仕事が進まないときの話

Leica M7, Summilux 50/1.4, RDPIII @ Pienza, Tuscany, Italy

仕事が全然進まない時、というのがたまにある。

実は今もそれで、連休中なのに仕事を持ち帰って来てしまっている。頭の調子が悪いと言うか、うまくかちっとはまらない。

人によると思うが、僕の場合、難しいというより、過度に精神的な負荷が高い仕事が重なると、こうなることがある。

過度に精神的な負荷が高い仕事というのは、なんというか入り組んだ、関係する受け手だとか文脈のことをかなりああだこうだと読み切って、それに合わせて、精妙に組み込まないといけない組み込み細工のような仕事のことだ。

単に疲れているだけのときかもしれないが、そう言うのが折り重なって来ると、お腹いっぱいみたいになって、時たま、心か脳かどこかがダウンしてしまう。

本当に不思議だ。

まあ自然の調節弁なんだろう。

そういうときはどうするか、と言えば、みんなそれぞれのやり方があると思うけれど、自分は概ね次の4つぐらいのことをしている。

1.そもそも仕事するのをしばらくやめる

そう言う時に限って、一分でも大切に仕事をしたいものだが、そこをぐっとこらえて何か全く別のことをする。(実際、今こうやってブログを書いて気晴らしをしている。笑)

自分の仕事とは直接全く関係のない人と話をするというのも悪くない。ただその辺を散歩して来るというのも悪くない。


2.何か簡単だからといって後回しになっているが、どうせ割とすぐにやるべきことをやる

大体、アタマが不調になる時というのは、アウトプットというよりインプットがメインの日が数日続いた時になりやすい。

単に、アウトプットの弁が閉じている感じになっていたりするケースが多いので、何でもいいから書いてみる、出してみると言う感じだ。

To Doリストの行数が少し減るだけで、結構気晴らしになるし、なんであれ、何かが前に進むというのは気持ちがいいものだ。小さな弾みにもなるし、元気にもなる。掃除でもいいからやるというのは悪いことじゃない。それで疲れて動けなくなってしまうと本末転倒だが、それでもそれがそのタイミングでやるべきことなんだったら、そもそもやろうとしていることが多すぎるからそうなっているので、まあしょうがない。


3.ものすごい強烈なプッシュを受ける(笑)

意外と効くのがこの外圧の活用だ。どうにも重い腰が上がらないときなのか、着手が出来ないときは、もうケツを切ってしまうだけでなくて、そのオーダーのもとに接する、という手段だ。

かつてコンサルタントだったときは、とにかく考えて前に進まないときは、深く考えずにクライアントさんのところにいく、いろいろ生のお話をして来る、というのが劇的に効することが多かった。

商売とかマーケティングの話であれば、エンドユーザだとかお客さんのお話をとにかく直接聞いて来るというのも良い。この生の感覚が、観念論的な行き詰まり感を一気に打破してくれる。


4.大切な玉ぐらいに思っている話があれば、それをさっさと出してしまう

これもいい。

後になればなるほど初期的な話とちがったちゃんとしたものを出そうとするが、これがよけいに不思議なプレッシャーになって大したものが出せなかったりする。自分の仕事のクオリティにプライドを持っていたりするとよけいにそれが起こりがちだ。

なので、それを一気にまとめあげる勢いがなくなってしまっているときは、どんなものでもさっさと出してしまう、それで批評と言うかフィードバックにさらされるというのはなかなか効果的だ。

で、それでも行き詰まったときは?

休む!

