(書評)『真理の探究 - 仏教と宇宙物理学の対話』


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII @Flagstaff, AZ


これ以上、ディープなテーマの本を探すのは困難だろうと思われる一冊。世界的な理論物理学者である大栗博司先生と、仏教学の泰斗である佐々木閑(しずか)先生の対話。

年末ぐらいから少しずつ読んできて、途中で全く関係のない『サピエンス全史』とか再度読み始めてしまったり*1、全く別のことにハマってしまったりしたためにようやく読了。

『真理の探求』というタイトルがやばすぎて、机の上をふらっと見た人に「遂にその道に、、、(絶句)」的な反応を示されることが多い本でもありました*2。そういう意味で魔除け的な効果があるのがオススメポイントその一です。笑

対話形式なので、双方の先生の質問がまた理解をぐっと深めてくれます。

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比較的冒頭に、双方から突き詰めた結果、どちらの立場からも「人生の目的はあらかじめ与えられているものではなく、そもそも生きることに意味はない」という衝撃的な結果が語られる。

科学の方法が、宇宙に意味がなく、人間にはあらかじめ目的が与えられていないことを明らかにした(p.33)

僕も心の底からそう思うので、全く同感であるが、このことを受け入れられる人はかなり少ないとは思う。とは言うものの、「そんなgivenな意味はないのだから、意味を与えるのは自分だ」と思って生きることは大切で、このことを若くして気づくかどうかで人生の重さは遥かに変わると思う。

いま手元にないので、30年ほど前に読んだ記憶だけで書くが、アウシュビッツを生き延びた心理学者 ヴィクトル・フランクル博士の手記である『夜と霧』のなかでも、「生きる意味がはじめからあるのではなく、生きる意味はお前が与えるようにお前の生命が求めているのだ」「生きる意味はあるのではなく自らが自分の意志で与えるものなのだ」という気づきがあったとおぼろげに記憶しているが(涙を流しながら読んだのにこの程度しか覚えていないのが私の情けないところ)、、これと全く同じ結論だ。

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今やかなりの数のベストセラーを書かれている大栗先生のことを知っているこのブログの読者は多いと思うので簡単に書いておくととにかくすごい人です。どんなハイエンドの物理のことも大栗先生にかかるとまるで絵本のような容易な文章で語られる(大栗先生自ら描かれるイラストがまたすばらしい)。2012年にTEDxUTokyoの一回目が行われた時に一緒にスピーカーとして立たせていただいた時以来のご縁で親しくさせていただいている。これ以上ないほど明晰。明るく、パワフルで元気で、子供のような純粋さを持たれているステキすぎる方です。

間違いなく、世界を代表する理論物理学者の一人。科学の聖地Caltech*3の理論物理のヘッドでもあり、我々のような門外漢への現代最高の物理世界の啓蒙者の一人でもあります。いつもは一テーマで一冊、それでも平易でよくこんなスペースに収められたなと感嘆しますが、この本では各章がもうその一冊分の世界。ちなみに第一部のタイトルは「宇宙の姿はどこまでわかったか」。ホーキング放射と因果律の破綻などシンプルで深い話も盛り沢山。

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佐々木先生は不勉強ながらこの本で知りましたが、なんと京大工学部のご出身(!)。理屈で仏教を突き詰めて仏教徒ではなく仏教を信奉されている(仏教の信奉者)というお立場。このようなバックグラウンドで研究されてきた話が面白くないわけがなく、ヤバイです。

一例を上げると佐々木先生は輪廻なんてないというか信じていないという衝撃的なことがサラリと語られる。

二千五百年前のインドでは当然の社会理念であった輪廻も、現在の日本人にとっては社会通念ではないので、私たちはそれを土台にすることはできません。私自身、輪廻は信じておりませんから。(p.93)

科学的に考えればたしかに物質は体になったり空気になったり石になったりと色々変転しているものの、それらは一旦ばらばらになって別の物体だとか数多くの個体に分かれてしまうわけで、たしかにです。

このあたりから始まり、いまの仏教と日本で信じられているものはそもそもブッダ仏陀)が教えたものとはかけ離れており、我々が仏典のつもりでお経として日本で読んでいるものはブッダその人の教えでもなんでもないこと、大乗仏教はどこから出てきたのか自体が実は謎であること、大乗仏教はかなり一神教に近づいた考えであることなどが読んでいるうちにどんどんわかります。

最後の最後には、大乗仏教の起源まで解明された話が出てきます。(このテーマ自体がハア?それってイシューなの?と思われる人が多いかと思いますが、これ自体がとんでもなく興味深いテーマだということが分かることもこの本の面白さの一つです。)

これまで大栗先生のご本は大部分目を通してきたこともあり、今回驚いた話はかなりが仏教絡みでした。大栗先生がいつもの明晰さでズバリと聞きづらいこともきっちりと切り込まれていくだけにその見え方がより明瞭になっている効果は絶大。

