不屈の棋士


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII
Putney, VT

この二年ほど、年中同じ問題について手を変え足を変え尋ねられる。

「AIがこれ以上進化してきたら我々の仕事はどうなるのか?」

、、と。これについての僕の答えは常に一貫していて、そんなに心配する必要はない。AIは我々の仕事をまるごと置き換えることは、かなり未来まで当面無い。AIなりデータは我々を劇的にアシストするようになる。これから本当に起きるのはAIと人間の戦いではない。データとアルゴリズム、そしてコンピューティングパワー*1を活用する人と活用しない人の戦いになる。使わなければ、使っている人(あるいは企業)の圧倒的な力に負けるだけであり、使えば、これまでに不可能な付加価値を生み出すことも可能になる。なぜなら、これまで手をかけなければ出来なかったあまりにもtediousなことが可能になってしまうからだ。例えば膨大な映像からの必要な情報の抽出であり、雑草の自動草むしりによる完全な有機栽培の実現であり、ソフトウェアやシステムレベルの脆弱性の発見や修復などだ。

この理解については東大の松尾先生、ソニーCSL所長の北野先生や、千葉工大の古田先生、日立の矢野技師長など、多くの第一人者的な方々と話をしてきたが、どの方も異論はない。ただ、不吉なことを騒ぐことが好きな人間の本能がただ騒ぎ立てているように見える。まるで90年代後半のノストラダムスの大予言に騒いでいた人たちに似ている。 :)

これ系の議論の発端は3年前にオックスフォードから出た、「米国では半分近くの仕事がリスクにさらされる」という有名な論文だが(ほとんどこれをなぞったような話が日本の野村総研からも最近発表された)、この後、私の古巣のマッキンゼーが持つシンクタンク機能であるMcKinsey Global Institute (MGI)*2 の精査により、実際にまるごとマシンに置き換えられてしまう仕事は5%程度しかないことが発表された。やはり、である。

ということで冒頭の問題は気持ちはわかるが、ある種愚問と言い切っていい問題だ。

、、大半の人にとっては。

僕がかつてその一員であった科学者、経営コンサルタント、あるいは、数学者、弁護士、医師のような知的プロフェッショナルの世界もかなりのリスクにさらされていると考えられているが、実際には、上と同じ話でそうではなく、劇的な変化から生まれるチャンスを使い倒す人と使わないで滅びる人たちに分かれるだけだ。

昨年Diamondハーバード・ビジネス・レビューにまとめた論考に書いたとおり、

  • 我々の体を使って知覚し、部分的、そして総合的に評価すること
  • 意思、目的意識を持ちゴール設定すること、
  • コンテキストを踏まえ、大胆で解決に値する問いを立てること、
  • 状況や問題を見立て、構造化すること、
  • 意思決定すること、
  • 前例の少ないことや異常値に対応すること、
  • 人の分かる言葉で話し、人を奮い立たせること、

などは、人間の仕事として残る。これらの組み合わせである、デザインすること、日々のプロジェクトマネジメントなどは典型的だ。

しかし、そうとは言っていられない人たちがほんの少し存在する。それがこれまでキカイとは程遠い世界にあり、キカイが使うことが許されないルールの中で戦い、人間の知力の限界を象徴してきた「棋士」と呼ばれる人たちだ。将棋棋士囲碁棋士である。

彼らの立場は同じ知的産業の中でもサイエンティストのように膨大なコンピューティングパワーやデータ、アルゴリズム・ソフトウェアを酷使して発展してきた世界とは根本的に異なる。遺伝子の組み換えであろうと、神経の信号のレコーディングや解析であろうと、はたまた素粒子実験の解析であろうと、計算力とアルゴリズムの力なしにはもう決して進まないところまで現在の科学は来ている。

囲碁の世界では、AlphaGoと魔王とまで言われたイ・セドルの対決、その結果については多くの方がご存知だろう。その隣の世界である将棋棋士の方々が自分たちの職業が置かれている状況をどのように見ており、そしてどのように今後なっていくかと考えることは実に興味深い問題だ。

これをトップ棋士である羽生善治さん、渡辺明さん、森内俊之さん、佐藤康光さんはじめ、電脳戦に於いてソフト(データとキカイ)と対決してきた棋士、深く関わってきた棋士の方々に徹底的にプロの将棋観戦記者である大川慎太郎氏がインタビューした本が出た。『不屈の棋士』だ。

