谷は、つくるものではなく、育つものだ


Amami, Japan
1.4/50 Summilux, RDPIII, Leica M7


『風の谷という希望』、谷本、が世に出て10か月が過ぎた。


新しい地方創生をテーマとする国交省×NewsPicksのイベントに招かれたり*1、はたまた、地方創生そのものをテーマとした雑誌Ambitions REGIONの創刊号の巻頭特集*2でも取り上げられた。様々な土地が、急に「谷化」に目を向け始めている。

だからこそ、本当のことを伝える時が来ている気がしている。

谷本は意図的に日本やどこかの土地を主語として書くことはしなかった。それはそもそも疎空間が存続できないことは世界的な問題だからだ。歴史と自然豊かな疎空間の未来が残るために、フラットに見たときに何が大切なのか、この10年近い取り組みの中から見えてきたことを伝えることを最大の目的として書いた。

ただ、谷本を丁寧に読めば見えてくることがある。それは、「地方創生」として語られていること、各地方で行われていることの多くは、僕らの谷検討から見えてきたことと、ほぼ真逆だ、ということだ。

よく聞かれる問い

風の谷の検討をしていると、よく聞かれる。

「谷づくりは、どこでやっているんですか?」
「どこかにモデルになる土地があるんじゃないですか?」
「これは、自治体や首長が頑張ることですよね?」

いずれも、よくわかる問いではある。ただ、その前提には、風の谷検討とはかなり異なる発想が含まれている。少しずつほぐしていこう。

-

そもそも風の谷検討は何なのかといえば、人が数千年は住んできたような歴史があり、自然豊かな疎な空間はいかにして存続可能かつ持続可能になるのか、という話だ。イデオロギーでもなんでもない。

そこに含まれる要素は広い。道、上下水、ごみ処理、エネルギーのような「基盤インフラ」もあれば、森や田園のような自然や人間が自然とともに作ってきた要素(「人間と自然」)もある。教育やヘルスケアシステムのような「社会インフラ」もあれば、人が住み働く場所、人が集う場所のような「生活空間」もある。

都会 vs 地方ではなく、都市 vs 疎空間

ここが問題の起点として大切なのだが、この疎空間問題は「都会と地方」という問題ではない。地方であろうと、人口の大半は稠密に人が住む空間、「都市」に集中している。その多くは海岸沿いの低地に、この数百年から千年程度で急激に人が集積してきた場所であり、数千年にわたって人が住んでいる場所は少ない。

いっぽうで、この谷問題が扱おうとしているのは、人が長く住み、自然豊かな「疎空間」だ。これがどのような国においても国土の大半を占め、この中にもっとも長い歴史を誇り、人が暮らしてきた空間が含まれている。すなわち「都会 vs 地方」ではなく、「都市 vs 疎空間」という図式でなければ問題を適切に捉えることはできない。

しかも、地方と呼ばれるエリアの課題の大半は、実は「疎空間」で起きている。たとえば人口の増減は疎密でほとんど説明することができ、対象となっているエリアの疎密度と人口をかけ合わせればどのようなことが起きるかがわかり、それを加重平均すれば、特定の県の人口増減は概ね説明できる。またたとえば、維持できない基盤インフラ、社会インフラの大半は、地方の都市部ではなく、疎空間部で起きている。

地方問題と呼ばれているもののかなりは疎空間問題なのだ。


持続可能性の前に存続可能性

しかも、この谷検討では以下の2つについては構造的に起きている現象であり、与件として捉えることはあっても、これを根本的に解決することはできないと考えている。

1つは、人類が豊かさとともに全世界的に長い人口調整局面に入っていること。すなわち人口増を前提とした議論には意味がないということだ。これについては、かつてかなり丁寧に本ブログで議論したのでそちらを参照されたい。

kaz-ataka.hatenablog.com

2つ目は、人類と地球との共存が決定的に重要な状態であることが続くということだ。温暖化一つをとっても、いまの森の大半は今世紀末までに大きな変容を迫られる。地球上の土地利用に占める割合は、いまや森を越え農地(放牧地を含む)が最大だ。人間はもう、生態系における外乱ではない。最大の構成要素である。最も深刻なこの課題を棚上げしたプランも、意味をなさない。

たとえば、

  • パンデミックと天災は被害が増える and/or 甚大化
  • インフラや構造物は現在の復旧力を超え相当に壊れる頻度が高まる
  • 土木・社会インフラは劇的に余り、メンテが困難になる
  • スクラップするためには相当の人手とコストがいるが今のやり方では対処しようがなくなる
  • 人は取れなくなり、大量の人材を前提とした仕組みは成り立たなくなる

すなわち、いずれの意味においてもレジリエンス課題は喫緊的に深刻だ。
疎空間は、この二つの課題が最も先鋭化した空間だ。いわば、未来から先に現実が届くタイムマシンと言っていい。

この段階で、風の谷検討が多くの地方創生・地方再生議論とは根本的に異なることに気づかれるだろう。これまでの地方創生は、人口増加、成長、都市集中による効率化、インフラ拡張・維持を前提としているが、今起きていることは、人口調整局面、災害激化、ケア負担の増大、さらにエネルギー制約などであり、「地方創生」という言葉では、もう問題は解けないということだ。

「どう人を増やすか」ではなく「どうviable(生き続けられる状態)にするか」が本題だということだ。viableでない土地でsustainabilityを語っても、意味がない。良いコミュニティである前に、良い場所である—その認識が前に立たないかぎり、ほぼ必ず失敗する。

鍵となる4つの視点の、ほぼ全てからズレている

持続可能(sustainable)である以前に存続可能(viable)である必要があるが、その視点で見ると、我々の検討から見えてきた4つの柱は避けて通ることができない。

1つ目がエコノミクス、2つ目はレジリエンス、3つ目は土地ならではの求心力、最後が文化・価値創造、だ。

まず「エコノミクス」。金が回らない空間はそもそも存続可能でないことは言うまでもなく、持続的な発展も期待しようがない。

「レジリエンス」については、上で触れたとおりだ。このような状態で、災害や人口調整局面でもviableかつsustainableな空間を作る必要がある。

「求心力」は自明だろう。大量の人が流れ込むことはありえないだけに、その土地を愛し、土地の未来に長期的にコミットでき、新しい変化を生み出し続ける人たち、土地が生み出し外に出ていった才能の1/10だけでも引き寄せる必要がある。

そのうえで、その土地が次々と新しい変化を引き起こし、価値を生み出し続けること、すなわち「文化・価値創造」は必須だ。

-

このように、これらは論理的な必然だが、そのほぼすべてから、いまの疎空間の取り組みの大半はズレている。エコノミクスの現状は棚上げされ、レジリエンスの名のもとに身の丈に合わない頑健化が進み、求心力のかなめである三絶(絶景・絶生・絶快)への意識は地方再生文脈で著名な土地ですら低く、サンゴ礁のような空間づくりの視点も欠落した土地が大半だ。


エコノミクス

金が回らない空間は、どれほど理念が美しくても存続できない。

経済的な良循環が未来を作ることは、事業経営者であれば誰もが理解していることだが、地方、疎空間の経営(managementの意味)ではほとんどケアされることはない。疎空間の比率が大きな自治体のほとんどでは、現在、ひたすら都市からの輸血、そして(人口が縮小する)未来からの借金が続くことが当然視されている。ちなみに、収支、特にコストサイドは人口密度に高い逆相関があり、現時点ではざっくり言えば、人口密度1000人/平方キロを大きく超えるところに採算ラインがある。

R5 (2023) 年度での2100年の日本の人口の中位予想は6278万人であり*3、このままの人口比率でいけば東京は1400万都市から714万都市になる。このような未来に、これまで通りの都市からの輸血が可能だと仮定することは不可能だ。都市の中でもより中心部(円ではなく櫛形のことも大いにありえる)に機能は寄せていくことになるだろう。

しかしながら、自然法則や経済原理に合わない取り組みがほとんどだ。

  • コミュニティとの関係構築なしに、施設だけを作って人が集まると期待する
  • 必要な運営コストを考慮せず、継続的な資金投下の目処がないにもかかわらず、中央から金を持ってきて大規模な施設や活動を立ち上げる
  • 定期的なメンテナンスや更新なしでも、施設やシステムが劣化しないと考える
  • 固定費が高すぎる事業モデルで小規模運営を続ける

使われない道、使われない建物、維持できない上下水道、更新できない橋梁に投資し続けることは、未来への投資ではない。将来世代への負債だ。

問うべきは「立派につくれるか」ではない。「100年後も続けられるか」だ。疎空間に必要なのは、都市スペックの縮小版ではない。疎空間らしい、身の丈にあったQOLを下げない形でのインフラだ。


レジリエンス

疎空間では、壊れないことよりも、止まっても生き残り、戻せることが重要になる。

土地の力で直せる空間にするなら、つくり方を根底から変える必要がある。

エネルギーで問うべきは、「再エネかどうか」ではない。「災害時に立ち上がるのか」「ブラックスタートできるのか」「景観を壊していないか」「既存グリッドと賢く共存しているか」だ。ブラックスタートは外部電源無しで立ち上がる能力だ。能登の震災時、半島には70を超える風力発電設備があり、そのうち震災で壊れたのは10基に満たなかったが、すべてが止まったのは記憶に新しい*4

すでにグリッド型の電力や水道がある場所に、ばらばらとオフグリッド設備を足しても、系として維持範囲を畳めない限り、土地全体のコスト構造は改善しにくい。電力にしても水の供給にしても、この認識のない取り組みは多い。

