50mm Summilux, Leica M7, RDPIII @Grand Canyon
仕事柄、様々な国の人と話をすることが多い。仕事なので、きっちりと前に進めないといけない、あるいはすくなくともケリを付けていかなければいけない話がほとんどだ。
その度に、痛感するのが、海外の人とのやり取りにおける日本人の受け答えのはまりの悪さだ。基本的にほとんどかみ合っているように聞こえない。結果、大きなストレスを相手に与え、これがあとあと、腹を割って話せる相手と思えるかどうかの境になってしまう。
これは広義には英語力の問題なのかもしれないが、通訳、あるいはその場に参加している通訳的な役割を担う人間がいるケースでむしろ顕在化することを見ると、単純に言葉の問題とは考えにくい。決して、アメリカ人、ヨーロッパ人のようないわゆる「外人」だけでなく、中国人、韓国人、インド人、シンガポール人と言ったアジア人が相手であってもこの問題は発生する。なので、ハイコンテキスト文化だからとかそういうことでも説明できない、むしろ日本と海外の思考スタイルの相違の問題と考えるべきかと思う。
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これまでの観察では、日本人は、自分なりの理解の元に、先の先を読んで、結局のところコレなんじゃないかとアタリを付けた思ったポイント、落としどころについて、結論的に話し始めるケースが多い。
実は、そのアタリを付けたポイントは、その時点では決して話の流れ上、クリアになっているわけではなく、そこの確認自体が論点、あるいは議論の進展であり、そのポイントについてどういう風に考えるのか、というアプローチの議論自体が、更に多くの場合、論点であり、議論そのものだ。
結果、相手側からすると、話の立脚点がハッキリせず、しかもその上、そこからどの議論をどう整理するのかもハッキリさせることが出来ないまま、前に行ってしまい、混乱してしまうということがしばしば起こる。
そうなると、相手は黙って(=要は不可解なのでちゃんと聞くのをやめ)別の作業をはじめるか、コチラ側の話が通じそうな人間に、ちょっと廊下で話そうと声をかけ、あれは一体どういう本当の意図なんだ、と確認をとるということが起こる。さっきオレが言ったことについて何の明確な返事ももらったいないのに、なんでこの話の流れであんなことを今話しているんだ?ということになる。
後者が起こればある種ラッキーだが、コレがない場合、コチラの読み込みの意図とは真逆に、双方にとって、非常に非生産的な(=時間投下しているだけの価値を感じられない)時間となってしまうことは言うまでもない。
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なぜこんなことが起こるのか?
日本人側のコチラとしては、向こうの事情を出来る限り推し量り、更に自分たちとしての内部文脈的な「落としどころ」をねじ込みつつ、話をしているつもりなのだが、向こうはアメリカ人であれ、アジア系の人であれ、概ね、前提としてはっきりさせておくべき議論のポイント(イシュー)をお互いに確認して、それを積み上げる中で詰めていこうとすることが大半だからだ。
結果、何かおかしそうだと思ったとしても、日本人はなぜこんな手前の議論ばかりしているのかと訝しかるがごとく、より一層、更に先の話をしようとし、外国人側は、自分が確認を求めたはずのポイントについて、なんら明確な返事も、ポイントの理解の言葉すら得られないまま次に話が進むので、状況が更に悪化することが多い。
平たく言えば、落としどころという名の「結論」から逆算して「すりあわせポイント」を探る議論と、あくまで節目節目での「すりあわせポイント」を明確に確認した上での議論の違いと言える。真逆のアプローチだ。日本人にとっては、落としどころを成り立たせるために、キレイにすべき「バリ」に過ぎないものが、外国人側には、議論の前提の確認、議論のbuilding blocksになってしまう。
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では、どうするべきか?
僕はこの問題に関しては、まずは向こうの土俵に載る以外、答えはないのではないかと思っている。僕の知りうる限り、落としどころありきの議論をして、擦り合わせの中で論点を拾い、解決していくスタイルは、我が和朝特有のもので、誰かが異文化的なつなぎをしない限り、ほとんど相手側の理解を得られることがないからだ。
といっても、この「つなぎ」の生産性を高めるために、我々がやるべきことは簡単だ。その場、その場の解決、進展のために、議論の背後に眠っている節目節目を拾い上げ、リフレーズ、整理をひとつひとつしていくだけだ。この数分に一回程度の整理、直接的なスタンス表明があるかどうかで、議論の生産性、相手の満足度が劇的に変わっていく。
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とここまで書いたところで、これがいわゆる西洋的な価値観における知的生産のアプローチそのものと、我々の文化の持つ知的生産のアプローチの違いを示していることに気づく。明確に前提になるものを検証なり、納得させられる状況にして積み上げて行くことが、ビジネスという基本行動の基本になっている国と、それが主というより従になっている国の違いだ。
日本の落としどころありきのやり方は、西洋的なissue-drivenなアプローチ(イシューありきの考え方)に対して、insight-drivenなアプローチ(洞察ありきの考え方)ということもいうことができる。一足飛びに結論に到着することがうまくできれば効率的だが、ふとすると、それまでの議論を全て無視して、「取りあえず、いったん全て忘れて」とか、「それはそれとして」というようなこれまでの全ての積み上げを無視したような、大変相手に対して失礼な議論をしてしまいがちなリスキーなアプローチでもある。国のパフォーマンスに対する評価が落ちている現在、場合によっては、こちらの知性そのものを疑われる可能性のある行為であることは、認識しておくべきだろうと思う。
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重層的な議論が必要な、現在、僕らの国を取り囲む国難と呼ぶべき局面では、落としどころをただ探る典型的な日本のアプローチでは、このアプローチの特徴として、あとあと大きな問題(イシュー)がどうしても表出する可能性が高い。短絡的な二元論などに陥らないよう、現状の正しい理解、その構造的な理解など、きっちりとファクトベースで詰めて頂きたいと、一市民として心から願うばかりだ。
(ご参考)以下、本エントリのきっかけになった安西 洋之さん 、中林 鉄太郎さんとの対談記事です。(お二人の日経ビジネスオンライン上のの連載です。他の記事も大変興味深いのでお勧めします。)
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ps. 震災があり、全く着地しないフクシマの問題があり、何を書いても、、、という気分が長らく続いていましたが、精神のリハビリもかねておいおいと何か書いていければと思います。
ps2. twitterでのアカウント、2年以上ほとんど止まっていましたが、徐々に使い始めました。ハテナと同じハンドル名です(@kaz_ataka)。よろしければご笑覧ください。