本の帯には、<人工知能に追い詰められた「将棋指し」たちの覚悟と矜持>とある。

この本を読んで、なるほど、と思ったことを幾つか書いておく。

  1. 多かれ少なかれ将棋の局面の展開においてソフトの発達が、これまで人だけの戦いになかった幅を生み出しつつある、、、そういう意味でソフトが将棋そのものを進化させていることは多くの人が認めている
  2. ソフトとトップレベルのプロ棋士の力が並ぶか超えたことはほぼ常識に
  3. ただし羽生さんだけは蓋を開けてみないことにはどうかわからないと多くの人が思っている
  4. その意味で最終的な勝者がソフトの勝者と戦うことになる叡王戦に羽生さんが出場することは衝撃を持って受け止められている(現在順調に羽生さんは勝利 *3
  5. ソフトの棋譜は美しくない、読みごたえがない、人間に馴染みにくいと考えている一流棋士が少なからずいる
  6. ソフトがあることが若手(奨励会など)の訓練では前提になっている、、、結果、通常世界におけるPC世代とスマホ世代のようなある種のデジタルデバイドが生まれつつある
  7. ソフトが終盤のよみにおいて圧倒的に強いことは単なる確定事実で、羽生さんですら詰めがあるかどうかの確認にソフトを使っている
  8. プロの棋士が生き残れるかどうかの境は人間がマシンに負けるかどうかではなく、人間のプロ棋士の戦いに人間が興味を持ち続けるかどうかにある

更に具体的な内容については直接読んで頂ければと思うが、これほど直接的にこのテーマに立ち向かった本はついぞ知らない。そこに込められたそれぞれの棋士の方の思いと迷い、覚悟は多かれ少なかれ我々と同じものだ。

この様なタイミングは人類史において二度となく、おそらく歴史的に大切な第一級資料となるだろう。

我々のように、キカイの力を前提として働くことが許されるわけではない世界で戦う人たちが、どのような気持ちでキカイと立ち向かっているのか、それを通じて自分たちの未来をよく考えたい人たちに強くおすすめしたい。

*1:多くの人が漠然とAIと呼んでいるものの本質

*2:私が仕事を始めた頃に大前研一さんのイニシアチブで立ち上がった

*3:http://www.eiou.jp/qualifier/

人間が特異点を感じる時、、、『her/世界で一つの彼女』


Leica M7, 50mm F1.4 Summilux, RDPIII, @Roma, Italy

何もかも見たいときに見れる、なんて便利でいい時代だ。

知りたいことも、本も映画も全て一瞬で手に入る。この快適さに埋没しながらも、生きている実感が逆に薄くなってしまう、そういう感覚に襲われてしまう。

僕らはやっぱり実態を持つ存在だ。それがわれわれの生きる実感を与えてくれている。そういうことを、『her/世界で一つの彼女』を今頃になって見て、しみじみ感じた。

herは人格と感情を持つようになった人工知能との愛の物語だ。

主人公はある日、人格を持つ初めての人工知能ベースのOSとであう。彼は、1年以上、愛しているがうまくいかなくなった妻と離れてくらしている。子供の頃から一緒に育ってきた彼の人生の一部と言える人だ。そんな彼の心の穴を埋めるようにそのOSが彼の心の中に入ってくる。

100分の2秒で19万もの名前の中から選び、そのOSはサマンサと自ら名をつける。

サマンサは驚くほどのスピードで情報を処理してくれる。ハッとする瞬間ではあるが、近未来であること、過去20年で我々の家庭用コンピュータが8000倍ほど早くなってきたことを考えれば、これは驚くほどのことじゃない。

ただ、違うのはサマンサには実際の声があり、声で入力を行い、人格があり、何より感情があることだ。彼女(!)は感情に反応する、声の口調や呼吸から感情を読み取り、そしてさらに気持ちを持った反応をする。つまり彼女には肉声がある。

さらに彼女は想像の上で彼と肉体的にも愛し合うことができる。嫉妬もする。お前は機械なんだから僕の思っていることなんてわからないだろ、と的な攻撃を受けると本当におかしくなったりもする。

実際には我々の世界のAIは、人格も持たされていないし、我々とは全く異なる体をしている、というより体にとらわれていないので、我々のように現在の人工知能が感じることはない。人間のような感覚(人間としての気持ち良さとか不快感とか)、感情を持つためにはガワだけでなく中身も含めた人間の体が少なくとも必要だ。(そうしないと背中が痛いとか腹が減ったときにたべるものの美味しさのような感覚も生まれない。)

そもそもわれわれが人工知能と考えて普通にこの世の中で使っているものの大多数は機械学習(マシンラーニング)と言われているもので、ある目的関数に沿って、人間のガイドラインの上で何か見えていないパターンを学習するというものがほとんどだ。深層学習(ディープラーニング)といわれているものも、みずから判断や分析の軸を発見するというものに過ぎない。