必要なのは、教条的なオフグリッドではない。状況に応じてグリッドを使い、必要な部分をほぐし、災害時に生き残るエネルギー系だ。

そして、見落とされがちだが心のレジリエンスへのケアも、十分とは言いがたい。


求心力—三絶

人口増が前提にできないなら、その土地に関わり続けたくなる理由をつくるしかない。

疎空間の最大の資産は、土地そのものの美しさだ。

絶景を壊すインフラ、建築、看板、送電設備、メガソーラーは、単なる景観問題ではない。地域の将来価値を壊す問題だ。近景・中景・遠景の調和への問題意識も、ほとんど欠落している。

森は、単なる木材生産装置ではない。水を涵養し、空気を通し、生態系を支え、人の感覚を開き、土地の記憶を宿す基盤だ。採算性や生態系を十分に見ない林業中心の発想で森を見るかぎり、風の谷は生まれない。必要なのは、入れない森ではない。歩ける森、感じられる森、学べる森、土地の深い時間に触れられる森、そして人のあえて入らない深い森だ。

多くの土地で、降水量が大きく減っているわけでもないのに、川の水が数十年前と比べて細っているという声を聞く。その背景に、間伐不足による人工林の過密化や水循環の変化が関わっている可能性が指摘されている。*5

絶景だけでは、人は来ない。働けない、通信が入らない、泊まれない、救急時に詰む、子育てに不安がある、そんな場所では、持続的な活動は生まれない。絶生とは、ただ生きられることではない。創造的に生き、働き、学び、安心して滞在できる生活基盤のことだ。このために必要な取り組みの方向性も相当に見えているが、多くの土地で行われていることは我々の検討結果とは程遠い。

そして土地の記憶に基づく、その土地ならではの出会いと気づき、すなわち絶快が、一度でも土地に訪れた人を、そして永らく住み続ける人を引き寄せ続ける。だが、全国的に知られ、数千年にわたり人が住み続けてきたような土地でさえ、300年前、500年前の土地の記憶が十分に読み解かれ、現在の空間価値として活かされている例は多くない。絶快については、まだ本格的には手つかずの土地が大半だ。


価値創造—サンゴ礁

施設ではなく、異質なものが接し続ける界面をつくらなければ、価値は生まれ続けない。

多くの地域づくりは、施設をつくるが、界面をつくらない。

補助金で建物を建てるが、面白い人が混ざる場所をつくらない。観光客を呼ぶが、土地に関わり続ける異人を育てない。イベントを開くが、日常の中で価値が発酵し続ける仕組みをつくらない。

これでは、サンゴ礁空間にはならない。

風の谷とは、施設群ではない。異質な人・知・技・文化・自然が接し続ける、界面の集積である。

主語を、取り違えている

谷づくりの主語を、首長や自治体にしてしまうのも、大きな誤解だ。

首長や自治体の役割は重要だ。だが、谷づくりは首長の任期で完結する取り組みではない。森や水の再生、インフラの組み替え、土地の記憶の読み直し、景観の醸成、教育やヘルスケアの再設計、文化の発酵、いずれも50年から100年はかかる取り組みだ。


これは行政の役割を軽く見るという意味ではない。首長が変わった瞬間に止まる取り組みは、谷づくりとは呼べない。

谷づくりの主語は、行政ではない。その土地を次の100年に残したいと願う人々の、世代を超えた連鎖だ。行政は、その主語を支える重要な器であり、制度的な伴走者である。

必要なのは、「誰が首長か」に依存するプロジェクトではない。首長が変わっても、担当者が変わっても、土地への敬意とコミットメントが継承される仕組みだ。

谷は外部者がつくるようなものではない

そして「谷づくりは、どこでやっているのか」という問いも、実は少しずれている。
風の谷は、外部者がどこかに乗り込んでいって、開発案件として“つくる”ものではない。

土地に深い敬意を持ち、その土地にコミットした人たちが、「この場所を次の100年に残したい」と本気で願う。その内発的な切実さが、外部の知恵や仲間を呼び込む。そのとき初めて、谷化は始まる。

外部者にできるのは、主役になることではない。診断し、言語化し、知をつなぎ、必要な技術や人材を結び、長い時間軸で伴走することだ。

風の谷は、誰かがつくるプロジェクトではない。土地と人と時間の相互作用の中で、“つくられていく”系である。

自然豊かで、歴史のある土地に必要なのは、その土地を小さな都市にすることではない。都市ですら長期的に人口が減り続ける局面で、自分たちの人口が増えると考えること自体が相当に無理のある発想だ。

大切なのは、疎空間を、疎のまま、生き続けうる系へと育てることだ。

谷は、つくるものではない。育つものだ。
そして、育つためには、長く強く、しなやかにコミットし続ける、その土地を本気で残したい人たちが、いなければならない。

谷づくりは、正しい現状認識から始まる。

*1:参考: 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/report/press/kokudoseisaku03_hh_000269.html youtu.be

*2:Ambitions編集部 (著, 編集) Ambitions REGION (VOL.01) 大型本 – 2026/5/25

prtimes.jp

*3:国立社会保障・人口問題研究所 「日本の将来推計人口(令和5年推計) 結果の概要」https://www.ipss.go.jp/pp-zenkoku/j/zenkoku2023/pp2023_gaiyou.pdf

*4:東京新聞:能登半島地震は「風力発電」にも大打撃、発生直後にすべて停止 風車が破損、電源は使用不能に 2024年3月11日 06時00分 www.tokyo-np.co.jp および筆者も一員を務めた石川県 能登地震 復旧・復興アドバイザリーボード会議での知見より。

*5:Bosch, J. M., & Hewlett, J. D. (1982). A review of catchment experiments to determine the effect of vegetation changes on water yield and evapotranspiration. Journal of hydrology, 55(1-4), 3-23. ほかを参照

AI native時代の袋小路 ― 見立てる力はどこから来るのか


美山、和歌山、日本
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW


このところずっと頭の中から離れない一つの課題についてここに置けたらと思う。

2月の頭に、「スマイルカーブの終焉と『コ』の字型社会の到来」というブログをポストした。これからサイバー空間で閉じうる領域では、人間に残るのは、ディレクションとダメ出しだけになる、という話だ。

kaz-ataka.hatenablog.com

仮に、そのサイバーに閉じてしまう世界*1の場合、ディレクションを出したり、ダメ出しを行う人は今はいくらでもいる。莫大な経験を積んできた人たちだ。

一方で、現在すでに米国西海岸のエンジニアの世界などで起き始めているのは、この能力がない若い人は要らないという事象だ。急激に熟練Skillの低い新卒の需要が落ちていることは海外で顕在化しつつある。そしてシニア世代 ― いわゆるgray hair ― がAI時代に強いということが起き始めている。*2

Gray hairが現役のうちは社会は何とか回る。彼らが判断の最終防衛線として機能するからだ。しかし、このような形で十分な経験を持たない人たちが大半になった時、そして現在、ディレクションやダメ出しを行っている人たちがいなくなった世界で、一体、だれが舵を取るのだろうか。

ここに、次世代固有のさらに深刻な問題が重なる。次世代は、そもそも判断力そのものを獲得する機会を失う。判断力のない人間が "最後の責任を担う人(responsible person)" の席に座る。彼らはAIの出力を「承認」するが、本質的にそれを判別する身体知を持たない。

責任のクリーニング構造は完成する ― 誰も判断していない、誰も責任を負っていない、しかし社会は何かを決定し続けている、という構造として。

これが、このところずっと僕の頭を離れない問題だ。

判断は経験を蒸留したもの

現在、ディレクションやダメ出しが的確にデキる人(そもそも相当に少ないが)は、ほぼ例外なく、過去に相当量の判断過程を自分で行って来た人たちだ。やってみる。うまく行かない。煮詰まる。トラブルが生まれる。工夫する。三人よれば文殊の知恵が湧いたりする。寝かせてさらに知恵を出す。そんなことの繰り返しの中から、見出してきたポイントや抑えどころがどのような仕事にも大量に存在する。

しかも、一つの目的関数で判断できるような仕事は相当に少ない。実際には、たとえば飲料を自販機で売るみたいなときですら、自販機のロケーションオーナーと、その飲料を買う人のように、複合的な価値の受け手(顧客)が存在し、このバランスを取っていく必要がある。仕事の価値判断は基本、人が行うため、数字的に問題がなくとも、問題があればその案件は終わってしまう。

現場のナマのトラブルや、圧、摩擦を経て判断はこなれていく。これはハードなモノづくりの現場においてもそうだ。生産ラインを歩き回り、どのような調達と搬入過程、また搬出過程であるということをわかりながら、人の導線も見つつ最適化していく。それらはそんなに簡単な話ではない。

また、その中で、莫大なシステムの導入や新たなキカイの導入やプロセスのインプリをしながら人は判断を学んでいく。「これでは回らない」「これではアカン」という判断の後ろにどれだけ多くの経験があるか。その違和感や滑らかさを判断することは実際にはかなり生身的、身体的な活動になる。根本的にサイバーフィジカルシステムの人間版なのだ。

その蓄積が現在のシニア層の見立てや、ディレクション、ダメ出しの母胎になっている。つまり、上流に置かれた判断能力とは、大量の現実のナマの、場合によっては下流の経験を圧縮し、蒸留したものだと言える。

見えない供給システム

考えてみれば、社会はこれまで、判断力の育成を特別に設計してくることはなかった。にもかかわらず、ディレクションやダメ出しのできる人材は、世代を超えて再生産され続けてきた。

なぜか。

それはその判断力は実務の副産物として、ほぼ自動的に育成されてきたからだ*3。それなりにポテンシャルを持つ人間に、一定量の経験を与えれば人間はその能力を身に着けていく。

調達の伝票を切る作業の中で、「この支払いは何かが引っかかる」という感覚が育つ。契約書を読み込んでいるうちに、「この条項のこの一言は危ない」という嗅覚が育つ。現場の段取りを組むうちに、「この組み方では当日朝に必ずなにか問題を起こす」という知覚が育つ。コードを書くうちに、「ここで安易に近道をすると半年後に技術的負債として効いてくる」という知覚に基づく判断基盤が育つ。*4

