時代が作った教師と学校は時代によって変わるのが当然だ


連合艦隊旗艦「三笠」の羅針儀@宗像大社 The compass of the flagship Mikasa of the Allied Fleet @ Munakata Taisha Shrine, Munakata, Japan
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW


今月の頭、武蔵野台地の南西*1にある東京学芸大学学芸大)で、『個別最適な学びに関する公開シンポジウム 第二回』に登壇した。学芸大師範学校を4つ束ねて作られたthe教員育成学校であり、東京高等師範を前身とする東京教育大が筑波大学に改組され、総合大学化したこともあり、今の日本の教育研究のセンター的機関の一つと言える。現在も卒業生1000人の半分以上は教員になられるという。学芸大副学長の佐々木幸寿先生、気鋭の大村龍太郎先生に加え、国の教育(人づくり)に関する議論の中核をなす中教審中央教育審議会)の委員を務められる堀田龍也先生(東北大)もご一緒だった。司会とファシリテーターは大谷忠先生、登本洋子先生が務められた。

www.u-gakugei.ac.jp

テーマは「個別最適な学びの時代における教育システムの課題とあり方」というべきもので、僕が3月に文部科学省の教育指導要領議論で投げ込ませていただいた話なども合わせ、自由に僕なりの視点を投げ込んでほしいというのが依頼だった。

あまりのキャパ不足で多くの講演や取材依頼をご辞退せざるを得ないような日々を過ごしているが、900人前後の教育関係者(県や基礎自治体の教育長レベルも含む)が日本中からオンラインで参加されるということであり、人づくりということであれば、未来に対する意味合いもそれなりにあるだろうと考えお引き受けをした。国交省のi-Construction議論の直後で、たしか直後も都心で会議というすき間の綱渡り的な登壇だった。

(参考)まだChatGPTの衝撃も冷めやらぬタイミングの今年3/24の文科省での僕の投げ込み資料はこちら
www.mext.go.jp

そこで僕から最初に話したのは、何ヶ月か前、とある北関東の山あいの中学校で、70名あまりの中学1~3年生に向けて質問した内容だった。

中学生の面々に対し、僕が問うたのは、

  • 君たちはどういう年齢?
  • 現在の学校教育制度、皆教育制度は世界的に一体いつ始まったのか?

という二つの問いだ。

簡単に答えられそうな後者について、皆さんもちょっと考えてもらいたい。いつぐらいだと思うだろうか?

その時、中学生たちに聞いて帰ってきた答えは300~400年ぐらい前?という感じの答えだった。別のとある女性のリーダーが集まる会で話して、これを聞いたときは1000年前という声も出た。

僕がざっと調べた範囲だが、答えは、現在のG7での最古の例はおそらくプロイセン王国(現在のドイツの前身)の1717年9月末の一般勅令と思われる*2。フリードリッヒ大王の先代のフリードリッヒ・ヴィルヘルムI世によるものだ。

ただ、これは例外的に早い。ほとんどの主要国では以下のタイミングだ。

と140-170年前に一気に始まったことがわかる。日本は諸主要国と変わらない*3ことにも気づかれるだろう。1000年前という話についてだが、それはあくまで貴族階層に対する教育の話であって、皆教育には全く程遠いものの話だった。人口のほんのごく僅かを占める貴族層についての教育はどこの国でも古い。現在に全く連ならない形としてのギリシアのポリスなど古代ヨーロッパにおける教育というのもあるが、これは自由民と奴隷で分かれているような時代なので、全く今の皆教育とは程遠い。

(また現在「大学」と呼ばれている機関はこのブログでもかつて何度か少し触れた気がするが、少なくとも欧州では相当に古い。イタリアのボローニャ大学、フランスのパリ大学(ソルボンヌ)、英国のOxfordなど本当に800-900年前後の歴史があるが、これは高等教育機関というより学究の徒の集い、ギルド、あるいは世俗から離れた隔離集団というべきものであり(これを理由に納税の義務などを免除してもらっていたと思われる)、初等教育中等教育とは全く独立に生まれたものであり、本来接続すらされていないで存在していたものだ。なので中世などで10歳そこそこで大学に入った人などが出てくる。大学の自治という概念はここから始まっている。)

約200年ぐらい前まで、日本を含む世界の大半には現在における国民国家(nation state)という概念が殆どなかった。あったのは、巨大な領地を持つ領主、領主を生む母体としての貴族層が僅かに、教会や寺社に属する聖職者階層が少し、大多数はそこにいる領民たちという関係性だ。この領主たちの盟主*4が王であった。いわゆる封建制度だ。日本も藩主という領主がいて、そこに大多数の領民たちがいたという図式は同じだ。武家政権が支配していた鎌倉から江戸までは、(秩序が崩れた戦国時代を除き)盟主はミカド(帝/天皇)から権威を授けられた将軍だった。別の藩(国)に行くときは手形が必要だった。