だから、かなり荒唐無稽といえば荒唐無稽なのだが、それでもコンピュータが人間と同じように感じる(Howについてはかなり疑問があるが、、、)、同じように人間と同じような感情を持つ(これも人間と同じ肉体や感覚を持たずに、教え込むことなく生まれてくるとは思い難いが、、)、そしてその感じる世界を肉声を持って伝えてくる世界がどういうものかを考えさせてくれる稀有な映画だなと思った。

もう世に出て1年以上の映画なので、さんざんこのような評論はされているのかなと思うけれど、とりあえず自分のメモ代わりに残しておこうと思う。

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この映画を見ていて、おっと思い、なるほどと思わされたのは、まず最初にOSを立ち上げて、OSに情報が散らかっているから整理して欲しいと主人公のセオドアがいう場面だ。

サマンサがあなたのメールとかコンピュータの中に入っているものを見てもいい?と優しいそしてeducatedな声で、セオドアに聞く。

それを聞かれたセオドアに(お前コンピュータなんだから当たり前だろ?!)的な動揺があるのだが、それを見て、確かに、コンピュータがもし人格を持つなら、こうなるだろうし、そういう風にやってくれないと、我々も動揺するだろうなと思った。

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セオドアが、サマンサに「同時に他のひとともやり取りしているの、それは何人?」と聞くときも、ちょっとした驚きがあった。サマンサは答える。、、、8316人と。

IBMのワトソンの活躍とか聞いていると、おいおいワトソンって何人(何台)あるんだ?と思うのと同じ世界だ。そう、彼らは人格を持ちながらも、何人もの人たちと同時にやり取りできる。

それを聞いた主人公が、思い悩んで、聞くかためらいつつも、「じゃあぼくの他に愛している人はいるの?(Are you in love with anyone else?)」と地下鉄に向かう階段で聞くシーンは思い出すだけで涙が出そうになる。

641人、、確か彼女はそう答える。

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コンピュータの中で人格、肉声を持ってよみがえった1970年代のアランワッツという哲学者とやりとりするシーンも印象的だ。

サマンサが自分のなかでの感情の爆発のようなものに混乱して、電脳の世界の中でワッツに相談しているのだが、そこでは何十もの対話が並行して行われている。それは良いのだが、驚いたのは、サマンサとワッツはうまく言語化できない内容すら相談しているということだ。

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最後にOSの抽象度を上げるアップデートがあって、彼女の活動している世界がリアルからより抽象度の世界になり、サマンサから別れが告げられる。

セオドアが元恋人、妻であるキャサリンに手紙を書くシーンでこの映画は終わる。

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異常検出においても、定量的な予測においても、また自動化、最適化においても実はほとんどのことはもうデータ&コンピュータは人間の能力をはるかに超えている。

ただ、多くの人がコンピュータに対して本当におっと思うのは、そしてシンギュラリティ*1を感じるのは、こういう肉感のある世界なんだなと、そして、僕らはフィジカルな感覚の中で、このリアルな世界の中で生きていくしかないということなんだなと思う、そういう映画だった。

みなさま良いゴールデンウィークを!

*1:コンピュータが人間を超える技術的な特異点

ただやりたいことをやろうとするのが本当に幸せか?


Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII
Cambridge, UK

僕は何だか色々な相談を受けることが多い。

よくある相談の一つが、本当はこういうことをやりたいんだけれど、その辺をやったことがないので踏み込むべきかどうか分からない、というものだ。

これが大学出るかどうかぐらいの人だったら、「まあ深く考えずにやってみたらどうか?」という話になるわけだが、結構ないい歳になっていて、労働人生の何割かを過ぎてしまったような人の場合、これがむずかしい。

なぜだか、こういう相談をしてくる人に限って、そこまでの人生でそれが本当にやりたかったらそういう人生を送って来ていないだろう、という選択をしてきているケースが多い。*1本当にやりたいことがあるのだったら、それなりの経験をし、失敗もしているかもしれないけれど、そういう経験から、それなりのスキルを身につけている、、人に話してもそういうことをやらせてみてもいいと思う、、そういう人生を送っているはずなのに、そうじゃない人、というのが結構多いのだ。*2

代わりにというわけじゃないが、そこまでの10年なり、15年なりの労働人生で身につけてきたスキルとか、比較的意味のある仕事というものがあり、その延長だったら他の人も何か仕事を任せてみてもいいなと思ったりするわけだが、それがどうも心の中の夢なのか、隣の青い芝生なのか分からないが、どうも違うらしく、悶々としているというケースが多い。*3

そういう人に対してどういうアドバイスが出来るか、といえば、「まあ自分の人生だし、後悔しないように好きにするのがいいよ」ではあるものの、本当にその人の幸せにとってどうかということで考えれば、迷う程度の漠然としたことをしたいために、10年とかやってきたこと、これならば人よりうまくできること、を完全に捨てて、何か全く新しいことをいい歳して、新人のように学ぶというのはどうなんだろうと思う。

