ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing

安宅和人: 脳神経科学とマーケティングの間に棲息

脳科学、大脳生理学とニューロサイエンス


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @New Haven, CT


ニューロサイエンスについて一言も触れないままここまで来てしまった。少しこの辺りで整理しておいたほうがよいと思うので残させていただきたい。

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ニューロサイエンス(neuroscience)という学術分野はどうもこの国では少なからず誤解されている。


まず言葉がかなり変だ。例えば「脳科学」という言葉があるが、私の知る限りBrain Scienceというのは英語の世界では、一般人の会話ならともかく出版物ではまず使われない結構トンでも語系の言葉である。せいぜいその辺のタブロイドには出てくるかも、という感じである。僕が子供のころさんざん聞いた「大脳生理学」という言葉もそう。かなりヘンな言葉である。Neurophysiologyというのは一大分野であるが、これはどう訳しても大脳生理学にはならない。無理して大脳生理学を直訳するとtelencephalon (or cerebrum) physiologyとなるが、通じなくはないけれど、これがワンワードだと聞くと少なくとも世界各地で研究する私の友人たちは仰天するだろう。なお、最近、日本橋丸善に立ち寄る機会があり、日本におけるこの分野の祖とも言うべき伊藤正男先生の本を見ると、やはり「脳神経科学」と呼ばれているようでありほっとした。


また、内容的にもかなり根深いところで誤解されているように見える。例えばニューロサイエンスは、米国脳神経科学学会の公式見解では主に次の三つの課題を取り扱う分野である。(http://www.sfn.org/

  1. (最終的には人間の) 脳が通常どのように働いているのか表現し、明らかにする
  2. 神経系が、どのように生まれ、発達し、生涯を通じどのように維持されるのか解明する(神経系=脳、脊髄を含む中枢神経系と末梢神経系のすべて)
  3. 神経のあるいは精神的な異常を予防し、治す手法を探し、発展させる

いずれも実際の研究においては激しく相互につながりあっているが、ご案内の通り、日本での一般的な理解と言葉のコンテキストは恐ろしく1のしかも心理学寄りのところに寄っている。しかしこれはcognitive neuroscience(認知科学、あるいは認知神経科学)の一分野に過ぎない。なお、米国では日本人が考えるような従来の(古典的な)心理学のほとんどは滅び、大半の大学の心理学部(dept. of psychology)は認知科学、行動神経科学、と臨床心理学の三つに分化している。


また、どうもニューロサイエンスをやっているというとほとんどの人がヒトか、せいぜいサルで研究していると考えられるようだが、ほぼすべての研究はラット、マウス、あるいはアメフラシ、ハエ、時に線虫などで行われている。最も研究が進んでいる分野の一つである視覚の場合、ネコやサルを使っている人が多いが、特にサルの場合、実験するための規制があまりにも厳しく(=金も設備も立ち上げの時間も膨大にかかる)、また個々の研究に途方もない時間がかかるので、相対的には研究者は非常に少ない。霊長類を使う必要がある高次機能を研究するほど難しいテーマに行く前のテーマで問題があまりにも山積みだということもある。


手法的にも誤解が多い。手法で言うと、どこにどんな神経がどのように配置されているという解剖学(neuroanatomy)と神経や筋肉など興奮性の膜について理解する電気生理学(electrophysiology)の二分野を基礎としつつ、上述の脳神経系の電気的な活動そのものを調べる生理学的なアプローチ(physiological)、DNAや分子のレベルで調べる分子細胞生物学的なアプローチ(cellular and molecular)、動物に実際に学習させる行動レベルでのアプローチ(behavioral)の三つに大きく分かれる。カハールというニューロサイエンスの神のような人がいるが(確か第6回目1906年ノーベル賞を受賞)、彼の時代からつい20-30年前までは解剖学と電気生理学が研究のほとんどであった。


現在は真ん中の分子細胞生物学的な手法を中心に多少生理学、あるいは行動的なフレーバーを付け足す程度の研究者が大半であるが(分子生物学、あるいは心理学から流れてきた人が多いことと、生理学を行うための手法と数学を学ぶことが困難なために自然とこうなる)、上のような誤解があるため、どうも生理学的アプローチぎりぎりぐらいのところ、例えば研究されている割には結構きわ物のfMRI、PETなどの辺りを中心に想定されているようだ。この原因の一つには、日本には未だに完全な1セットを持つニューロサイエンス系の大学院教育がないこと、したがって解剖学、生理学の基礎を含めた体系的なトレーニングを受けた人がほとんどいないこともあるだろう。ちなみに上述の伊藤先生や森憲作先生などの日本を代表するニューロサイエンティストたちはほぼ欧米のトップサイエンティストから直接の教育を受けている。


なお、fMRIはfunctional MRIの略で、脳の活動部位を原子や分子の持つ核磁気による信号の差異で見る手法である。PETは原理は全く異なるが、同様に活動部位を見るために使われる手法である。活性化していると思われる部位に赤などを付けた、画処理をかけた結果ばかりを我々は見ることが多いので、誤解があるのだが、実際には活動による信号の差は通常せいぜい1%、あるいは0.5%程度でこれが生理学的に有意なのか、またその信号の差は何を意味しているのか、という議論は10年ほど前の勃興期以来、何度ともなく起こっている。また実際には千分の一秒単位の我々の神経活動に対し、〜10秒程度と時間的な解像度が1000倍以上低い結果であるのも(しょうがないことではあるが)課題。つまりレコーディングの結果は、長い間の活動の平均値でしかない。


この場を借りて、いま世界の各地で最先端の研究を行うニューロサイエンティストのためにこれらを書いておきたいと思う。



(関連エントリ)

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Neuroscienceの基本図書をいくつかご紹介。いずれも名著です。

Principles of Neural Science, Fifth Edition (Principles of Neural Science (Kandel)) (English Edition)

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