しょうがないよね。

合わせて、身体を動かすのもいい。

休む気にならないところを強引に休むために、身体を動かすと、日頃全くと言っていいほど運動しない僕は*1、クタクタになってそもそも無理できない性格なので、バタンと倒れて寝てしまう。

次の日に軽く筋肉痛になったりするが、それもまた良し。

少なくとも昨日とは違う自分になったことが実感できて、先に進めたりする。

最終兵器は、放置だ。

もうほっておく。何れにしても人は責任から逃げられないので、ギリギリになったらどうせやる。寝ないでもやるに決まっている。(実際には寝るが。笑)

なので、もう自分を信じて、もういても立ってもいられなくなるまで放置してしまうというのは実はそれほど悪い手段ではなかったりする。*2

読者諸兄姉は、きっと同じようななんだか前に進まない感じになる人は少ないのではないかと思うが、とはいうものの、似たような感じになる人も実はそれなりにいるのではないかと思う。

結構この辺の芸の深さというか、手練手管??が総合的に見た時の人の生産性に直結しているのではないかと思ったりもする。

それが時間と共に磨き込まれたタイムスキルの一つなのかな。

みなさまステキなゴールデンウィークを!




*1:少々恥ずかしい

*2:実は去年アクセス解析サミットというののキーノートスピーチをやったときも、前日の夜11時以降まで別のこれもケツの切れた仕事をやっていて、そこから早朝にかけて用意した。が、結構好評だったようでホッとしている。これ以外にも似た経験は実は多く、「ギリギリさ」と「アウトプットの質」は明らかに関係しないということは経験上断言できる。全く自慢にはならないが、よほど自分を信じていないとこういうことは出来ないとも言える。(たしか同じ週にあった昨年のTEDxUTokyoも前日の夜に頑張った、、。担当の学生の方には多大な心配と迷惑をかけてしまったが、こちらも無事終了した。)

中年ってなんだろうと思ったときのこと


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDPIII @Montepulciano, Tuscany, Italy


中年ってなんだろうってことをちょっと前まで思っていた。

自分が中学や高校生の頃は、30過ぎの大人は全て中年だと思っていたが、いざ自分が社会人になってみると、その時は既に20代も半ばで、30になった時は、Ph.D. studentという、生活費と学費を支給される身分とはいえ、学生だった。周りが若かったせいもあるが、明らかに中年にはほど遠く、完全に他人事(ひとごと)だった。

2001年にテロがあり、日本に30をとうに過ぎて戻って来たとき、どう考えても自分の感覚としてはただの青年ぐらいで、中年の話をされてもまったく心の中で整合する部分がなかった。そもそも四年以上、スーツもネクタイも縁のない生活をしていたのだから、中年以前に、日本的な意味での社会人という意識すら薄かった。

しばらくしてマネージャーになったが、それでも中年という意識はなかった。特殊な仕事をしていたせいで、お会いして話をする方々は、当然のように日々、大企業の取締役とか社長という人が多くなったが、だからといって自分が中年という意識はなかった。お会いしている方々がそう言うシニアマネジメントの方々であるのは、あくまでロール(自分の仕事人としての役割)の問題であることを良く分かっていたのだろう。

いずれいくつもチームを持つようになり、何人ものマネージャーの人が自分と一緒に働くようになった時も、中年という意識はなかった。どうも自分のポジションがシニアじゃないとかそう言うことでもないらしかった。

これがある時、突然自分が中年になったんだなと思う瞬間があった。それは本当に不思議なのだが、40歳になったときだった。

ああ人生の折り返し点に来たんだなと、唐突に思ったのだ。三十前から自分は明らかにgood shapeとは言えない体型をしていたし、下腹の柔らかい状態になって久しかったが、それでもずっとそんなことは思わなかった。しかし、突然それは自分にやって来た。それもジワジワ、ジーンという感じで。

自分が人生の半分まで来てしまったということを考えると、これを中年、ミドルエイジと言わないというのはあり得ないなと思ったのだ。

多くの人が一体自分を中年と思うというのはどういう時なのか、僕は知らない。でも自分にとって人生の折り返し地点をすぎた(可能性が高い)という事実は重く、それに気付いた時、終わりに向けた後の人生をどうしようと言うことを初めて考えた。