フランスやロシアではこの領民たちの多くは農奴(serf)と呼ばれ、ろくに教育もされなかったことをご存知の人もいるだろう。ロシアではその結果、キリスト教を布教するためにイコン画が発達した。聖職者しか読めない聖書を誰にも解き放つということをやったのが、グーテンベルクの聖書印刷に引き続く、ルター等によるプロテスタント革命と考えられる。

農奴は、精選版 日本国語大辞典 によれば「ヨーロッパ封建社会の隷農。厳密には古典荘園の農民、一般的には封建社会の大部分を占める農民をさす。領主が貸与する保有地を耕し、領主に賦役、現物地代の他に人頭税相続税などを納める。再生産に必要な生産物の取得は認められるが、土地・財産の処分権を持たず、土地にしばりつけられ、領主裁判権に服する」というものだ。

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なぜこのタイミングで学校制度、義務教育制度が一気に始まったのかといえば、これには相当に複数の伏線がある。わかりやすいヒントとしては、プロイセンで皆教育を開始したフリードリッヒ・ヴィルヘルムI世は軍人王、Soldatenkönig、とあだ名された、ということがある。これだけで歴史に詳しい人はなぜこのようなものが生まれたのか察する人もいるだろう。

ja.wikipedia.org

ちなみに学校設立は途方もなくコストと手間、社会負荷がかかる行為だ。しかも一気に立ち上げる場合は教員そのものがいない。ちょっと計算すればわかるが、どのように小規模で小学校を作ろうとしても10人近くの教職員が必要だ。仮に年600万円の給与だとしても、社会保障費やその他諸々で平均一人1000万円前後は見込む必要があるだろう。校舎の設立、維持費も相当の金額であり、一つの学校を維持するだけも年に1億を超える出費が発生する*5

これを一気に例えば明治でやったことは本当に偉業と言える。当時の貧しい国家財政では到底容易にできるような代物ではなく、本当にその頃の苦心は想像に余りある。国や県の補助では足りない中、土地の有力者たちがこぞって賛助して校舎を建て、土地の識者な方々に先生になっていただいた。並行してカリキュラムを用意し、教材を用意した。涙が出そうなほど大変な行為だ。古い小学校を見るたびに、その設立者たちの思いには本当に頭が下がる。

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話を戻そう。

僕の理解では「義務教育的な学校」が生まれたざっくりとした背景は以下のようなものだ。

数世紀前からの大航海時代に始まる「現代的な事業体」の誕生、18世紀後半からの産業革命を受け、各国で中産階級(貴族以外の有産階級)がどんどんと育ち始める。フランスではブルジョアジー、英国ではジェントリーと呼ばれた人たちだ。中産階級は領土を持たないにも関わらず一定以上のお金と力を持つ人達だ。日本での士農工商の「商」に当たる人たちだ。この方々の登場により、これまでの特権階級である王族・貴族階級、聖職者階級にもう一つのクラスが生まれ、それが三部会を生み出し、フランス革命につながる。その意味で、貴族がほとんど見えなくなっている今の社会は、(プチ)ブルジョアジーとそれを目指すブルジョア予備軍を中心とした社会と言える。

また同時期にルソー(1712-1778)のような革命的な思想家が生まれる。それなりレベルの人が集まる場の講演でも「要約とか解説書ではないルソーの『社会契約論』を手に取った人は?」と聞くとほとんど手を挙げる人はいないが、チャンスがあれば一読をおすすめする。衝撃的なほど明晰な一冊であり、焚書処分*6になったことは知る人ぞ知る事実だ。

同書は

  • 人は生れながら自由で、しかもいたるところで鎖に縛られている
  • すべての市民が政治に参加し、自らの意志で法律を制定することが、新しい国家の鍵である
  • 人民主権による共和制国家を理想とする

と述べるが、近代国家という概念、前エントリのコモンズの議論はここから始まると言って良いのではないかと思う。王や貴族の権威を王権神授説や「血の高貴さ」では説明できなくなったルネサンス後の時代において、新たな考え方が求められたという意味でだ。

kaz-ataka.hatenablog.com

これらの流れがフランスで王政を倒し、共和国を生み出し(周りが王国だらけなので、非常に危険国扱いされた)、現在の「国民国家」の原型が生まれる。そこから、傭兵による戦力ではなく、国民意識を持つ人たちによる戦力を持つ国の力がずっと高まり、国民国家化の流れが一気に顕在化する。並行して、帝国主義が一気に進む。その延長に清(China)との貿易の中継基地、そして捕鯨の基地を求める米国*7武装した蒸気船が浦賀の沖合に現れるという「黒船来航」が極東の日本でも起きる。

