では、僕らは何をしていくんだろう?、、、第二のMachine Age(2)


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDP III
@Griffith Observatory, Los Angels, CA

前回書いたようなことを言うと、「ではこれからは、どうやって飯を食っていったらいいんだ?」的なことを多くの人に聞かれる。アカデミアやデータプロフェッショナルといえる人の集まりですらそうだ。

これについての僕の答えは、まあ自分で考えてよ、としか言いようがない。笑。とはいうものの、これではあまりにも不親切だと思うので、少し一緒に考えてみよう。

産業革命(第一のMachine Age到来)のときだって、馬や牛や人間の肉体労働がどんどんいらなくなることは、少なくとも途中から明らかだったわけだけれど、みんなむしろそれをテコにこれまでの仕事を離れて、あるいはこれまでの仕事のやり方を根底から変えて、今に至る。

その中で新しい環境を前提にした新しい仕事がどんどん生まれて、その中で新しい暮らしを始めた。結果、9割以上が農民だったような、日本を含む、大半のいま先進国と言われる国々もこのように製造業(2次産業)や販売・サービス業(3次産業)中心に生まれ変わっていった。

我々がどう考えようが、このマシンラーニング(機械学習)をはじめとするAI(人工知能)、これを活用したスマートマシーンとでもいうべき賢い機械たちが我々を大きく、本質的にアシストしてくれるようになる。前回書いた通り、多くの仕事や活動がcomputer-assistedなものになっていくだろうし、僕らはすぐに順応していくと思う。

「それ何?」と思われるふしの方々も、今のクルマなんて実際には既にそうなりつつあるし(だから実際には全然腕なんて上がっていなくても上手くなったように感じる。笑)、僕の大好きなカメラも、露出もフォーカスも何も考えなくとも撮れるようになってしまっている(なので僕はマニュアルカメラにこだわっている。笑)。こうやってコンピュータを叩いているときに変換も何もかもコンピュータがアシストしてくれている。検索なんて、ちょっとワードを入れれば、それに関連する言葉が補助的に出てくることはご存知の通り。これも人間が手を入れているのではなく、機械学習がリアルタイムでガンガンに動いているおかげだ。例えば、BNPパリバ・マスターズ*1で錦織選手が頑張っている今日 (2014年11月1日) なんて、「にしこ」とだけ打つだけで、「錦織圭 パリ」とサジェスト結果が検索窓の下に出てくる。こういうのがもっとディープにあらゆるところで行われるというだけのことだ。

こういう全体観の中で考えると、このような「ベースになる変化を引き起こす人」と、このような「変化の上で、さらに新しい変化を生み出す人」(使い倒す人)の二種類の人に大きな需要が生まれることが容易に想像できる。

ただし当然、デザイン、歌舞伎、焼き物のように、腕だけではなく味が大切、かつ技の複製が困難な世界で、スキルを磨き続けるような人は、当面残る。また、状況や文脈(コンテキスト)の中で、適切な問いを立てる力や、美しいものを美しいと感じる力、気持ち良いものを気持ち良いと感じる力をベースにした仕事も人間にしかできない仕事として残るだろう。

「ベースになる変化を引き起こす人」について言えば、明らかに供給が足りないのは、このような情報の高度処理や機械学習を実際の課題解決につなげうる人であり、世の中のどのような問題にこれらの手法が使えるかを考える人だ(1)。これはどのような産業分野でも必須になる。機械学習、AIそのものの専門家(データサイエンスの専門家)も必要だが、それほど大量に必要なわけではない。実際には、機械学習は世界レベルの大学であれば、普通に理系のマスター卒ぐらいの人が使える技術になるまで10年もかからないだろう。*2

また、莫大な情報が生まれているとはいえ、実際にはその情報の多くはそのまま利用できるような形にはなっていない。センサーから上がってくるいわゆるIoT*3の情報も、その情報基盤が異なっているので、相互に言葉を交わすことができない。これらの基盤整備するような人も必須だ(2)。ほとんどの会社では、自社内のデータ構造すら統一されていない。これを使えるようにする人も必要だ(3)。高速で流れてくる情報をさばくデータ収集の仕組みを作り、運用するプロも必要だ(4)。そのデータをため、分散処理する情報処理基盤を作り、運用する人も必要だ(5)。その上で、全く構造化されていない言語や画像、動画のようなデータを使えるようにする人も必要だ(6)。いざコンピュータが利活用できるように構造化しても、それを解析し、高度に利活用する(レコメンドやデータ同化*4をする)人も必要だ(7)。

