎれば、むしろ分離と対立が起きる。必要なのは、流入量だけではない。

異なるものが出会いながら、その違いを失わずに済む場と時間だ。

時間は、待つことではなく技である

発酵に必要なもう一つの要素は、時間だ。

ただし、何もしないで待つという意味ではない。

時間を扱うことそのものが、一つの技である。

酒を樽に入れれば、木はゆっくり呼吸する。微量の酸素が荒さを丸くし、水分やアルコールの一部が失われることで、残ったものが濃縮される。樽の木そのものからも、香りと構造が移っていく。

これを資金で短縮することはできない。

酒造りでは、最初の小さな発酵である酒母、すなわち酛(もと)が、その後の全体を大きく左右する。最初の菌の状態を誤れば、後から良い米を加えても、完全には取り戻せない。

はじめに、どのようなcultureをつくるか。

短期では、最初の場と条件を整える。中期では、状態を見ながら手を入れる。長期では、成熟を待つ。

完成を急ぐのではなく、十年、三十年、百年先を考える。百年続いたところで、次の二百年を考える。

これは放置ではない。

むしろ、極めて注意深い設計と手入れを求められる。

テロワールとは、味わうことのできる時間である

先日、和歌山県御坊市にある堀河屋野村を訪れた。

三百年以上にわたり醤油や味噌をつくり続けてきた蔵だ。麹蔵には木の棚が並び、道具にも、壁にも、長い時間の痕跡が残っていた。

そこでは、発酵は比喩ではない。

原料、菌、道具、水、火、人の手、建物、季節。どれか一つだけで味が生まれるのではなく、それらの関係が、長い時間をかけて一つの環境をつくっている。

テロワールとは、土地の個性というだけではない。

川の傾斜、水が石や土の中にとどまる時間、気温、湿度、菌、建物、人の営み。それらの関係が蓄積し、味として現れたものだ。

言い換えれば、テロワールとは、味わうことのできる時間である。

そしてこれは、食や酒に限った話ではない。

一つの場所の価値も、特定の界面と、特定の時間が交差するところから生まれる。

存続から、生成へ

これまで僕は、「持続可能性」の前に「存続可能性」があると述べてきた。

そもそも生き続けられないものを、持続可能にすることはできない。

kaz-ataka.hatenablog.com

また、災害が起きても社会全体が止まらないこと、壊れても部分的に機能を残せることの重要性も論じてきた。

kaz-ataka.hatenablog.com

発酵という視点は、そこにもう一つの次元を加える。

生きた場所は、ただ残るだけでは足りない。
止まらないだけでも足りない。
新しい価値を生み続けられなければならない。

持続可能性は、状態を保つことを問う。
存続可能性は、変化しながらも生き続け、更新し、新しいものを生み出せるかを問う。
発酵は、葡萄を葡萄のまま保存することではない。葡萄をワインへ変える。受け取ったものを、元よりも豊かな何かへと変換する。

人口が減り、薄くなっていく場所に必要なのも、この生成する力だと思う。
まず、その場所が生き、何かを生み出せなければならない。その後に初めて、残すに値するものが生まれる。
順番を逆にすれば、高い費用をかけて丁寧に維持された、何も生まれない空間が残る。

未来は、ただ建設されるものではない。
まして、スケールさせれば生まれるものでもない。
未来は、醸される。

異なるものが、互いを消さずに出会う膜がいる。両方の側に足場を持つ人がいる。そして、時間を遅れではなく技として扱う必要がある。

成長か、脱成長か。
それは最も深い対立軸ではない。
本当に問われているのは、最初のcultureをどう育て、どのような環境を守り、どれだけの時間をかけるのか、ということだ。

待つことは、何もしないことではない。

おそらくそれは、最も難しいデザインの一つである。


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本稿は、2025年刊行の『風の谷という希望―残すに値する未来をつくる』(英治出版)で初めて展開した考えを発展させたものであり、風の谷をつくる検討チームと、これまで関わってくださった多くの人々、土地との、十年近い共同の仕事の上に成り立っています。


ps. 本稿と同じテーマを、英語圏の読者に向けて再構成した英語版をMediumに掲載しています。

Value Doesn’t Scale. It Ferments.
medium.com

*1:本件については斎藤幸平さん、石山アンジュさんとの対談の中でかつて指摘した。 斎藤幸平、安宅和人、石山アンジュが考える「本質的な豊かさ」と経済の両立 (2021.10.07)

*2:この部分は単なる比喩ではなく、生物学的な仕組みに基づいている。筆者は分子生物学を学び、分子細胞生物学と神経生理学を組み合わせた研究で脳神経科学のPhDを取得している。

AI時代のリーダーシップ:導くとは何か


Amagi, Shizuoka, Japan
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW


AI時代のリーダーシップとは何か。

そんなテーマで対談する機会があった。お相手は、前職の後輩であり長年の友人でもあるNPOクロスフィールズ代表の小沼大地さんと、越境学習を長く研究されている法政大学の石山恒貴さんだ。

小沼さんは、冒頭で三つの問いを掲げた。

  • AI時代にリーダーに求められる力とは何か。
  • これからのリーダーが積むべき経験とは何か。
  • 越境の経験が、これからの時代に果たす価値とは何か。

60分のうち、最初の15分ほどは三人とクロスフィールズの取り組みの紹介だったので、実際に議論できた時間はそれほど長くない。小沼さんが問いを投げ、石山さんと僕が交互に話す。そんな形であっという間に終わった。

だが、話しながら、自分の中では別の問いが立ち上がってきた。

リーダーとは、そもそも何をする人なのか。

かつて福澤諭吉翁は、リーダーを「先導者」と呼んだ。管理者でも、決裁者でも、権限者でもなく、先に立ち、人を導く者。

だとすれば、AI時代に問われているのは、単に「リーダーに必要なスキルは何か」ではない。

そもそも、導くとは何か。

この問いを少し掘っておきたい。

リーダーシップとは、人ではなく機能である

リーダーとは何をする人なのか、から考え始めると、議論はすぐに混線する。

肩書きとしてのリーダーもいれば、役職はなくても明らかに場を導いている人もいる。組織図上の上司がリーダーとは限らないし、逆に誰かが正式に任命されたからといって、その人にリーダーシップが宿るわけでもない。

大切なのは、「人」に縛られないことだ。

リーダーのなす役割とは何か。つまり、「リーダーという人」ではなく、「リーダーシップという機能」を見ることだ。

ここで一つ紹介したいのが、5つのリーダーシップ、Five Leadership Model だ。*1

  • Thought leadership:目指す先を定め、解くべき問いを示す
  • People leadership:才能を引き寄せ、火をつけ、育てる
  • Client leadership:顧客やステークホルダーとの関係を安定させ、育てる
  • Collaborative leadership:ハコや既存の役割を超えて価値を生み出す
  • Entrepreneurial leadership:これまでにないことを仕掛ける

言葉はやや仰々しい。だが、言われてみれば、いずれも確かにリーダーの仕事だ。

迷った時に方向や進み方を示せない人を、リーダーとは言えない。人を見出し、育てられない人は、リーダーとしては弱い。いざという時に場を安定させられない人も、力不足だ。既存のハコや仕組みを超えて働きかけるのも、間違いなくリーダーの仕事だ。さらに、既存のモデルややり方を壊し、新しいことを仕掛けることも、リーダーの重要な役割だ。

AIが代替するのは、タスクであって機能ではない

オンラインの参加者から、こんな問いが出た。

「そもそもリーダーの定義が変わるのではないか。AIが、いまリーダーがしていることを代替するようになるのではないか。」

自然な問いだと思う。だが、少し分けて考えた方がよい。

AIが代替するのは、リーダーの仕事の中に含まれるタスクであって、リーダーシップという機能そのものではない。

情報を集める。整理する。比較する。論点を並べる。資料をつくる。メールを書く。議事録をまとめる。シナリオを出す。こうしたタスクは、AIが相当程度担うようになる。すでに担い始めている。

だが、「方向を定める」「人を育てる」「場を安定させる」「ハコを超えて束ねる」「リスクを引き受けて踏み出す」という機能は、タスクではない。

タスクが機能を支えるのであって、機能がタスクでできているわけではない。

人を束ねる力も、そう簡単には代えられない。サッカーで言えば、どれほど天才的な選手がいても、一人だけで試合には勝てない。三人のソロが集まっただけなら、出力は三人分にしかならない。三人の総和を超えるものがチームとして生まれた時、初めてそのチームは真に機能していると言える。

リーダーがいて助かった、と人が思うのは、たいていこの瞬間だ。

枠組みは消えない。中身が変わる

では、AI時代にリーダーシップの枠組みは変わるのか。

僕の見立てでは、リーダーシップの枠組みそのものは消えない。だが、その中身はAIによって著しく変容する。

これから問われるのは、単にAIを使えるかどうかではない。AIの出力をなぞり、表面的な最適化にとどまる人と、AIを使いながら問いや判断の次元そのものを変えられる人との差が、歴然と開いていく。

なぜか。

AIは、途中工程を圧縮するからだ。

調べる。整理する。比較する。叩き台をつくる。論点を並べる。文章にする。可視化する。そうした「解く部分」の多くは、AIが担うようになる。

その結果、人間に残るものは何か。

一つは、何を問うか。
もう一つは、最後に何を良しとするか。

つまり、ディレクションとダメ出し。問いと判断。入口と出口だ。(この点については2月に書いた以下の拙稿を参照 )

kaz-ataka.hatenablog.com


同じことが、5つのリーダーシップの中でも起きる。

Thought leadership は、その典型だ。

AIは人類が蓄積してきた知識や表現の多くを飲み込み、既存の問いの空間の中ではかなり強く内挿する。すでに誰かが考え、書き、議論してきたことの延長であれば、かなりの水準で答えらしきものを出す。