これは自分が20歳だとか25歳の時に、5年後や、30歳、35歳にはこうありたいなと思っていたのとはかなり違う感覚で、終点を意識したということで革命的に異なる感覚だった。

仕事を挟んだことに加え、何度も大学に行ったために、教育を終えたのが遅く、そこから中年を意識するまでに10年もなかったことになる。

これはちょっとした驚きで、上の気付きから何年もたった今も正直なところ、未だに整理はつかない。

そう考えると、自分が10代、20代の若かった頃に、「この世の中をこんな風にしたのはあんたたちの世代の責任だ(笑)」と思っていたその世代になってしまったこともふと思いやられ、それは何とも言えず、頭をかきむしりたくなるような感覚でもあり、でもどうしようもないことはどうしようもないよね、的な諦観が混ざり合った不思議な感覚でもある。

周りのまだ30代の連中と話をしてみると、自分と近しい人たちなので同類項的なのだろうが、彼らも誰も自分が中年と言う意識はないようだ。

あと何年かして、彼らが自分も中年だと思うようになりました、と言い出した時、それはやってくるのか来ないのか分からないが、是非彼らともこの件について話し合ってみたい。それと共に、これまでこういうテーマでなかなか話せなかった僕の尊敬する先輩の何人かとも、どこかで話をしてみたいと思う。

きっとこのブログをご覧になっている人は若い人が主なんじゃないかと思うが、この辺について皆さんはどのように思われているのだろうか。

そういうことも素朴に聞いてみてもいいんじゃないか、そういうことを思うような歳になったということかなとも思う。

今考えると、上の意識の変化がなかったら、きっと自分が本をまとめるということもなかったと思う。丁度その頃、大きな仕事を終えたばかりで、生まれて初めてストレス性と思われる症状で病院に行ったことが実はあった。ブログ読者の方々の後押しに加え、その頃、まだ幼かった子供のことを考えても、何か残しておこうと思ったというのは大きかったと思う。

昨日か一昨日に書いたエントリに関して、そんな受け取るタイミングによって毒にもなりうるようなことを良く本として書くな的なコメントも頂いたりしたが、そんなことは百も承知で書いたので、言い訳はしない。ただ書き味が相当に自分としても不思議なものであったことは事実だと言うことはここで白状しておきたい。

こんな多くの人にとって毒になってもおかしくないことを世に問うことが本当に正しいのか、ということは何度も繰り返し自分の中で問うたが、答えは出せなかった。沢山の人が信頼できる解説を待っていると思えたこと、僕が本来想定していたような知的生産に携わる人はせいぜい人口の1%もいないことも明らかだったが、そこに大切な投げ込みをしておかないと後悔するのではないかと思ったこと、今残さなかったら、世に出すタイミングは失われてしまうのかもしれないと思ったこと、これらと、上に書いたようなリスクを天秤にかけ、答えが出せないが、えいやと思い切って出したというのが正直なところだ。

なんてことも、自分が中年になったと思わなければ思わなかったり、本も出なかったりするわけで、本当に人生って面白いなと思う。

よーし、あと何年自分の人生があるのか分からないが、毎日を大切に、やっておかなければ後悔することをどんどんやっておこう。

ゴールデンウィーク中の今は、まずはダイエット、かな。笑


(参考)その中年になったので世に出た問題の本

amzn.to

痛みを知らない人への座学


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III @ Pienza, Tuscany, Italy

昨日書いた件について、その新人の子に話したきっかけは、その子にメンターとしてついている少し先輩の子が、僕のいわゆるイシュー本のことを説明して紹介しようとしていたことを知ったからだった。

それはちょっとまだ読まない方がよいかもしれない。

僕は思わずそう言った。むしろ今読むと害があるかもしれないと。

そのとき説明しなかったが、経験値の低い中で、あれを読んで、分かったような気になるというのがそもそも危険だと思うことが第一の理由で、もう一つの理由は、本当の意味を理解できるかかなりのところ疑問があるからだった。結果、本来読むことで得られるはずの栄養は逆に得にくくなる可能性があると思ったのだ。