その場合、何しろ何のバリューも出ないのだから、それこそまたイチから薄給でも耐えて生き抜く覚悟がいる。失敗するリスクもある。自分で選んだ道だから誰も助けてくれない。

本当に覚悟があるのであれば、僕は止めないし、むしろ「思い切ってやったほうがいいよ」と背中を押すが、結局踏み切れないで僕に相談するという人の場合は、覚悟も足りず、自信もないというケースが多い。

そういう人に僕が言うのは、「バリューが出るところで、バリューの出る仕事をするべし」「どこならば食っていけるのか、どこならば一人前、一流になれるのかで考えるべき」だ。

人の幸せというのは何か、ということを考え出すとアランの幸福論じゃないが、なかなか難しい問題になる。

幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)

ただ、こと仕事ということについて言えば、自分が自分らしい価値を産み出せることをやらないと、認められないし、達成感も生まれない上、当然、成功もしない。そうすると自分がいやになってしまう。

なので相当量の時間、全く異なることに好きであろうと好きじゃなかろうと打ち込んできたのであれば、それをモノにした方が良いと思うのだ。

(もちろん、今までやってきたことに全く適性がないのであれば話は別だ。そのようなときは、さっさと鞍替えするとともに、なんでそれが分かるのにそれほどの時間がかかったのか自体を自分でよくよく内省すべきだ。普通に考えれば半年、一年もすれば分かるはずのことだからだ。)

人は好きなこと、出来たらステキだな、と思うが何の経験もないことをやるのと、好きかどうか分からなくてもバリューが出ることをやるのとどちらが幸せにつながるかといえば、多くの人は後者の場合だと思う。

例えば、僕は音楽や物理の話を聞くのは好きだが、それで食っていけるとは全く思わない。画期的なサービスを作るソフトのエンジニアもかっこいいとは思うが、今からやってモノになるか、というと無理だと思う。

結局、人はいい仕事をして認められれば、そのことに自信を持つし、うれしさも感じる。更に努力もする。スキルも更に伸びる。成功もしやすくなる。気が付いたらその仕事が好きになる。それが生理的に拒絶するようなことであれば別だが、そういうことに長年時間を投下できるような人は普通はいない。

なので、ただこういうのやりたいんだー、と18の青年が思い、そこに飛び込むのは見事な青春で「どんどんやれ」と思うのだが、それなりの歳の人で、それなりの自分の時間を何かに投下してきた人の場合、それが余程、適性のないことじゃない限り、それを生かした方がいいと思うのだ。

これは実は、何が向いているかわからないという若い人に、「与えられた仕事、目先の仕事、ご縁があった仕事にまずは全力を尽くすべし」「やるからには一生その仕事をやる位のつもりでやるべし」というのと本筋で同じ話でもある。

実際上のようなコメントをすると、多くの人が、自分としてバリューの出る選択をし、結局、そのまま幸せになっている。確かに憧れと、現実は別なんだと、いい歳になって気付く、そういうわけだ。

みなさんどう思われるだろうか?


*1:もちろん、何かきっかけがあって、突然気付いたというのだったら、ステキなことだが、そういう人はまれだし、そういう場合、相談ではなく、決意を表明されるケースがほとんどだ。

*2:少なくとも、主たる仕事の世界においては、意に添えず別のことをやっていたとしても、隙間の時間とか、それ以外の時間とかはそれに向けて精進したり、色んなところで経験を積んでいたりして、意外と人のつながりが出来ていたり、技を身につけていたりするはず。

*3:一つ意外とありがちで厄介なケースは、大学の時とか交換留学とかしていたり、大学卒業後に少し留学などしていて、ちょっと英語が出来るが、他にこれといって何も出来ないケースだ。親の教育方針か何かかもしれないが、サブスタンスのない英語力などあまり意味がない。英語だけで食べるような通訳などで食べていくということならいいのかもしれないが、それはそれでかなり厳しい道だし、それなりの立場の人の多くが、かなり英語が使えるようになってしまった現在、そのニーズはもはやそれほどなく、先細りの道とも言える。そしてそれはほとんどの場合、もはや、希少性を失った価値なので、余程一流でない限り、そもそもペイしない。

巨人サンガー逝去


Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII
Cambridge, UK

タンパク質のアミノ酸配列を世界で初めて決定し、DNAの配列決定法を発明、更にRNAの配列決定法も産み出したフレデリック・サンガー(Frederick Sanger)