深層心理学とか宗教について色々興味を持って調べたり考えたりした若かった時以来、久しぶりにストレートに向かいあいました。

  • 仏法の基本原理、三法印
  • 四諦とはなにか
  • 三蔵とは?(そうあの三蔵法師の三蔵です!)
  • グローバルスタンダードとしての三宝
  • 釈迦オリジナルな仏教の本質

など面白すぎる話題が盛り沢山。三宝周りの話など面白すぎて、この間、政府系のある委員会でもついこの本でお聞きした話をお話したら委員の皆さんもばかうけ

「意識を失った人」は実は「意識だけがある」人(p.121)

という話も面白すぎますし、これに続く自由意志についてのお二人の対話も実に深妙。

時間とは「刹那」の単位で変化する現象の積み重ね(p.124)

という話を読んだときは、ユクスキュルの名著『生物から見た世界』の話に思いを馳せ、頭がグルングルンともう大興奮。(この本には生物によって時間の流れや世の中のみえ方が全く違うことが具体的な事例から出てきます。)

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人が世の中、生の意味に向かい合うということは何を意味しているのか、そして生きるということについて思い悩むことのくだらなさというか本質についてガツンと向かい合いたい、そんな方は手にとって頂ければかならず何らかの気付きがあると思います。

この本が生まれた瞬間に日本に生きていることを感謝したくなる、そんな本でした。


*1:話はずれますが、先日とある対談でも触れたとおり、これも絶対に読むべき名著です!

*2:僕は全く読んでる本にカバーとかかけないので

*3:California Institute of Technology,カリフォルニア工科大学学部入学生の数は一学年でわずか235人程度。卒業するのはその3分の2。世界で最も賢い人の集まる大学と言われる。世界の大学ランキングでもよくHarvard、Oxfordを抑えて一位になっています。

棺(かん)を蓋(おお)いて事定まる


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII, Manchester Village, VT, U.S.A.

人の功績は死んだあとに初めて正しく判断される、人の本当の価値は死んだあとにはっきりする、との意。

先程、この数週間、たまった新聞をざっとみていたのだが、2016.11.29の日経「春秋」欄で久しぶりにこの言葉を見て本当に心に染みた。キューバカストロ議長の死を受けたコラム記事だった。

この1〜2年、突然、国だとか、大学、学会などのパブリックな仕事が増えて、本当にこれが価値がある時間の使い方なのか、このまま生きつづけることが自分にとって正しい人生といえるのか、をこれまで以上に考えることが増えてきたからかもしれない。*1

「晋書」劉毅伝の言葉という。人生の後半に差し掛かり、この言葉を思う。

このところ大学で講座を持つようになって、人生の様々なことに立ち向かう実に真摯な学生の皆さんの思いに直接触れることが増えた。

僕の講座は他の先生達とは多分ちょっと違って、理解度と満足度、そして質問とコメントを毎回アンケート的に尋ねている。そしてそれをもとに次週の講義を組み立てる。ほぼ必ず冒頭に本日のpick up questions/commentsという形で、これはこのまとまった数の学生に伝えるに値すると思うものを拾って答えている。

質問やコメントの多くはもちろん、授業で触れた話であるとか、それについて感じたことが大半なのだが、1割程度は世の中や人生についての悩みというかコメントだ。

曰く

  • 未だにデータに理解を示さず、感覚やカンでビジネスをする人は愚かだと思いますか?
  • データに逆らうことは愚かですか?厖大なデータに基づく適性検査をしたところ、志望している職業が不向きであると診断されました
  • 経営人材とはどのような素養を持つ人物ですか?
  • 今、転職しなければならないとなった時、どんな基準を大切にしますか?
  • 力の差を感じるようなすごい人にあったときに、努力という名の自助論で克服できるものなのでしょうか?

などだ。

これはこれで、僕に人として向かい合ってくれているという意味でとてもうれしく、ありがたい。頂く質問は膨大で、必ずしも対応できないが、できるだけストレートに向かい合うようにしている。

大学に限らず教育というのはスキルを教える前に、人を育てるものだ。僕はたまたまデータドリブン社会で生き延びるためのスキル教育をしながら、「どのように生きるのか」の一つのすがたを伝えているのだと思う。

自分自身、何人かの恩師に本当に大切に育ててもらったが、思い出すのはもちろんサイエンスの教えもあるが、先生の生き方であり、先生と話したやり取りから自分が気づいたことばかりだ。

その中で最近、聞かれた質問の中にこういうものがあった。

  • 先生に宿る超強力なエンジンパワーの源泉を教えて下さい。何がモチベーションになって、弱気になったときのリカバリーが出来るのでしょうか?

