ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing

安宅和人: 脳神経科学とマーケティングの間に棲息

渡米して最初に思ったこと(1) - 自由の本質、、、at your own risk (人のせいにしない)


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @New Haven, CT (ちょうどアメリカに行って間もない頃の写真です)


週末メールフォルダーを整理していたら、思いがけず、自分がアメリカに旅立って間もなくという11年あまりまえの夏の日の思いを綴ったメモが出て来た。


当時ブログなどなく、何しろインターネット人口が日本全体で、今の15分の一、まだ五百万程度という時代だったということもあり(家ではほぼ100% dial-up:速い人で56kの時代)、友人、知人でネットのメールアドレスを持つ人にメルマガ的に配信していたものだ。


何通にも渡って、日本をほとんど永遠のつもりで飛び出*1、感じたことを綴っているのを見て、何とも気恥ずかしく、しかし、心を再び新たにさせられた。こういう効果があるから、写真もこんな日記のようなものも価値があることが分かる。

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で、そのメモの話。


そのメモを見ていて気付くのは、とにもかくにもアメリカの自由とその裏側にある厳しさ、突き放したようなドライさに自分がうたれていたことだ。そこに日本との根本的な違いを感じ、また、アメリカに来たことの価値と、覚悟を感じていたことが分かる。コメントを挟みつつ紹介したい。

こっちに来て車に乗ってみるだけで、at your own riskというのを実感する。死にたければ死ねばいいし、人に迷惑を掛けるな。ルールを守るのは取り締まられるからではなく、自分が死にたくないし、嫌な目に遭いたくないからというのが徹底している。一人一人の個人の自由(権利)と責任が日本とは比較にならないほど強い。これが社会のすべての面で効いてきている。基本的な価値観が日本とはあまりにも違うので殆どの人は戸惑うと思う。僕はとても気持ちがいい。甘えに満ちたあの日本の感覚が全くないから。


これは今でもアメリカに行くたびに感じること。そしてアメリカに到着し、クルマに乗った瞬間に深く実感することでもある。

まだ20代で、仕事を四年半ほどもして、でもこんなところできれいにまとまっちゃダメだ、と思って、そこまで積み上げて来たものを全てご破算にして、やって来たときの文章なので、その辺りの、不安と気負いを共に感じる。

日本においては「(あなたの状況や気持ち、何故そうなったのかという理由や背景が)わかる、わかる」という感覚の共有度の高さが仲の良さの指標になっている。非常に同質な部分を大切にしている。同質性が人と人のつながりの接着作用を担っている。それに対して、アメリカでは人と自分が違うのは当たり前だから、むしろ自分にないものを求めて付き合っている部分が多いのではないかと推測される。この辺は、これからの経験で要検証だけど。


よく日本である議論に「個人の自由」は同時に「個人の責任(義務)」を意味するのに、なんだか個人の権利だけが妙に主張されて、責任(義務)が取り残されている、というのがある。僕はこの議論で出てくる責任という言葉が悪いと思う。実際は自分の決断したことの結果の持つリスクを考えて行動しているか?ということに尽きる。行動の結果うまれるいいことだけが自分のもので、悪いことは人のせい、運が悪かったでは、虫が良すぎる。世の中/人生をなめるな!と思う。多くの人が他人まかせで生きていて、自分でリスクを取って行動しない。実際は自分の行動に繋がる決断のすべてが、賭であって、そのリスクも果実も自分が採るんだという認識がない。非常に自分の人生に対して適当だし、無責任な態度だ。もっと人生に対してcommitしろといいたい。人に考えさせるな、人の意見を自分の判断代わりに聞くな、自分の人生を人におぶらせるな、と言いたい。もっと日本人、あるいは日本を構成する人全体がmatureになって欲しい。


何を引き受けたら自由を持てるかというと、僕は(自分が何かを決めているときに)決断をしているという認識、決断をする勇気、決断をしたことを引き受ける責任感だと思う。この三つのすべてが日本の社会では大きく欠落している。そうして周りのなんとなくこれだよね、という価値観に引きずられて、それに流されることがbest decisionだと思っている。言い換えれば、集団の嗜好の最大公約数を基に判断している。だから、画一化するし、みんな同じ人生を歩きたがるし、結果エキサイティングな人生にならない。みんなリスクとってよ。土井先生の甘えの社会は変わっていない。


世の中に対して言いたい放題だが(笑)、まあこの辺りは若さということでご寛容いただきたく、、、リスク論については、だいぶこの10年あまりで日本も変わって来たのかな?

ただ大胆にリスクをとって人のとらない道を選ぼうとしない、自分に自信のある若者が、より素敵な未来に対して大きく賭ける人がいそうでいないのは今も同じ(そもそもそれだけ深い自信のある人がいない?)。ネットバブルのようなこととか、外資ブームとかで一斉に動く人が東大、京大生といえども多いのを見ているとまだ根が変わっていないことがわかる。この辺りは、ココまでのエントリ、たとえば『青年よ、狭き門より入れ』辺りを読んで頂いた方にはある程度同感して頂けるのでは?

