この何年か、頭は良いのだが、反応が極めてデジタルで、深みがないというか、心にしみる感じのない人(特に若い人)にときたま出会う。全てのことを単なる表層的な情報としてそのまま処理しているというか、とにかく恐ろしく厚みのない判断をしている感じを与える人だ。以前も少しいたが、有意に増えているように感じる。
サクサク物事はこなすし、一見、明快な部分は気持ちもいいのだが、一方で、極度に表層的な印象を受け、これで良いと思っていること自体に対する気持ち悪さもある。そのためにこの人と本当に会話しているのか、ちゃんと会話出来ているのか、ということについて、不安を感じる。もっとやっかいなのは、話をしているとしても、そもそも何も伝わっていないのではないか、理解、共感のベースが低すぎるのではないか、と思ってしまうことだ。
そのことを、僕が指摘すると、真顔で「何を言っているのか分からないので説明してください」というようなことを言う人間も何人かいる(もちろんこの人には悪意も邪気もない)。その度に僕はこんな"馬鹿"*1と話してもしょうがないと思うのだが、なぜかつい丁寧に説明してしまう(苦笑)。無意味かもしれないが、こんなことを千回繰り返せばその中の何回かは、実際に意味のある変化につながるかもしれないと思ってだ。
ちょっと不安である。
Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII @Grand Canyon, AZ
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自分の頭でモノを考えることは、ここは多少疑義があるかもしれないが、ある程度の知性がある人であれば、正しい訓練さえすれば、それほど難しいことではない。何事もgivenとせず、確かに自分の目で確かめたことをベースに世界観を作り上げていけさえすれば、それほど筋の悪い見立てになることもない。
ただ、その際に、情報の一つ一つの重さや重層性、関連性を認識することなく、考えを進めていけば、必ず短絡的な困難に陥るはずだ。この点で問題を感じるのだ。
この辺りの短絡的でうすっぺらい表層的な論理的のみの思考をする人間は危険*2と言わざるを得ない。世の中にロジカルシンキングなるものが出回っているが、聡明な読者諸兄姉のお気づきの通り、これだけでは、ほとんどの問題は解決しない。だから世の中の問題解決本がいくら出回っても、あまり何の進化も起きず、使えない、あるいはない方が良いぐらいのパワーポイントばかりがあふれることになる*3。
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実際には一つ一つの情報の重さや関係性、その複合的な意味合いを考え抜く必要があり、それらをしっかりと掴むためには、どうしても人が言う話ではなく、自分でファーストハンドの情報をつかむ必要がある。そう言う意味で、むしろ難しいのは、「自分なりに感じること」なのだが、このことの重要性について、いわゆる上記の問題解決本などはほとんど触れていないのではないかと思う*4。
「一次情報を死守せよ」というのは、私の大先輩であり、師匠の一人が私にかつて授けてくれた教えの一つだが、これは実に正しく、真実にたどり着くための道の入り口であり、出口でもある。
その時に、どこまで深みのある情報をつかむことが出来るのか、がその人のベースの力そのものであるのだが、これはその人の中の判断する尺度、Frame of reference、あるいは判断のメタフレームワークの充実度の問題であり、一朝一夕で身に付くものではない。知能や学歴は高いかもしれないが、こいつは馬鹿だ、と思う人間が妙にあふれているのはかなりがこの問題ではないかと、僕は考えている。
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脳は自分で(脳自身が)意味があると思うことしか認知できない。そしてその意味があるかどうかは、これまでそのような入力が意味があると言う場面にいくら遭遇してきたかによって決まる。この辺りは、わたしの認知に関する稿をコレまで読んできて頂いた人には良く分かって頂けるだろう。
例えば、有名な実験で、猫が生まれてから縦縞しかない空間で育てると、その猫は、横の線が見えなくなる。結果、例えば、四角いテーブルに載せると、そのかわいそうな猫はエッジが見えなく、落ちる。コレがものすごく簡単に、上の話を裏付ける奥深い話である。これは回路(Wiring)そのものの形成に影響が出たケースであるが、そもそも脳にとって特定の情報処理が出来るということは、特定の記憶が起きることに本質的に近く(知覚と記憶の稿を参照)、特定のことについての意識が起きるということは、その特定のことに関する情報処理(歴のある)回路がある程度活性化していることに近いことなので、まさにかなり近いことであると言える。よくある話で、日本に来て日本語を覚えてから急に「肩が凝る」ようになった外国人、というのも似た話だ。
同様に、例えば、ある商品の戦略作りであれば、単に市場への洞察や、競合視点での狙いどころだけでなく、もの作りの行程、調達のこと、生産工程、技術的な他力の活用、また、物流におけるDCの動き方、また販社の役割、などについてかなりの具体性を持ってイメージでき、そこである変化が起きたときに何がおこるのか、推定する力がなければ、到底正しい判断は出来ない。また実行に向けた解決に当たっては、歴史的な経緯、組織力学的なことへの理解は常に不可欠だ。(一方知りすぎていては「知恵」がでないのも事実であるが、このことに付いてはまた別途どこかでチャンスがあれば考察したい。)
またいちいちこれらを理解していくにはそれなりの年月が必要であり、問題に立ち向かってから調べるのでは到底間に合わないケースがほとんど。これは科学研究においても同じだ。どこまで現在分かっていること、あるいは最近の発見のその意味合い、課題を深く筋の良いコンテキストに沿って理解できるかが第一の勝負なのだから。
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危なっかしいのは、とにかく表面的なロジックとイシューのみで議論する輩である。分かっていてやっているのであれば良いが、それが本当にそれだけでいいと考えているのであれば、そのような人間と話したくはないし、そのような人間は、その案件には関わらない方が良い。これは企業が、社内の事業部、あるいは統括的な企画部門におくべき人間を考えるときはまさにそうであるべきであり、外部のコンサルタントのような人間を使うときはよりいっそうそうでなければいけない。
そう言う視点で考えると、若干本稿のオリジナルの議論から外れるが、世の中で一見、problem solverとして存在している人のどれだけ多くが、フリーの人であれ、組織内に属している人であれ、本質から外れた危険な輩かということが良く分かる。
私がコンサルタントをやめてからも、何人かの元々のクライアントの方のご相談を受けた。多くが「使える、あるいは真に相談に足る人がいないのだが、どうしたら良いと思うか」という話であった。
僕も同じ立場にたって考えると、それは本当に悩ましい問題だと思う。確かに組織の担保する力はかなり組織により差があると思うが、どんな名門のファームであろうと、会社の名前と組織力ではある程度のクオリティしか担保できない。本当のところ、人による部分が大きいからだ。頭だけで歩いている輩をうまく嗅ぎ分け避けることが出来るか、また、何もかも分かってもらえなくても良い、と割り切ることが出来るか、そこが肝心だ。
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ということで、僕として今望むことは、少なくともこのブログを読むような人(特に若者、青年)であれば、そういう情報を噛みしめる人、様々な意味合いをappreciate*5できる人であってほしいということだ。そして表面的なロジックで考えた振りをするような人間にならないでほしいな、ということだ。
コレが本当に大切なことなのだが、どうも逆ぶれしている人が増えている気がしてならない、というのがこのエントリの趣旨だったりする。
読者諸兄姉(みなさん)、どう思われますか?
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ps. 本エントリをさらにぐっと深めた知覚と知性についての論考を、8年余り経ってハーバード・ビジネス・レビューに書きました。書籍ではなく売り切れる可能性が大いにあるため、ご関心のある方はどうぞお早めに入手してご覧頂ければ幸いです。