という内容だ。

僕の答えは、

  • 投下しているリソース(時間、エネルギー)に見合った変化、バリューを生み出さないと気持ち悪い、、、毎日を勝ち抜く、いいものにする
  • 未来の自分から見た時にあとあと悔いのないように生きる
  • 本当にやりたいことをやる
  • 意義を感じることからやる
  • 疲れたら休む
  • メリハリを大切にする
  • 色んな人と合う
  • バディを増やす

というものだった。実際その通りに思って毎日生きているのだが、このことは今、晋書の言葉を見て、さらにもっとちゃんと生きたいとそう強く思った。

つい目先の名誉とかお金とかそういうものに流されそうになるのが人間だが、そうではなく(それもある程度は大切なものではあるが、、)、もっと大きな目で今何が意味のあることなのかという視点を持って常に考えなければ、そんなことを思った夜でした。



ps. LINEをここまでの存在にし、そして今はC-channelを率いられている森川さんと先日対談した内容が含まれた本が出ました。僕のはともかく、森川さんと予防医学者の石川善樹さんや、ペッパーの開発者である林要さんとの対談はもう必読。僕に印税が来るわけではありませんが(笑)、よかったら手にとって頂ければうれしいです。

ダントツにすごい人になる  日本が生き残るための人材論

ダントツにすごい人になる 日本が生き残るための人材論

*1:余談だが、かなり以前もこの言葉をはっと思ってメモをしたことがある。その時も変換で苦しんだが、今回もちょっとした大変さだった。笑

AIはイデアである


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII @Putney,VT, USA

ほとんど毎日のようにAIに関する委員会であるとか講演であるとか討論会に出て、繰り返しAIと呼ばれているものの実態について議論してきたがなかなかうまく多くの人に落ちない。

なぜだろうと思ってきたが遂にわかった気がする。

AIなんて具体的に確定したものはないんだ、AIはイデアなんだ、ということが多くの人に理解されていないのだ。AIは「ルビー」と言うような石であるとか、「東京」のようなわかりやすい確定的な実体を伴う概念とは違う。人の心の中にしかない概念だ。技術革新でAI的に実現しようとしてきたものの多くが急に可能になっているということと、確定的な実体を伴うものであるということが混同されているのだ。

AI(Artificial intelligence : キカイやソフトウェアによる知覚や知性の実現。Machine intelligenceとも言う)は人間が目指している一つの目標であり、そこにおける計算機や自然言語処理機械学習、音声処理などのアルゴリズム、それを実現するための膨大なデータは手段である。方法は問わないから、目指す機能を実現しようとしているというのが技術側から見ている実態であり、こちら側(作る側、構想する側、サービスを提供する側)からしてみると自明なことである。

この最も本質的な部分が何度話しても理解されず、そのような実態だということが受け入れられないところに多くの人の理解の困難があるように見受けられる。

今となればクルマ(自動車)というのはほとんど自明的にシャシーがあり、そこにガソリンか電気で動く駆動装置(エンジン、モーターシステム)が乗っていて、そこの上に座席、包み込むアウター(普通に見えるデザイン部分)があるものと多くの人が理解しているが、これとてもつい150年前に遡ればほとんど単なる概念であり、それが何を意味しているのかよくわからなかったのと同じだ。

飛行機もそのとおりであり、コンピュータなんてまさにそうだ。なので米軍機のオスプレイのように飛行機における新しい浮上、離陸のあり方は常に研究され、計算機の世界でも量子コンピュータ、Neural network*1のようなノイマン型ではない情報処理のあり方も常に研究される。

あくまでAIはイデアだということを理解しない限り、日本のこの議論の方向性はおかしなところに行ってしまうと思うのは僕だけだろうか?


(参考文献)
以下の本では松尾先生の論文に加え、AIの限界について整理してしている拙稿も紹介されています。

人工知能―――機械といかに向き合うか (Harvard Business Review)

人工知能―――機械といかに向き合うか (Harvard Business Review)

松尾先生の名著

*1:とは言うものの、現在のところ、実態としてはノイマン型の計算機で動くソフトウェア上で強引にエミュレートしていることはご案内の通り。これを石(半導体)に変えようという研究、開発はかなり熱くされている。

知らず知らず僕らのエゴと気配りがこの国をbehindにしている


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII
Shelburne Museum, VT, U.S.A.

アメリカやヨーロッパの街に旅行にいくたびに思うことがある。それは彼の国々の街の多くは美しく、東京や日本の地方の街の多くは見苦しいか、味気がなく、乱雑ということだ。以前話題になった「世界の都市を東京ぽくしたら、、」も引きつりそうな黄色い笑いを生むようなところがあった。今日はそこの深因の一つが、我々の未来にも影響をもたらしているのではないかという話。

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先日、ドローンだとか自動走行についてのブレストを知り合いの某中央省庁の方々としている時にちょっとした気付きがあった。

これらの時代に向けて一体どんな整備が必要かみたいな話をしていたのだが、その時に「なぜ世界に冠たるはずの日本のクルマメーカーの自動走行のロードマップがグローバルの競合メーカーに比べてこんなに足が長いのか?」(つまり完全自動走行になる予定のタイミングがどうしてこんなに遠いのか?)という話がでた。具体的に言えば、だいたいドイツや北米の会社は2018や2020までに実現するといっているのに、日本のメーカーは少し前は2028、いまプッシュしても2025ぐらいだというのだ。

で、僕が言ったのは、「これはちょっと誤解があると思う。日本のメーカーの技術力は高く、独米に並ぶか優っているとしても負けているわけではない。これは前提になっている道が違うんだ」、と。