このときもそうだったが、リスクをとらないと面白い人生も多くを得る人生もないなというのは、今になって同世代から見ると逸脱した選択ばかり繰り返して来た僕としては思う。ぜひ若い人たちには(僕の世代に対しても)、そして自分に対しても自分に賭けることを続けてもらいたいなとは思う。


で、続くのが、まさに最近の大統領選と、総裁選、そして総選挙のことを言っているのかと見まがおうかという感じのリーダー論。

日本のような集団判断の中で生きていれば、自分に責任があるとは思えなくなるし、あまり考えなくても誰かが考えるから楽と言えば楽。でも、必ずその判断を集団としてしなければならなくて、誰かがコミットする必要がある。その辺がババの引き合いみたくなっていて大変醜い。こういう勇気を取って引っ張っていくリーダーシップに全く敬意を払わないのはこの問題の象徴だと思う。従って、日本では人の意見をうまく集めてきて、公約数を作るのがうまい人が人の上に立つことが多く、アメリカでは原爆のボタンを預けてもいいほどのコミットメントと責任感がある人が国のリーダーとして求められる。派閥の長じゃアメリカじゃ食っていけんよ。まあvice-versaだが。


なかなかいいことを言っている(笑)。この辺は今もほとんど変わっていないようだ。

今になってみて見ると、日本がなぜこんなリーダーシップで動いているのか、その良さも必然性もある程度は分かるが、このときの僕はかなりフラストレートしていたことが分かる。今でもあまりウェットなのは好きではないが、このいいっぷりが何とも言えず、可笑しい。


この上で、この一本目の稿の結論的な部分に入る。

とはいうものの、やはり人間というのは自由な状態を怖いと思っているし、コミットしすぎるのはなるべく避けたいというrisk-averseな面を本質的に持っている。それを深く掘り下げて指摘した最初の本の一つである『自由からの逃走』はもっと若者達に読まれるべきではないかと思っている。これを青春時代に読むと読まないでは、何か大きく違うはずだ。


ここで引用しているフロムの本は、僕が10代の頃読みふけった青春の書の一つ。この本は僕も久しく読んでいないが、また読んでどう感じるか見てみたい。もし読んでいない人がいればぜひこれはオススメだ。

日本では大学のサークルでめちゃくちゃ高いお揃いのジャージを作るなど同質性の強調に非常に金を掛けている。一方アメリカでそういう学生はまずみない。この同質性への執着が日本の活力を削り取っている可能性は高い。しかしながらよく言われるように、異質なものを受けとめる寛容性を持たないのが問題と言うよりも、本質は無責任さというか、甘えに満ちた生き方だとおもう。リスクを認識しろ、平和ぼけはもうやめろ、自分で考えろ、というところか。

この辺りは、だいぶ変わって来たのかナ?ただ昨日の夜、渋谷のマチで見ている限り、トレンドははるかにワイルドであるものの、やっぱり同じ格好をしている人が主なのは、なんというか『ユニフォーム文化』が相変わらず強いのではないかと思う。

結局のところ、自由とは「どういう判断をして、どういう向きのベクトルへ向かって行動しても良い」ということだと思う。それには常にリスクが付いて回るし、それを認識せず行動するのは単なる無謀さと言わざるを得ないし、自分のやることに対する責任感のない無責任な行動とも言える。リスクを認識し、それをも引き受ける勇気を持って行動したときにはじめて人は本当の自由を得たと言える。


若さというのはこのリスクが怖くないということでもある。だから大きな一歩を踏み出せるし、時には大きな飛躍を生み出せたりもする。その反面大きな失敗も起こるし、それが許される時期でもある。この時期に正しくリスクと責任を認識した上での自由を得られず、得ようともしない日本の状況は大きな問題だと思う。


殆どの人はセックスがテーマだとしか思っていないマンガに「ゴールデンボーイ」というのがある。これは、かつてBe Freeを描いた人の作品で、現在もスーパージャンプか何かに連載中だけど、人の欲望というものを的確に捉えている。また、主人公(大江金太郎という)は一つ一つ自分の足で立って悩みながらも物事を判断して成長していくある種のビルドゥングスロマンでもある。非常に非日本的で、日本の仕組みとの戦いのようなものが大きなテーマになっている。これは僕の好きなマンガの一つでもあるけれど、現在若者に大変人気のあるマンガでもある。それはこの人の画風が今風であるだけでなく、自由や自分の判断から逃げたがる人間の本質をテーマにしているからではないかと僕は睨んでいる。一度、読者諸兄姉も機会があれば読んでみるとよいのでは。マンガとしても面白いし、少なくとも僕にはためになるマンガだ。


というようなことを(考えていることのほんの一部ではあるが)考える。


何とも言えず気恥ずかしいが、この若さがあって、今があるんだと思うと、このときの思いは大切にしなければ、とも思う。また、自由とかat your own riskという側面に関しては、そうとう力強い「気付き」があったんだなあと思う。


こういう深い自分への方向性を与えるから異質との邂逅、出会いを避けてはいけないなと思う。行き詰まったときには、まず自分を出て外に触れてみたい。発明王豊田佐吉翁の「障子を開けよ。外は広い」もこの精神だろう。


この間からのエントリの延長で、留学などのことでパーソナルな相談などにのることが何度かあったので、たまには、こんなエントリもいいかなと思い、ちょっといくつかのその当時のメモを出来たら載せていこうと思います。



ps. 週末一度as isでアップしましたが、恥ずかしすぎておろしてしまいました。ただ、一気に多くの人が見に来ていることが分かり、再アップしました。恥ずかしすぎる気持ちになったらまたおろすかもしれませんが、ご了承ください。(明朝、皆さんのリアクションをふまえて判断します。)


ps2. 背景説明としては、上にもありますが、四年半ほどプロフェッショナルファームでかなり徹底的にしごかれたあと、再度サイエンスに戻って、学位を取りに米国に移ったときのことです。アメリカのresearch universityの自然科学分野には修士課程というものはほぼ全く存在しないので、Ph.D. programに入る当時のものです。


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*1:この辺りは、MBA留学の人とか、ポスドクで来ている人とはかなり異なる覚悟、、、師匠の大石先生 [現かずさDNA研究所所長] からも、本当にサイエンスで身を立てようと思うなら、先生ご自身の実体験から、親の死に会えないぐらいのつもりで行けと言われたものだ