これらの仕事の表面上の目的は、伝票を切ること、契約書を読むこと、段取りを組むこと、コードを書くことだ。しかし、その作業を通過する過程で、副産物として、見立てる力という社会の命綱が、無償で、ほぼ自動的に育成されていく。

ここで、もう一つ大事なことを書いておきたい。これらの仕事の多くは、本人がもともと「好きで」選び取ったものではない、ということだ。物流、ロジスティックス、調達、与信、品質保証、コンプライアンス、保守運用 ― 社会を実際に回している仕事の大半は、世の中に出るまで多くの人がその存在すら知らず、当然、好きになる機会もないままアサインされる類のものだ。やってみて初めて、その奥行きと面白さに気づく。あるいは、面白いと感じる前に、まずは現場の摩擦を受け、そこで判断の嗅覚を育てていく。

近年、若い世代に対して「好きを極めよ」「情熱を持てる仕事を見つけよ」という言葉がよく語られる。それ自体は悪いことではない。しかし、判断力の育成という観点から見ると、「好き」を入り口に据える発想だけでは決定的に足りない。なぜなら、社会の根幹を支える仕事の多くは、好きになる以前に、まず存在を知ることすらないからだ。そして、その「存在すら知らなかった仕事」に放り込まれて格闘した経験こそが、後に他の領域に転用できる判断力を生む。好きなことだけをやって育った人間は、好きなことについては詳しくなる。しかし、ディレクションやダメ出しに必要な、領域を越えて働く嗅覚は、必ずしもそこからは育たない。

これは、徒弟制度、丁稚奉公、OJTと呼ばれてきた人類が長らく無自覚に使ってきた知性継承の仕組みだ。誰も明示的に設計したわけではないが、社会のシステムとしてそうなっていた。仕事を回せば人が育つ。人が育てば仕事が回る。この循環の中に、社会の知的再生産が組み込まれていた。そしてその循環は、「本人が好きかどうか」とは独立に作動していた。

パイプラインが断ち切られるとき

ところが、コの字型社会への移行は、この副産物のパイプラインそのものを断ち切る。

最初からAIに包まれて育つ世代は、現場で「摩擦」を受けることがない。制約の中で、ヒリヒリする極限的な環境の中で、見極め、判断する経験を持たない状態になる。

伝票は切らなくていい。契約書は読まなくていい。段取りはAIが組む。最初のコードはAIが書く。これらの主要作業であった「中間工程」がきれいに消えていく。これは確かに生産性の観点では大きな前進だ。しかし同時に、社会がこれまで何百年もかけて無自覚に使ってきた、見立てる力の育成回路そのものを失うということでもある。

コの字型の論考では、人間は例外的な問題だけを対応する社会、言ってみれば修羅場対応に特化することになる、という話をしたが、その修羅場対応は多くの現場ではより的確な判断を行うシニアがやることになる。平常の仕事すら任せられない若手にそれをいきなりさせるというのは、訓練なき状態でリアルな戦場に放り込まれるのと同じだからだ。

その結果、生まれてくるのは、もっともらしい言葉を(キカイの力を使って)発することはできるが、現実には何も判断できない、本当の意味では何も回せない人たちになる。形だけのディレクション、形だけのダメだし、形だけの最終責任。中身は当然のことながら空洞になる。

現在は最初の表面化にすぎない

冒頭で書いた、西海岸で熟練Skillの低い新卒の需要が落ちているという話は、この構造変化の最初の表面化にすぎない。本当に怖いのは、その新卒たちが10年後、20年後にどう育つのか、誰も答えを持っていないことだ。伝票を切らせなくていい時代に、何によって若手の判断の嗅覚を育てるのか。コードを最初から書かせなくていい時代に、何によって若手に技術的負債の痛みを経験させるのか。

このパイプラインは、これまで「ただ存在していた」がゆえに、改めて設計するという発想すら生まれてこなかった。気づいた時には消えている、というのが副産物の宿命だ。これは個人の能力発達の問題であるだけではない。社会全体で本当の意味での深い知性をどのように育成し、担保し続けるのか、という問題だ。

本当のジレンマ

しかし、この変化が本当に厄介なのは、誰かが愚かだから起きるわけではない、という点だ。

むしろ逆である。

AIを徹底的に使い倒した組織や個人ほど、短期的には強くなる。伝票処理も、契約レビューも、コード生成も、マーケ施策立案も、AIを深く組み込んだ側が、速度でもコストでも競争優位に立つ。現場レベルで見れば、「AIを使わない」という選択は、もはや合理的ではない。

つまり、各組織・各個人が合理的に振る舞った結果として、社会全体では「見立てる力」の育成回路が消えていく。これは典型的な局所合理性と全体合理性の衝突だ。

若手に時間をかけて伝票を切らせる。コードを書かせる。契約書を読ませる。段取りを組ませる。短期的には非効率でしかない。AIにやらせた方が速いし、安いし、品質も安定する。しかし、その非効率の中でしか育たない判断力がある。

だから問題は、「AIを使うか、使わないか」ではない。使わなければ競争に負ける。しかし、使い方を誤れば、社会は長期的に判断力を失う。

ここに、AI native時代の最も深いジレンマがある。
これは単なる教育論でも、若者論でもない。

観察では届かない

ここで、次のようなことを言う人もいるだろう。

「いやそれでも、見立てる力の源泉は、必ずしも自分で全部やった経験ではないのではないか。鷹匠は自分で空を飛ばない。外科の教授は最新術式を全部自分で執刀しているわけではない。優れた編集者は自分で全部の作品を書いてはいない。だとすれば、AIの出力を大量に観察し、批評し、修正する経験は、それ自体が新しい形の経験蓄積になり得るのではないか」

実際、僕自身も、いまの自分の見立てる力の多くは、たしかに色々やっては来たことから育った部分が大きい。しかし、何もかも自分でやってきたわけでもない。大きいのは、大量に現場で観察し、学び、比べ、引っかかりを感じ、なるほどという背後の仕組みや動き方について理解を深めてきたことの積み重ねだ。なので「全部自分で手を動かさなければ、見立てができる力は育たない」というシンプルな主張は正しくない。

しかし、ここからが本当に大事なところなのだが、観察によって見立てる力が育つには、絶対的な前提条件がある。それは、観察する側の身体に、すでに染み込んだナマで多様な経験が相当量存在することだ。

ある領域で高い判断力を持つ人が人の仕事を見て即座に「これは違う」と感じられるのは、若い頃に自分の手で実装し、現場で失敗し、痛い目に遭った経験 ― 言ってみれば身体知 ― が身体の側に残っているからだ。その身体知が観察の解像度を作っている。だからこそ他者の経験を「自分のこと」として咀嚼でき、比較でき、違和感を持つことができる。

外科の専門医が最新の術式を見て、抑えどころが見抜けるのは、若い頃から自らの手で多くの手術を経験し、想定外のトラブルも色々起き、それをさばき、時には失敗もし、救えなかった夜も経験してきたからだ。大学の演習ぐらいでしか手を動かしたことのない人が同じ術式を見ても、何が優れていて、何がリスキーなのか、この辺がポイントなんだなということは見えやしない。すぐれた編集者が原稿を見て、ここを大きく見直しましょう、とドンと見抜けるのも、長年、テキストを形にする中で、しびれ、考え抜いてきた経験が身体に染み込んでいるからだ。その経験がない人間が観察をしても、違いは見えてこない。

判断の空洞化

AIが人の育成現場で与件となってしまう世界の到来が本当に恐ろしいのは、まさにこの最初のナマ経験すらスキップさせかねないという点だ。

実装したことのない人間が、AIの出すコードを「批評」する。契約書を一度も書いたことがない人間が、AIの出す契約書案を「承認」する。現場に立ったことのない人間が、AIの出す段取りを「判断」する。顧客と向き合ったことのない人間が、AIの出すマーケ施策を「決裁」する。

形式上、批評・承認・判断・決裁は成立している。しかし中身は何もない。なぜなら、何が良くて何が違うのかを判別する身体側の根拠が、そもそも存在しないからだ。

本人にも周囲にも、見立てが空洞であることが見えない。形式は完璧に整っている。アウトプットは出ている。組織は回っているように見える。会議は進行している。決裁印は押されている。

しかしそこで下されている「判断」は判断ではない。AIへの追認にすぎない。そして、追認している本人すら、自分が追認しているだけだということに気づかない。なぜなら、追認と判断を見分ける身体側の物差しを持っていないからだ。

ここに、コの字型社会の最も深い問題がある。これはかつて書いた『責任のクリーニング構造』 ― いや、『責任の漂白構造』といっていいかもしれない ― が、次世代に⾄って完成する姿だ。

ではどうするか

ではどうするか。打つべき手は、おそらく三つの層に分かれる。

第一は、教育における「人間が通過すべきプロセス」の再設計だ。教育の目標を、アウトプット効率ではなく、知性形成プロセスそのものに置き直す。具体的には、若い世代に「AIに任せてもいいこと」と「自分で苦労してでも通過すべきこと」を意図的に分離する規範をつくる。スポーツでウェイトトレーニングを「効率が悪いからやらない」とは言わない。判断力の筋トレとして、わざわざ非効率なルートを残す。それが社会的に合意されている必要がある。そう、これはAIを排除するのでも、AIに任せるのでもなく、人間が通過すべきプロセスを意図的に守る設計だ。あわせて、「好きなこと」だけを入り口にせず、本人がまだ存在すら知らない領域に意図的に放り込む経験を残すこと ― これも社会的に守るべき設計の一部だ。