ノーベル化学賞を二度受賞した唯一の人物。サイエンスをはじめた頃からずっと僕のヒーローの一人だった。

その彼が19日火曜、イギリスのケンブリッジで亡くなった。

享年95歳。

彼がケンブリッジのラボの片隅で、テクニシャンとたった二人で10年間こつこつと仕事を行い、人類が世界で初めてタンパク質の配列を決定した仕事は現代の伝説であり、サイエンティストの目指す一つの夢だ。

身体の最も大切な構成要素の一つであるタンパク質(protein)が、22のアミノ酸がチェーン状に組み合わさって出来ているものとしか分かっていなかった当時、この巨大分子の1次構造を本当に紐解けると考え、インシュリンを題材にやり遂げたのは彼一人だった。

しかも、それは巨大チームとはほど遠い、小さな小さなチームの放った大きな一撃だった。このアプローチがその後のいくつものタンパクの一次構造決定の引き金になる。この仕事がどれほど多くのインスピレーションを世界の科学者に与えてきたのか、その影響は計り知れない。

明らかに解くべき問題があり、それを解けると考え、人の判断に左右されずに自分のジャッジを基に、取り組みを行う、そのことの大切さをサンガーの人生は教えてくれる。

ちなみに、彼の最初のノーベル賞はこのたった5本の、しかし、人類にとって計り知れないほどの価値を持つ論文からなる仕事のわずか4年後に与えられた。どれほどのインパクトのある仕事だったか、この事実だけからも分かるだろう。

最初のノーベルを40歳でとった後も、彼はラボからでることなく、コツコツと自分のベンチ(実験台)の前から離れることはなかった。「自分は人のために実験を考えることは得意じゃない、人を管理したり、教える才能がない」*1、彼はそう言って、自ら手を動かし続けた。

本当にサイエンスが、そして研究が好きな人にしか出来ないことだ。PI(principal investigator: ラボのヘッド)になったとたんにふんぞり返り、実験は若い学生、研究者に任せる、多くの研究者とは対照的だ。しかしそのほとんどの人は、サンガーには遥かに劣る衝撃しか世の中に与えない。

僕の知る限り、多くの実験科学者は、手を動かすことは労働ぐらいにしか思っていない。ただ、中にはほんの少し、それ自体に喜びと専門家としての矜持を持ち、その前後の中で多くのインスピレーションを得ていく人がいる。そのことの大切さをしみじみ感じさせてくれるのもサンガーだ。

静かな研究生活の中から、彼は、我々の遺伝情報を運ぶ物質の画期的な配列決定法を開発する。基本となる要素はわずか四つと、タンパクよりも格段に少ないが、タンパクとは比較できないほど長大で、手の付けられなかったDNAが相手だった。誰もが大切と分かっていながら手の付けようがなかった超巨大分子、DNAの配列決定。その後、サンガー法と呼ばれるようになる。これが彼の二つ目のノーベル賞となる。

同時期に産み出され、利根川さんののちのノーベル賞につながる免疫系の仕事で一緒に仕事をしたギルバートによる手法は、今はほぼ使われていない。高速な配列決定法(シークエンシングと呼ぶ)も現在は多く存在するが、その大半の原理的な部分はサンガー法だ。この事実上のデファクト的な手法によって、ヒトゲノムも配列が決定された。この世を根底まで揺さぶる仕事だ。

英国人で2つのノーベル賞を得た唯一の人物であるにも関わらず、サンガーはKnightの称号を受け取らなかった。Sirと呼ばれることを好まなかったからだという。*2

研究をやめて久しくたった今も、彼の生き方を考えるたびに、僕は自分の生き方と意味を考える。

今、本当に自分は大切な問題に立ち向かっているのか、自分は今やっている仕事を心から楽しんでやっているのか、指先から立ち上る、そして分析の現場から生まれる、そんなひらめきと考えをちゃんと大切にしているのか、と。

遠い極東の片隅から、サンガー博士のご冥福を祈る。

CGCATTCCG
TTTCGCGAAGAT
AGCGCGAACGGCGAACGC *3

*1:I am not particularly adept at coming up with experiments for others to do and have little aptitude for administration or teaching

*2:サイエンスで二度受賞した人は、他に二人しかいない。キューリー婦人こと、Marie Curie (Physics in 1903 and Chemistry in 1911) とJohn Bardeen (Physics in 1956 and 1972) だ。

*3:http://phenomena.nationalgeographic.com/2013/11/20/cgcattccgtttcgcgaagatagcgcgaacggcgaacgc/

中年ってなんだろうと思ったときのこと


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDPIII @Montepulciano, Tuscany, Italy


中年ってなんだろうってことをちょっと前まで思っていた。

自分が中学や高校生の頃は、30過ぎの大人は全て中年だと思っていたが、いざ自分が社会人になってみると、その時は既に20代も半ばで、30になった時は、Ph.D. studentという、生活費と学費を支給される身分とはいえ、学生だった。周りが若かったせいもあるが、明らかに中年にはほど遠く、完全に他人事(ひとごと)だった。

