Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII @Grand Canyon National Park, AZ
休載宣言以来、案の定ほとんど書けていませんが、なんというか日本の学位取得者について考えさせられるメールが来て、ちょっとだけ。
ポスドク*1問題というのが日本ではかなり深刻だという話をたまに聞いたり、見たりするのですが、なんというかちょっと不思議に思っています。
どうも騒がれていることの本質は、学位をとっても研究職、特に大学や公的研究機関に就ける人が少ないということのようです(もし私の理解が間違っていたらごめんなさい。その場合、以下は読む必要ないです)。
しかし、それは本当に問題なのでしょうか。アメリカのトップスクールのようにセレクティブで、どのPh.D.プログラムでも10人ぐらいしかとらないようなところでも(一つのプログラムで学位を取るのはそのうち5-6人/年)*2、最終的に大学のファカルティになるのなんて2割もいるかどうか。それ以外の人は当たり前のように民間に出て行きます。つまりなんでアメリカとは違って、日本ではそれを問題にしているのか、と僕は思う訳です。
まして、日本のように「大量生産」していれば、ファカルティには1割ぐらいしかなれない、適切なポスドク職を探すのも困難なのは当たり前なのではないでしょうか。ほとんどロースクール*3卒業生と同じ問題のように聞こえます。
大量生産、ということについてですが、例えば、アメリカで最大級のPh.D.養成機関の一つであるHarvardで、理系文系など学問分野を問わず生み出されるPh.D.は年間約540人(この資料のp.11)、同じくかなり大きな大学であり、学生一人当たりの運用資金全米一を誇るYaleで360人にすぎません(しかしこれだけ生み出せる大学は数えるほどしかなく、この生み出す数をこの二校は大学の質を証明するアウトプット指標としてとても誇りにしています)。Berkeley, Stanford辺りがPh.D.産出パワーで(笑)ここに並ぶクラスだと思いますが、ほとんどの大学はそれほど大きなプログラムがある訳ではないので、そこまで生み出すことは出来ない。
一方、日本では、東大だけで年間1100人以上(米国には事実上存在しない論文博士180人を含めると約1300人)、京大が年500人強、全国ではちょっと古い資料でも年16000人!、妙に数字が多い保健分野を除いても年9000人も生み出されている。そもそも個々の大学の基礎的な実力、体力*4としてこんなに生み出せるはずがないと思うのに加え*5、総数としても人口比アメリカの2.4分の1しかないことを考えれば、「主力になる大学」が生み出す学位の数が、かなり多いことは自明。
(註:なお、アメリカにおいても主たる大学におけるファカルティは、[日本とは全く違うロジックの結果ですが] かなり名の通った大学の出身者が殆どですから、ここでの比較はある程度、nearly apple to appleの主力の大学同士の生み出す学位取得者で考えています。地方の末端州立大学ぐらいまで含めれば、学位の総数はさすがにアメリカの方がずっと多いでしょう。むしろここからあとの議論の通り日米では受け入れ余力が全然違うにもかかわらず、同じ人口で生み出す学位数に、日米の差がそれほどなさそう、、、つまり作り過ぎに思われることが問題。*6)
しかも、アメリカは世界レベルのアウトプットを出す、それなりの研究を行う有力大学だけで数十はあり、それぞれがかなりのラボの数を持ちますから*7、ポジションははるかに多い。なお、日本のような講座制をとっていないので、一度assistantであろうがprofessorになってしまえば、アメリカでは原則PI(principal investigator:ラボの長)です。それでもPh.D.の大多数は結局ファカルティにはならない訳です。
ちゃんと研究を行う大学の数も、大学辺りのラボも少ない日本でこれだけ博士号を生み出せば、より結果が強烈になるのは当たり前なのに、その程度の算数も出来ない人が、日本では大学院に行くのでしょうか?(そして、自分のとったリスクを棚上げにして、文句を言っているのでしょうか?)しかもいくつかのエントリで考察した通り、英語の問題があって、ドイツ人などヨーロッパの学位取得者のようには、自由に海外の研究職も探せないということであれば、もう吸収先がないのは当たり前。
ということで、もし上で私が書いたことが、本当に騒がれていることの中心であるとすると、まったくもって解せません。当然のことを当然だと思えない、ある種のimmaturity課題がそこにはあるのではないかと思うのですが、これは下衆(げす)の勘ぐりなのでしょうか?
大学に行けば、あるいは大学院に行って学位を取れば関連する仕事があると思っているのは、途上国を除けば、日本人だけなのではないかと僕は思います。そう、それは明治、日清、日露戦争時代のスキームなのです。
暴論でしょうか? 僕は、一歩日本を出れば、これが世界標準の考えに近いと思いますが、、、。
追伸:コメントを拝見し、続きのエントリを書きました。そちらもご関心があればどうぞ。
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*1:postdoctoral fellow/associate: 博士号を取得してその後、独り立ちするまで、更に、多くの場合、別のラボに行って研究している人
*2:ファンディングのリソースの大きさと、ファカルティの数によって大体規模は決まります。僕がいたプログラムが典型的なものの一つだと思いますが、学生は毎年10人しかとっていません
*4:金、ファカルティの数、ラボの中の人の数など
*5:例えばなぜ東大はファカルティの層、研究費ともに巨大なあのHarvardの倍以上も生み出せるのだろう?
*6:統計上の総数についてはトラックバックを頂いたnext49さんのエントリでかなり詳しく検討されています。refer多謝。誤解を生んでいたら申し訳なし。ただ、本エントリの後半を読んで頂ければ分かる通り、吸収力を無視して、[人口辺りで] アメリカとたいして変わらない程度に生み出していること自体が過剰だと言うことを問題だと思うという筋は変わりません。また同様に、日本の主要大学がかなり際立った数の学位保持者を生み出していることは認めざるを得ないと思います。
*7:私のプログラムの場合、学生年10人に対し、参加するファカルティ(つまり選択可能なラボ数)が90ほど当時ありましたが、ちょっと日本ではなかなか考えがたいことです