第二は、組織における判断力育成を意図的に設計しなおすことだ。これまで実務の副産物として無償で得られていた判断力育成を、AIに作業を奪われた後の世界で、意図的に作り直す。若手にあえて責任を背負わせる場を作る*5。AI出力の批評・修正・再設計をスキルとして体系的に訓練する。gray hair世代の判断パターンを、単なるノウハウではなく「どんな兆候を見て、どう疑い、どう確かめるか」という判断プロセスとして言語化し、継承する。データサイエンティスト協会のスキル定義v6で、僕らが「価値創造リーダー/デザイナー」という新しい役割を打ち出しているのも、ここに踏み込む試みだ。*6

第三は、AIの届かない領域 ― 「閉じない世界」 ― を意識的に残すこと*7。物質、身体、時間の一回性の中にしか成立しない経験。育児、介護、職人仕事、自然との関係、現場の身体労働。これらは構造としてAIが最も触れにくい領域であり、同時に、人間の判断力の最初のナマ経験が育つ最後の砦でもある。僕らが取り組んでいる「風の谷をつくる」運動も、結局のところこの話と地続きだ*8。都市最適化アルゴリズムが導き出す「効率的な生」から一歩外れ、自分の身体で世界に触れる場を残すこと ― それは単なる地域論ではなく、次世代の判断力を育てる土壌を社会的に残す試みでもある。

最後に残るもの

AI時代に最後まで価値を持つのは、おそらく単なる知識ではない。「現実と長期間格闘した痕跡」だ。その痕跡なしには、本物の判断力は育たない。判断力なしには、AIをどう使うかも、最適化関数をどう書き換えるかも、決められない。*9

僕らがいま打つべき手は、これからますます高度化するAIを使いこなす技術を磨くことではない。AI時代にも人間が現実と格闘し続けるための仕掛けを、教育と組織と社会の作りのすべてのレイヤーで設計し直すことだ。地味で、面倒で、すぐには成果の出ない仕事だ。

しかし、ここで手を打たなければ、社会は確実に痩せる。
そしてその痩せ方は、しばらくの間、誰にも見えない。

これが大きな分岐点となることをしっかりと意識し、未来に向けて仕込んでいけるか、それが今、僕らに問われている。


ps. 英語版はこちら:
“Where Does Judgment Come From? — The Hidden Dead End of the AI Native Era”
medium.com

*1:特に顧客フロントでも、商品やサービスを開発するバックエンドでもない世界、いってみればミドル領域

*2:実際、海外のAI専門ベンチャーの動向を見ても、数万人規模の熟練専門家を破格の条件で雇用してAIの教育(ディレクションの模範)を行わせる企業が急成長する一方、市場では22〜25歳層のエンジニア・フリーランサーの雇用が急速に失われ、経験に基づく「仕様定義・ディレクション能力」を持たない若年層の需要低下が顕在化している。Lodefalk, M., Löthman, L., Koch, M., & Engberg, E. (2026). Same storm, different boats: Generative AI and the age gradient in hiring (Working Paper, No. 2/2026). Örebro University School of Business. Available at: https://hdl.handle.net/10419/339320 他を参考

*3:少なくともこの中で気づく力の高いリーダー層はそうなる。そうではない人は、リーダー層の知恵を型紙化してもらい、それを学習することになる

*4:これらの業務の多くはそもそもその世の中に存在していたのかすら、その個人はアサインされるまで知らなかったりする。が、しかし、そのような経験を積んでいくうちにSkillは育っていく。

*5:昨年年始に落合陽一氏と対談した際、「修羅場 with AI」というフレーズが出てきた。これは、AIを取り上げて若手を素手で修羅場に放り込むのでもなく、AIに任せて修羅場そのものを回避させるのでもなく、AIを使いながら本物の修羅場を一緒にくぐらせる、という発想だ。氏が小中学生向けのワークショップで実際に試しているのは、AIと共に考えなければ完了しない難度の課題で、そうした課題を与えられた子供たちはむしろ「キラキラしてくる」という。これは、AI時代の判断力育成の方向性を示す重要な手がかりだと思う。(参考)「超イヤな世界が待っている」死にたくてもAIが生き続ける…人間をどうスクリーニングする?2060年の世界大予測【安宅和人×落合陽一】NewsPicks /ニューズピックス https://www.youtube.com/watch?v=h153FOAJ5tU

*6:www.datascientist.or.jp

*7:kaz-ataka.hatenablog.com

*8:

aworthytomorrow.org

*9:最適化関数の話については以下の論考をご参考。 kaz-ataka.hatenablog.com

年間二千人じゃだめなんですか? — 社会は高度知性をどう使うのか


Numbered, in the storm.
Rusutsu, Japan
Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


2015年春、文部科学省とROIS(情報・システム研究機構)による緊急の集中討議で、ビッグデータ・AI時代の人材育成についての総合検討が行われていた*1

その際、僕は、

  • リテラシーレベル(年間約50万人)
  • 専門レベル(年間5万人) 上の約1割がここに進む
  • トップ人材・リーダー層レベル(年間5000人) そのまた1割がここに到達

という三層構造での人材育成を提案した。

「これは一部の専門家の話ではない」 からであり、裾野の広がりが国としてのその分野の本当の基礎体力、強さになるからだ。明治において、世界の主要国に大きく遅れることなく進めた学制の制定と展開の話に近い*2

-

僕があの場で言ったのは、

「法学であれ経済学などの社会科学であれ、はたまた歴史や哲学のような人文系の分野であれ、形態素解析や統計解析、あるいは機械学習を用いて研究を行うことが、いずれ当たり前になる。逆に言えば、こうした素養を持たない人は、知的労働市場で急速に苦しくなる」

そして実際、多くの分野でそうなりつつある。

つまりこれは、新しい専門職を作る話ではなく、社会の基本素養を書き換える話だった*3

ところが、その議論の最中、検討の責任を担っていた文科省側のトップの方から、こんな問いを受けた。

「年間2000人ではだめなんですか? そんなに育てて、社会の受け皿はあるんですか? その責任は誰が取るんですか?」

提案した50万人に対して、2000人。提案の 0.4%以下 である。
その時、僕はこう返した。

「これは専門技能ではなく、新しい時代の“読み書きそろばん”なんです。我々の子や孫たちを路頭に迷わせたくなかったら、専門が何であろうと、やるべきなんです」

結果として、この集中討議は、その後の「数理・データサイエンス・AI教育」の立ち上げや、理研・産総研・NICTによる三つのAIセンター構想へと繋がっていった。だから、議論そのものは決して無駄ではなかった。

ただ、議論の入り口でこの問いが出てきたという事実は、いまも僕の中に残っている。この問いには、日本社会の「知の使い方」そのものが現れていたように思う。

-

最近、主要国のPhD(博士号取得者)の分野構成やキャリア構成を眺めていて、改めてそのことを考えさせられた*4

主要国の新規博士号取得者 分野別実数(推定値)

同じ問いは、実は、より「上」のレイヤーでも繰り返し問われてきた。リテラシー層だけでなく、高度抽象知のレイヤーでも、構造的に同じことが起きている。

日本の博士号取得者は年間約1.6万人程度。そのうち4割超が保健・医学系であり、人文・社会科学系は合計でも1割に満たない。

一方、米国や欧州では、理学・工学・社会科学・人文科学が比較的厚く存在している。もちろん単純比較はできない。国ごとに制度も文化も違う。ただ、構成比を見ていると、それぞれの社会が「何を高度知性として重視しているか」が透けて見える。

中国は工学が突出している。国家建設と産業競争力強化への集中投資だろう。 フランスは理学と人文が厚い。理論知や教養知への強いコミットメントを感じる。 日本は保健系が極めて厚い。これは臨床医の学位取得文化とも関係している。

それ自体が悪いわけではない。 だが同時に、日本では社会科学や人文科学のPhD層が、極めて薄い。

25歳人口1万人あたりの新規博士号取得者数(概数)

人口補正をすると、日本の特異性はさらに際立つ。日本は「博士が少ない国」というより、「高度知性を、極めて限定的な領域にしか配分していない国」に近い*5

-

実は、僕は2008年から2009年にかけて、これに近い話をブログで書いている。当時のテーマは「ポスドク問題」だった*6

日本は、人口比でアメリカの2.4分の1しかない。にもかかわらず、主要大学から生み出されるPhDの数はアメリカと遜色ない。一方で、産業側の吸収余力はライフサイエンス系で言えばアメリカの10分の1しかない。「アメリカの10分の1のバケツに、同じ量の水を流し込んでいる」と、当時の僕は書いた。

いま振り返ると、当時の僕は、この問題を「供給過剰」として捉えていた。だが、17年経って気づくのは、問題はそこだけではなかったということだ。
本質は「人数」ではない。バケツとバケツの間に、水が流れる回路があるかどうかだ。
高度抽象知を持つ人材が、社会のどこに流れているのか——本当に重要なのは、そこだ。

-

よく誤解されるが、米国でも欧州でも、PhD取得者の大半がテニュア教員になれるわけではない。むしろ逆だ。

米国NSF(国立科学財団)の追跡調査でも、ライフサイエンス系などで最終的にテニュアに到達するのは10〜15%程度とされている*7。理学系・社会科学系全般を見ても、感覚的には1割前後と言っていい。
では残り9割はどうなるのか。 ここに、社会構造の差が現れる。

-

欧米では、PhDは「大学教員資格」ではなく、 高度な抽象化能力・構造化能力・問題設定能力を持つ人材 として扱われる。

これも同時期にまとめたが、米国の主要大学のPhDプログラムは、明確に二つの能力育成を目的にしている。「independentな研究のプランニング・遂行能力」と「大学における教育能力」だ*8。研究者の基礎免状であると同時に、教員の基礎免状でもある、という発想が、制度として組み込まれている。

