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先日のゼミで、疎空間における教育について議論していたとき、こんな問いが、その場に置かれた。
プラトンが一番怖れていたのは、 無知な市民か?
それとも、優秀だが「教育されすぎた」市民か?
一見すると哲学史の話に聞こえるかもしれない。
だが、これは古代ギリシャの話ではない。
むしろ、いま私たちがどんな教育を善だと思っているか、その前提そのものを問う問いだ。
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議論は自然と二つに分かれた。
無知な市民は、操作されやすく、誤った判断をする。 一方で、よく教育された市民は、全体を見渡し、合理的に振る舞える。
多くの教育論は、後者を善とする。 教育とは、人を賢くし、判断力を高め、社会を良くするものだと。
だが、議論を進める中で、空気が変わった。「教育されすぎた市民」は、 自分が正しいと信じ込んだ瞬間に、誰の声も聞かなくなるのではないか。
ここで問題にしているのは、教育の深さそのものではない。問いが閉じ、正しさが修正不能な形で内面化されることだ。しかもその正しさは、善意であり、論理的であり、 本人にとっては疑いようがない。
無知は、学ぶことで修正できる。 しかし、強化された思い込みは、教育によってむしろ固定されることがある。無知は怖いが、思い込みはもっと怖い。
この点について、プラトンは一貫して過敏だった。 『国家』第8巻では、国制の堕落は政治制度からではなく、 教育と養育の微細な変化から始まると、繰り返し描かれている。
そのような連中がそこに生まれてくるのは、無教育と悪い育て方、国制の悪いあり方のためである*1
音楽(ムーシケー)や身体訓練(ギュムナスティケー)の様式が変わることは、 単なる文化の変化ではない。
若者が聴く音楽が変われば、権威への態度が変わる。 権威への態度が変われば、法(ノモイ)への敬意が揺らぐ。 法への敬意が失われれば、国家の秩序そのものが崩壊する。
プラトンにとって教育とは、 個人を良くするための制度ではない。 社会全体が壊れないための、極めて危うい均衡装置だった。
彼が本当に怖れていたのは、無知な市民そのものではない。 むしろ、よく教育され、正しさを内面化し、 それゆえに誰にも止められなくなった市民だったのではないか。
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プラトンは『国家』の中で、 哲学者が統治者となる「哲人王」の理想を描いた。
知恵と徳を兼ね備えた者が導けば、国家は正しく治まる。
これは教育思想の到達点として語られることが多い。
だが、彼自身の著作を読み返すと、 この理想そのものに含まれる危うさを、 誰よりも理解していたようにも見える。
この議論を、疎空間に置いてみる。もし、ある地域で
「よく教育された人」
「全体を理解している人」
「地域の未来を語れる人」
が育ったとしたら、それは一見、理想的に見える。
だが、その人が間違ったとき、誰が止めるのか。疎空間で哲人王を育てる、という危うさだ。
その人が善意であればあるほど、 理論的であればあるほど、 周囲は異を唱えにくくなる。気づいたときには、 「正しさ」が社会を縛り、 社会そのものが柔軟性を失っている。
ここで初めて気づく。
問題は、誰を育てるかではない。 誰かがいなくても壊れない社会かどうかだ。
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『風の谷という希望』の教育章*2は、 「人材育成論」ではない。
教育とは何であるのかの掘り下げから始まり、能力(スキル・知識)、 態度(姿勢・構え)以上に、 関係性(他者・自然・社会との関係)に、ほぼ全振りしている。
それは価値判断ではない。構造の話だ。
人がどんな関係性の中に置かれると、能力や態度が、勝手に立ち上がっていくのか。
谷の教育は、人を育てない。谷の教育が設計しようとしているのは、「正しい人」ではなく、正しさが暴走しない社会空間の条件だ。
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教育を語るとき、つい「どう育てるか」を考えてしまう。
だが、本当に問うべきなのは、教育が失敗しても、社会が持ちこたえる条件は何かだ。
人は必ず間違える。
教育もまた、必ず偏る。
それでも壊れない社会とは、どんな構造を持っているのか。教育とは、人を設計することではない。
この問いは、教育の話であると同時に、社会設計の話であり、生き方の話でもある。
答えは、ここには書かない。 この問いを持ったまま、谷本を手にとっていただけたらと思う。
*1:プラトン; 藤沢 令夫訳『国家』下 (岩波文庫) 第8巻 > 書籍リンク 国家 上 (岩波文庫) 国家 下 (岩波文庫)
*2:第12章「谷をつくる人をつくる」