ということで、データサイエンスにある程度造詣があるだけでなく、世の中の課題を見極め、構造化でき、それを実装できるデータ関連の専門家がひとかたまり必要になる。上の(1)〜(7)のスキルを同じ人が全て持つことはおそらくないと思われ(例えば言語処理の専門家が、大規模な実装までできることは稀であるし、加えて、特定分野、例えばコンビニSCM、の課題整理と見極めができることはさらに稀だろう)、それぞれのプロの需要は跳ね上がるだろう。当然、その全体のデザインと指揮ができる(1)の人の希少性は際立つことは間違いないが、状況次第では、特定のスキルが社会のボトルネックになり、そこの需要が極端に逼迫することも十分考えられる。

ここまでが「ベースになる変化を引き起こす人」たちの話。でも、多くの人は当然のことながら、ここにも、上に書いたような問いを投げ込んだり、美意識、心地よさをベースにした仕事にも入らない可能性が高い。では何をやるのか、といえば、「このような変化の上で、さらに新しい変化を生み出す人」、すなわち、「新しい変化を使い倒す側の人」になるだろう。

例えば、工芸だとか手術みたいなものは当然のように今以上にcomputer assisted(以下CA)になるだろう。木目や脈動みたいなものも機械が読み取り、人間には困難な取り扱いもできるようになる日は来ても全くおかしくない。手術に関してはスターウォーズの世界、あのダースベーダーが生まれる時そのものだ。クルマの免許もオートマ限定が一般的になってきたように、いずれはCA限定になるだろう。これからは、ICT*5だとは到底思われていない領域もことごとくICT化していくので、こういう変化の中で、技を磨くというのは何かを考え、トライしていく、そういう時代になっていく。

我々が物理的存在であることはさすがに当面変わらない。そこをよく見て踏み込んだ人にきっとチャンスがある。そういう視点で見ると、上に書いたようなものだけでなく、ずいぶん大きな産業領域が、この国では存在自体を気づかれていないことも読者諸賢氏には見えてくるのでは?

(関連エントリ)

*1:ATPワールドツアー・ファイナル

*2:東京大学松尾豊先生の行われている授業でも単位も与えない講義に理系文系問わず、すでに応募が殺到しているそうだ。

*3:Internet of Things: モノのインターネット。インターネットにつながったモノ

*4:いわゆるsimulation

*5:information, communication, and technologyの略

第二のMachine Age


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII @Route66, AZ


最近、僕らの社会がどこに向かっているのかということを考えさせられる機会が増えている。

そもそも、大手ネット企業のストラテジストとして世の中の未来を考えるベースロードがあるのだが、それに加えて、理事でもあるデータサイエンティスト協会のスキル定義委員会(実は委員長、、。orz)では、新しいデータ社会に向けて必要となるデータプロフェッショナル人材のスキル要件についてこの5ヶ月ぐらい検討し続けている。

数週間前には、少々驚くべきことにOECDに日本が加盟して50周年記念というイベントの一つで、日本側のパネリストの一人として呼ばれ、“Promoting skills for the data-driven economy”という名のセッションで、「データ駆動型社会(©霞ヶ関!)に向け必要とされるスキル」について議論をした。昨日は、JINSE*1という統計研究者の集まり『論より統計! ~データサイエンス力の高い人材の育成にむけて』 にお声がけいただき、パネリストとして積極的に意見を述べた*2

これらの議論の中で感じるのは、我々人類がこれまでにない歴史的な変化の局面にあるということだ。

データ量の爆発についてはいうまでもない。インターネット、とりわけブロードバンド、ワイアレスネットワークの拡大がそもそもの背景にあるのだが、加えて、モバイル端末が広まり、初めて個のレベルの情報が刻一刻と流れ込むようになってきた。Nike fuelband、fitbitなどに代表されるセンサー系の情報も劇的に増えている。加えて、Nestのような、家庭内のセンサーデータも急速に解析可能な形になりつつある。クルマからもCarPlayのようにユーザ経験改善のために情報の利活用が始まっている。2020年にネット接続機器が全世界で500億台、すなわち人口の6倍超になるというIBMの予測もある。

これだけであれば単に情報が溢れかえっているということにすぎないのだが、これ以上に目を見張るべきなのは、我々人類が持つcomputing capacity(計算キャパ)の激増だ。McKinseyの分析によれば、2005年以降の10年間で約50倍に増えたという。この幾何級数的な計算能力の増加は衰える気配はなく、10年後 (2024) に今の50倍の計算能力を人類が手にすれば、10年前 (2004) の2500倍ものコンピュティングパワーを人類は手にすることになる。