だから、研究そのものだけでなく、構造化された文章を書く力、議論する力、若い人を導く力、プロジェクトを設計しマネジメントする力、といった移植可能なスキルが体系的に育てられる。これらは、研究を離れても通用する。

そして米国ではこの動きが「Alt-Ac(Alternative Academic)」として概念化されており、テニュアを目指しつつ、そうならなかった場合の展開も学位取得の段階から視野に入れるのが、ごく普通の設計になっている。アカデミアの外に出ることは「脱落」ではなく、戦略的な転回(pivot) だ。

だから、大学の外に広い受け皿がある。

テック企業では、心理学・言語学・哲学の博士がUX設計、AI倫理、自然言語処理の評価などに入る。 歴史学の博士が、リサーチやインテリジェンス、政策分析に関わる。 社会科学系PhDが、政府、中央銀行、国際機関、シンクタンクで意思決定を支える。日本の大学関係者から見ると驚かれるだろうが、大学のadministratorがPhD保持者であるのは日常的であり、積極的に求められる。

つまり、社会全体に「知の市場」が存在している。 大学・政府・産業が、高度知性を介して循環している。

-

一方、日本では、博士人材、とりわけ文系博士の出口が極めて狭い。

企業側には、「専門しかできない人」「実務に向かない」という固定観念が根強い。 逆に大学側も、「アカデミアに残れない=敗北」という空気をいまだに引きずっている。

加えて、「一度民間に出てから、実務家教員として大学に戻る」という双方向の流動も乏しい。最初からテニュア一本に賭けて敗れる、という極めてハイリスクな構造が温存されている。

結果として、

  • 大学
  • 行政
  • 産業
  • 社会実装

の間で、知が流動しない。 高度抽象知が社会に埋め込まれない。

-

だが、AI時代には、この問題はむしろ深刻になる可能性が高い。
なぜなら、実行部分がAIによって急速に圧縮されるからだ*9

コーディング、分析、制作、調査、翻訳、要約、、これらの「実行」過程はAIに代替されていく。

その時、人間側に残る価値は何か。

  • 問いを立てる
  • 構造を読む
  • 意図を設計する
  • 文脈を扱う
  • トレードオフを捉える
  • 何を最適化するかを決める

そうした領域に寄っていく。

以前から「コの字型社会」という言い方をしてきた。スマイルカーブが「両端が高い」形だとすれば、コの字型は「実行という中央が圧縮されきって、両端だけが残る」形だ。人間の価値が、「方向づけ」と「最終判断」に偏っていく構造である。

つまりAI時代は、「高度抽象知を社会にどう埋め込むか」が競争力そのものになる。

-

2015年当時、「そんなに育てて受け皿はあるのか?」という問いは、ある意味では自然だったのだと思う。
当時、多くの人には、データサイエンスやAIはまだ「特殊技能」に見えていた。

だが実際に起きたのは、特殊技能化ではなく、 "読み書きそろばん化" だった。

そして今、同じことが、より広い意味での「高度知性」全体に起き始めているように見える。

-

本当に問われているのは 「PhDを何人育てるか」 ではない。

むしろ、社会は高度知性をどう循環させるのか、だ。

*1:https://www.rois.ac.jp/open/pdf/bd_houkokusho.pdf https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu23/002/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/11/19/1364662_002.pdf

*2:kaz-ataka.hatenablog.com

*3:これらの数理データサイエンスAIスキルはこれからの時代の読み書きそろばんであるということは2013年春のDS協会設立の直後から言い続けてきたが、ついに定着したように思う。

*4:本数値は、文部科学省 科学技術・学術政策研究所(NISTEP)「科学技術指標2024」および各国の公的教育統計(米国NSF、中国教育部等)の2020〜2021年前後の実績値を基に、分野別の構成比から算出・概算。各国の学術体系の違いにより、細部の分類(例:心理学の帰属先など)に差異があるが、全体的な構造比較(日本の保健系偏重や中国の工学重視、欧米の社会科学層の厚みなど)を可視化するために再集計を行っている。

*5:国際比較の精度を高めるため、総人口ではなく学位取得年齢に近い「25歳単年人口」で正規化。数値は国連(United Nations)"World Population Prospects" における2024年時点の各国の25歳(単年)推計人口を使用。https://population.un.org/wpp/Download/Standard/Population/

*6:kaz-ataka.hatenablog.com kaz-ataka.hatenablog.com

*7:米国国立科学財団(NSF)の「学位取得者追跡調査(SDR)」および米国国立衛生研究所(NIH)の諮問委員会報告書(2012年)に基づく。1970年代以前は取得者の過半数がアカデミアに残る構造であったが、近年の供給過多とポストの固定化により、バイオ医学や理学系を中心に、学位取得後5〜6年時点でのテニュアトラック到達率は15%を下回る水準まで低下している(Science誌掲載のP. Stephan教授らによるマクロ分析等でも「1割台」が定説となっている)。米国国立科学財団 (NSF) SDR調査: https://ncses.nsf.gov/surveys/doctorate-recipients ; NIH 若手研究者キャリア報告書: Biomedical Research Workforce Working Group Report

*8:kaz-ataka.hatenablog.com

*9:kaz-ataka.hatenablog.com

AIの透明性とはなにか?


Inspiration is not traceable
Daruma Temple, Takasaki, Gunma, Japan
Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


いつだったか、映画her*1の主人公サマンサ(パーソナリティを持つAI)の声であった、女優スカーレット・ヨハンソンが、OpenAIが生み出す音声に酷似しているということでちょっとした揉め事になったことがあった。

www.wired.com

サム・アルトマン(OpenAIの発起人)はスカーレットに事前に打診したが、色々思案した上、彼女がNOといったにも関わらず、自分の声そっくりの声が使われていたからだ。

この一件は、「似ている」「依拠している」という問題の象徴的な例だ。

だが本質的な問いは、「どこまで似ているか」ではない。AI時代において、何をもって透明性が担保されたとみなすのかだ。

-

様々なテキストや画像、音声、動画などを生み出す生成AIが社会に浸透し、多くの人が依存するようになるようにつれ、AIの透明性議論が盛んになりつつある。

そのアウトプットが、特定のコンテンツに依存(依拠)している度合いがどのぐらいあるのか。これはコンテンツホルダー側としては権利問題に直結し、利用者側にとっても安心して使えるかどうかを左右する。

この論点が整理されない限り、生成AIの社会実装は広がっても、安心して使える基盤にはならない。これからの社会は、生成AIを所与(given)のものとして動いていく可能性が高い。極めて重要な問題だ。

-

一見すると、この問題は「そのアウトプットがどのコンテンツに依拠しているかを特定できるか」という問いに見える。しかし、それは表層的だ。

実際に起きているのは、人間同様に、いやむしろ人間以上に貪欲に膨大な情報を学習した生成AIが、その自らの意思ではなく、利用者の意思により、学習した内容を使いながらアウトプットを生成するという構造だ。

これは人間のオマージュや剽窃とは構造的に異なる。

-

人間と生成AIの違いは、少なくとも三つある。

第一に、AIは巨大な確率分布として学習しており、個々の着想の起源を自己申告できない。人間もまたインスピレーションの起源を説明できると感じることはあるが、それは多くの場合、後付けの解釈に過ぎない*2。AIの場合、その知識が分布として埋め込まれているため、この問題はより顕著になる。

第二に、学習した主体と出力を求める主体が分かれている。人間は自らの経験*3をもとに自発的に*4何かを生み出すが、生成AIは学習した主体と利用する主体が分離している。この非対称性が依拠性の議論を難しくする。

第三に、出力がプロンプトという外部入力に強く依存する。人間の場合はそもそも明示的なプロンプトもなく何かを生み出すわけだが*5、生成AIの場合は、入力条件によって出力が大きく変わる*6

かつて深層学習において画像を識別するコンボリューション(畳み込み)的なモデルを触ると、人間における夢のような出力が実際には自発的に生み出しうるという話があったが、これと現在の生成AI出力の議論はだいぶ違う。

-

では、透明性はどのように担保されるべきなのか。現在の議論はやや極端だ。「元ネタを吐き出せ」「URLを示せ」という要求がなされることも多い。*7

しかし、これをそのまま制度要求とするのは現実性が低い。むしろ、「元ネタを完全に遡及できるはずだ」という前提そのものが、AIの構造と整合していない可能性がある。

これはデジタルマーケティング分野におけるattributionの困難性についての議論に近いが、モデルの巨大さと学習規模を考えれば、その困難性は桁違いだ。

また、人間の創作に対して完全な起源追跡可能性が求められたことは歴史上一度もない。にもかかわらず、AIにだけそれが要求されているとすれば、その正当化は極めて慎重に検討される必要がある。

-

そもそも、学習データを全て保持し、後から参照可能にするというモデル自体が現実的ではない。

Webのアーカイブ(魚拓サービスなど)ですら完全ではない。今後、Physical AI*8が進展し、リアルワールドの情報を継続的に学習するようになれば、その全履歴を保存することは不可能に近い。エッジ(端末側)のみで取捨選択しつつ学習しているものの全対象を取っておくということも当然ほぼ不可能だ。

(このPhysical AIが産業と競争の構造そのものをどう変えるかについては、以下のエントリで論じている。)

kaz-ataka.hatenablog.com

-

現実の研究・実務で行われているのは別のアプローチ、memorizationの検証だ。

すなわち、同様の条件やプロンプトのもとで、同一または極めて近い出力が再現されるか。既存コンテンツとの完全一致(exact match)が起きるかというような話だ。なお、Memorizationはあくまで閾値の設定であり、完全遡及とは次元が異なる。このようにアウトカムベースで判断するのが、現時点で最も現実的な方法だ。*9

