脳は「市場」をどう感じるか (最終回)

(3)より続く


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @Tyrol, Austria

脳神経系から見た知覚、記憶のポイントについて、一つここまで言及してこなかったポイントに触れて、最初のイントロを終了したい。

それは、恐怖、あるいは快楽という感覚的な色づけ(必ずしも「感情」ではない)の与えるエフェクトである。

これらはクルマのエンジンにおけるターボに近い。いずれかが存在すると、言うまでもなく、記憶体験は繰り返し脳の中で反復される。また一回あたりの入力そのものがかなり強力に行われる。戦争体験や虐待によるPTSD(post-traumatic stress disorder)も同じ話の延長である。紙のアナロジーで言えば、いきなり強く折る、ということにも近い。快楽、恐怖(あるいはショック)は、それぞれ異なる脳の部位が主として関わっているが、今はそれは本質的ではないため触れない。いつか折りをみて触れていきたい。

楽しい音楽をセットにしたり、素敵な女の子を立てたり、ビジュアル系、あるいは音による効果は殆どこの辺りを狙ったものであり、ここまで書いてきたポイントのうち、ある種これが極端に活用されているのが、この21世紀の現在においてもマス訴求の現状である。が、ここまでお読みいただいた皆さんにはご理解いただけるように、これはあくまで補足的なからくりであり、パワフルであるが記憶化するために不可欠なメインの仕組みではない。こういうムード、感覚的な激しい入力があったとしても「つながらない」ものは残念ながら「理解」もされず、したがって記憶もされない。

つまりただ気持ちよいとかショッキングな訴求をしても、例の既知情報との「つなぎ」の要素が欠けていると、気持ちよさと、そのコピーのつなぎの印象(全く期待していないつなぎ)が残るだけで、それ以上何も残らない。聞いている人に本来伝えなければならない、その「商品とかサービスの提供する価値やベネフィット」と、その「利用する場面、状況(ある種のTPO)」とのつながりは決して伝わることはない。あまりにも根本的にずれがちなポイントなので、あえて最初、表には出さなかったことは理解して頂けると思う。

以上で一通りの脳神経系側から見た知覚、記憶の特徴のポイントの説明はカバーした。これらに基づき、本当のところ、世に言われていることは何が正しいのか、またこれらのポイント、原理的な視点から本当の原則を考えていきたい。


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脳は「市場」をどう感じるか (3)

(2) より続く



Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @Tyrol, Austria


「市場」をどう感じるか以前の神経系の情報認知の特徴だけで三回目になってしまいました、、、。ちょっとテーマが大きすぎたかもしれません。

が、気を取り直して続けていきたいと思います。

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4つ目のポイント、「記憶」について。こちらはかなりシンプルです。


前回書いた通り、既知の二つ以上の情報がつながる(associateする)ことが「理解」することの本質。これは結局、直前に議論したとおりマイクロレベルでは神経間のつなぎに由来するわけだが、同じつなぎを何度も使うと、このつながりが強くなることが経験則で知られている。これは紙を何度も折っていると、折れ線がどんどんはっきりするのと似ている。


ちょっと余談になるが、Hebbという人が提唱したことからこれはHebbian ruleと言われている。大体学習(learning)の議論をしていると年がら年中Hebbian、Hebbianという話が出てきて、なんでそんなに「ヘビ」?がそんなに議論に出てくるのかなど、アメリカで本格的に脳神経科学の研究を始めた頃、面食らったものでした。ちょっと知ったかぶって会話するのにはいい言葉です。(笑)


話を戻すと、なんどもその情報のつなぎを想起せざるを得ない「なるほど!」的な場面を繰り返して経験していると、忘れられなくなる、心に残るということに尽きる。一見直感的に当たり前のようだが、認知、知覚の視点から見ると、これはかなり原理的に重要だ。なおかつ、ほとんどあまり意識されていない。


ちゃんと意味のあることを覚えてもらおうと思うのならば、オウムのようにある言葉を繰り返してもだめ。xxxと○○は確かに関係しているんだ、という情報が実際につながる「理解の経験」を繰り返さないと頭には残らない(というより残る理由がない)。単語帳を見ても言葉を覚えられないけれど、様々なコンテキストで、ある言葉を確かに同じ意味で使うと覚えられるのも実は同じ話だと言える。そういう視点で見るとどれほど多くの広告、マーケティング活動が間違った行動をしているか枚挙に暇がない。商品やサービスではなく、キャッチフレーズだとかマスコットの広告をやっているといった方がよいものが多い。


(本稿最終回へ続く)


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脳は「市場」をどう感じるか (2)

(1)より続く



Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @Tyrol, Austria


3「理解」におけるポイントについては、まずどういうときに我々が何かを理解したと思うのか考えてみたい。


飲み屋に行くと「分かる分かる」という話が始終聞こえてくる。また、僕らが、ちょっと難しい話を誰かに説明してもらっている時、うまくいくと無意識に深くうなづいていたりする。こんなとき、いったいどういうことが我々の脳の中で起こっているのだろうか?