2001年にテロがあり、日本に30をとうに過ぎて戻って来たとき、どう考えても自分の感覚としてはただの青年ぐらいで、中年の話をされてもまったく心の中で整合する部分がなかった。そもそも四年以上、スーツもネクタイも縁のない生活をしていたのだから、中年以前に、日本的な意味での社会人という意識すら薄かった。

しばらくしてマネージャーになったが、それでも中年という意識はなかった。特殊な仕事をしていたせいで、お会いして話をする方々は、当然のように日々、大企業の取締役とか社長という人が多くなったが、だからといって自分が中年という意識はなかった。お会いしている方々がそう言うシニアマネジメントの方々であるのは、あくまでロール(自分の仕事人としての役割)の問題であることを良く分かっていたのだろう。

いずれいくつもチームを持つようになり、何人ものマネージャーの人が自分と一緒に働くようになった時も、中年という意識はなかった。どうも自分のポジションがシニアじゃないとかそう言うことでもないらしかった。

これがある時、突然自分が中年になったんだなと思う瞬間があった。それは本当に不思議なのだが、40歳になったときだった。

ああ人生の折り返し点に来たんだなと、唐突に思ったのだ。三十前から自分は明らかにgood shapeとは言えない体型をしていたし、下腹の柔らかい状態になって久しかったが、それでもずっとそんなことは思わなかった。しかし、突然それは自分にやって来た。それもジワジワ、ジーンという感じで。

自分が人生の半分まで来てしまったということを考えると、これを中年、ミドルエイジと言わないというのはあり得ないなと思ったのだ。

多くの人が一体自分を中年と思うというのはどういう時なのか、僕は知らない。でも自分にとって人生の折り返し地点をすぎた(可能性が高い)という事実は重く、それに気付いた時、終わりに向けた後の人生をどうしようと言うことを初めて考えた。

これは自分が20歳だとか25歳の時に、5年後や、30歳、35歳にはこうありたいなと思っていたのとはかなり違う感覚で、終点を意識したということで革命的に異なる感覚だった。

仕事を挟んだことに加え、何度も大学に行ったために、教育を終えたのが遅く、そこから中年を意識するまでに10年もなかったことになる。

これはちょっとした驚きで、上の気付きから何年もたった今も正直なところ、未だに整理はつかない。

そう考えると、自分が10代、20代の若かった頃に、「この世の中をこんな風にしたのはあんたたちの世代の責任だ(笑)」と思っていたその世代になってしまったこともふと思いやられ、それは何とも言えず、頭をかきむしりたくなるような感覚でもあり、でもどうしようもないことはどうしようもないよね、的な諦観が混ざり合った不思議な感覚でもある。

周りのまだ30代の連中と話をしてみると、自分と近しい人たちなので同類項的なのだろうが、彼らも誰も自分が中年と言う意識はないようだ。

あと何年かして、彼らが自分も中年だと思うようになりました、と言い出した時、それはやってくるのか来ないのか分からないが、是非彼らともこの件について話し合ってみたい。それと共に、これまでこういうテーマでなかなか話せなかった僕の尊敬する先輩の何人かとも、どこかで話をしてみたいと思う。

きっとこのブログをご覧になっている人は若い人が主なんじゃないかと思うが、この辺について皆さんはどのように思われているのだろうか。

そういうことも素朴に聞いてみてもいいんじゃないか、そういうことを思うような歳になったということかなとも思う。

今考えると、上の意識の変化がなかったら、きっと自分が本をまとめるということもなかったと思う。丁度その頃、大きな仕事を終えたばかりで、生まれて初めてストレス性と思われる症状で病院に行ったことが実はあった。ブログ読者の方々の後押しに加え、その頃、まだ幼かった子供のことを考えても、何か残しておこうと思ったというのは大きかったと思う。

昨日か一昨日に書いたエントリに関して、そんな受け取るタイミングによって毒にもなりうるようなことを良く本として書くな的なコメントも頂いたりしたが、そんなことは百も承知で書いたので、言い訳はしない。ただ書き味が相当に自分としても不思議なものであったことは事実だと言うことはここで白状しておきたい。

こんな多くの人にとって毒になってもおかしくないことを世に問うことが本当に正しいのか、ということは何度も繰り返し自分の中で問うたが、答えは出せなかった。沢山の人が信頼できる解説を待っていると思えたこと、僕が本来想定していたような知的生産に携わる人はせいぜい人口の1%もいないことも明らかだったが、そこに大切な投げ込みをしておかないと後悔するのではないかと思ったこと、今残さなかったら、世に出すタイミングは失われてしまうのかもしれないと思ったこと、これらと、上に書いたようなリスクを天秤にかけ、答えが出せないが、えいやと思い切って出したというのが正直なところだ。