人間におけるオマージュや影響関係を一定程度許容しながら、AIにだけ完全な起源追跡可能性を求めるのであれば、その差はどこにあるのかという説明が必要になる。

-

これを踏まえると、現実的な制度設計は次のような方向になる。

一つは、依拠性を確率的に評価することだ。すなわち、特定の作品への依存度をbinary(白黒)ではなく、段階的に評価する(例えば8〜16段階程度)。一定の閾値を超えた場合にのみ、著作権的な問題として扱う。

これは、AIの本質が確率分布である以上、自然な整理でもある。

-

依拠性の確率的評価が制度として機能するためには、より本質的な問題は別にある。

それは依拠性の哲学ではなく、それをどう運用するかという取引コスト(transaction cost)の問題だ。

人間の手による創作物*10は数が限られている。しかし生成AIのアウトプットは桁違いに多い。従来の個別判断・個別交渉型の仕組みは、このスケールでは成立しない。

必要なのは、個別証明ではなく統計的な把握、手作業ではなく自動化、個別交渉ではなく標準化だ。すなわち、APIベースで自動処理されるone-stop clearingの仕組みである。

-

ここでようやく見えてくる。問題は透明性(transparency)の有無ではない。

「何を開示するか(disclosure)」ではなく、「どの程度観測できるか(観測可能性:observability)」であり、さらに「どのように制御・運用できるか(operability)」だ。

ここでいう観測可能性とは、個別の起源を特定することではなく、出力の性質や再現性、依拠の度合いを統計的に把握できることを指す。

AI時代に必要なのは、「何を学んだか」を完全に遡及することではない。「何がどの程度再現されるのか」を現実的に観測し、必要な対価と制御を滑らかに回せる制度である。

透明性は、開示の問題から、観測と運用の問題へと移りつつある。

それは、AI時代において「何を知るか」ではなく、「何を制御できるか」が問われ始めているということでもある。

-

次の図は、この整理を模式的に示したもの(AI時代の透明性の再定義:Transparency Stack in the AI Era)だ。人間だけがアウトプットを生む時代とは、いかに異質な仕組みを用意せねばならないか、感じてもらえるのではないだろうか。

*1:この印象的な映画についてエントリを書いたことがあるのでよかったらご覧頂ければと思うkaz-ataka.hatenablog.com

*2:思いつきに近いものの場合、なんとも言えないものも多い。

*3:本のような生経験をした人の作品を通じる部分も多分にある

*4:あえて"意思"とは言わない

*5:とはいえ、試験の回答だけでなく、自力で言語的に課題設定できる人もいないわけではない

*6:通常何らかのプロンプト(実際にはコンテキスト的なものの読み取りも含む)をベースに出力する。

*7:追記:本ポスト公開後、透明性の定義についていくつか議論があったので補足しておく。 いわゆるブロックチェーンや金融トランザクションのような「閉じた計算系」においては、検証可能性や不変性を基盤とする透明性は極めて有効であり、本質的な要件でもある。 一方で、生成AIのように外界から継続的に情報を取り込み、学習と生成が分離された「開いた学習系」においては、完全な検証可能性を前提とすること自体が難しい。 この違いを区別しないまま透明性を論じると、現実の構造と整合しない要求が制度として組み込まれるリスクがある。

*8:『現実世界で自律的に判断しながら動けるAIシステム』全般を指し、必ずしも『ロボット』とは限らない。生成AIが頭脳なら、Physical AIは頭脳だけでなく体も持ったAI。

*9:逆に学習したものを全部記録しておき、かなり難しい特定のoutputに対するattributionを出せというのは本来無理な話だ。

*10:油絵やスタジオで記録される音楽など

第六の象限


Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


2015年の秋、ハーバード・ビジネス・レビューの誌上、そして経産省 産業構造審議会の場で、ひとつの地図を示した。縦軸にモノ・カネ、横軸にデータ・キカイをとった産業マトリックスだ。当時、多くの論者の目はGAFAを筆頭とするNew economyの台頭に向いていた。しかし僕が注目していたのはそこではなかった。リアルとサイバー両方の強みを持つ「未開領域」に、第三の勢力が現れる。そこが本当の主戦場になる、と。

その見立ては、おおむね当たった。TeslaがGM (General Motors) の企業価値(時価総額)を初めて上回ったのは2017年4月*1のことだ。販売台数で100倍以上の差があった相手に。これは単なる逆転劇ではない。富を生む方程式が変わったことの、最も明快な証拠だった。

Uber、Kiva(現Amazon Robotics)、Alibaba。彼らが示したのは、リアルとサイバーを統合した設計の力が、アセットの規模を超えうるということだった。

当時、この第三勢力を「電魂物才」という言葉で表現していた。サイバーマインドを持ったリアルの企業、という意味だ。しかし実際に台頭してきた企業たちを観察するうちに、重心は逆だと気づいた。勝ち筋はモノとリアルへの圧倒的な執着を核に置き、そこにデジタルの才覚を組み合わせることにある。「電魂物才」ではなく「物魂電才」だ、と2022年に書いた。


kaz-ataka.hatenablog.com

そして今、地図をもう一度更新しなければならない時が来た。

あの4象限の図に、新しい象限が加わっている。右下、New economyのさらに先に、OpenAI、Anthropicといった「AIプラットフォーム (PFs)」が出現した。同時に右上、第三勢力の先にも、未踏の領域が広がっている。4象限は6象限になった。これは単なる区画の追加ではない。競争の次元そのものが変わったことを意味している。

新しく加わった列は、他の象限と何が違うのか。

Old economyが競っていたのは実行力とアセットの規模だった。New economyが競っていたのはデータとプラットフォームの支配力だった。第三勢力が示したのは、両者を統合する設計の力だった。では、AI PFsが持ち込んでいるのは何か。

それは判断基盤の設計、すなわち「何を最大化するか」という関数そのものを定義する力だ。

なお、New economy側も手をこまねいているわけではない。MicrosoftはOpenAIに計算基盤を提供しつつその恩恵を受け、GoogleはGeminiで自らAI PFになることに賭け、AWSはAnthropicを支えながらクラウド基盤を握ろうとしている。

第六象限とその周縁をめぐる争いは、外からの挑戦だけではない。隣の象限からの越境でもある。本稿でいう「第六象限」とは、この新しい列の中核に位置するAI PFs(何を最大化し、何を選別し、どこで閉じるかを設計する層)を指す。

日本にも、AIで価値を生み出しているプレイヤーはすでに少なくない。彼らの多くはAI PFsの内側ではなく、その縁に位置する。PFsを使い倒しながら成長する存在であり、同時にPFsに吸収されうる存在でもある。この力学は、第六象限の内側だけでなく、その境界上でも形づくられている。

スマイルカーブの終焉のエントリで書いたように、生成AIとエージェントが統合されると、サイバー空間で閉じる仕事の「途中工程」がほぼ消える。残るのはディレクションとダメ出し、判断の両端だけだ。この構造が成立するとき、価値の帰属先は実行の現場ではなく、最適化の前提を設計した側に移る。AI PFsはまさにそこに位置している。


kaz-ataka.hatenablog.com


しかも、この第六象限の怖さは静けさにある。関数主権のエントリで論じたように、モデルが外部基盤に依存すれば、判断のOSが外にあることになる。組織は「人間が最終確認した」と言う。確認者は「AIがそう推奨した」と自分を納得させる。判断主体は霧散し、責任だけが残る。自覚なき主権移転だ。


kaz-ataka.hatenablog.com


AI PFsが握る力の本質は、単なる設計力ではない。閉じない世界の中で、どの摩擦を取り込み、どこで閉じるかを決める力だ。

しかし第六象限をめぐる話は、ここで終わらない。

Physical AIの台頭だ。Physical AIとは、関数(何を最大化するか)が、現実世界の動作として実装される段階である*2。TeslaのOptimusやFigure、1Xなど、ヒューマノイドはすでに工場や物流の現場に立ち始めている。これは第三勢力と接続しながらも、第六象限の展開領域として理解すべきだ。リアルとサイバーの統合がついに「身体」を得た瞬間だ。4象限の図でいえば、右上の未開領域への侵入が、これまでとは桁の違う速度で始まっている。

ただし正確には、Physical AIは第六象限そのものではなく、その展開領域にあたる。とりわけミッションクリティカルな用途では、クラウド依存では成立せず、エッジや閉域を含む新たな構成が前提となる。

しかもPhysical AIの構造は単純ではない。ヒューマノイドは身体を持つが、その判断基盤はAI PFsが握っている。つまり第六象限の関数が、ついにアクチュエーターを得たということだ。サイバー空間で閉じていた設計の支配が、物理世界の実行をも包含し始めている。軽いものが重いものを支配するという構造が、ついにリアルの身体にまで及ぶ。

この図で示しているのは、Physical AIが産業を右上へ押し上げる力として働いているということだ。

閉じる世界と閉じない世界のエントリで、天ぷら職人や陶芸家を例に、身体と物質と時間の一回性はAIには圧縮できないと書いた。その論は今も正しいと思っている。しかしPhysical AIは、その「閉じない世界」の境界線に、明らかに近づいてきている。完全には侵食できない。ただ、その境界がどこにあるのかは、もはや自明ではない。

kaz-ataka.hatenablog.com

では、第六象限の外に立つプレイヤーはどうすればいいのか。

選択肢は二つある。一つは、自ら設計の中心に立つ道。判断モデルを内製し、最適化関数を自分で定義し、データ統合基盤を握る。もう一つは、自分の領域に踏みとどまりながら、第六象限で起きている変化を観察し、組み込み、使いこなす道だ。後者は受動ではない。むしろ高度な主体性を要求する。自分の領域に固有の摩擦、技術・制度・文化・運用の摩擦を、どこまで設計に昇華できるかが勝負になる。