考えれば考えるほど「分かる」という概念は分かりにくい。「分かる」と漢字で書くからといって、そのものを割ったり、ばらばらにすることが必ずしも必要なわけではない。


では、どういうときに我々は「分かった!」と思うのか、考えてみよう。ここにはいくつかのパタンがある。


1)何らかの共通性を発見するとき

たとえば、日本人に限らず、アメリカでもブラジルでもアフリカでも右利きの人が圧倒的に多い、ということを知ると、これはどうも本質的な偏りだということを知ると共に、何か「分かった!」気がする。このたぐいの「分かった」である。


2)何らかの普遍性のあるルールを発見するとき

例えば消しゴムが紙をきれいにできるのは、紙を削り取るからではなく、紙の上に載っているものをゴムに巻き取ることで紙をきれいにしているのだ、という仕組みを知ったとすると、なるほど「分かった!」と思う。そうすると、ペンやマジックなどインクで色がしみこんでしまうタイプの筆記具では、字が消しゴムで消えないのはどうしようもないことだとこちらについても「分かった」気がする。


3)構造、パタンを発見するとき

一見バラバラの事象が、二次元のグラフでプロットすると、実はある象限にデータが固まっていたりしていること、あるいは二つの線の間にすべてのデータポイントが入ることを発見したりすると(実はso whatが分からなくても)「分かった!」気がする。


この例に挙げた三つのパタンで何が共通か分かるだろうか。賢明な読者諸兄姉のご察しのとおり、それは「二つ以上の異なる既知の情報につながりが発見できる」ということに他ならない。そしてこれは神経系の仕組みを良く見ると確かにその通りなのだ。


これを言うと驚かれることが多いのだが、実は神経系にはコンピュータにおける記憶装置に当たるものがない。メモリにあたるものも、ハードディスクに該当するものも存在しない。では何があるかといえば、神経同士のつながりだけなのだ。Cerebral cortex、すなわち大脳皮質の情報処理の中心となるpyramidal neuron(ピラミッドのような三角形から四方に足が伸びた形をしたニューロン)は近年の神経解剖学者(neuroanatomist)の実に辛抱強い研究より、一つあたり数千から5千程度のシナプス(神経間の接合)を形成していることが分かっている。必ずしもそれぞれのシナプスが異なるニューロン神経細胞のこと)につながっているわけではないが、一つのニューロンがかなりの数のニューロンとつながっていることは明らかだ。


ここで二つ以上の異なる情報を持ったニューロンがあったとき、それぞれが同時に興奮し、それがつながっているところでシンクロしたとき、それは、それが二つ以上の情報がつながったということが出来る。例えば、さっきの消しゴムの例で言うと「消しゴムで消す」という情報を持った神経と、「表面上の巻き取り」という情報を持った神経が同時に興奮していると、その両方を受ける神経、あるいはその二つのつなぎ目で「消しゴムを消すこと=表面上の何かを巻き取ること」という「意味」が残るのだ。


すなわち、脳神経系では「二つ以上の意味が重なりつながったとき」と「理解した時」は本質的に区別することが出来ない。(なんだかちょっとHな響きがあるが、本質的に脳なんてそういうものなのかもしれない。笑)これが第三の原理、すなわち「理解する」とは「情報をつなぐ」こと、ということの意味である。これを噛み締めつつ考えると、どうしてある種の説明は心理的な壁がない場合であっても、理解を得られないのかは容易に分かるだろう。つまり既知の情報とつなぎようのない情報の提供は理解しようがないのだ。



(3)へ続く



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脳は「市場」をどう感じるか (1)


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @Tyrol, Austria


15年前に消費者マーケティングの世界に入ってまず驚いたのは、とにもかくにもやたらキャッチコピーなのか、信念なのか良く分からない考えが撒き散らされていることだった。いわく、ファーストムーバーアドバンテージ、いわくポジショニング、いわくドミナント戦略、、、。


複雑な現象の背後にある原理原則を明らかにし、それから積み上げるように世界を理解していくサイエンスの世界から見るとかなり違和感のある世界だ。


一方、マーケティングもニューロサイエンスも知覚のメカニズムを探る試みという点では共通している。この二つはある種、楕円における二つの焦点のような関係だ。いかなる知的活動も神経系の活動によって生み出されることを考えると、マーケティングの基礎となるべき考えも、本来神経系の特徴にあるはず。