僕の向かいの方ははじめきょとんとしていたので、次のような話をした。

トヨタやホンダ、あるいは日産だってアメリカの高速道路をただ自動走行すればいいだけなら、今だっておそらく可能だろう。そしてアメリカの下の道やドイツのアウトバーン、英国のM(高速道路)を走るだけであれば、おそらく独米のメーカーよりも早く実現が可能だろう。でも、こと日本の道を想定すると2025とかになってしまうんだと思う」、と。

あまり知られていないが、自動運転車にはかなり苦手というか今のところ答えがうまく見つかっていないことがある。それは道が狭すぎるようなところでのすれ違いだとか、やり取りの仕方だ。

よく世田谷の方とかに、本来、双方向通行することが物理的に不可能なのに、標識上は双方向可能な道がある。こんな道を向かい合うクルマで通り過ぎるときは、向かいのクルマに乗っている人との表情や身振りによるやり取りで、本来クルマが通ってはいけない人の家の敷地とかに乗り上げたり、場合によっては5メートルとか10メートルバックしたりしてこれまた本来道ではないところ(人の所有地)を活用したりという、かなり難しい譲り合いをしながら通り過ぎる。僕もよくクルマを運転するが、前から来ているクルマのドライバーが肝っ玉母さんみたいな女性とかだと、手であっちに寄れとかと言われて、もうこちらが気迫に負けて、なぜか一方的に頭を下げて道をゆずることはよくある。(笑)

しかし、こういうことは自動運転車にとって極めて難しい。何しろ人の家の敷地を走るというのはそもそも正しくなく、自動運転車は相手の人の表情だとか気迫を読むのもかなり困難だからだ。なので、今のところそういう状況になったら自動運転車は止まってしまう。判断できなくなってしまうのだ。

またアメリカなどでさんざんドライブした旅行から東京に戻ってきて気づくこととしては、東京の道の白線を完全に守ると事故しそうになることが多いことだ。道幅が狭すぎるところに無理してギリギリで線を引いているために、自転車がいたり、いわんや路駐などが行われていたらすぐに機能しなくなるのだ。これも自動運転にたいする潜在的な阻害要因の一つであり、同根の問題といえる。

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ここまで考えると、日本のクルマメーカーのロードマップの足が長いのは、よく考えると当然のことで、これはクルマメーカーの問題では無い。我々の国の道の問題なのだ。そしてこれを更に掘り下げて考えると、その土地の利権者とかがいるというだけの理由で、公共の道なのに非合法な通行をしなければ通れないような道幅の道が多く出来てしまっていることにある。本来、双方向通行を安全に行うために必要な道幅を確保できないのに、住民の声で道を通す。なのに住民は自分の利権は守ろうとする、そして国や自治体はそれに気配りして変な道ができる、、、この繰り返しがこのような道を大量に生み出してきた。

その道を通した頃は自動車があまり走っていなかったからという屁理屈は、道幅に手を入れると価値を失うようなヨーロッパの古い町並みでもない限り通らない。それは世界中そうなのだから。それでも1000年近い歴史を誇る大学町Oxfordのようなところに行ってもそんな細い道は少ない。2000年以上前から続く街のRomaだって、そんな道は少ない。クルマが通るようになったら利権者も本来手放さなければいけない利権があるのだ。そう日本の自動車メーカーの自動運転ロードマップを阻害しているのは実は日本の個人のエゴの集積なのだ。知らず知らず僕らのエゴとそれに対する気配り、対応がこの国をbehindにしている。

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これと同じような話がドローンでもある。

僕の会社のオフィスはたまたま港区の割と中心的な場所にあるが、窓から外を見ると驚くような風景が広がっている。そこは日本で指折りの土地の価値を持つエリアと思われるのだが*1、なんと平屋だとか、わずか数階しか高さがない建物がかなりの数存在し、それ以外の鉄筋の建物も、高さがマチマチで、しかも幾何図形のように変に辺が切り取られた建物が多い。その中で群を抜いて高い建物が時折にょきにょきと立っていたりする。しかもそこら中に電信柱と電線があるという、、。

このような状況の街で自動運転のドローンを飛ばそうとすると、平面地図だけではダメで、少なくともどこまでの高さの建物がそこに立っているのか、どこに人が住んでおり注意を払うべきとかという3D的な地図、実際にはビル風の強さの情報だとか、時間帯による違いを含め、4D、5D的なデジタル情報地図の整備が必要になる。大変だ。

これがパリだと中心部の建物の最上階に上がったことがある人はわかっていただけると思うが、高さがほぼ完全にフラット。エッフェル塔ぐらいしか高い建物がないので、ある所定の高さをドローン用(自動運転版の『魔女の宅急便』のイメージ)に指定して、ただ飛ばせばいいだけだ。ニューヨークのマンハッタンでも、だいたい地域によって高さが揃っているのでこの問題は少ない。でも東京の場合はもうめちゃめちゃなので実に厳しい。これも街の利権者とか、建ぺい率だのみでまちづくり規制がうまくできていない問題だ。もちろん東京も銀座の中央通りのように31mの高さの制限がもともときっちりあってものすごく揃っている場所もあるが、銀座自体が運用がゆるくなっているぐらいで極めて例外的だ。