だからこそ、「答えを概ね持っている人」の価値は相対的に下がる。

それよりも重要になるのは、問いの空間そのものを変える人だ。
問いの次元を変える人であり、問いの地平(horizon)を変える人だ。

これは、AIが苦手なことでもある。AIは与えられた問いには強い。だが、その問いで本当にいいのか、そもそも何が問われるべきなのかを決めるのは、人間のリーダーの仕事として残る。

Client leadership も同じだ。

顧客が言っている課題は、本当に課題なのか。本人たちが避けている決断は何か。組織として何を変えなければ成果が出ないのか。どのリスクを取る覚悟があるのか。

定型的な分析や提案はAIがかなり埋める。だが、顧客が本当に決めるべきことを一緒に見極める力は残る。むしろ、情報が過剰に出る時代には、その価値が上がる。

Collaborative leadership も変わる。

これまでは、人と人、部門と部門、組織と組織をつなぐことが主だった。だがこれからは、そこにAI、データ、業務プロセス、外部パートナーが入り混じる。協働の相手が、人間だけではなくなる。

人間・AI・組織・データを一つの動く系に編成すること。
複数の知性と利害を接続し、実際に動く形にすること。

ここに新しい collaborative leadership の重心が移る。

Entrepreneurial leadership もまた、単に新しいことを仕掛ける力から、新しく可能になったことを現実にする力へと重心が移る。

AIは試作コストを大きく下げる。誰でも試せるので、単なるアイデアの価値は下がる。大事なのは、何が本当に今できるようになったのか、その結果どの前提が壊れたのか、どこにまだ誰も取りに行っていない価値があるのかを見極めることだ。

そのとき、既存の事業、制度、組織の論理とぶつかることは避けられない。いま成立しているものを丁寧に回すだけでは、次の現実は立ち上がらない。時には、既存の最適解を問い直し、必要なら壊してでも、新しい可能性に賭ける必要がある。

Entrepreneurial leadership の本質は、現在を否定することではない。現在を現在として回しながら、その外側に未来の種を仕込むことだ。今すぐ成果にならないもの、まだ名前のないもの、既存の評価軸では測りにくいものに、あえて資源と注意を向けることだ。

ただし、AIには手がない。実際に物をつくり、人を動かし、調達し、届け、制度や事業として定着させる重さは残る。

だからこそ、小さく試し、大きく学び、早く捨てる。そして最後には、事業、制度、運動として現実にする。

つまり、AI時代の entrepreneurial leadership とは、新しいことを仕掛ける力にとどまらず、新しく可能になったことを、事業、制度、運動として現実に定着させる力である。

だが、問いと判断はどこから来るのか

ここで、もう一段降りる必要がある。

AI時代に人間に残るものが、問いと判断なのだとすれば、次に問うべきは明らかだ。
その問いと判断を支える見立ては、どのような経験から育つのか。

問いを立てる。
最後に良しと言う。
自分なりの見立てを持つ。

これは、どこから来るのか。

単なる知識からではない。頭の中の計算だけからでもない。

見立ては、身体を通じた経験の蓄積から来る。相手と向き合い、現実に触れ、思い通りにならないものにぶつかり、不可逆な時間を生きる。その履歴が、知覚となり、判断の土台になる。

以前、「AI native時代の袋小路」で書いた通り、見立てる力は、ファーストハンドの経験の積み重ねからしか育たない。

kaz-ataka.hatenablog.com


AIはサポートできる。視野を広げ、情報を補い、仮説を出し、言語化を助けることはできる。だが、その人だけの皮膚感覚を持つことはできない。能力が足りないからではない。身体を持って不可逆な時間を生きた履歴を、構造的に持てないからだ。

ここで、People leadership は最も深い仕事になる。

人を育てるとは、単にスキルを付与することではない。その人なりの知覚を育てることだ。自分の足で立つ勇気と、自分の見立てを持つ力を育てることだ。

ここにAI時代の落とし穴がある。

辛い途中工程をすべてAIに肩代わりさせる人は、流暢に内挿できるようになる。もっともらしい答えを出すことはできる。だが、裸の知覚が育たない。

問いの地平を変える力も、最後に良しと言う力も、そこからしか出てこないにもかかわらず、である。

AIで人を拡張する。
同時に、人を無力化させない。

これが、これからの育成の核心になる。

「離」の重さが跳ね上がる

もう一つ、小沼さんから問われたことがある。

枠を超えるとはどういうことか。

僕が話したのは、守破離のことだった。

この国は、長年、「守破離」で人を育ててきた。まず型を守る。次に型を破る。最後に、型を離れて自分なりの形をつくる。

AIは、この構造を大きく変える。

AIは「守」を圧縮する。多様な型を学習済みだからだ。
さらに、「破」のハードルも下げる。既知の方向への逸脱なら、いくらでも試せるからだ。

その結果、「破」は卓越の証ではなくなる。
差異化は、丸ごと「離」に移る。

だが、「離」はプロンプトからは生まれない。

型を知らずに型を壊すことは、「離」ではない。ただのノイズだ。住んだことのない家を壊すことは、建築の刷新ではない。

「離」は、「守」を通り、「破」を通り、そのうえで初めて生まれる。自分の身体で型に住み、痛みを伴って型を破り、その先に自分なりの形を立ち上げる。それが離だ。

AIは「守」を助ける。「破」を助ける。だが、「離」は外部装置からは出てこない。

だからこそ、近道があっても、人にちゃんと辛い「守」を通らせる。それも、人を育てる者の仕事になる。

では、AI時代に人はどこで自分の型を壊されるのか。

ここで、越境経験の価値が立ち上がる。

越境経験の価値は、むしろ上がる

越境が大事なのは、単に視野が広がるからではない。普段の所属、役割、文脈から外に出ることで、自分の型が通用しない場に立たされるからだ。予定調和ではない相手と向き合い、言葉がうまく届かず、自分の前提が壊されるからだ。

閉じた情報空間の中で、いくら巧みにシミュレーションしても、自分の型が本当に壊れる経験には届きにくい。現実の人、現実の土地、現実の組織、現実の痛みと向き合う時間が、その人の知覚を鍛える。

だから越境は、AI時代において単なる研修メニューではない。

人が自分の見立てを持つための経験であり、自分の型を一度壊されるための経験であり、やがて自分なりの「離」に向かうための経験でもある。

AI時代のリーダーシップとは何か

最初の問いに戻ろう。

AIは、かなりのことを「解く」ようになる。

集める。整理する。比較する。仮説を出す。書く。つくる。回す。こうしたことは、ますますAIが担っていくだろう。

だが、それはリーダーが要らなくなることを意味しない。むしろ逆だ。

答えらしきものが大量に出る時代には、何を問うかが重要になる。
選択肢が無数に出る時代には、何を選ばないかが重要になる。
できることが爆発的に増える時代には、何を引き受けるかが重要になる。

そして何より、AIは責任を取らない。

提案はする。分析もする。もっともらしいストーリーもつくる。だが、最後に「こちらに進む」と決め、その結果を背負うのは人間だ。

福澤諭吉翁が、リーダーを「先導者」と呼んだ意味が、ここで重くなる。

先導者とは、ただ先に立って歩く人ではない。正解を知っていて、後ろに教える人でもない。

まだ道になっていないところで、どちらに進むべきかを示す人だ。何を見るべきかを示す人だ。何を問うべきかを示す人だ。そして、その先にある未来が、本当に人々が向かうに値するものなのかを考え続ける人だ。

AI時代に「導く」とは、答えに連れていくことではない。

見るべき現実へ、導く。
問うべき問いへ、導く。
選ぶべき未来へ、導く。
そして、人が自分で歩ける状態へ、導く。

つまり、AI時代のリーダーシップとは、AIを使いこなす力そのものではない。

AIによって答えが溢れる時代に、何を問うか、何を選ばないか、何を人間が背負うかを決める力だ。

そしてその力の核心は、閉じない世界で育つ知覚にある。

AIが「解く」時代に、人間のリーダーは「導く」ことを取り戻す。


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※この記事の英語版を Medium で公開しています(repositioned for an international readership)。

Leadership in the Age of AI: What It Means to Guide

https://medium.com/p/leadership-in-the-age-of-ai-what-it-means-to-guide-f9fa08814282

*1:小沼氏や僕がかつて務めていたMcKinsey内部でのフレームワーク。他にもInspirational leadershipなどいろいろあるが、基本この5つは、評価可能かつ育成可能なスキルとして、シニアなマネージャー以上に対して用いられていた。

今日の飯をどう残すか:谷は育つものだ 2


Amagi, Shizuoka, Japan
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疎空間に必要なのは、頑張りでもハコでもなく、続くための条件である

前回、「谷は、つくるものではなく、育つものだ」という文章を書いた。いま「地方創生」として語られていることの多くは、問題設定からずれているのではないか、と。本題は「都会 vs 地方」ではなく「都市 vs 疎空間」であり、「どう人口を増やすか」ではなく「人口が増えない前提で、どう生き続けられる系にするか」なのだ、と書いた。

kaz-ataka.hatenablog.com


ありがたいことに、多くの反応をいただいた。その中に、考えるべき大切な論点があった。

疎空間には、今日も商売をし、田畑に出て、宿を掃除し、請求書を書き、銀行振込をし、回覧板を回している人たちがいる。未来を語る前に、今日の売上、今日の雇用、今日の暮らしをどうするのか。そこを見なければ、疎空間の未来など語れないのではないか、という指摘だ。

これはまったくその通りだと思う。

今日の飯がなければ、明日はない。今日の商売が回らなければ、未来の構想もない。今日の暮らしが壊れていれば、100年後の話など空疎に響く。

ただし、今日の飯が危うくなっているなら、その理由を深く見立てなければならない。

売上が足りない、人が来ない、担い手がいない、学校が細る、交通が弱い、医療が不安だ。その一つひとつを「もっと頑張ろう」で返しても、原因に届いていなければ状況は悪化する。