この10年余り日々考えてきた結論は、おそらく、それは以下の4つのポイントに集約されるということ。いずれもコンピュータとは似て非なる脳の情報処理の特徴である。


1.(入力)閾値を超えない入力は脳神経系では意味を生まない
2.(認知)脳神経系は、不連続な差しか認知することが出来ない
3.(理解)脳神経系にとって理解することは情報を「つなぐ」こと
4.(記憶)情報を繰り返しつなぎ続けると記憶にかわる


1は、いわゆる全か無の法則だ。あるレベルを超えた入力しか神経系では(ほぼ)意味がない。匂いであろうが音であろうが、ある強さを超えると急に感じられる。あるいはあるレベルを割り込むと急に感じられなくなる。


実際には神経膜の完全興奮状態(firing:発火という)に達する前の興奮状態(sub-threshold membrane potential)も何らかの意味があることが分かっているが、神経の端から端、神経間で伝達しうる信号は基本的にfireさせないと発生しない。単一の神経細胞ニューロン)ですらこうであるため、神経系は群であろうと基本的に同じタイプの入力、出力特性を持っている。


結果、理系の人ならおなじみのシグモイダル曲線、S字カーブ的な関係になる。コンピュータの場合、情報モジュール的には0/1で処理しているかもしれないが、系という視点で見ると入力の閾値(意味を持ちうるライン)というものが存在しないこととは対照的だ。



2は何を言っているのか良く分からないかもしれないし、聞いたことがない人も多いかもしれない。これは「なだらかな」違いを脳は認識することが出来ず、何らかの「異質、あるいは不連続な変化」しか認識できないということだ。


レストランでラーメンを食べているときに、どこか離れている人がうどんを食べていたりしてすぐに気付いたことのある人はそれなりにいるだろう。だけれども自分の食べているうどんの匂いが数パーセント程度弱くなったとして(実際にはこの程度は食べているうちに起こる)、それをすぐに察知できる人はいない。これと同じことが音であれ、我々霊長類にとって最も鋭敏な感覚の視覚であれなんであれおこる。あまたある一般向けの脳の本にはあまり出てこないかもしれないが、実は脳はひたすら小さな(しかし異質な)差分を強調するように情報処理するように進化してきており、これは実際に脳における知覚を考える際には根源的な原理の一つである。



(2)へ続く



関連エントリ

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ブレッソンやキャパとマグナムを立ち上げたアーウィットの有名な写真にカリフォルニアキスという作品がある。


そこには色は全くないのだが、恐ろしく鮮烈にイメージが残る写真だ。


驚くほどのビビッドなイメージが、自然なフレーミングと背景のもとに映し出されている。よく見ると夕焼けなのか朝焼けなのかという太陽が、雲の合間と海の境に見え、海岸と、とてもクラシカルな車のボディが落ち着きを生み出し、バックミラーの中の彼女の「生」に満ちた笑顔と力強い対比を生み出している。


これをずっと見ていると、写真そのものの良さと共に、いったい何がこんなに力強いイメージを生み出しているんだろうと思う。それと共に、なぜこんなにも色がついて見えるんだろうと僕は思う。少なくとも深みのあるブラウンか、ワインレッドを基調にしたボディ、そして彼女の口紅にはなぜか強い赤が残った状態で、僕の心には不思議と思い出される。



これを言うとサイエンスバックグラウンドの人にすら違和感を感じる人がいるのだが、「色」というのは幻覚に近い。自然界そのものには存在しないものである。心理的な値なのだ。


ニューロサイエンティスト(脳神経科学者)の立場で申し上げると、いかなる「色」も心が生み出しているものであり、決して物理量として存在しているわけではない。物理的に存在しているのは光の電磁波としての波長にすぎない。ある特定の波長、あるいは特定の光学信号について、脳は特定の「色」を感じるのだ。必ずしも波長ではなく特定の光学信号というのは、かなり簡単な実験で実感できる。例えば白と黒の模様が交互に入っているようなコマだとか円形のものを回すと、普通はかなり明確に色がついて見える。これであれば、子供のころに体験したことがある人は少なくないのでは?当然回転ぐらいで光の波長は変わるわけがないので、色は脳の中での情報処理が生み出したものだということが無条件にいえる一例である。


そして不思議なことに、それぞれの波長なり、光学信号から「脳の中で」生み出された「本来自然には存在しない」色が、特定の意味を持ってしまう。これはとても不思議な現象だ。脳が自分で生み出したものに、自分で更に意味を付け加えている。しかもかなり根源的なレベルで。


ちなみにこの意味やテキスチャー、肌触り、あるいは質感、量感的なものの創出の仕組みについてかねがね興味をもたれているのが、今をときめく茂木さんで、これはニューロサイエンスというよりも認知科学(Cognitive Science)、あるいは純粋に心理学な領域に近い。


これが先ほどのモノクロームの写真に勝手に付け加わった印象として残ったりする。本当に不思議であるが、そういう色んな意味がどうやって情報に付加されていくのかについてもタイミングを見て徐々に考察していきたい。


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