Contax T2, negative film, Paris

これらの問題を解決するのはある種、気合の問題であり少々時間はかかるが簡単に思える。もう30〜50年かけて東京を綺麗にするつもりで(2020の次のオリンピックを目指し)高さ制限をきっちりかけてしまうのだ。よほどの商業地区以外、高さ制限は昔の銀座のように基本31メートル(百尺)にするとかで。建て替えは容積率に関係なくその高さまでで行うことにする。以上。笑

道も一方通行なら3メートル、双方向だったら6メートルの幅がなければクルマを通さない、通すときは利権者は土地を吐き出すことにしてしまう。国や自治体は、個別の事情に対して、過度の気配りを止める。これをやれば道の刷新自体が自動運転時代に向けた新しい公共事業にもなる。ついでに雪の時などのために道のヘリに電子的なシグナル源でも埋めておけばいい。

このように過度のおもてなし(慮り、気配り、配慮)が日本の未来を阻害している。個々の人たちのニーズに耳を傾けすぎて美しくなくなってしまった日本に江戸時代級のdisciplineを埋め込むことで、ビシっとすることができれば冒頭のパロディも起きなくなる。

いかがだろうか?

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と、こんなことをこれまた別の集まりで雑談的に話をしていたら、それ笑いごとじゃないですよ、と日本屈指の重電会社の方が僕に言った。聞くとその会社の風力発電の設計はクライアント、案件(!)ごとに個別にこまごま仕様を作っているので、一斉に手を入れたり、メンテをすること、データの取り込みを一気に触ることができないというのだ(?!)。一方、彼らの競合のGEの仕組みだと世界中のどの風力発電の同じ仕様をベースにしており、データの取り込みなども一律で手を入れられるのだと、、。となるとこのように個別の事情に対する気配りのために、共通の枠組みを作れないことは、もう国民性の問題と言える。

戦後、日本はこのように顧客だとかユーザの声をひたすら聞き続けることで発展してきた。ただ、この態度によるover customization、過度のおもてなしが見苦しい街を作り、自動運転やドローンを阻害している。世界標準的に「この街に住むならこれを受け入れよう」というルールを利権ではなく、筋ベースで作り、徹底する時が来ているのではないかなと思うが、みなさまいかがだろうか?


*1:実際に僕の働くビルは50階ぐらいの高さがあり、上層階には海外からの超高級ホテルが入っている。噂では同じ敷地の居住用の建物には有名タレントが多く住んでいるという

不屈の棋士


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII
Putney, VT

この二年ほど、年中同じ問題について手を変え足を変え尋ねられる。

「AIがこれ以上進化してきたら我々の仕事はどうなるのか?」

、、と。これについての僕の答えは常に一貫していて、そんなに心配する必要はない。AIは我々の仕事をまるごと置き換えることは、かなり未来まで当面無い。AIなりデータは我々を劇的にアシストするようになる。これから本当に起きるのはAIと人間の戦いではない。データとアルゴリズム、そしてコンピューティングパワー*1を活用する人と活用しない人の戦いになる。使わなければ、使っている人(あるいは企業)の圧倒的な力に負けるだけであり、使えば、これまでに不可能な付加価値を生み出すことも可能になる。なぜなら、これまで手をかけなければ出来なかったあまりにもtediousなことが可能になってしまうからだ。例えば膨大な映像からの必要な情報の抽出であり、雑草の自動草むしりによる完全な有機栽培の実現であり、ソフトウェアやシステムレベルの脆弱性の発見や修復などだ。

この理解については東大の松尾先生、ソニーCSL所長の北野先生や、千葉工大の古田先生、日立の矢野技師長など、多くの第一人者的な方々と話をしてきたが、どの方も異論はない。ただ、不吉なことを騒ぐことが好きな人間の本能がただ騒ぎ立てているように見える。まるで90年代後半のノストラダムスの大予言に騒いでいた人たちに似ている。 :)

これ系の議論の発端は3年前にオックスフォードから出た、「米国では半分近くの仕事がリスクにさらされる」という有名な論文だが(ほとんどこれをなぞったような話が日本の野村総研からも最近発表された)、この後、私の古巣のマッキンゼーが持つシンクタンク機能であるMcKinsey Global Institute (MGI)*2 の精査により、実際にまるごとマシンに置き換えられてしまう仕事は5%程度しかないことが発表された。やはり、である。

ということで冒頭の問題は気持ちはわかるが、ある種愚問と言い切っていい問題だ。

、、大半の人にとっては。

僕がかつてその一員であった科学者、経営コンサルタント、あるいは、数学者、弁護士、医師のような知的プロフェッショナルの世界もかなりのリスクにさらされていると考えられているが、実際には、上と同じ話でそうではなく、劇的な変化から生まれるチャンスを使い倒す人と使わないで滅びる人たちに分かれるだけだ。