ビタミンが足りない人は、気合いで走り続けても治らない。必要なのは、何が欠けているのかを見立て、欠けているものを補うことだ。

では、今日の飯は何が支えているのか

そのうえで大切なのは、今日の飯を「個々人の頑張り」に閉じて考えてはいけない、ということだ。

いま疎空間で起きていることは、努力の量の話ではない。担い手が減り、学校や医療や交通が細り、災害リスクが高まり、商圏が縮み、ケアの負担が増えている。一軒の店、一人の農家、一つの学校が頑張れば何とかなる、という局面では、すでにない土地が多い。

そして、ほとんど語られていない事実がある。

多くの疎空間は、暮らしの土台、すなわち上下水道、電気、道、ごみ処理を、その土地の経済だけでは、すでに支えきれていない。それでも動いているのは、広域から、そして未来からの、大きな「輸血」があるからだ。人口密度がある水準を下回ると、一人あたりの社会維持コストは跳ね上がる。その差額は広域の再分配という形で支えられ、足りない分は、縮んでいく未来への借金で埋められている。

誤解しないでほしい。これは一方的な施しではない。都市もまた、水も食料もエネルギーも森も、疎空間に支えられて成り立っている。問題は、この相互依存を支える勘定と仕組みが壊れていて、未来から前借りしている、ということだ。

しかも、今世紀末に向けて日本全体の人口がほぼ半減していく局面では、都市側の再分配力も急激に下がる*1。都市が疎空間を支える力も、未来が現在を支える余力も、これまで通りには残らない。谷化には、どう考えても50年単位の時間がかかるというのに。

また、これは疎空間だけの話ではない。やがて都市も、同じ構造に直面する。

そしてこれは、その土地に生きる人の頑張りが足りない、という話ではない。むしろ逆だ。すでに不利な構造の中で、踏ん張っている。

つまり、「今日も回っている」という事実の中には、借りものの土台が含まれている。

だから問うべきは、「誰が今日の売上をつくっているのか」だけではない。「その売上が、そして、その売上を成り立たせている土台が、明日も、10年後も、次の世代にも続くための条件は何か」だ。

どれか一つの視点では、解けない

ここで一つ、誤解を避けるために書いておきたい。

僕のブログだけを読んで反応される方も多い。もちろん、ブログはブログとして読んでいただければありがたい。ただ、風の谷検討(以下、谷検討)そのものは、ブログの数千字で閉じる話ではない。

『風の谷という希望』では、疎空間を、エコノミクス、レジリエンス、求心力、文化・価値創造を軸に、森や水、農や食、教育や医療、エネルギーや交通、景観や土地の記憶まで、複数の視点から見ている。どれか一つを取り出しても、問題は解けない。

農業に関わる人には、まず食と農の章(第13章)だけでも開いてもらえたら嬉しい。教育に関わる人は、教育や学校の部分だけでも(第12章)。宿や飲食に関わる人は、滞在、回遊、サンゴ礁空間の部分だけでも(第6章、第7章、第14章)。インフラや行政に関わる人は、基盤インフラ(第4章、第9章)、レジリエンス(第5章)、自治体経営(第3章、第4章、第15章)の部分だけでも開いてもらえたら有り難いと思う。


農だけでは農は残らない。食だけでは食は残らない。宿だけでは宿は残らない。学校だけでは学校は良くならない。疎空間の難しさは、土地の持つ自然、歴史、文化、記憶は本来豊かでありながら、人、金、知、サービス、インフラの密度が薄く、しかもそれらが深く絡み合っていることにある。単一の視点からの正論は、しばしば全体としては答えにならない。

「現場のことは、現場にいる人にしかわからない」という声もある。

その通りだと思う。現場を見ずに、土地の未来は語れない。机上の構想だけで、商売も、農も、学校も、森も、水も、暮らしもわかるはずがない。

ただし、ここで言う「現場」とは、一つの店、一つの産業、一つの集落、一つの行政領域だけを指すものではない。疎空間の現場は、田畑であり、厨房であり、宿であり、学校であり、森であり、水源であり、道であり、インフラであり、祭りであり、土地の記憶でもある。

谷検討の仲間たちには、疎空間の出身者、疎空間で暮らす人、疎空間での課題解決に直接関わってきた人たちが多い。そして、かなりの頻度と深さで、数多くの疎空間を訪れ、土地の人たちと語り、表の産業だけでなく、インフラ、水源、森、道、農、学校、医療、商業、食、景観、土地の記憶に関わる現場を見てきた。

それは、現場の人の声を置き換えるためではない。むしろ、個々の現場の声を、土地全体の構造の中に置き直すためだ。

それでもなお、現場は一度見ればわかるものではない。土地は深く、複雑で、時間を含んでいる。だからこそ、単一の現場感覚だけで語るのではなく、複数の現場を横断し、構造として見立てる必要がある。

現場への敬意とは、「現場の声をそのまま肯定すること」ではない。現場が抱えている痛みの奥に、どのような構造的な背景があるのかを見極めることだ。

問題の層を切り分ける

ここで一つ、切り分けておくべきことがある。

疎空間で起きている問題のすべてが、「疎空間だから起きている問題」ではない。谷検討から見えてきたのは、解決すべき課題を次の三つのレイヤに切り分けて考えると、議論がこんがらがらない、ということだ。

社会横断の課題。儲からない、売れない、人が来ない、続かない。この話のかなりの部分は、疎空間以前に、どこでも起きる事業課題だ。ニーズのないことをしているのか。価値はあるが伝わっていないのか。価格設計が間違っているのか。体験や品質が弱いのか。届け方、見せ方、売り方、運営のどこかがおかしいのか。ここは、ビジネスの基本に即して見ればよい。

疎空間共通の課題。顧客密度が低い。発見されにくい。移動や配送のコストが高い。担い手が孤立する。共同化しないと固定費を吸収できない。滞在時間が短いと消費が立ち上がらない。学校、医療、交通、インフラの弱さが、商売の前提条件そのものを揺らす。同じ事業課題でも、疎空間ではこうした条件が重なり、難度が上がる。

谷固有の課題。その土地の森、水、道、食、歴史、祭り、人の記憶を、どう結び直すのか。その土地でしか生まれない求心力を、どう育てるのか。これは一般論では解けない。

森や田園のように都市性の低い領域では、社会横断的な課題と疎空間共通の課題が重なって見えることもある。だが、商業、宿、教育、医療、交通、エネルギーのように都市的な仕組みとの接続が強い領域では、この三層を分けておかないと、議論はすぐにこんがらがる。

問題の層を間違えると、打ち手も間違える。社会横断の課題には、まず事業としての見立てと改善がいる。疎空間共通の課題には、密度、共同化、回遊、滞在、インフラを組み替える設計がいる。そして谷固有の課題には、その土地の記憶と価値を読み直す力がいる。谷づくりでまず必要なのは、この層の切り分けだ。


[図版3-2:風の谷実現に向け解決すべき課題の3レイヤ。資料:風の谷 全体デザイン班 コアメンバー討議(御立尚資、宇野常寛、安宅和人);安宅和人『風の谷という希望』(英治出版、2025)図版3-2]

受け皿ではなく、enablerを

たとえば農業であれば、ただ小さな田畑を守り続けるだけでは、多くの場合、答えにならない。もちろん小規模であること自体が悪いわけではない。土地に根ざした農の価値は大きい。しかし、経済として回すには、一定のスケール、共同化、加工や流通、販路、担い手、土地利用の再設計が必要になる。「農業を残す」とは、昔の形を凍結保存することではない。農が土地の生態系、食、景観、教育、観光、文化と結び直され、経済としても暮らしとしても続く形に作り替えられることだ。

飲食も同じだ。良い店が一軒あるだけでは、土地全体はなかなか変わらない。わざわざ食べに来る理由があり、泊まれる場所があり、歩ける道があり、土地の記憶に触れる体験があり、通信も交通も成立している。そのとき初めて、食は単発の消費ではなく、滞在と回遊を生む界面になる。

宿も同じだ。ただベッドがあるだけでは、土地に人は関わり続けない。そこに滞在することで、森や川や海、畑や工房、人や歴史、生活のリズムと接することができる。その土地でしか得られない時間がある。そのとき初めて、宿は単なる宿泊施設ではなく、土地と外の人をつなぐ結節点になる。

学校も同じだ。「学校を残したい」と言うだけでは、学校は良くならない。小規模校の良さはある。だが、子どもたちが固定された少人数の関係に閉じ込められ、先生も地域も外と混ざらないままでは、未来に開かれた学びにはなりにくい。必要なのは、学校単体を守ることではなく、学校を地域内外の人、知、自然、技術、文化と混ぜることだ。子ども同士が土地を越えて出会い、先生が越境し、外部の専門家や異人が関わり、地域そのものが学びの場になる。そういう仕組みがあって初めて、疎空間の教育は弱点ではなく、むしろ強みになりうる。

ここで必要なのは、受け皿づくりではない。enablerづくりだ。

ハコをつくることやインフラを増強することが、そのままenablerになるわけではない。

人口が縮み、担い手が減り、維持更新の余力が細る中で、使われない施設、過大な道路、過剰な上下水道、身の丈を超えた防災設備を増やすことは、未来への負債を積み増すことになりかねない。

レジリエンスも、硬く、大きく、壊れにくくすることだけではない。それはしばしば、身の丈に合わない頑健化であり、将来の重荷を増やすだけに終わる。必要なのは、平時には価値を生み、非常時には完全には止まらず、壊れても戻せ、人口が減っても維持できる仕組みだ。

そして、こうした仕組みを疎空間で見立てておくことは、疎空間のためだけではない。疎空間は、都市の未来を先取りする、いわばタイムマシンのような存在だ。ここでの設計は、都市がこれから迎えるレジリエンス問題への備えでもある。

ハコやインフラは、それが人、知、金、価値の循環を生み、未来の固定費を上回る意味を持つときに初めてenablerになる。

補助金で施設をつくる。移住者向けの住宅を用意する。観光客向けの拠点を整備する。道の駅を大きくする。それぞれに意味がある場合はある。しかし、それが人と知と金と価値が回り続ける条件になっていなければ、単なる受け皿で終わる。受け皿だけを増やしても、中身は育たない。