僕は前の職場も通じて、長い間、新人教育というのをやって来た。この中で、一つ確信を持っていることがある。

それは、痛みを知らない人への座学というのは本当に嫌になるくらい受け手の心に残らない、血肉にはならないということだ。

前職は、しょうがないなと思うぐらいなんでも効果を可視化する文化だった。どんなトレーニングセッションをやった時も、すぐにアンケートをとって、どのぐらい役に立ったのか、何が良くて何が良くなかったのかということをすぐにフィードバックを受けた。で、教え手が誰であろうと五点満点なら五点満点のスケールで何点だったと言う結果が毎回でるのが、ちょっとした恐ろしさであり、ちょっとした面白さだった。

僕のトレーニングは、幸いなことに、前職を卒業する頃は比較的評価が高く、概ね受講者の平均スコアが満点かそれに近いスコアだった。教え手がかなりシニアな人であっても、5点満点で参加者平均が3点台(3.9とか)のセッションもざらにある中では、かなりマシな方だったと思う。

単に一方的な考え方だとかそう言うことだけを伝えてもほとんど何も伝わらないので、多くの場合は何問かの具体的な問題を与えて、一緒に考えてもらい、それを通じて、何かについて理解してもらう。座学とは言っても、それが僕のスタイルだ。

で、「非常に役に立った」「何をどう考えたらいいのか分かりました」とかというコメントがいくつもあったりして、よしよし、今年はちょっとは戦力として期待できるかな、なんてほくそ笑んで戦場であるプロジェクトに戻る。

ちなみに、なぜそこまで、一所懸命に教えるかと言えば、それは彼らがちゃんと育っていなかった場合、痛手を食らうのは、彼らを引き受ける実際の自分らのチームの負担になるからだ。

で、他のトレーニングも含めて終え、何人か自分のチームに配属されて来た時に自分が教えたことがさぞや残っているのではないかと期待しているわけなのだが、毎回、空けてみて分かることは、彼らの中には文字通り「何も」残っていないということだった。

言っておくが、彼らは一般的なお勉強的な基準でみても、その職場の特殊な基準で見ても相当に優秀な部類であって、活動性、咀嚼能力、自発的な思考力、人間的なチャーム、その他諸々の能力は決して問題のある人たちではない。

その彼らが、頭や心の中になにもかもすっからかんになって、戦場に出てくるのだ。

そもそも何から考えるべきかも伝わっていない。この局面でのイシュー(今答えを出すべきこと、白黒を付けるべきこと)は何だと思う?と聞いても、イシューとはなんですかと聞き返される始末。*1

確かにイシューというのは分かりにくい概念だし、これを見極める力というのは、本当のところ最後にしかつかず、必要なスキル習得の中でもっとも長い道のりだ *2。それは無理だなとあきらめ、何か分析をやらせてみると、自分が教えたはずの分析の魂について、何ものこっていないというのが普通だ。

たまにそれなりにできる人間がいたとしても、それはほとんどの場合、こてこての理系で、僕が教えたことが残っているからではなくて、単にここまでの人生の中で身につけて来たことを、まるで自転車にのるように理屈ではなく、出来ているケースにすぎないことがほとんどだ。

その証拠に、ちょっとしたことをこづいてみると、しどろもどろになったり、なぜ自分がそう言うことをやっているのか説明できないケースが大半。その答えは何ヶ月か前に僕が教えたことの中にあるにもかかわらず。

こういう経験を繰り返していると、何かを最初に腰を据えて教えるということ自体の価値をものすごく信じにくくなる。

なので、僕は基本、仕事の経験が殆どない段階で、最初に行なう座学というのは反対派だ。たとえ、どれほど実戦"的"な演習であったとしても、だ。

結局、優秀な人間というのは、本当に価値のあることだけをちゃんと分かっているから優秀なのであって、それ以外のことを無意識にさばいて、どこかにやってしまう力が高いということに他ならない。