昨年Diamondハーバード・ビジネス・レビューにまとめた論考に書いたとおり、

  • 我々の体を使って知覚し、部分的、そして総合的に評価すること
  • 意思、目的意識を持ちゴール設定すること、
  • コンテキストを踏まえ、大胆で解決に値する問いを立てること、
  • 状況や問題を見立て、構造化すること、
  • 意思決定すること、
  • 前例の少ないことや異常値に対応すること、
  • 人の分かる言葉で話し、人を奮い立たせること、

などは、人間の仕事として残る。これらの組み合わせである、デザインすること、日々のプロジェクトマネジメントなどは典型的だ。

しかし、そうとは言っていられない人たちがほんの少し存在する。それがこれまでキカイとは程遠い世界にあり、キカイが使うことが許されないルールの中で戦い、人間の知力の限界を象徴してきた「棋士」と呼ばれる人たちだ。将棋棋士囲碁棋士である。

彼らの立場は同じ知的産業の中でもサイエンティストのように膨大なコンピューティングパワーやデータ、アルゴリズム・ソフトウェアを酷使して発展してきた世界とは根本的に異なる。遺伝子の組み換えであろうと、神経の信号のレコーディングや解析であろうと、はたまた素粒子実験の解析であろうと、計算力とアルゴリズムの力なしにはもう決して進まないところまで現在の科学は来ている。

囲碁の世界では、AlphaGoと魔王とまで言われたイ・セドルの対決、その結果については多くの方がご存知だろう。その隣の世界である将棋棋士の方々が自分たちの職業が置かれている状況をどのように見ており、そしてどのように今後なっていくかと考えることは実に興味深い問題だ。

これをトップ棋士である羽生善治さん、渡辺明さん、森内俊之さん、佐藤康光さんはじめ、電脳戦に於いてソフト(データとキカイ)と対決してきた棋士、深く関わってきた棋士の方々に徹底的にプロの将棋観戦記者である大川慎太郎氏がインタビューした本が出た。『不屈の棋士』だ。

本の帯には、<人工知能に追い詰められた「将棋指し」たちの覚悟と矜持>とある。

この本を読んで、なるほど、と思ったことを幾つか書いておく。

  1. 多かれ少なかれ将棋の局面の展開においてソフトの発達が、これまで人だけの戦いになかった幅を生み出しつつある、、、そういう意味でソフトが将棋そのものを進化させていることは多くの人が認めている
  2. ソフトとトップレベルのプロ棋士の力が並ぶか超えたことはほぼ常識に
  3. ただし羽生さんだけは蓋を開けてみないことにはどうかわからないと多くの人が思っている
  4. その意味で最終的な勝者がソフトの勝者と戦うことになる叡王戦に羽生さんが出場することは衝撃を持って受け止められている(現在順調に羽生さんは勝利 *3
  5. ソフトの棋譜は美しくない、読みごたえがない、人間に馴染みにくいと考えている一流棋士が少なからずいる
  6. ソフトがあることが若手(奨励会など)の訓練では前提になっている、、、結果、通常世界におけるPC世代とスマホ世代のようなある種のデジタルデバイドが生まれつつある
  7. ソフトが終盤のよみにおいて圧倒的に強いことは単なる確定事実で、羽生さんですら詰めがあるかどうかの確認にソフトを使っている
  8. プロの棋士が生き残れるかどうかの境は人間がマシンに負けるかどうかではなく、人間のプロ棋士の戦いに人間が興味を持ち続けるかどうかにある

更に具体的な内容については直接読んで頂ければと思うが、これほど直接的にこのテーマに立ち向かった本はついぞ知らない。そこに込められたそれぞれの棋士の方の思いと迷い、覚悟は多かれ少なかれ我々と同じものだ。

この様なタイミングは人類史において二度となく、おそらく歴史的に大切な第一級資料となるだろう。

我々のように、キカイの力を前提として働くことが許されるわけではない世界で戦う人たちが、どのような気持ちでキカイと立ち向かっているのか、それを通じて自分たちの未来をよく考えたい人たちに強くおすすめしたい。

*1:多くの人が漠然とAIと呼んでいるものの本質

*2:私が仕事を始めた頃に大前研一さんのイニシアチブで立ち上がった

*3:http://www.eiou.jp/qualifier/

第二回データサイエンティスト協会シンポジウムのお知らせ


Leica M7, F1.4, 50mm Summilux, RDPIII @Oxford, UK

来月13日(金)にデータサイエンティスト協会、年に一度の第二回シンポジウムが行われます。

事務局に聞いてみたところ、こちら、なんとまだ枠があるようなので、驚きつつ、ご案内させていただいている次第です。
http://www.datascientist.or.jp/symp/2015/

基調講演では情報処理学会会長、NII(国立情報学研究所)所長の喜連川先生にお話いただくことに加え、今、話題の人工知能の第一人者、松尾豊先生にもお話いただきます。

加えて、データサイエンティストのスキル要件をデータサイエンス力、データエンジニアリング力、およびビジネス力 (business problem solving) の3つの広がりそれぞれについて、詳細な100以上の詳細かつ具体的なスキルチェック項目を初めてここで発表します。こちらは文科省の方からも待ちわびられている内容で、このまま国の高等教育などにも大きく反映されていく予定です。