本当に必要なのは、土地の営みが続くための条件を整えることだ。商売が成立するための滞在時間をつくる。小さな事業が孤立しないよう、共同化と連携の回路をつくる。外から来た人が消費者ではなく、継続的な関係者になれる余白をつくる。農、食、宿、教育、ケア、エネルギー、交通がばらばらではなく、相互に支え合う系にする。土地の美しさを壊さず、むしろ価値の源泉として磨く。災害時にも完全には止まらない、戻せる仕組みにする。都市の縮小コピーではなく、疎空間に合った生き方のOSをつくる。

これが、我々の谷検討から見えてきて、谷本としてまとめたことだ。

谷づくりは、現場の泥くささを軽んじる話ではない。むしろ逆だ。今日の飯、今日の暮らしを本当に残したいからこそ、それを個々人の気合いや善意や忍耐に押し込めてはいけない、という話だ。

本気で残したいから、直視する

もう一つ、大切なことがある。

その土地が滅びないために必要なことは、できるだけフラットに直視しなければならない。これは、土地への愛情の有無とは別の話だ。むしろ本気で残したいからこそ、見たくない現実を見なければならない。

多くの病が、気合いや願いだけでは治らないのと同じだ。本人がどれほど頑張っていても、自分だけでは原因を見立てられず、必要な手を打てない病はある。むしろ、自力で何とかしようとするほど発見が遅れ、状態が悪化することもある。

だから診断がいる。

状態を見立て、原因を探り、必要な手を組み立てる専門性がいる。痛みを伴う手当ても、生活習慣を変えることも、これまで当たり前だったやり方を手放すことも、必要になる。

疎空間も同じだ。

「この土地が好きだ」「この店を残したい」「この集落をなくしたくない」。その土地の人たちの思いは尊い。だが、思いだけでは土地は残らない。人口密度、担い手、商圏、インフラ維持費、水源、森、災害リスク、教育、医療、食、宿、交通、景観、土地の記憶、次世代への継承。これらを洗いざらい見なければ、本当に何が詰まっているのかはわからない。

そのために、谷本では巻末に「風の谷化ガイドライン」を置いた。

これは、どの土地が上か下かを採点するための表ではない。その土地がどこで詰まり、どこに希望があり、何を変えれば頑張りが報われる系に近づくのかを、洗いざらい確認するための見取り図だ。

その入口として、谷化の深度と関与者の広がりを、次のように整理している。


[図:風の谷化ガイドライン — 谷化の深度と関与者の広がり(ver.0.813)。レベル1〜5。土地を採点するためではなく、どこで詰まり、どこに希望があり、何を変えれば谷化が進むのかを見立てるためのもの。*2


このガイドラインは、こうした深度を、先に挙げた複数の領域すべてにわたって見ていくものだ。ただし求心力(三絶)だけは、特定の領域に収まるものではなく、すべての領域に通底するため、独立の軸としては立てていない。

どれか一つだけを見ても、土地は見えない。逆に言えば、自分の関わる領域からでいいので、このガイドラインを開いてもらえれば、自分の現場が、実は他の現場とどれほど深くつながっているかが見えてくるはずだ。

これらを直視せずに「頑張れば何とかなる」と言い続けることは、優しさではない。最後には、その土地に生きる人たちを追い込む。

本当に厳しいのは、現実を見ることではない。現実を見ないまま、じりじりと選択肢を失っていくことだ。

もちろん、すべてが今の形のまま残るわけではない。集落も、学校も、道も、営みも、昔の姿を凍結したまま次の時代に渡すことはできない。だが、これは「残せない」という話ではない。今の形に固執することと、本気で残すことは、むしろ逆だ。形を変えてでも生き続けられるように編み直すこと。それを避けて「大丈夫だ」と言い続ける方が、はるかに残酷だ。

残すとは、凍結保存することではない。次の時代にも生き続けられる形に、編み直すことだ。

今を、系につなぐ

「今」を見ない未来論は空虚だ。しかし、「今」だけを見て構造を見ない現場論もまた、未来を失う。

いま必要なのは、この二つをつなぐことだ。今日の商売を、明日の系につなぐ。今日の暮らしを、次の世代の選択肢につなぐ。今日の田畑、店、宿、学校、祭り、森、川を、100年後も意味を持つ形に編み直す。

残すに値する未来とは、外から誰かが査定するものではない。その土地に生きる人たちが、「ここを次の世代に渡したい」と本気で願い、そのための条件を育て続けることの中にしか生まれない。

疎空間に必要なのは、「ただ頑張ろう」ではない。「何を変えれば、頑張りが報われる系になるのか」という問いだ。

谷は、つくるものではない。育つものだ。しかし、勝手に育つわけではない。育つためには、育つ条件がいる。土壌、水路、光、風、菌、混ざり合う場がいる。人の営みも同じだ。

今日の飯を残すためにこそ、谷を育てる必要がある。

*1:前エントリでも触れた通り。国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(令和5年推計)結果の概要」 https://www.ipss.go.jp/pp-zenkoku/j/zenkoku2023/pp2023_gaiyou.pdf

*2:谷本15章と巻末資料には、谷を支える3つの基礎軸(求心力を除く)[エコノミクス、レジリエンス、文化/価値創造]、森と水とトレイル(自然と谷)、食と農、基盤インフラ(道、水道、静脈系)、エネルギー、空間デザイン、まち商業空間、生活オフィス空間、谷をつくる人をつくる(教育)、ヘルスケア(well-being)のそれぞれの視点でのガイドラインを掲載している。図だけでは伝わりきらない部分も多いが、各章で紹介する検討と合わせて見ていただければ、土地を洗いざらい見立て、どこから手を入れるべきかを考えるための道具として使っていただけると思う。

谷は、つくるものではなく、育つものだ


Amami, Japan
1.4/50 Summilux, RDPIII, Leica M7


『風の谷という希望』、谷本、が世に出て10か月が過ぎた。


新しい地方創生をテーマとする国交省×NewsPicksのイベントに招かれたり*1、はたまた、地方創生そのものをテーマとした雑誌Ambitions REGIONの創刊号の巻頭特集*2でも取り上げられた。様々な土地が、急に「谷化」に目を向け始めている。

だからこそ、本当のことを伝える時が来ている気がしている。

谷本は意図的に日本やどこかの土地を主語として書くことはしなかった。それはそもそも疎空間が存続できないことは世界的な問題だからだ。歴史と自然豊かな疎空間の未来が残るために、フラットに見たときに何が大切なのか、この10年近い取り組みの中から見えてきたことを伝えることを最大の目的として書いた。

ただ、谷本を丁寧に読めば見えてくることがある。それは、日本で「地方創生」として語られていること、各地方で行われていることの多くは、僕らの谷検討から見えてきたことと、ほぼ真逆だ、ということだ。

よく聞かれる問い

風の谷の検討をしていると、よく聞かれる。

「谷づくりは、どこでやっているんですか?」
「どこかにモデルになる土地があるんじゃないですか?」
「これは、自治体や首長が頑張ることですよね?」

いずれも、よくわかる問いではある。ただ、その前提には、風の谷検討とはかなり異なる発想が含まれている。少しずつほぐしていこう。

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そもそも風の谷検討は何なのかといえば、人が数千年は住んできたような歴史があり、自然豊かな疎な空間はいかにして存続可能かつ持続可能になるのか、という話だ。イデオロギーでもなんでもない。

そこに含まれる要素は広い。道、上下水、ごみ処理、エネルギーのような「基盤インフラ」もあれば、森や田園のような自然や人間が自然とともに作ってきた要素(「人間と自然」)もある。教育やヘルスケアシステムのような「社会インフラ」もあれば、人が住み働く場所、人が集う場所のような「生活空間」もある。

都会 vs 地方ではなく、都市 vs 疎空間

ここが問題の起点として大切なのだが、この疎空間問題は「都会と地方」という問題ではない。地方であろうと、人口の大半は稠密に人が住む空間、「都市」に集中している。その多くは海岸沿いの低地に、この数百年から千年程度で急激に人が集積してきた場所であり、数千年にわたって人が住んでいる場所は少ない。

いっぽうで、この谷問題が扱おうとしているのは、人が長く住み、自然豊かな「疎空間」だ。これがどのような国においても国土の大半を占め、この中にもっとも長い歴史を誇り、人が暮らしてきた空間が含まれている。すなわち「都会 vs 地方」ではなく、「都市 vs 疎空間」という図式でなければ問題を適切に捉えることはできない。

しかも、地方と呼ばれるエリアの課題の大半は、実は「疎空間」で起きている。たとえば人口の増減は疎密でほとんど説明することができ、対象となっているエリアの疎密度と人口をかけ合わせればどのようなことが起きるかがわかり、それを加重平均すれば、特定の県の人口増減は概ね説明できる。またたとえば、維持できない基盤インフラ、社会インフラの大半は、地方の都市部ではなく、疎空間部で起きている。

地方問題と呼ばれているもののかなりは疎空間問題なのだ。


持続可能性の前に存続可能性

しかも、この谷検討では以下の2つについては構造的に起きている現象であり、与件として捉えることはあっても、これを根本的に解決することはできないと考えている。

1つは、人類が豊かさとともに全世界的に長い人口調整局面に入っていること。すなわち人口増を前提とした議論には意味がないということだ。これについては、かつてかなり丁寧に本ブログで議論したのでそちらを参照されたい。

kaz-ataka.hatenablog.com

2つ目は、人類と地球との共存が決定的に重要な状態であることが続くということだ。温暖化一つをとっても、いまの森の大半は今世紀末までに大きな変容を迫られる。地球上の土地利用に占める割合は、いまや森を越え農地(放牧地を含む)が最大だ。人間はもう、生態系における外乱ではない。最大の構成要素である。最も深刻なこの課題を棚上げしたプランも、意味をなさない。