習ったことを全て覚えていて、それに縛られるような人間はそもそも優秀ではない。そう言う意味で、僕の教え子たちは確かに優秀なのだ。その何週間、何ヶ月間か、僕が教えたことが本当に大切だという局面に触れなかったため、僕が教えたことを全て忘却したにすぎないのだ。

ということで、相手が優秀であればあるほど、実戦の前の座学の効果は薄くなる。痛い目にあって、いい感じで筋肉痛や、傷がある状態の方が、座学ははるかに効果が高い。これが僕のここまでの、(自分が教えてもらって頂いていた時からも含め)20年以上のこういう経験からの結論だ。

皆さんどう思われるだろうか。

関連エントリ

拙著に関して以前、糸井重里さんと対談させて頂いた内容はこちら

*1:この辺りの詳しくは拙著をご覧頂ければと。

*2:これはこれでまた別途どこかで書いてみたい

「知る」ことと「わかる」こと


Leica M7, Summilux 50/1.4, RDP III, @ Tuscany, Italy

「知る」ことと「わかる」ことは違う。そんな話をこの間、大学を出て入社したばかりの新人の子とした。まっすぐで、頭のいい子だ。

その二つってどう違うって思う?

そう聞くと、その子は、

  • 「知る」というのはその言葉を知っていること、
  • 「わかる」というのは人に説明できること、

かな、と自信なさげに言った。

悪くはない。けど、それは僕の理解とは違うんだ。、、僕はそう言った。

「知る」というのはあくまで他人事(ひとごと)として、そのことを知ること。「わかる」というのは自分がその感覚も含めて、自分の感覚を通じて理解することだ、と。

いくら説明できても実体のない「知っている」は沢山ある。*1

例えば、痛いという感覚、これは痛い目に遭わないと到底理解できない。観念論で、「痛さとはつらさを感じるような不快な感覚」などと、いくら言われてもダメだ。心が折れるというのもそうだ。本当のところ心が折れたことのない人には分からない。

恋心だって同じだ。子供の頃は、恋する話や場面がある本で出てくると、甘酸っぱい気持ちってなんだろう、的な感じで、まるで恋に憧れたり、恋に恋する感じになる。けれど、いつか大人に近づいて、いざ本当に誰かのことを好きになったりすると、突然「わかる」。

ああ、恋するってこういうことなんだな、ある人を好きになって甘酸っぱい想いというのはこういうことなんだな、って。

すると突然、子供の頃読んでいた同じ本の同じ部分を読んでも、突然、本当に甘酸っぱい気持ちになり、本を閉じてしまいたくなるかもしれない。それがほんとうに「わかっている」、そんな状態なんだよ、って。

ここまで言うと、その子も僕が言っていることの意味を理解したようだった。

ここから彼らはお勉強ではない、ほんとうの世界に入る。これまでもリアルな世界だったかもしれないけれど、それはどことなく観念論的でひと事の世界だった。客観視しても全然構わないし、自分の実感として経験できる場すら与えられない、そんな世界だった。

これからはそうじゃない。全てのことに重さが伴う。実体がある。そして自分の日々の一瞬一瞬が引き起こすことから逃れることなんて出来ない。そして、たとえちょっとした数字であろうと、ほんとうに重さのあるものであって、その数字の背後にある、あるいは数字が表している何かをちゃんと理解しないととんでもないことを引き起こしてしまう。そして判断を見誤ってしまう。その温度感を持たずに判断することは極めて危険、そんな世界だ。

そう言う世界に入ったんだよ、リアルな世界に入って来ておめでとう、そう伝えるつもりで投げ込んでみた言葉だった。

どのぐらい伝わったことなのか分からない。いつか彼らが、もう少し大人になって、自分の毎日を振り返るとき、このことの意味に気付いてくれたら素敵だな、そんなことをふと思う。