この流れで

  1. 国民国家的な意識を高める、、国家の理念、〇〇国民という理念
  2. 言葉を統一し、一定の価値観を定め、共有化する
  3. 産業革命後の社会、国民国家における軍隊において有用な読み書き算盤の能力を持つ人を一気に育てる

必要が発生し、重い腰を上げて一気に立ち上がったものが義務初等教育と言える。中等教育(secondary education; 日本における中学及び高校)はかなりの贅沢なものであることもこれからわかる。社会に出る前に更に付加的な教育を行うというものだからだ。欧州における古典時代や中世では、中等教育は教会によって貴族の息子や大学や聖職の準備をしている少年に提供されていただけだった。

大学に行く人は21世紀前半の今でも半分程度しかいない。日本で高校と呼ばれる後期中等教育は必ずしも大学に行くためのステップではない。基本、社会に出る前のreadinessを十分に高めるのが中等教育の役割だ。

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以上の話からわかるのは、初等教育中等教育を行う小中学校(及び高校)は恐ろしく歴史の短い仕組みであり、そこで教える教員というのは恐ろしく歴史の短いすごくモダン、現代的、な仕事だということだ。ホモ・サピエンス史を仮に20万年とすれば*8 そのうちの200年(1/1000)に足りないようなものであり、99.9%はこのようなものはなかったと言える。

氷河期以降の過去1.2万年をベースとして考えたとしても、1/60(1.7%以下)にすぎない。エジプトの農耕には少なくとも1万年の歴史があり、これにまつわる農民はもちろんその頃から、その道具を作る職人たちもその頃からの仕事だ。NYのメトロポリタン美術館に13000年前の布が展示されているところをみると、大量栽培に必須となる灌漑などに関わる農耕エンジニアは10000年は歴史があるだろう。エジプトの都市が生み出したピラミッドは紀元前2630年頃の古王朝時代第3王朝から建造が始まったと推定されることに基づけば、農耕以外の土木に関するエンジニアも5000年レベルの歴史がある仕事と考えられる*9。様々な職人が4000年前にはいたことは、エジプト、ヒッタイト、古代Chinaの遺跡から明らかだ。

つまり義務教育における学校制度や学校の先生は時代の要請によってわずか150年ほど前に唐突に生み出された仕事であり、時代の要請を踏まえて見直すことは当然だということだ。

これを僕はこの学芸大でのシンポジウムの比較的冒頭でお話したのだが、そのあと、堀田先生が率直におっしゃったコメントが実に印象的だった。「我々教育関係者の議論で、時代局面について議論が行われることはまずない。時代がどう変わろうと大切なものがある、という議論がほとんどだ」ということだった。

僕はこの冒頭の話を皮切りに、時代局面についての僕なりのperspectiveをいろいろに述べた。それを踏まえ堀田先生は「学校教育の歴史は高々150年程度に過ぎない。学校というものの再定義が必要ではないか」とおっしゃられたのだがまさに大賛成だ。

時代局面として述べたのは、AI×データが突きつけている話だけでなく、最近本ブログでも書いた人類の二つの大きなチャレンジ、すなわち、地球との共存と、人口調整局面のしのぎ方とそれらの意味合いだった。

kaz-ataka.hatenablog.com

みなさんはどう考えられるだろうか?



ps. 参考までに、3月の文科省での投げ込みから一枚共有しておければと思う。

*1:小金井市

*2:1717年9月28日にはプロイセン王国で最初の全王国的規模の就学義務令とみらるべき「一般勅令」 (Generaledikt, oder Der ErlaB von 28 September 1717, Verordnung daB die Ertern ihre Kinder zur Schule und die Predigr die Cathechisationes halten sollen)が各領域の地方政府(Regierung)に対して発せられている。」 石井正司著『プロイセン絶対主義形成期の民家教育』より引用

*3:ちょうど150年前

*4:同じような価値観を持つ連盟のトップの意味。champion

*5:僕が仲間で進めてきている「風の谷を創る」プロジェクトの検討結果より。現在執筆中の本で分析結果を掲載予定

*6:焚書(ふんしょ)とは学問や思想を権力によって弾圧するための手段として、書物を焼き捨てること。通常は、支配者や政府などによる組織的で大規模なものを指す。

*7:植民地が独立した形の連邦型の共和国

*8:僕が子供の頃は3-5万年ぐらいと言われていたが、どんどん伸びる傾向がある。苦笑

*9:土木技術者がcivil engineerと呼ばれるのはきっとそのせいだろう