たとえば、

  • パンデミックと天災は被害が増える and/or 甚大化
  • インフラや構造物は現在の復旧力を超え相当に壊れる頻度が高まる
  • 土木・社会インフラは劇的に余り、メンテが困難になる
  • スクラップするためには相当の人手とコストがいるが今のやり方では対処しようがなくなる
  • 人は取れなくなり、大量の人材を前提とした仕組みは成り立たなくなる

すなわち、いずれの意味においてもレジリエンス課題は喫緊的に深刻だ。
疎空間は、この二つの課題が最も先鋭化した空間だ。いわば、未来から先に現実が届くタイムマシンと言っていい。

この段階で、風の谷検討が多くの地方創生・地方再生議論とは根本的に異なることに気づかれるだろう。これまでの地方創生は、人口増加、成長、都市集中による効率化、インフラ拡張・維持を前提としているが、今起きていることは、人口調整局面、災害激化、ケア負担の増大、さらにエネルギー制約などであり、「地方創生」という言葉では、もう問題は解けないということだ。

「どう人を増やすか」ではなく「どうviable(生き続けられる状態)にするか」が本題だということだ。viableでない土地でsustainabilityを語っても、意味がない。良いコミュニティである前に、良い場所である—その認識が前に立たないかぎり、ほぼ必ず失敗する。

鍵となる4つの視点の、ほぼ全てからズレている

持続可能(sustainable)である以前に存続可能(viable)である必要があるが、その視点で見ると、我々の検討から見えてきた4つの柱は避けて通ることができない。

1つ目がエコノミクス、2つ目はレジリエンス、3つ目は土地ならではの求心力、最後が文化・価値創造、だ。

まず「エコノミクス」。金が回らない空間はそもそも存続可能でないことは言うまでもなく、持続的な発展も期待しようがない。

「レジリエンス」については、上で触れたとおりだ。このような状態で、災害や人口調整局面でもviableかつsustainableな空間を作る必要がある。

「求心力」は自明だろう。大量の人が流れ込むことはありえないだけに、その土地を愛し、土地の未来に長期的にコミットでき、新しい変化を生み出し続ける人たち、土地が生み出し外に出ていった才能の1/10だけでも引き寄せる必要がある。

そのうえで、その土地が次々と新しい変化を引き起こし、価値を生み出し続けること、すなわち「文化・価値創造」は必須だ。

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このように、これらは論理的な必然だが、そのほぼすべてから、いまの疎空間の取り組みの大半はズレている。エコノミクスの現状は棚上げされ、レジリエンスの名のもとに身の丈に合わない頑健化が進み、求心力のかなめである三絶(絶景・絶生・絶快)への意識は地方再生文脈で著名な土地ですら低く、サンゴ礁のような空間づくりの視点も欠落した土地が大半だ。


エコノミクス

金が回らない空間は、どれほど理念が美しくても存続できない。

経済的な良循環が未来を作ることは、事業経営者であれば誰もが理解していることだが、地方、疎空間の経営(managementの意味)ではほとんどケアされることはない。疎空間の比率が大きな自治体のほとんどでは、現在、ひたすら都市からの輸血、そして(人口が縮小する)未来からの借金が続くことが当然視されている。ちなみに、収支、特にコストサイドは人口密度に高い逆相関があり、現時点ではざっくり言えば、人口密度1000人/平方キロを大きく超えるところに採算ラインがある。

R5 (2023) 年度での2100年の日本の人口の中位予想は6278万人であり*3、このままの人口比率でいけば東京は1400万都市から714万都市になる。このような未来に、これまで通りの都市からの輸血が可能だと仮定することは不可能だ。都市の中でもより中心部(円ではなく櫛形のことも大いにありえる)に機能は寄せていくことになるだろう。

しかしながら、自然法則や経済原理に合わない取り組みがほとんどだ。

  • コミュニティとの関係構築なしに、施設だけを作って人が集まると期待する
  • 必要な運営コストを考慮せず、継続的な資金投下の目処がないにもかかわらず、中央から金を持ってきて大規模な施設や活動を立ち上げる
  • 定期的なメンテナンスや更新なしでも、施設やシステムが劣化しないと考える
  • 固定費が高すぎる事業モデルで小規模運営を続ける

使われない道、使われない建物、維持できない上下水道、更新できない橋梁に投資し続けることは、未来への投資ではない。将来世代への負債だ。

問うべきは「立派につくれるか」ではない。「100年後も続けられるか」だ。疎空間に必要なのは、都市スペックの縮小版ではない。疎空間らしい、身の丈にあったQOLを下げない形でのインフラだ。


レジリエンス

疎空間では、壊れないことよりも、止まっても生き残り、戻せることが重要になる。

土地の力で直せる空間にするなら、つくり方を根底から変える必要がある。

エネルギーで問うべきは、「再エネかどうか」ではない。「災害時に立ち上がるのか」「ブラックスタートできるのか」「景観を壊していないか」「既存グリッドと賢く共存しているか」だ。ブラックスタートは外部電源無しで立ち上がる能力だ。能登の震災時、半島には70を超える風力発電設備があり、そのうち震災で壊れたのは10基に満たなかったが、すべてが止まったのは記憶に新しい*4

すでにグリッド型の電力や水道がある場所に、ばらばらとオフグリッド設備を足しても、系として維持範囲を畳めない限り、土地全体のコスト構造は改善しにくい。電力にしても水の供給にしても、この認識のない取り組みは多い。

必要なのは、教条的なオフグリッドではない。状況に応じてグリッドを使い、必要な部分をほぐし、災害時に生き残るエネルギー系だ。

そして、見落とされがちだが心のレジリエンスへのケアも、十分とは言いがたい。


求心力—三絶

人口増が前提にできないなら、その土地に関わり続けたくなる理由をつくるしかない。

疎空間の最大の資産は、土地そのものの美しさだ。

絶景を壊すインフラ、建築、看板、送電設備、メガソーラーは、単なる景観問題ではない。地域の将来価値を壊す問題だ。近景・中景・遠景の調和への問題意識も、ほとんど欠落している。

森は、単なる木材生産装置ではない。水を涵養し、空気を通し、生態系を支え、人の感覚を開き、土地の記憶を宿す基盤だ。採算性や生態系を十分に見ない林業中心の発想で森を見るかぎり、風の谷は生まれない。必要なのは、入れない森ではない。歩ける森、感じられる森、学べる森、土地の深い時間に触れられる森、そして人のあえて入らない深い森だ。

多くの土地で、降水量が大きく減っているわけでもないのに、川の水が数十年前と比べて細っているという声を聞く。その背景に、間伐不足による人工林の過密化や水循環の変化が関わっている可能性が指摘されている。*5

絶景だけでは、人は来ない。働けない、通信が入らない、泊まれない、救急時に詰む、子育てに不安がある、そんな場所では、持続的な活動は生まれない。絶生とは、ただ生きられることではない。創造的に生き、働き、学び、安心して滞在できる生活基盤のことだ。このために必要な取り組みの方向性も相当に見えているが、多くの土地で行われていることは我々の検討結果とは程遠い。

そして土地の記憶に基づく、その土地ならではの出会いと気づき、すなわち絶快が、一度でも土地に訪れた人を、そして永らく住み続ける人を引き寄せ続ける。だが、全国的に知られ、数千年にわたり人が住み続けてきたような土地でさえ、300年前、500年前の土地の記憶が十分に読み解かれ、現在の空間価値として活かされている例は多くない。絶快については、まだ本格的には手つかずの土地が大半だ。


価値創造—サンゴ礁

施設ではなく、異質なものが接し続ける界面をつくらなければ、価値は生まれ続けない。

多くの地域づくりは、施設をつくるが、界面をつくらない。

補助金で建物を建てるが、面白い人が混ざる場所をつくらない。観光客を呼ぶが、土地に関わり続ける異人を育てない。イベントを開くが、日常の中で価値が発酵し続ける仕組みをつくらない。

これでは、サンゴ礁空間にはならない。

風の谷とは、施設群ではない。異質な人・知・技・文化・自然が接し続ける、界面の集積である。

主語を、取り違えている

谷づくりの主語を、首長や自治体にしてしまうのも、大きな誤解だ。

首長や自治体の役割は重要だ。だが、谷づくりは首長の任期で完結する取り組みではない。森や水の再生、インフラの組み替え、土地の記憶の読み直し、景観の醸成、教育やヘルスケアの再設計、文化の発酵、いずれも50年から100年はかかる取り組みだ。


これは行政の役割を軽く見るという意味ではない。首長が変わった瞬間に止まる取り組みは、谷づくりとは呼べない。

谷づくりの主語は、行政ではない。その土地を次の100年に残したいと願う人々の、世代を超えた連鎖だ。行政は、その主語を支える重要な器であり、制度的な伴走者である。

必要なのは、「誰が首長か」に依存するプロジェクトではない。首長が変わっても、担当者が変わっても、土地への敬意とコミットメントが継承される仕組みだ。

谷は外部者がつくるようなものではない

そして「谷づくりは、どこでやっているのか」という問いも、実は少しずれている。
風の谷は、外部者がどこかに乗り込んでいって、開発案件として“つくる”ものではない。

土地に深い敬意を持ち、その土地にコミットした人たちが、「この場所を次の100年に残したい」と本気で願う。その内発的な切実さが、外部の知恵や仲間を呼び込む。そのとき初めて、谷化は始まる。

外部者にできるのは、主役になることではない。診断し、言語化し、知をつなぎ、必要な技術や人材を結び、長い時間軸で伴走することだ。

風の谷は、誰かがつくるプロジェクトではない。土地と人と時間の相互作用の中で、“つくられていく”系である。

自然豊かで、歴史のある土地に必要なのは、その土地を小さな都市にすることではない。都市ですら長期的に人口が減り続ける局面で、自分たちの人口が増えると考えること自体が相当に無理のある発想だ。

大切なのは、疎空間を、疎のまま、生き続けうる系へと育てることだ。

谷は、つくるものではない。育つものだ。
そして、育つためには、長く強く、しなやかにコミットし続ける、その土地を本気で残したい人たちが、いなければならない。

谷づくりは、正しい現状認識から始まる。

*1:参考: 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/report/press/kokudoseisaku03_hh_000269.html youtu.be