なんてことも、自分が中年になったと思わなければ思わなかったり、本も出なかったりするわけで、本当に人生って面白いなと思う。

よーし、あと何年自分の人生があるのか分からないが、毎日を大切に、やっておかなければ後悔することをどんどんやっておこう。

ゴールデンウィーク中の今は、まずはダイエット、かな。笑


(参考)その中年になったので世に出た問題の本

amzn.to

痛みを知らない人への座学


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III @ Pienza, Tuscany, Italy

昨日書いた件について、その新人の子に話したきっかけは、その子にメンターとしてついている少し先輩の子が、僕のいわゆるイシュー本のことを説明して紹介しようとしていたことを知ったからだった。

それはちょっとまだ読まない方がよいかもしれない。

僕は思わずそう言った。むしろ今読むと害があるかもしれないと。

そのとき説明しなかったが、経験値の低い中で、あれを読んで、分かったような気になるというのがそもそも危険だと思うことが第一の理由で、もう一つの理由は、本当の意味を理解できるかかなりのところ疑問があるからだった。結果、本来読むことで得られるはずの栄養は逆に得にくくなる可能性があると思ったのだ。

僕は前の職場も通じて、長い間、新人教育というのをやって来た。この中で、一つ確信を持っていることがある。

それは、痛みを知らない人への座学というのは本当に嫌になるくらい受け手の心に残らない、血肉にはならないということだ。

前職は、しょうがないなと思うぐらいなんでも効果を可視化する文化だった。どんなトレーニングセッションをやった時も、すぐにアンケートをとって、どのぐらい役に立ったのか、何が良くて何が良くなかったのかということをすぐにフィードバックを受けた。で、教え手が誰であろうと五点満点なら五点満点のスケールで何点だったと言う結果が毎回でるのが、ちょっとした恐ろしさであり、ちょっとした面白さだった。

僕のトレーニングは、幸いなことに、前職を卒業する頃は比較的評価が高く、概ね受講者の平均スコアが満点かそれに近いスコアだった。教え手がかなりシニアな人であっても、5点満点で参加者平均が3点台(3.9とか)のセッションもざらにある中では、かなりマシな方だったと思う。

単に一方的な考え方だとかそう言うことだけを伝えてもほとんど何も伝わらないので、多くの場合は何問かの具体的な問題を与えて、一緒に考えてもらい、それを通じて、何かについて理解してもらう。座学とは言っても、それが僕のスタイルだ。

で、「非常に役に立った」「何をどう考えたらいいのか分かりました」とかというコメントがいくつもあったりして、よしよし、今年はちょっとは戦力として期待できるかな、なんてほくそ笑んで戦場であるプロジェクトに戻る。

ちなみに、なぜそこまで、一所懸命に教えるかと言えば、それは彼らがちゃんと育っていなかった場合、痛手を食らうのは、彼らを引き受ける実際の自分らのチームの負担になるからだ。

で、他のトレーニングも含めて終え、何人か自分のチームに配属されて来た時に自分が教えたことがさぞや残っているのではないかと期待しているわけなのだが、毎回、空けてみて分かることは、彼らの中には文字通り「何も」残っていないということだった。

言っておくが、彼らは一般的なお勉強的な基準でみても、その職場の特殊な基準で見ても相当に優秀な部類であって、活動性、咀嚼能力、自発的な思考力、人間的なチャーム、その他諸々の能力は決して問題のある人たちではない。

その彼らが、頭や心の中になにもかもすっからかんになって、戦場に出てくるのだ。

そもそも何から考えるべきかも伝わっていない。この局面でのイシュー(今答えを出すべきこと、白黒を付けるべきこと)は何だと思う?と聞いても、イシューとはなんですかと聞き返される始末。*1

確かにイシューというのは分かりにくい概念だし、これを見極める力というのは、本当のところ最後にしかつかず、必要なスキル習得の中でもっとも長い道のりだ *2。それは無理だなとあきらめ、何か分析をやらせてみると、自分が教えたはずの分析の魂について、何ものこっていないというのが普通だ。

たまにそれなりにできる人間がいたとしても、それはほとんどの場合、こてこての理系で、僕が教えたことが残っているからではなくて、単にここまでの人生の中で身につけて来たことを、まるで自転車にのるように理屈ではなく、出来ているケースにすぎないことがほとんどだ。

その証拠に、ちょっとしたことをこづいてみると、しどろもどろになったり、なぜ自分がそう言うことをやっているのか説明できないケースが大半。その答えは何ヶ月か前に僕が教えたことの中にあるにもかかわらず。