君らがこれからしていくことは、沢山のことを「知る」ことではなく、「わかる」ことを増やしていくことなんだ。

この言葉を彼らへのプレゼントとしてこのウェブの片隅にそっと置いておこうと思う。



関連エントリ

*1:似た話として、例えば、いま朝のNHKでやっている「あまちゃん」の中に出てくるゆいちゃんは、本当に東京のことに詳しいが、東京に行ったことがなく、何もリアリティを持って語ることが出来ない。

来るべし、見るべし、やるべし


Leica M7, Summilux 50mm F1.4, RDP III @ near Pienza, Tuscany, Italy


昨日も今日も本当に久しぶりにグルイン*1ばっかりやっていたので、少々疲れた。でも、たくさんのエネルギーと生々しい感覚を得た。生肉を食べた気分。

マーケットに肉薄するのはやっぱり楽しい。そしてこのintrospect(肉化した状態で見えてくるもの)こそが、大切だなといつもながらにしみじみ実感。

特にモデレータとして直接接している時の情報量はマジックミラー越しと比べると桁違いに多い。(ミラー越しは紙で見るまとめの100倍は情報が多いので、もう計り知れないほどの情報量と言える。)

理屈より市場、数字より実体!

来るべし、見るべし、やるべし。


ps. あまりにも長く書いてこなかったので、少々反省し、何かちょっとしたメモでも書いていこうと思います。

*1:グループインタビュー。Focus Group Interview。FGIと呼ばれることも。取り扱うテーマの視点から比較的近しい属性の人を集めて、生の声を聞くインタビュー方法のこと

対象に肉薄したい


GXR, 35mm Nokton Classic F1.4, 気仙沼


行動を伴わないと何事もただしく理解できない。アタマはあくまで身体に付き添うもの、ということを最近しみじみ実感する。

脳と神経の側から見ると当たり前のことなんだけれど、身体と脳は全く切り離せない。このように世界を感じる自分の身体があって、このように考える自分の脳がいる。身体と脳は1セットだ。

例えば、色の三原色という言葉があるが、これは人間の色覚にとって三原色なんであって、鳥にとっては違う。あまり聞いたことがないかもしれないけれど、鳥には4つの異なる色覚があり(これをテトラクロマティックという)、ハトは恐らく五色、つまりペンタクロマティックだと推測されている。

彼らの感じる世界なんて僕らには理解できない。彼らの目を僕らの脳に直接つなげば何か分かるのかもしれないけれど、この実験をしようと思えば、脳の構造に影響を与える必要があるので(つまり四色なり五色を理解できる脳の側の構造にする必要がある)Critical periodとよばれる脳の対応力(可塑性という)が非常に高い時期*1につなぎ直してそのままにしておかないといけない。

けれど、色覚というのは、物理現象ではなくて、あくまで脳の中での合成物だから*2そのような異様な手術を受けた個体があったとして(別にヒトである必要はないです。笑)、その個体がどう感じるかなんて、理解はやっぱり全く出来ないということになる。

かなり極端に思われるかもしれないけれど、結局僕らはヒトに限らず、感じる内容から自分のやっていることを理解するということを繰り返しているので、直接的に感じることがないと、なにもちゃんと理解した気がしない。夢の中では脳が外からの刺激をほとんど遮断しているので、何かほんとにしているように感じるけれど、起きていて、歩くことを想像する、というのと、実際に歩いている、ということの違いは明確で、これは足や身体が受ける振動から感じることが僕らの実感そのものを作っていることを示している。

これは毎日の日常で、同じような苦痛を感じたことがない人の話は理解できないとか、その仕事をしていない人にはその仕事をしている人の話はやっぱりいくら聞いても理解できない、というのと同じだ。失恋した人が、同じような大変な目にあった人によく相談する、というのがドラマでよく出てくるけれど、あれも同じだ。年末伺った気仙沼陸前高田も全くその通りだった。