*2:Ambitions編集部 (著, 編集) Ambitions REGION (VOL.01) 大型本 – 2026/5/25

prtimes.jp

*3:国立社会保障・人口問題研究所 「日本の将来推計人口(令和5年推計) 結果の概要」https://www.ipss.go.jp/pp-zenkoku/j/zenkoku2023/pp2023_gaiyou.pdf

*4:東京新聞:能登半島地震は「風力発電」にも大打撃、発生直後にすべて停止 風車が破損、電源は使用不能に 2024年3月11日 06時00分 www.tokyo-np.co.jp および筆者も一員を務めた石川県 能登地震 復旧・復興アドバイザリーボード会議での知見より。

*5:Bosch, J. M., & Hewlett, J. D. (1982). A review of catchment experiments to determine the effect of vegetation changes on water yield and evapotranspiration. Journal of hydrology, 55(1-4), 3-23. ほかを参照

AI native時代の袋小路 ― 見立てる力はどこから来るのか


美山、和歌山、日本
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW


このところずっと頭の中から離れない一つの課題についてここに置けたらと思う。

2月の頭に、「スマイルカーブの終焉と『コ』の字型社会の到来」というブログをポストした。これからサイバー空間で閉じうる領域では、人間に残るのは、ディレクションとダメ出しだけになる、という話だ。

kaz-ataka.hatenablog.com

仮に、そのサイバーに閉じてしまう世界*1の場合、ディレクションを出したり、ダメ出しを行う人は今はいくらでもいる。莫大な経験を積んできた人たちだ。

一方で、現在すでに米国西海岸のエンジニアの世界などで起き始めているのは、この能力がない若い人は要らないという事象だ。急激に熟練Skillの低い新卒の需要が落ちていることは海外で顕在化しつつある。そしてシニア世代 ― いわゆるgray hair ― がAI時代に強いということが起き始めている。*2

Gray hairが現役のうちは社会は何とか回る。彼らが判断の最終防衛線として機能するからだ。しかし、このような形で十分な経験を持たない人たちが大半になった時、そして現在、ディレクションやダメ出しを行っている人たちがいなくなった世界で、一体、だれが舵を取るのだろうか。

ここに、次世代固有のさらに深刻な問題が重なる。次世代は、そもそも判断力そのものを獲得する機会を失う。判断力のない人間が "最後の責任を担う人(responsible person)" の席に座る。彼らはAIの出力を「承認」するが、本質的にそれを判別する身体知を持たない。

責任のクリーニング構造は完成する ― 誰も判断していない、誰も責任を負っていない、しかし社会は何かを決定し続けている、という構造として。

これが、このところずっと僕の頭を離れない問題だ。

判断は経験を蒸留したもの

現在、ディレクションやダメ出しが的確にデキる人(そもそも相当に少ないが)は、ほぼ例外なく、過去に相当量の判断過程を自分で行って来た人たちだ。やってみる。うまく行かない。煮詰まる。トラブルが生まれる。工夫する。三人よれば文殊の知恵が湧いたりする。寝かせてさらに知恵を出す。そんなことの繰り返しの中から、見出してきたポイントや抑えどころがどのような仕事にも大量に存在する。

しかも、一つの目的関数で判断できるような仕事は相当に少ない。実際には、たとえば飲料を自販機で売るみたいなときですら、自販機のロケーションオーナーと、その飲料を買う人のように、複合的な価値の受け手(顧客)が存在し、このバランスを取っていく必要がある。仕事の価値判断は基本、人が行うため、数字的に問題がなくとも、問題があればその案件は終わってしまう。

現場のナマのトラブルや、圧、摩擦を経て判断はこなれていく。これはハードなモノづくりの現場においてもそうだ。生産ラインを歩き回り、どのような調達と搬入過程、また搬出過程であるということをわかりながら、人の導線も見つつ最適化していく。それらはそんなに簡単な話ではない。

また、その中で、莫大なシステムの導入や新たなキカイの導入やプロセスのインプリをしながら人は判断を学んでいく。「これでは回らない」「これではアカン」という判断の後ろにどれだけ多くの経験があるか。その違和感や滑らかさを判断することは実際にはかなり生身的、身体的な活動になる。根本的にサイバーフィジカルシステムの人間版なのだ。

その蓄積が現在のシニア層の見立てや、ディレクション、ダメ出しの母胎になっている。つまり、上流に置かれた判断能力とは、大量の現実のナマの、場合によっては下流の経験を圧縮し、蒸留したものだと言える。

見えない供給システム

考えてみれば、社会はこれまで、判断力の育成を特別に設計してくることはなかった。にもかかわらず、ディレクションやダメ出しのできる人材は、世代を超えて再生産され続けてきた。

なぜか。

それはその判断力は実務の副産物として、ほぼ自動的に育成されてきたからだ*3。それなりにポテンシャルを持つ人間に、一定量の経験を与えれば人間はその能力を身に着けていく。

調達の伝票を切る作業の中で、「この支払いは何かが引っかかる」という感覚が育つ。契約書を読み込んでいるうちに、「この条項のこの一言は危ない」という嗅覚が育つ。現場の段取りを組むうちに、「この組み方では当日朝に必ずなにか問題を起こす」という知覚が育つ。コードを書くうちに、「ここで安易に近道をすると半年後に技術的負債として効いてくる」という知覚に基づく判断基盤が育つ。*4

これらの仕事の表面上の目的は、伝票を切ること、契約書を読むこと、段取りを組むこと、コードを書くことだ。しかし、その作業を通過する過程で、副産物として、見立てる力という社会の命綱が、無償で、ほぼ自動的に育成されていく。

ここで、もう一つ大事なことを書いておきたい。これらの仕事の多くは、本人がもともと「好きで」選び取ったものではない、ということだ。物流、ロジスティックス、調達、与信、品質保証、コンプライアンス、保守運用 ― 社会を実際に回している仕事の大半は、世の中に出るまで多くの人がその存在すら知らず、当然、好きになる機会もないままアサインされる類のものだ。やってみて初めて、その奥行きと面白さに気づく。あるいは、面白いと感じる前に、まずは現場の摩擦を受け、そこで判断の嗅覚を育てていく。

近年、若い世代に対して「好きを極めよ」「情熱を持てる仕事を見つけよ」という言葉がよく語られる。それ自体は悪いことではない。しかし、判断力の育成という観点から見ると、「好き」を入り口に据える発想だけでは決定的に足りない。なぜなら、社会の根幹を支える仕事の多くは、好きになる以前に、まず存在を知ることすらないからだ。そして、その「存在すら知らなかった仕事」に放り込まれて格闘した経験こそが、後に他の領域に転用できる判断力を生む。好きなことだけをやって育った人間は、好きなことについては詳しくなる。しかし、ディレクションやダメ出しに必要な、領域を越えて働く嗅覚は、必ずしもそこからは育たない。

これは、徒弟制度、丁稚奉公、OJTと呼ばれてきた人類が長らく無自覚に使ってきた知性継承の仕組みだ。誰も明示的に設計したわけではないが、社会のシステムとしてそうなっていた。仕事を回せば人が育つ。人が育てば仕事が回る。この循環の中に、社会の知的再生産が組み込まれていた。そしてその循環は、「本人が好きかどうか」とは独立に作動していた。

パイプラインが断ち切られるとき

ところが、コの字型社会への移行は、この副産物のパイプラインそのものを断ち切る。

最初からAIに包まれて育つ世代は、現場で「摩擦」を受けることがない。制約の中で、ヒリヒリする極限的な環境の中で、見極め、判断する経験を持たない状態になる。

伝票は切らなくていい。契約書は読まなくていい。段取りはAIが組む。最初のコードはAIが書く。これらの主要作業であった「中間工程」がきれいに消えていく。これは確かに生産性の観点では大きな前進だ。しかし同時に、社会がこれまで何百年もかけて無自覚に使ってきた、見立てる力の育成回路そのものを失うということでもある。

コの字型の論考では、人間は例外的な問題だけを対応する社会、言ってみれば修羅場対応に特化することになる、という話をしたが、その修羅場対応は多くの現場ではより的確な判断を行うシニアがやることになる。平常の仕事すら任せられない若手にそれをいきなりさせるというのは、訓練なき状態でリアルな戦場に放り込まれるのと同じだからだ。

その結果、生まれてくるのは、もっともらしい言葉を(キカイの力を使って)発することはできるが、現実には何も判断できない、本当の意味では何も回せない人たちになる。形だけのディレクション、形だけのダメだし、形だけの最終責任。中身は当然のことながら空洞になる。

現在は最初の表面化にすぎない

冒頭で書いた、西海岸で熟練Skillの低い新卒の需要が落ちているという話は、この構造変化の最初の表面化にすぎない。本当に怖いのは、その新卒たちが10年後、20年後にどう育つのか、誰も答えを持っていないことだ。伝票を切らせなくていい時代に、何によって若手の判断の嗅覚を育てるのか。コードを最初から書かせなくていい時代に、何によって若手に技術的負債の痛みを経験させるのか。

このパイプラインは、これまで「ただ存在していた」がゆえに、改めて設計するという発想すら生まれてこなかった。気づいた時には消えている、というのが副産物の宿命だ。これは個人の能力発達の問題であるだけではない。社会全体で本当の意味での深い知性をどのように育成し、担保し続けるのか、という問題だ。

本当のジレンマ

しかし、この変化が本当に厄介なのは、誰かが愚かだから起きるわけではない、という点だ。

むしろ逆である。

AIを徹底的に使い倒した組織や個人ほど、短期的には強くなる。伝票処理も、契約レビューも、コード生成も、マーケ施策立案も、AIを深く組み込んだ側が、速度でもコストでも競争優位に立つ。現場レベルで見れば、「AIを使わない」という選択は、もはや合理的ではない。