Physical AIが本格的に展開する世界では、この問いはさらに切実になる。ヒューマノイドが現場に入ってくるとき、その動作を支える判断基盤を誰が設計するのか。現場固有の摩擦、すなわちその工場の、その工程の、その素材の、その季節の摩擦を誰が知っているのか。それを設計に織り込めるのか。ここに、まだ勝負の余地がある。

モノ・設計・運用データの三点を統合する主体が、次の競争を制する。かつての「物魂電才」という表現は、今の変化を前にすると枠組みとして狭くなってきた。名前より構造だ。

Physical AIが物理世界に着地するとき、その着地点に何を置くか。そこに残る固有の摩擦を、どう設計の言語に変換するか。それがいま、問われている。

2015年は、どこで戦うかの時代だった。
2020年は、誰が勝つかの時代だった。
2026年は、何で支配するかの時代だ。

だが『支配するか、されるか』という問い自体が、すでに第六象限の論理の内側にある。

第六の象限と自分の間に何を置くか。
それは戦略ではなく、設計の問題である。

自分たちは、何を最大化するのか、
それが問われている。

*1:トヨタの企業価値を上回り、世界で最も時価総額の大きい自動車メーカーになったのは2020年7月1日

*2:デジタル情報だけでなく、現実世界の状態をセンサーで捉え、AIが判断し、ロボットやシステムを通じて物理世界に作用する技術領域

2026年は1984なのか ― AIと国家、そして合法の解釈権


Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW

米国防総省が提示した"all lawful purposes"(法的に許されるすべての用途)での利用を認める契約文書を、Anthropicが拒否したというニュースを数日前に見た*1。その契約には、全自動の殺傷可能な兵器や、国民全体をリアルタイムで監視するようなものが含まれうるということが理由のようだ。

この動きには、どこか既視感のようなものを覚えた。

国家は強制権限の発動を示唆し、AIプラットフォーム(PF)を抱える企業は「良心」を掲げて線を引く。OpenAIやGoogleは別の形で応じ、社内では反発の署名が広がる。AI PF企業の間の三極化*2やCEOの発言、内部の離脱劇は実にヒリヒリとする。しかし、少し温度を下げてみると、本当に重要なのは、別の点にあるように思える。

-

それは、違法か合法かという単純な線引きではない。ルールは国民のものではあるが、国は合法のルールを実質的に決めることができる。現在の米国政府のような大統領令でマネジメントしているような国家状況であればなおさらだ。問題は、「合法」の範囲を誰が定義し、その立法現場での最終的な決定権をどこがどう握るのかという点にある。

国防総省は「法的に許される範囲で」利用すると言う(どのような民主主義国家のどのような省庁でも建前的にこれだけは譲れないだろう)。企業側は、合法であっても、自分たちの企業が内部に課し、ユーザと投資家に対してコミットしている倫理的に許容できるガイドラインを超えることはできないと主張する。もっともだ。レーザーや航空機のように、国防用途で磨き込まれてきた技術が民間に流れ込むのとは全く異なる事態がここで生じている*3

この緊張関係は、企業倫理の問題のように見えるかもしれないが、その実、ある種の主権、言い換えれば技術利用の統治権の問題と言える。

-

AIが単なるツールではなく、情報を見極め、選別し、意思決定を補助し、アウトプットを最適化する判断基盤へと変わりつつあるとき、その最適化関数(何の最大化を目指すのかとそれをコントロールする関数)を誰が設計し、誰が書き換えることができるのかは、社会全体のガバナンス(統治)の核心に触れる問題だ*4

僕はこれを「関数主権」の問題と呼んできた(このような事態が顕在化していない数週間前に書いた拙稿を参照)。どの目的関数を設定し、何を最大化し、何を許容損失とみなすのか。どのような制約条件(constraints, red/yellow zones)を内部に組み込むのか。そして何より、その関数を更新する権限を誰が持つのか。

kaz-ataka.hatenablog.com

国家の目的関数とPFを作る企業の目的関数が一致しない時、その調停は誰が担うのか。形式上は民主主義国家といえ、実質的に全権委任型に近いガバナンスが行われる局面では、内部からの調停はきわめて難しくなる。

しかし、AIが判断OS化するほど、関数の設計権そのものが統治権になる。

-

振り返ると、1984年、僕は北陸の漁村に生活する高校生だった。たまたまTIMEを購読しており、1983年の年末、全体主義国家による監視社会を描いた小説『1984年』の作者George Orwell(オーウェル)が表紙を飾った号を手にした*5。あの号は長く大切にしてきた。いまもどこかに残っているかもしれない。

content.time.com
(TIME, Nov. 28, 1983)


だから、「2026年は1984なのか」という問いが頭をよぎるのは、単なる比喩ではない。数字の偶然以上に、歴史の反響のようなものを感じるのだ。

-

だが、あの1984年といまは決定的に違う。

いまから考えれば冷戦末期の当時のせめぎあいの中心は国家と国家、西側陣営と東側陣営の対峙だった。計算機を持つ人はごく一部であり、90年代に生まれるブラウザはおろか、メールやfetchを行うだけのインターネットですら実質的にないも等しい状況だった。

今起きているせめぎあいは国家と企業と技術者が、同じ関数の取り扱い、関数空間の内部で起きている。コソボ空爆や9.11後のアメリカを当時、米国内で見ていたものとして*6、今回の動きにはどこか見覚えがある。安全保障局面に入ったとき、アメリカは技術と国家を強く接続する。

それは、善悪の問題と言うより、歴史的に繰り返されてきた彼の国の振る舞いのパターンだ。マンハッタン計画、冷戦初期の科学動員、9.11後の法的な枠組みの拡張(Patriot法の策定、Department of Homeland Securityの設立など)。国家が「この技術は戦略資産だ」と認識した瞬間、国と企業、個人との関係は契約から動員へと変わる。今回、その対象がAIになった。

-

そして、さらに留意しなければいけないのは、歴史が示してきたもう一つの事実だ。人類は強力な技術を原理的に止めることに、ほとんど成功していない。核兵器も、生物兵器も、化学兵器も、明確な被害や惨禍が露呈するまで開発は止まらなかった。禁止条約や国際合意は、常に何かが起きた後に整備されてきた。倫理的な警鐘は繰り返し行われてきたが、それだけで進行を止められた例はおそらくほとんどない。だから言っていたじゃないか、というのは知識人がいつも言う言い訳だが、実際のところ普通にはモメンタムのついた社会を止める方法はほとんどない。

AIも例外ではないのかもしれない。主要国間の競争の中で、国家安全保障の文脈に入った技術は、一定の水準まで実装される。そして、実際のリスクや誤用や事故が顕在化してはじめて、制約条件や利用のガイドラインが明文化され、価値観が共有される。

だとすれば、僕たちは「止められるかどうか」を議論しているのではなく、「どの段階で、どのような制約を目的関数の内部に組み込めるのか」を問われているのかもしれない。

関数主権の争いは、理想論ではなく、設計の現実へと移っている。

またこれはアメリカだけの問題ではない。歴史を振り返れば明らかなように、国家が設定する制約は自国民には強く働く一方、国外には必ずしも対称には適用されない。目的関数は国境を越えて出力を生むが、制約条件は往々にして内向きに設計される。日本もまた、AIを単に使う側にとどまるのか(出力を受け取るだけの立場に甘んじるのか)、それとも関数設計に関与できる立場を目指すのか、静かに問われている。

歴史の分岐点は、往々にしてニュースの形でやってくる。あとになって振り返ったとき、あれが転換点だったと言われるのかもしれない。

-

2026年は "1984" なのか。まだ、そうとは言えない。いまは単一の支配構造が完成した世界ではなく、ゆらぎの局面にある。国家と企業と技術者、科学者が、それぞれ異なる目的関数を掲げながら、どこに境界線を引くのかを探っている。この揺れそのものが、まだ関数が固定化されていないことの証(あかし)でもある。

冷戦の中、監視国家を外から想像していた高校生が、判断OSのあり方やAIガバナンスの設計をめぐる議論に、この10年あまり一定程度関わってきた*7。歴史は直線ではなく、思いがけない円を描く。

どんなに悲惨なことがあろうと、人類は常に立ち上がってきた。人類史は、破壊の歴史であると同時に、レジリエンスの歴史でもある*8。だからこそ、悲観だけで終わるべきではない。

技術は止まらないだろう。しかし、関数は設計できる。目的関数にどのような制約を入れるかは人間が決める。更新権限をどのように分散させるかも、人間が設計できる。

関数主権は奪い合うものでもあるが、同時に合意によって共有しうるものでもある。

もし、希望があるとすれば、それはここにある。技術の暴走を祈りで止めることはできないが、設計思想を議論し、制約を明示し、更新権限の所在を透明化することはできる。AIが中立でいられない時代においても、関数の設計をめぐる議論そのものが、社会の成熟度を映す。そういえば、ChatGPT誕生直後、OpenAIが必死に進めたsuper alignmentの試みも、振り返れば関数主権をめぐる格闘そのものだったのだろう。

1984ではなかったと言える未来にするかどうかは、まだ決まっていない。


*1:"Pete Hegseth goes to battle with Anthropic" The Economist, Feb 24th 2026 www.economist.com

*2:OpenAIは国防目的での自社モデル利用を案件ごとに個別判断する立場をとり、GoogleはProject Mavenでの内部反乱から一転、2024年に国防目的でのAI利用制限を撤廃して機密・非機密両方の契約を受け入れた。

*3:かつてGoogleはProject Mavenで無人機映像の解析に機械学習を提供したが、社内の反発を受けて撤退した。しかしその同じGoogleが、10年も経たずして全面的に国防契約へと回帰している。技術企業が「線引き」を維持することの難しさを、この事実は雄弁に語っている。