その他にも自動運転、ロボットで注目を集めるZMPの谷口社長、ITで日本の交通を変える日本交通の川鍋会長など充実したスピーカーが出られます。(ほかまだまだいらっしゃいますが詳しくはウェブサイトをご確認ください。Track AとBがあります。

これだけの内容でありながら、非営利団体(一般社団法人)なのでコストで提供しており2万円とほかの類似イベントよりかなりお得なのですが、なんと次の特別紹介コードを入力いただけると4千円安く1万6千円で懇親会まで参加できます。(学生の方はわずか5千円。)*1

割引コード: SHOUKAI01

ご興味のある方は是非空きのあるうちに以下の公式ウェブサイトからお申し込み頂ければ幸いです。

http://www.datascientist.or.jp/symp/2015/
(誤入力をされた場合、返金対応が出来ないそうなのでそこはご留意ください。)

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本シンポジウムでは、上述の通り、データの力を解き放つために必要なスキルをサイエンス、エンジニアリング、ビジネスの3領域いずれもチェックリストとして相当丁寧に可視化したものを発表します。

データプロフェッショナルに求められる像が明確になることで、多くの人のキャリア形成や採用のお役に立つことを願っています。通常の情報処理技術者でも情報科学研究者でもコンサルでもない広がりが理解してもらえるかと。

感覚的には物理、科学、生物学の専門家が集まって分子生物学という学問が立ち上がっていった時の話に近い気がしています。必要な知恵を持ち寄るが、力を合わせ、技を開発しないとフロンティアを切り開けない。

スキル委員会で毎週水曜の夕方エンドレスで行った(終わると大体23時過ぎ、、orz)、長く大変な検討過程で見えてきたのは、いわゆるITエンジニアの通常技術だけでは足りない、情報科学も情報系、機械学習系、データ可視化系いずれかだけでは足りない、問題解決力もコンサル的なものを超え、データ視点で持つ必要があることでした。

Palantirなどの成功を見れば分かる通り、我が国は明らかにこの領域の人材開発、事業開発においてbehindです。教育も何をどうしたら良いか見えにくい。そこに何らかの楔を打ち込められればと心から願っています。

情報科学のエッジを求められる人には物足りない内容かもしれませんが、それはWSDMなりKDDなりの場で吸収して頂ければ良い話で、この道を目指す人がどういうスキルを身に着けていくべきか可視化できればと思っています。

*1:もし取引先や販促などのためにまとまった量を購入したいということがあれば、企画委員会(c-planning@datascientist.or.jp)まで、ご相談いただければ、何らかの対応をしてくれるかと思います。

ヨーロッパは旧世界ではなく新世界だった


Leica M7, F1.4, 50mm Summilux, RDPIII @Lake District, England, UK

昨夜、パラパラと見ているとNature発の目を疑うようなニュースが飛び込んできた。

"The earliest unequivocally modern humans in southern China" Nature (2015) doi:10.1038/nature15696

ヨーロッパには現生人類(ホモ・サピエンスクロマニヨン人)は4万5千年年前までいなかったことが知られているが、アジア(今の中国南部)には少なくとも8万年前、もしかすると12万年前にすでに疑いようもなく現生人類といいきれる人間たちががいたというのだ。

ではなぜヨーロッパにいなかったのかというと、ヨーロッパにはネアンデルタールたちが大量に住んでいて入れなかったのではないかという。

え”っ??じゃないだろうか。

そう我々現代人の先祖は長い間、はじめに生まれたアフリカだけにいたのではなく(ヨーロッパにはいろうとして失敗して諦めていただけでなく)、東に伸びるアジア、そして多分南北アメリカには、ヨーロッパ入植の何万年も昔からいたのだ*1。何万年というのは、キリストが生まれてから今までの期間の少なくとも20倍、4万年以上という話だ。

ヨーロッパ中心主義的な物の見方から始まった人類学はもうコペルニクス的な展開を今迫られている。僕のざっくりとした人類史の理解の変遷はこんな感じだ。

  1. 〜20世紀前半:人類は北アフリカ〜ヨーロッパかアジアの何処かで生まれた(同時並行的にに生まれた可能性もある)。4万年ぐらい前までは旧人ネアンデルタール)がいて、そこから更に進化した新人(クロマニヨン)に置き換わっていった。なので文明もその辺を中心に生まれた
  2. 20世紀後半〜:現生人類は同時多発したのではなく、約15万年前にアフリカで生まれて他の大陸に広がった(出アフリカ)。ネアンデルタールはじめ、他にも10種類以上の人類がいたが、基本数万年前までに滅んだ。南北アメリカにも5万年前ぐらいには到着した。
  3. 21世紀初頭~:2の理解に修正。現生人類は純血ではなく、アフリカ以外の土地ではネアンデルタールの血が数%混じっている。特にアボリジニーではちょっと高め。デニソワ人の血も東南アジア周辺ではそれなりに入っている。インドネシアにも背が低い人類(フローレス人)がいたが1.3万年前ぐらいに滅んだ。
  4. 2015年10月(今ココ):アフリカを出た現生人類たちは一番近くのヨーロッパには入れなくて右(東側)に進路を取り、10万年ぐらい前にはアジアに到着した。一部は南北アメリカにも行った。主として現生人類はアフリカとアジアにしかおらず、ヨーロッパはネアンデルタールの国の時代が長く続いた。4万年ぐらい前に氷河期か何かのせいでネアンデルタールがほぼ消滅に近づいた頃(もしかしたらハイパー化した現生人類に滅ぼされた結果)、現生人類はヨーロッパにもまとまって住むようになった