実際、この10~20年を振り返れば、これらの変化を活用するICT*3と呼ばれる情報通信産業が日本でも米国でも経済成長の中心を担っている。情報通信白書*4をみれば、ICT産業なしには、90年後半以降の日本経済は縮小したことが明らかだ*5。世界のマーケットキャップ(事業価値)のトップは、1997年当時、存亡の危機にあったAppleで約50兆円。二位はExxon/Mobileだが、三位は1998年創業のGoogle(約40兆円)、四位はMicrosoftだ(約37兆円)。日本のトップであるトヨタは約20兆円だが、FacebookAmazonはすでに約17兆円だ。中国のEC王であるアリババはいきなりトヨタを抜いて23-24兆円規模だ。

これらを俯瞰して思うのは、今、人類史上初めて、人間にしかできないと考えられてきた知的な活動を機械が置き換わろうとしている、ということだ。人類の知的キャパシティ(mental capacity)の解放、すなわち第二のMachine Ageだ。

18世紀に始まり、20世紀まで続く産業革命、すなわち最初のMachine Ageは、石炭、石油という新しいエネルギーリソースを元に、蒸気機関、電気機関により、人間や家畜のこれまで行ってきた手作業、肉体労働から人間を解き放った。結果、そこまでの数千年かけて数倍程度にしか伸びなかった一人当たりの生産性は数十倍に跳ね上がった。(なんと100万年前からの人類の生産性を調べた方がBerkeleyにいらっしゃる。*6)機械が頑張ってくれた結果(笑)、我々はもう田植えも機械に任せられるし、機織りも機械に任せられる。鉄を溶かすのも機械を使う。空いた時間は、クルマを作るとか、それを売るとか、そのあとサービスするとかといったはるかに付加価値の高いことに我々は今使っている。


Leica M7, 1.4/50 Summilux, RDPIII @near Route66, AZ

これと同じことが、我々の知的活動について起きようとしている。退屈な数字の入力(みなさんお馴染みのExcelとかを相手にしたいわゆるナンバークランチングだ)やその上でのルーティンとは言えない程度の情報処理は消えていく。対人が基本だったセールスのかなりの部分も機械が代替していく。瞬時の状況判断が必要とされるクルマの運転も7割がた機械に置き換わっていくだろう。この間のバスの事故を見る通り、人間が眠くなるのは半ば仕方がないからだ。また、これまで知的産業の極みのように思われていた部分もかなりの部分が機械になっていく。

それを端的に考えさせられたのがこの間参加した、2014年度 統計関連学会連合大会で見たある発表だった。ガンの生体組織のスライドをたくさん見て、どれがガンかどうかを病理の専門家が見るというのは、ある種のガンだとどうしてもプロ同士が見ても半分ぐらいしか一致しないケースが多いということだったが、そのスライドを3次元でスキャンする装置をCarl Zeissが開発していて、それを使って数千だか数万のスライドを使って機械学習をさせたところ、人間の精度を超えたという発表があったのだ。

おそらく他の参加者同様、これこそ未来だと僕は思った。久しぶりに鳥肌がたった。将来の病理医はコンピュータの解析を元に二つ三つに絞られた可能性の中での判断をしつつ、他のオプションを考えるということになるだろう。法律の相談なども同じようになっていくだろう。ヨーロッパでは、中ぐらいのスキルの労働者の仕事がなくなることが大きな問題になっているらしいが、こうなることは6年前のブログエントリに書いた通り、以前から半ばわかっていた。上位のスキルの仕事すら本質的に変容していくことがポイントだ。しかもこれは、最初のMachine Ageとは比較にならない速度で起きる可能性が高い。

このような局面では、その変化に関わる人が大切になってくることは間違いない。つまり「データの持つ力を解き放つ人」が必要なのだ。これは第一のMachine Ageにおけるサイエンティスト、そして多数の専門性の高いエンジニアにあたる人たちのデータ利活用版だ。

現生人類が生まれて約15万年。これほどエキサイティングな時はない。なぜかこのタイミングで、歴史上初めて、地球上のほとんどの地域で人口がプラトーに達しつつある*7のも偶然にしては出来過ぎだ。この新しい挑戦に若い才能は飛び込んで欲しいし、ゆめゆめ第一のMachine Ageの延長のような選択をしないでいただきたいものだ。そして全身で各産業がICT的に生まれ変わっていくことの凄さと喜び、チャレンジを共に味わってもらえたらと思う。

僕のような老体(?笑)は、といえば、こうやって既存の大きな力を持った層に対して仕掛け続けるとともに、若い人たちのためにうまく道を作っていけるようにしていければと思う。

Let's go wild together!!