つまり、各組織・各個人が合理的に振る舞った結果として、社会全体では「見立てる力」の育成回路が消えていく。これは典型的な局所合理性と全体合理性の衝突だ。

若手に時間をかけて伝票を切らせる。コードを書かせる。契約書を読ませる。段取りを組ませる。短期的には非効率でしかない。AIにやらせた方が速いし、安いし、品質も安定する。しかし、その非効率の中でしか育たない判断力がある。

だから問題は、「AIを使うか、使わないか」ではない。使わなければ競争に負ける。しかし、使い方を誤れば、社会は長期的に判断力を失う。

ここに、AI native時代の最も深いジレンマがある。
これは単なる教育論でも、若者論でもない。

観察では届かない

ここで、次のようなことを言う人もいるだろう。

「いやそれでも、見立てる力の源泉は、必ずしも自分で全部やった経験ではないのではないか。鷹匠は自分で空を飛ばない。外科の教授は最新術式を全部自分で執刀しているわけではない。優れた編集者は自分で全部の作品を書いてはいない。だとすれば、AIの出力を大量に観察し、批評し、修正する経験は、それ自体が新しい形の経験蓄積になり得るのではないか」

実際、僕自身も、いまの自分の見立てる力の多くは、たしかに色々やっては来たことから育った部分が大きい。しかし、何もかも自分でやってきたわけでもない。大きいのは、大量に現場で観察し、学び、比べ、引っかかりを感じ、なるほどという背後の仕組みや動き方について理解を深めてきたことの積み重ねだ。なので「全部自分で手を動かさなければ、見立てができる力は育たない」というシンプルな主張は正しくない。

しかし、ここからが本当に大事なところなのだが、観察によって見立てる力が育つには、絶対的な前提条件がある。それは、観察する側の身体に、すでに染み込んだナマで多様な経験が相当量存在することだ。

ある領域で高い判断力を持つ人が人の仕事を見て即座に「これは違う」と感じられるのは、若い頃に自分の手で実装し、現場で失敗し、痛い目に遭った経験 ― 言ってみれば身体知 ― が身体の側に残っているからだ。その身体知が観察の解像度を作っている。だからこそ他者の経験を「自分のこと」として咀嚼でき、比較でき、違和感を持つことができる。

外科の専門医が最新の術式を見て、抑えどころが見抜けるのは、若い頃から自らの手で多くの手術を経験し、想定外のトラブルも色々起き、それをさばき、時には失敗もし、救えなかった夜も経験してきたからだ。大学の演習ぐらいでしか手を動かしたことのない人が同じ術式を見ても、何が優れていて、何がリスキーなのか、この辺がポイントなんだなということは見えやしない。すぐれた編集者が原稿を見て、ここを大きく見直しましょう、とドンと見抜けるのも、長年、テキストを形にする中で、しびれ、考え抜いてきた経験が身体に染み込んでいるからだ。その経験がない人間が観察をしても、違いは見えてこない。

判断の空洞化

AIが人の育成現場で与件となってしまう世界の到来が本当に恐ろしいのは、まさにこの最初のナマ経験すらスキップさせかねないという点だ。

実装したことのない人間が、AIの出すコードを「批評」する。契約書を一度も書いたことがない人間が、AIの出す契約書案を「承認」する。現場に立ったことのない人間が、AIの出す段取りを「判断」する。顧客と向き合ったことのない人間が、AIの出すマーケ施策を「決裁」する。

形式上、批評・承認・判断・決裁は成立している。しかし中身は何もない。なぜなら、何が良くて何が違うのかを判別する身体側の根拠が、そもそも存在しないからだ。

本人にも周囲にも、見立てが空洞であることが見えない。形式は完璧に整っている。アウトプットは出ている。組織は回っているように見える。会議は進行している。決裁印は押されている。

しかしそこで下されている「判断」は判断ではない。AIへの追認にすぎない。そして、追認している本人すら、自分が追認しているだけだということに気づかない。なぜなら、追認と判断を見分ける身体側の物差しを持っていないからだ。

ここに、コの字型社会の最も深い問題がある。これはかつて書いた『責任のクリーニング構造』 ― いや、『責任の漂白構造』といっていいかもしれない ― が、次世代に⾄って完成する姿だ。

ではどうするか

ではどうするか。打つべき手は、おそらく三つの層に分かれる。

第一は、教育における「人間が通過すべきプロセス」の再設計だ。教育の目標を、アウトプット効率ではなく、知性形成プロセスそのものに置き直す。具体的には、若い世代に「AIに任せてもいいこと」と「自分で苦労してでも通過すべきこと」を意図的に分離する規範をつくる。スポーツでウェイトトレーニングを「効率が悪いからやらない」とは言わない。判断力の筋トレとして、わざわざ非効率なルートを残す。それが社会的に合意されている必要がある。そう、これはAIを排除するのでも、AIに任せるのでもなく、人間が通過すべきプロセスを意図的に守る設計だ。あわせて、「好きなこと」だけを入り口にせず、本人がまだ存在すら知らない領域に意図的に放り込む経験を残すこと ― これも社会的に守るべき設計の一部だ。

第二は、組織における判断力育成を意図的に設計しなおすことだ。これまで実務の副産物として無償で得られていた判断力育成を、AIに作業を奪われた後の世界で、意図的に作り直す。若手にあえて責任を背負わせる場を作る*5。AI出力の批評・修正・再設計をスキルとして体系的に訓練する。gray hair世代の判断パターンを、単なるノウハウではなく「どんな兆候を見て、どう疑い、どう確かめるか」という判断プロセスとして言語化し、継承する。データサイエンティスト協会のスキル定義v6で、僕らが「価値創造リーダー/デザイナー」という新しい役割を打ち出しているのも、ここに踏み込む試みだ。*6

第三は、AIの届かない領域 ― 「閉じない世界」 ― を意識的に残すこと*7。物質、身体、時間の一回性の中にしか成立しない経験。育児、介護、職人仕事、自然との関係、現場の身体労働。これらは構造としてAIが最も触れにくい領域であり、同時に、人間の判断力の最初のナマ経験が育つ最後の砦でもある。僕らが取り組んでいる「風の谷をつくる」運動も、結局のところこの話と地続きだ*8。都市最適化アルゴリズムが導き出す「効率的な生」から一歩外れ、自分の身体で世界に触れる場を残すこと ― それは単なる地域論ではなく、次世代の判断力を育てる土壌を社会的に残す試みでもある。

最後に残るもの

AI時代に最後まで価値を持つのは、おそらく単なる知識ではない。「現実と長期間格闘した痕跡」だ。その痕跡なしには、本物の判断力は育たない。判断力なしには、AIをどう使うかも、最適化関数をどう書き換えるかも、決められない。*9

僕らがいま打つべき手は、これからますます高度化するAIを使いこなす技術を磨くことではない。AI時代にも人間が現実と格闘し続けるための仕掛けを、教育と組織と社会の作りのすべてのレイヤーで設計し直すことだ。地味で、面倒で、すぐには成果の出ない仕事だ。

しかし、ここで手を打たなければ、社会は確実に痩せる。
そしてその痩せ方は、しばらくの間、誰にも見えない。

これが大きな分岐点となることをしっかりと意識し、未来に向けて仕込んでいけるか、それが今、僕らに問われている。


ps. 英語版はこちら:
“Where Does Judgment Come From? — The Hidden Dead End of the AI Native Era”
medium.com

*1:特に顧客フロントでも、商品やサービスを開発するバックエンドでもない世界、いってみればミドル領域

*2:実際、海外のAI専門ベンチャーの動向を見ても、数万人規模の熟練専門家を破格の条件で雇用してAIの教育(ディレクションの模範)を行わせる企業が急成長する一方、市場では22〜25歳層のエンジニア・フリーランサーの雇用が急速に失われ、経験に基づく「仕様定義・ディレクション能力」を持たない若年層の需要低下が顕在化している。Lodefalk, M., Löthman, L., Koch, M., & Engberg, E. (2026). Same storm, different boats: Generative AI and the age gradient in hiring (Working Paper, No. 2/2026). Örebro University School of Business. Available at: https://hdl.handle.net/10419/339320 他を参考

*3:少なくともこの中で気づく力の高いリーダー層はそうなる。そうではない人は、リーダー層の知恵を型紙化してもらい、それを学習することになる

*4:これらの業務の多くはそもそもその世の中に存在していたのかすら、その個人はアサインされるまで知らなかったりする。が、しかし、そのような経験を積んでいくうちにSkillは育っていく。

*5:昨年年始に落合陽一氏と対談した際、「修羅場 with AI」というフレーズが出てきた。これは、AIを取り上げて若手を素手で修羅場に放り込むのでもなく、AIに任せて修羅場そのものを回避させるのでもなく、AIを使いながら本物の修羅場を一緒にくぐらせる、という発想だ。氏が小中学生向けのワークショップで実際に試しているのは、AIと共に考えなければ完了しない難度の課題で、そうした課題を与えられた子供たちはむしろ「キラキラしてくる」という。これは、AI時代の判断力育成の方向性を示す重要な手がかりだと思う。(参考)「超イヤな世界が待っている」死にたくてもAIが生き続ける…人間をどうスクリーニングする?2060年の世界大予測【安宅和人×落合陽一】NewsPicks /ニューズピックス https://www.youtube.com/watch?v=h153FOAJ5tU

*6:www.datascientist.or.jp

*7:kaz-ataka.hatenablog.com

*8:

aworthytomorrow.org

*9:最適化関数の話については以下の論考をご参考。 kaz-ataka.hatenablog.com

年間二千人じゃだめなんですか? — 社会は高度知性をどう使うのか


Numbered, in the storm.
Rusutsu, Japan
Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


2015年春、文部科学省とROIS(情報・システム研究機構)による緊急の集中討議で、ビッグデータ・AI時代の人材育成についての総合検討が行われていた*1

その際、僕は、

  • リテラシーレベル(年間約50万人)
  • 専門レベル(年間5万人) 上の約1割がここに進む
  • トップ人材・リーダー層レベル(年間5000人) そのまた1割がここに到達