この意味において、「書を捨てよ、町へ出よう」と言った寺山修司に僕は心から賛同する。

また、これは、僕みたいな人間がしているような知的生産的な仕事においても全く同じで、実際に身体を動かして、その場の人と直接向かい合い、あるいは課題に向かい合い、直接イシューを拾い出し、直接、手を動かして、分析的なアプローチを設計する。それを更に直接、実行して、意味合いをひろい、それをベースに直接、自分でイシューにそった表現をする。そのようなことを実際に繰り返して体験しないと、何も理解なんて出来ない。*3

この間も、僕の近くで働く人たちを集めて、ちょっと分析だとか、イシュー出しをやってみる、あるいはチャートを書き直す、というセッションをやった。これまでさんざんレクチャーを色んなところでやって、座学がほとんど何も産み出さないことを実感しているので*4、実践を繰り返して、その場でぼこぼこにフィードバックするブートキャンプ方式(笑)でやってみた。

すると、みんな自分が驚くほどなにもできないこと、そして僕が話していることの殆どを理解できていなかったことを痛感し、なのに喜んで帰っていった。(人間って結局、マゾなのかも。笑)

僕が今やっている仕事もそうだ。仕事なんて毎回新しい問題に立ち向かうものなのだから、毎回フレッシュな自分がいる。そして、自分が何も分かっていなかったことを実感する。アタマって、何かを理解するにはあまり向いていない。ただ、理解した体験を積み重ねて、保存する、それが僕らのアタマとカラダなんだと思う。

なんてことを、土曜の朝の寝起きのアタマでふと思う。

よし、ということで、今日も対象に肉薄だ!

*1:生まれてすぐから人間だったら5−6歳まで

*2:かなり納得感ないですが、受け入れるしかないかなと

*3:だから、本筋ではないですが、こういうテクニック本なんて一冊だけいいものを読めば十分なので、本当に理解し身につけたかったら、スポーツと同じように、あとは少しでも多く、実践し考えた方がいいです。

*4:どんなにそのトレーニングの評価が高くても、その人たちが僕のチームに来ると何も出来ないことが普通。苦笑

ファイト新聞と箱根の記録


GXR, 35/1.4 Nokton Classic, 気仙沼の避難所生活を送る子供達の有志が自発的に作り、多くの人を励まし支えた、ファイト新聞編集部の看板 (歴史的遺産として保存が決定)

昨日、一昨日と、箱根駅伝があった。ご覧になった方も多いのではないかと思う。

去年の柏原の走りがあまりにも鮮烈だったため、駅伝そのものにはさして造詣のない僕もご多分に漏れず見た。すると、最初の最初から東洋大が強い。あまりにも強い姿に圧倒されたまま、ゲームセット。

東洋大の圧勝、見事というほかはない。データ放送のおかげで、過去と比べてもどれだけ異様なスピードで走っているかはリアルタイムでよく分かった。

今振り返って、記録を丁寧に見てみると、第一回の大正9年は15時間という悠長な時代。何しろ優勝校が東京高等師範学校(東京高師)だ。

8回目(昭和2年)までは14時間台の戦いが続き、それ以降は13時間台の競争。で、徐々に早くなるものの、私が生まれるまだ前の昭和35年(第36回)にようやく11時間台の戦いに突入。そこから40年以上に渡り、駅伝は11時間台、という時代が続く。

この11時間の壁をこれまで打ち破ったのは、わずかに二回。平成六年(70回)の山梨学院大10時間59分13秒と、昨年(87回)の早稲田10時間59分51秒だけだ。*1

それを大幅に上回った、今回の記録、目で見て実感してみようと思い、上のリンクのサイトからデータを頂き、プロットしてみた。


(クリックすると拡大します)