*4:数式的に書けば、 Direction = optimize(x | F) Issue = redefine(F) ここで F はFrame(前提となる枠組み)、xはFrame内での選択肢。 AIは optimize(x | F) を飛躍的に強化する。しかし redefine(F) は別次元の問題である。

*5:この国を飛び出すことを夢見る少年として、アルク社のTIMEマラソンに参加しており、最年少参加者ということで一言コメントを書いた記憶がある

*6:1997夏より2001年末までPhD学生、PhD候補生、ポスドクとしてNYCにほど近いコネティカットに滞在

*7:人工知能技術戦略会議、人間中心のAI社会原則会議、科学技術外交推進会議などなど

*8:余談ではあるが、災害大国の日本はだからこそもっともレジリエントな国の一つとも言えるだろう

閉じる世界と閉じない世界


A fleeting moment of perfection
Leica M10P, 1.4/50 Summilux ASPH, RAW


先日、友人に誘われて天ぷらの名店に伺う機会があった。日本でも指折りと言われる店だ。

カウンターに座ると、大将が食材、そしてこちらに静かに向かい合っている。食べる速度、箸の止まり方、会話のリズム。そのすべてを読みながら、次の一品を油に入れるタイミングを決めている。食材の水分、その日の湿度、油の対流状態。調理の過程は隠されることなく、目の前で展開される。完成した瞬間がピークであり、それ以外にその天ぷらが存在できる時間はない。

たまたま隣には陶芸家の友人がいた。その人もまた、毎回違う土と、制御しきれない火の中で価値を生み出している。焼成は取り消せない。失敗も含めて作品になる。土と火に対して、毎回、初めて向き合う。

帰り道でずっと考えていた。この二つには、同じ構造がある。そしてそれは、先日書いた「コの字型社会」の話とは、別の次元で動いている。


kaz-ataka.hatenablog.com


そこでは、AIが途中工程を圧縮し、残るのはディレクションとダメ出しだけになるという構造を書いた。しかしあの論には前提がある。サイバー空間で閉じる世界の話だった、ということだ。コピーできる。再現できる。ログが蓄積される。可逆で、繰り返せて、最適化できる。そういう世界を前提にしていた。

天ぷらの話も、陶芸も、そこに入らない。

価値の生まれ方には、構造が根本的に違う二種類があるのではないかと思う。

一つは、閉じる世界。記号と情報で動き、再現可能で、コピーができ、ログが蓄積される。変数は固定化できる。結果はシミュレートできる。AIはここを猛烈な速度で圧縮していく。

もう一つは、閉じない世界。有機的な対象を相手にし、物質を伴い、条件が毎回違い、不可逆で、一回性の中にしか成立しない。条件は毎回揺らぎ、同じ瞬間は二度と訪れない。

前者の典型は、広告の最適化、金融の与信判断、法律文書の作成、コードの生成。「コの字型社会」論で論じた「途中工程が消える」構造が、まさにここで起きる。後者の典型は、天ぷら、陶芸、演奏、そして本当の意味での教育。

ここで、20世紀的な区分が崩れる。

ホワイトカラーとブルーカラー。この分け方は長く使われてきたが、その実態は「紙の上とミーティングルームで完結する仕事か、それ以外か」という区分だった。そしてそこには暗黙の序列があった。前者のほうが高度であり、高付加価値であり、未来がある、と。

しかしこの軸は「閉じるか、閉じないか」とはずれている。

弁護士や会計士はホワイトカラーだが、価値創造の相当部分はサイバーで閉じる。条件が固定され、ログが蓄積され、再現可能な判断が多い。AIに最も圧縮されやすい領域だ。一方、天ぷらの料理人は従来の文脈ではブルーカラー的に見えるかもしれないが、価値創造は閉じない世界で動いている。条件は固定できず、不可逆で、身体の履歴がなければ成立しない。AIが最も触れにくい領域だ。

つまりホワイト/ブルーという区分が示していた「格」の序列ごと、ひっくり返る。これは単なる職業の話ではない。何が高度な知性か、という問いへの構造的な書き換えだ。

では、閉じない世界で価値を生むとはどういうことか。

その天ぷら店の大将は、頭で計算する前に身体が動いている。客の様子を読み、油の状態を感じ、その瞬間に引き上げる。しかもその全過程を、客の目の前で展開する。価値は完成品だけにあるのではない。一人の人間が有機的な素材と格闘している現場そのものを、客が共に生きることに価値がある。

陶芸家の友人も同じだ。火を止めるタイミングは、長年の身体の履歴が決めている。これは計算でも設計でもない。物質と時間に対する応答であり、その応答の精度は不可逆な経験の積み重ねからしか生まれない。優れた陶芸には、作り手の手の曲線と感覚がそのまま宿っている。触れた瞬間に、それが伝わってくる。

ここで「判断が残る」という言い方では足りない。判断はまだ頭の行為だ。ここで起きているのは、頭より先に身体が選んでいる、ということだ。

実は10年前、同じ問いの前に立たされた人たちがいた。将棋棋士たちだ*1

AIが人間を超えるかどうかが議論されていたあの時期、こういう洞察があった。問題は人間がマシンに負けるかどうかではない。人と人の戦いに、人間が興味を持ち続けるかどうかだ、と。

事実、AIはすでに棋士を超えている。しかし将棋のプロは消えていない。完璧な最善手よりも、全身全霊で盤に向き合う人間の姿に、人は惹かれるからだ。将棋は「閉じる世界」に見えながら、人間がそこにいる限り、完全には閉じない。

天ぷらの名店も同じ構造だ。AIが完璧な天ぷらを揚げたとしても、あの場の価値は消えない。大将が客を読み、素材と向き合い、その過程を隠さず見せる。人間が徹底的にそこにいるから、価値が生まれる。

閉じない世界の価値は二層ある。一つは物質と時間の一回性。もう一つは、人間がそこで格闘しているという現前性。この二層が重なるとき、AIには代替できない何かが立ち上がる。

そして皮肉なことに、閉じる世界が徹底的に圧縮されればされるほど、この閉じない世界の価値は経済的にも文化的にも、重みを増していく。

ここには、知性についての根本的な問いが潜んでいる。

2017年に「知性の核心は知覚にある」という論考を書いた*2。そこで論じたのは、人間の知性は単なる情報処理ではなく、身体全体で対象の意味を把握する「知覚」を核心としているということだ。知覚は感覚とも認知とも異なる。外部からの刺激を受け取るだけでなく、自分の周りの環境を能動的に理解し、解釈する能力だ。そしてその知覚の質は、ファーストハンドの経験の積み重ねからしか育たない。

大将が客を「読む」行為も、陶芸家の友人が火に「応答する」行為も、まさにこの知覚の発露だ。頭で考えるより先に身体が動く。それは長年の不可逆な経験が、身体の中に知覚として蓄積されているからだ。

AIが知覚を補助し、模倣することはできるだろう。しかし身体を持ち、時間の中で不可逆な経験を重ねてきた存在としての知覚とは、構造が違う。知覚は、身体と時間が織り上げた履歴そのものだからだ。

この知覚論は、その後『シン・ニホン』(2020)、そして『風の谷という希望』(2025)の教育章での議論のベースにもなっている*3。AI時代に人間が育むべき能力の核心として、ファーストハンドの経験から生まれる知覚の深さを一貫して論じてきた。今回の「閉じない世界」論は、その延長線上にある。

だとすれば、教育への含意も変わってくる。

先述の通り、今の教育は自動化されるループの中身の技能を競わせている。暗記、計算、定型的な整理。これらはすべて、サイバーで閉じる世界の技能だ。AIが最も得意とする領域でもある。

閉じない世界で育つ知覚は、別の経路でしか生まれない。素材と向き合う時間、不可逆な失敗の経験、身体を通じた感覚の蓄積。これらは効率化できない。ログにもならない。しかしそこからしか育たないものがある。

しかも、ここには時間の制約がある。脳神経科学が示す通り、知覚の基盤となる神経回路の可塑性は若い時期に最も高い。世界をどう感じ取るかという回路そのものが、幼少期から青年期の経験によって形作られていく。

これは単なる学習速度の話ではない。後から知識を足すことはできても、世界の感じ方そのものを作り直すことは容易ではない。

かつて、ある有名企業の創業者と話したとき、何人もの子供を全員一流の料理人として育てあげた著名人の話が出た*4。閉じない世界の価値はAI時代に突然生まれたものではない。ただ、多くの人に見えていなかっただけだ。

問題は、閉じない世界が存在するかどうかではない。そこへ入る扉を、どれだけの人が若い段階で確保できるかだ。

*5

「風の谷」の思想も、ここに接続する。森の時間、水の循環、土の履歴、季節の揺らぎ。谷が持つ時間の質は、都市のそれとは構造が違う。都市はサイバーに回収されやすい。谷は不可逆を引き受け、ファーストハンドの知覚が育つ場だ。

これは反都市論でも、アナログ回帰でもない。サイバーを極限まで使い倒した先で、なお圧縮できない領域がある。その領域に根ざす価値創造が、AIが成功しすぎる時代にこそ、際立って見えるようになる。

閉じない世界は、消えていくのではない。今この瞬間も、生まれ続けている。

*1:参考kaz-ataka.hatenablog.com

*2:

*3:

*4:その方の親友の一人。日本人であれば大半の人が知っているような人だが、料理人では全くない。

*5:もう一つ見落としてはならない場所がある。育児・介護の現場だ。予測不能、不可逆、マニュアルなし、毎回条件が変わる、これは閉じない世界の構造そのものだ。しかもその価値は外から見えにくい。閉じない世界の価値が現前性から生まれるとするなら、その場にいない人には原理的に見えない。加えて、物質に痕跡が残らない。天ぷらや陶芸とは、そこが違う。これが『名前のない能力』で論じた問題の、もう一つの核心だ。kaz-ataka.hatenablog.com