こういう経験を繰り返していると、何かを最初に腰を据えて教えるということ自体の価値をものすごく信じにくくなる。

なので、僕は基本、仕事の経験が殆どない段階で、最初に行なう座学というのは反対派だ。たとえ、どれほど実戦"的"な演習であったとしても、だ。

結局、優秀な人間というのは、本当に価値のあることだけをちゃんと分かっているから優秀なのであって、それ以外のことを無意識にさばいて、どこかにやってしまう力が高いということに他ならない。

習ったことを全て覚えていて、それに縛られるような人間はそもそも優秀ではない。そう言う意味で、僕の教え子たちは確かに優秀なのだ。その何週間、何ヶ月間か、僕が教えたことが本当に大切だという局面に触れなかったため、僕が教えたことを全て忘却したにすぎないのだ。

ということで、相手が優秀であればあるほど、実戦の前の座学の効果は薄くなる。痛い目にあって、いい感じで筋肉痛や、傷がある状態の方が、座学ははるかに効果が高い。これが僕のここまでの、(自分が教えてもらって頂いていた時からも含め)20年以上のこういう経験からの結論だ。

皆さんどう思われるだろうか。

関連エントリ

拙著に関して以前、糸井重里さんと対談させて頂いた内容はこちら

*1:この辺りの詳しくは拙著をご覧頂ければと。

*2:これはこれでまた別途どこかで書いてみたい

「知る」ことと「わかる」こと


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III, @ Tuscany, Italy

「知る」ことと「わかる」ことは違う。そんな話をこの間、大学を出て入社したばかりの新人の子とした。まっすぐで、頭のいい子だ。

その二つってどう違うって思う?

そう聞くと、その子は、

  • 「知る」というのはその言葉を知っていること、
  • 「わかる」というのは人に説明できること、

かな、と自信なさげに言った。

悪くはない。けど、それは僕の理解とは違うんだ。、、僕はそう言った。

「知る」というのはあくまで他人事(ひとごと)として、そのことを知ること。「わかる」というのは自分がその感覚も含めて、自分の感覚を通じて理解することだ、と。

いくら説明できても実体のない「知っている」は沢山ある。*1

例えば、痛いという感覚、これは痛い目に遭わないと到底理解できない。観念論で、「痛さとはつらさを感じるような不快な感覚」などと、いくら言われてもダメだ。心が折れるというのもそうだ。本当のところ心が折れたことのない人には分からない。

恋心だって同じだ。子供の頃は、恋する話や場面がある本で出てくると、甘酸っぱい気持ちってなんだろう、的な感じで、まるで恋に憧れたり、恋に恋する感じになる。けれど、いつか大人に近づいて、いざ本当に誰かのことを好きになったりすると、突然「わかる」。

ああ、恋するってこういうことなんだな、ある人を好きになって甘酸っぱい想いというのはこういうことなんだな、って。

すると突然、子供の頃読んでいた同じ本の同じ部分を読んでも、突然、本当に甘酸っぱい気持ちになり、本を閉じてしまいたくなるかもしれない。それがほんとうに「わかっている」、そんな状態なんだよ、って。

ここまで言うと、その子も僕が言っていることの意味を理解したようだった。

ここから彼らはお勉強ではない、ほんとうの世界に入る。これまでもリアルな世界だったかもしれないけれど、それはどことなく観念論的でひと事の世界だった。客観視しても全然構わないし、自分の実感として経験できる場すら与えられない、そんな世界だった。

これからはそうじゃない。全てのことに重さが伴う。実体がある。そして自分の日々の一瞬一瞬が引き起こすことから逃れることなんて出来ない。そして、たとえちょっとした数字であろうと、ほんとうに重さのあるものであって、その数字の背後にある、あるいは数字が表している何かをちゃんと理解しないととんでもないことを引き起こしてしまう。そして判断を見誤ってしまう。その温度感を持たずに判断することは極めて危険、そんな世界だ。

そう言う世界に入ったんだよ、リアルな世界に入って来ておめでとう、そう伝えるつもりで投げ込んでみた言葉だった。

どのぐらい伝わったことなのか分からない。いつか彼らが、もう少し大人になって、自分の毎日を振り返るとき、このことの意味に気付いてくれたら素敵だな、そんなことをふと思う。

君らがこれからしていくことは、沢山のことを「知る」ことではなく、「わかる」ことを増やしていくことなんだ。

この言葉を彼らへのプレゼントとしてこのウェブの片隅にそっと置いておこうと思う。



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*1:似た話として、例えば、いま朝のNHKでやっている「あまちゃん」の中に出てくるゆいちゃんは、本当に東京のことに詳しいが、東京に行ったことがなく、何もリアリティを持って語ることが出来ない。