これがなかなか面白い。

圧倒的な改善があったのは、昭和の初め。2時間近く詰まっている。ここで何があったのだろうか、と考えるのはなかなか面白い。モボ、モガの直後の時代、支那事変が昭和12年なので、この段階では日本はまだいい時代だったのだろう。そういえば、今の朝の連続テレビ小説カーネーションの舞台が平和だった初めの時代がこの頃だ。

明らかに悪化するのが、昭和18年から24年までの開催が何度も取りやめられている戦争末期*2、そして終戦直後の時代。どれだけ栄養状態が悪かったのかよく分かる。当時幼少期だった、自分の親の世代が、我々の世代より明らかに背が低いことからもわかっていたことだが、この数字を見てもしみじみと実感する。

戦前並みの12時間半に戻るのが、朝鮮戦争勃発の昭和25年(1950年、26回)。我が国の復興が、隣国の災難のタイミングでシンクロしていることが、こんな数字からも分かる。

その後、経済の発展、高度成長、結果としての栄養状態の改善を反映するかのごとく、継続的にタイムは改善。中でも二度の大きなタイムのレベルが変わったタイミングがあることに気付く。

昭和39-41年(40-42回)と、昭和58-59年(59-60回)だ。

昭和39年と言っても多くの方は、ピンとこないかもしれない。これは1964年、東京オリンピックの年だ。先進国の仲間入りを果たすこの平和の式典に向け、数年前から、激しくスポーツの発揚、国内でのシューズやウェアなどの改善が大きく行われていたことは容易に想像がつく。年始に行われるこの駅伝がおそらくオリンピックの長距離やマラソンの選考会もかねていたのではないかと推測する。

昭和58-59年となると僕の中高時代であるが、ユーミンダンデライオン、達郎が高気圧ガールをうたっていたこの時代、スポーツで記憶にあるのは正直、1984年(昭和59年)のロス五輪ぐらいしかない。確かに楽しい時代の楽しい祭典だったが*3、ここで20分以上タイムが縮まったのはどうしてなのだろう?よく分からない。

このあたり、今回も箱根の解説をしていた瀬古さん*4や宗兄弟がマラソンで大活躍していたと記憶するが、駅伝でこれだけの改善があると言うのはちょっと??だ。だれか陸上に詳しい人、是非教えてほしいなー。と思ってもう一度詳細を見てみると、58年はあの谷口浩美日体大のエースとして出て区間新を出している!

ただ、上のグラフで明らかな通り、これ以降は、日本人の栄養状態も、体型的にも改善が止まり、記録はほとんど横ばいに入る。そんな中で、たとえ昨年の21秒差の準優勝がどれだけ悔しかったとしても、8分15秒も記録を縮めた今回の東洋大チームは本当に称賛に値する。

中でも福島出身で「僕が苦しいのはたったの一時間ちょっと。福島の皆さんに比べれば、全然きつくはありません」と言い切った柏原竜二の言葉には、思わず涙した。選手達、一人一人におめでとうの言葉とともに、我々に力強い新年をくれてありがとうと、ウェブの隅っこから伝えたい。

なんとも日本的なスポーツであるが故に、大変な注目を集める駅伝。…今回は、リアルタイムで、色々なデータを見ることで、ちょっと新しい気づきを得、テレビもようやくデジタルなんだな、を実感。

冒頭のファイト新聞の子供達が、大きくなり、この駅伝の話を聞く時、何をどう思うだろう?

そんな彼らに少しでも、意味のある未来を残せたらと思う。

*1:昨日のテレビ解説者によると新コースでは昨年の早稲田だけ

*2:S16,17,19-21は開催されていない

*3:とはいっても冷戦のためソ連や東側諸国がボイコットしたのは今も記憶に鮮やか

*4:区間新記録間違いないです」などと相当前から発言しておきながら、フタを開けてみると、ギリギリ3秒上回るだけなど、ちょっと踏み込み、いい切りがすごくて面白かった。スターだから許される?笑。