という三層構造での人材育成を提案した。

「これは一部の専門家の話ではない」 からであり、裾野の広がりが国としてのその分野の本当の基礎体力、強さになるからだ。明治において、世界の主要国に大きく遅れることなく進めた学制の制定と展開の話に近い*2

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僕があの場で言ったのは、

「法学であれ経済学などの社会科学であれ、はたまた歴史や哲学のような人文系の分野であれ、形態素解析や統計解析、あるいは機械学習を用いて研究を行うことが、いずれ当たり前になる。逆に言えば、こうした素養を持たない人は、知的労働市場で急速に苦しくなる」

そして実際、多くの分野でそうなりつつある。

つまりこれは、新しい専門職を作る話ではなく、社会の基本素養を書き換える話だった*3

ところが、その議論の最中、検討の責任を担っていた文科省側のトップの方から、こんな問いを受けた。

「年間2000人ではだめなんですか? そんなに育てて、社会の受け皿はあるんですか? その責任は誰が取るんですか?」

提案した50万人に対して、2000人。提案の 0.4%以下 である。
その時、僕はこう返した。

「これは専門技能ではなく、新しい時代の“読み書きそろばん”なんです。我々の子や孫たちを路頭に迷わせたくなかったら、専門が何であろうと、やるべきなんです」

結果として、この集中討議は、その後の「数理・データサイエンス・AI教育」の立ち上げや、理研・産総研・NICTによる三つのAIセンター構想へと繋がっていった。だから、議論そのものは決して無駄ではなかった。

ただ、議論の入り口でこの問いが出てきたという事実は、いまも僕の中に残っている。この問いには、日本社会の「知の使い方」そのものが現れていたように思う。

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最近、主要国のPhD(博士号取得者)の分野構成やキャリア構成を眺めていて、改めてそのことを考えさせられた*4

主要国の新規博士号取得者 分野別実数(推定値)

同じ問いは、実は、より「上」のレイヤーでも繰り返し問われてきた。リテラシー層だけでなく、高度抽象知のレイヤーでも、構造的に同じことが起きている。

日本の博士号取得者は年間約1.6万人程度。そのうち4割超が保健・医学系であり、人文・社会科学系は合計でも1割に満たない。

一方、米国や欧州では、理学・工学・社会科学・人文科学が比較的厚く存在している。もちろん単純比較はできない。国ごとに制度も文化も違う。ただ、構成比を見ていると、それぞれの社会が「何を高度知性として重視しているか」が透けて見える。

中国は工学が突出している。国家建設と産業競争力強化への集中投資だろう。 フランスは理学と人文が厚い。理論知や教養知への強いコミットメントを感じる。 日本は保健系が極めて厚い。これは臨床医の学位取得文化とも関係している。

それ自体が悪いわけではない。 だが同時に、日本では社会科学や人文科学のPhD層が、極めて薄い。

25歳人口1万人あたりの新規博士号取得者数(概数)

人口補正をすると、日本の特異性はさらに際立つ。日本は「博士が少ない国」というより、「高度知性を、極めて限定的な領域にしか配分していない国」に近い*5

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実は、僕は2008年から2009年にかけて、これに近い話をブログで書いている。当時のテーマは「ポスドク問題」だった*6

日本は、人口比でアメリカの2.4分の1しかない。にもかかわらず、主要大学から生み出されるPhDの数はアメリカと遜色ない。一方で、産業側の吸収余力はライフサイエンス系で言えばアメリカの10分の1しかない。「アメリカの10分の1のバケツに、同じ量の水を流し込んでいる」と、当時の僕は書いた。

いま振り返ると、当時の僕は、この問題を「供給過剰」として捉えていた。だが、17年経って気づくのは、問題はそこだけではなかったということだ。
本質は「人数」ではない。バケツとバケツの間に、水が流れる回路があるかどうかだ。
高度抽象知を持つ人材が、社会のどこに流れているのか——本当に重要なのは、そこだ。

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よく誤解されるが、米国でも欧州でも、PhD取得者の大半がテニュア教員になれるわけではない。むしろ逆だ。

米国NSF(国立科学財団)の追跡調査でも、ライフサイエンス系などで最終的にテニュアに到達するのは10〜15%程度とされている*7。理学系・社会科学系全般を見ても、感覚的には1割前後と言っていい。
では残り9割はどうなるのか。 ここに、社会構造の差が現れる。

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欧米では、PhDは「大学教員資格」ではなく、 高度な抽象化能力・構造化能力・問題設定能力を持つ人材 として扱われる。

これも同時期にまとめたが、米国の主要大学のPhDプログラムは、明確に二つの能力育成を目的にしている。「independentな研究のプランニング・遂行能力」と「大学における教育能力」だ*8。研究者の基礎免状であると同時に、教員の基礎免状でもある、という発想が、制度として組み込まれている。

だから、研究そのものだけでなく、構造化された文章を書く力、議論する力、若い人を導く力、プロジェクトを設計しマネジメントする力、といった移植可能なスキルが体系的に育てられる。これらは、研究を離れても通用する。

そして米国ではこの動きが「Alt-Ac(Alternative Academic)」として概念化されており、テニュアを目指しつつ、そうならなかった場合の展開も学位取得の段階から視野に入れるのが、ごく普通の設計になっている。アカデミアの外に出ることは「脱落」ではなく、戦略的な転回(pivot) だ。

だから、大学の外に広い受け皿がある。

テック企業では、心理学・言語学・哲学の博士がUX設計、AI倫理、自然言語処理の評価などに入る。 歴史学の博士が、リサーチやインテリジェンス、政策分析に関わる。 社会科学系PhDが、政府、中央銀行、国際機関、シンクタンクで意思決定を支える。日本の大学関係者から見ると驚かれるだろうが、大学のadministratorがPhD保持者であるのは日常的であり、積極的に求められる。

つまり、社会全体に「知の市場」が存在している。 大学・政府・産業が、高度知性を介して循環している。

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一方、日本では、博士人材、とりわけ文系博士の出口が極めて狭い。

企業側には、「専門しかできない人」「実務に向かない」という固定観念が根強い。 逆に大学側も、「アカデミアに残れない=敗北」という空気をいまだに引きずっている。

加えて、「一度民間に出てから、実務家教員として大学に戻る」という双方向の流動も乏しい。最初からテニュア一本に賭けて敗れる、という極めてハイリスクな構造が温存されている。

結果として、

  • 大学
  • 行政
  • 産業
  • 社会実装

の間で、知が流動しない。 高度抽象知が社会に埋め込まれない。

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だが、AI時代には、この問題はむしろ深刻になる可能性が高い。
なぜなら、実行部分がAIによって急速に圧縮されるからだ*9

コーディング、分析、制作、調査、翻訳、要約、、これらの「実行」過程はAIに代替されていく。

その時、人間側に残る価値は何か。

  • 問いを立てる
  • 構造を読む
  • 意図を設計する
  • 文脈を扱う
  • トレードオフを捉える
  • 何を最適化するかを決める

そうした領域に寄っていく。

以前から「コの字型社会」という言い方をしてきた。スマイルカーブが「両端が高い」形だとすれば、コの字型は「実行という中央が圧縮されきって、両端だけが残る」形だ。人間の価値が、「方向づけ」と「最終判断」に偏っていく構造である。

つまりAI時代は、「高度抽象知を社会にどう埋め込むか」が競争力そのものになる。

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2015年当時、「そんなに育てて受け皿はあるのか?」という問いは、ある意味では自然だったのだと思う。
当時、多くの人には、データサイエンスやAIはまだ「特殊技能」に見えていた。

だが実際に起きたのは、特殊技能化ではなく、 "読み書きそろばん化" だった。

そして今、同じことが、より広い意味での「高度知性」全体に起き始めているように見える。

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本当に問われているのは 「PhDを何人育てるか」 ではない。

むしろ、社会は高度知性をどう循環させるのか、だ。

*1:https://www.rois.ac.jp/open/pdf/bd_houkokusho.pdf https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu23/002/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/11/19/1364662_002.pdf

*2:kaz-ataka.hatenablog.com

*3:これらの数理データサイエンスAIスキルはこれからの時代の読み書きそろばんであるということは2013年春のDS協会設立の直後から言い続けてきたが、ついに定着したように思う。

*4:本数値は、文部科学省 科学技術・学術政策研究所(NISTEP)「科学技術指標2024」および各国の公的教育統計(米国NSF、中国教育部等)の2020〜2021年前後の実績値を基に、分野別の構成比から算出・概算。各国の学術体系の違いにより、細部の分類(例:心理学の帰属先など)に差異があるが、全体的な構造比較(日本の保健系偏重や中国の工学重視、欧米の社会科学層の厚みなど)を可視化するために再集計を行っている。

*5:国際比較の精度を高めるため、総人口ではなく学位取得年齢に近い「25歳単年人口」で正規化。数値は国連(United Nations)"World Population Prospects" における2024年時点の各国の25歳(単年)推計人口を使用。https://population.un.org/wpp/Download/Standard/Population/

*6:kaz-ataka.hatenablog.com kaz-ataka.hatenablog.com

*7:米国国立科学財団(NSF)の「学位取得者追跡調査(SDR)」および米国国立衛生研究所(NIH)の諮問委員会報告書(2012年)に基づく。1970年代以前は取得者の過半数がアカデミアに残る構造であったが、近年の供給過多とポストの固定化により、バイオ医学や理学系を中心に、学位取得後5〜6年時点でのテニュアトラック到達率は15%を下回る水準まで低下している(Science誌掲載のP. Stephan教授らによるマクロ分析等でも「1割台」が定説となっている)。米国国立科学財団 (NSF) SDR調査: https://ncses.nsf.gov/surveys/doctorate-recipients ; NIH 若手研究者キャリア報告書: Biomedical Research Workforce Working Group Report

*8:kaz-ataka.hatenablog.com

*9:kaz-ataka.hatenablog.com