もうほとんど100年ぐらい前とあべこべの世界観といえる。科学というのは本当に面白い。

こうであれば、なぜ僕が子供の頃(35年ぐらい前)は旧人ネアンデルタール)と新人(クロマニヨン)というふうに教えられたのか、そのころ旧人の何処かから新人が生まれてきて置き換わった的な言説があったのかもよく分かる。そもそも人類学が始まった頃、ヨーロッパでは古い現生人類の化石が見つからなかったからだ。なので旧人から新人が進化したと考えざるを得なかったのだろう。

この辺の話は本当に不思議でわけがわからなかったが、僕がおとなになって今に至る過程の中で、実際には現生人類(ホモ・サピエンス)はネアンデルタールと平行して生きていたことがどんどん明らかになっていった。どうやって住み分けていたのかとかというのは、ずっとなんだかよくわからなくて不思議だったが、ようやく大筋で紐解けた感じがする。*2

また、なぜ世界がこのような人口分布になっているのかもこれが背景であればもっとよく分かる。

僕が高校生の頃、学校でもらった地図帳を授業も聞かずに見ていて(笑)最も驚いたことの一つは1000年前も2000年前も、もっと前も人口の地理的な分布を見るとアジアとアフリカで半分を越していたということだった。何が起こってこんなにアフリカとアジアばかり人がいるんだろうとずっと思っていたが、これが背景であればもっとよく分かる。

『銃・病原菌・鉄』にあるような、植物種も含めた土地の豊かさの問題でこれが起きているとばかりずっと思っていたが(相変わらず大切な理由であることは間違いないが)、必ずしもそうばかりとはいえないということだ。

そしてこれを俯瞰してわかるのは、実はヨーロッパは旧世界でも何でもなくて、長い(現生)人類史で見ると、むしろ最後の最後に住んだ新世界であるということだ。そしてNative American以外にとっては(近代)アメリカがさらなる新世界であったといえる。本当の原点はアフリカ。旧世界はアフリカ、アジア、南北アメリカ。新世界がヨーロッパと中東*3。新世界2がヨーロッパ人が移住したあとのアメリカ。文字がない(?)時代に失われてしまった過去の歴史を誰かぜひ紐解いて欲しいと思う。

なんというかあまりにも愉快だ。そういう新しい土地に入っていったヨーロッパ人の先祖になった連中たちが、まるで今の企業におけるスタートアップのように過去のしがらみを捨てて、本来あるべき姿を追求した。そうするとナイルとか、メソポタミアのいわゆるヨーロッパ系の文明が生まれた。(おそらくインダス文明もそれの一つ)

古い慣習とか仕組みに縛られないアタッカーは強い。気がついたら、彼らは文化的な中心の一つとなり、China, Indiaで生まれた文明を追い越し、支配的な地位を確立。世界に出ていき、頑張ったら今のような力学図になった。そうとも捉えられるのではないだろうか。*4

なんてことをたくさん考えさせてくれて本当に楽しい週末の楽しみネタになった。

このような驚異的な発見をしてくれた中国、UK、スペイン、アメリカの共同チームの皆さんに感謝したい。

しかしなんでこれほど驚くほどの発見が我が国の主要ニュースにほぼ全く流れていないのだろう、、、不思議だ。*5



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★本エントリに関連する雑誌

デニソワ人発見の話がかなりこってり(オススメ)

南アフリカの洞窟で最近大量に見つかった頭は猿人で身体はホモ属にかなり近いという人類の話。謎だらけだけれどとても面白い。

(注:僕は人類学を正式に学んだ人間ではないので、多分に誤解、想像を含んでいます。以上はあくまで僕の執筆段階での理解であり、事実関連については何もかもを鵜呑みにされず、ご自分でお調べ、ご確認ください。あと、詳しい方がムキになるのはナシでおねがいします。そんな大人げない人はいくら何でもいないと思いますが、一応念のため。笑)

*1:南米に5万年前に人がいたという話はブログを書き始めた頃の次のエントリ(オリジナルを書いたのは2000年の夏!)をご参照されたし。http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/20080801/1217542375

*2:途中、シベリアの南西で見つかったデニソワ人とかまだ??なものもある。

*3:このNature論文で知ったがLevantというらしい

*4:実際には偶然とか色んな物が絡んでいて簡単には説明できないだろうが、頭の体操としては面白い。

*5:少なくともこの執筆段階でほぼ全くニュース的な話題にはなっていない。