(関連記事)

*1:統計教育大学間連携ネットワーク:Japanese Inter-university Network for Statistical Education

*2:http://www.jinse.jp/pdf/sym_20141025.pdf

*3:information, communication, and technologyの略

*4:日本の産業別実質GDPの推移(情報通信白書 平成25年)

*5:1995~2011年のGDPは建設、小売、鉄鋼などの縮小セクターの効果がマイナス26兆円。伸びたセクター計40兆円のうち22兆円がICT、加えて電気機械が4兆円

*6:http://delong.typepad.com/print/20061012_LRWGDP.pdf#search='J.+Bradford+DeLong+World+GDP'

*7:http://www.mckinsey.com/insights/strategy/management_intuition_for_the_next_50_years

書評「静かなる革命へのブループリント」


α7, 1.5/50 C-Sonnar, RAW


我々の未来は、我々の意思が作り、我々の意思は感性、すなわち我々の現実の感じ方が生み出すことを改めて思い起こさせてくれる一冊。

献本をいただき、目を通したが、久しぶりにワクワク感を感じ、自分の深いところにあるものづくり、商品づくりの欲求がメラメラした。

実は僕は長い間、新商品開発をやってきた、かなりコテコテの商品開発野郎だ。身近な飲み物からハイテク商品までずいぶん幅広く関わってきた。その多くが幸い成功したが、随分力を入れたはずの商品が失敗する姿もかなりの数、これまで見てきた。それってなんだろう、と思ってきたことへの答えの一部がここにあると思った。

優れたマーケターは時代が身体の中に入っていないといけない。しかも、ほんの少し、先への展望がないといけない。それは時代への違和感であり、今起こっている話、話されている論説への違和感でもある。

そういうことをつい忘れてしまいがちなわけだが、それがやはり世の中を変え、新しいものを作るAでありZでもあることをこの本は思い起こさせてくれる。

参加者も豪華だ。トヨタ愛・地球博のi-unitを作った根津孝太さん、東大歴本研出身で現代の魔法使いと言われる落合陽一くん、ITビジネスの原理を書いた尾原和啓さん、クラウドワークス創業者の吉田浩一郎さん、加えて一度はお話ししたい猪子寿之さん、門脇耕三さん、駒崎弘樹さん。何よりインタビューアーの宇野常寛さんがやばすぎて相変わらず最高だ。笑

宇野さんには自分との対談でも大変お世話になったが、最後の章の落合くんとの対談は、稲葉ほたてさんとのマッチも抜群で素晴らしい盛り上がり。

トヨタ出身の根津さんの話からはもうなんだか訳の分からないレベルのinspirationを得た。次の一節を読むだけでも、根津さんがどれだけの思索と実践を積み重ねられてきたか容易に感じられる。そしてここにはシンプルでありながら深いJoy of Lifeがある。

その「自分はこう考えるから、こういうものを作った」こそが、文明でなく文化になる。だから、自分がどうあるのかを、僕は厳しく考えています。そしてやはり、僕ら自身がどれだけ楽しんでいきていくかこそがすごく大事だと思っているんです。(pp.23-24)

いつもいろんな世界の後ろで仕掛けまくる尾原さんからは相変わらずあやしすぎる面白さが漂っている。(前職の後輩でもあり、ちょっと身近すぎてあまりうまく評論できない)

人と仕事の関係性を作りなおそうという、吉田さんの話はいつもながらにすごい。問題を真正面から解こうというこの姿勢は、世界を本質的に変えていく人特有のものだ。

宇野さんの差し込みは私が言うまでもなく、相変わらず激烈で、シャープ。また独特のねじれがオモシロイ。その宇野さんの独自の角度がなければこの対談の面白さは50分の一ぐらいになったことは間違いない。自分なりの視点(上の「感性」)と世界観を持って論を深めることの醍醐味とワイルド感を味わいたい方にはこの本は絶品だ。

私自身は年始に偶然宇野さんと知り合ったのだが、なんとも言えない味付けと芸風にしびれている。対談中何度も、語り手には出来なかったレベルの意味合いの凝縮を宇野さんがして、語り手が息を飲むシーンが出てくるが、言語化困難なものをピンポイントで取りまとめる才能には毎度驚く。

ところどころ出てくる独自の視点も味わい深い。

怒りしか持っていない人は、他人からは絶対に感染してもらえない。一緒に戦ってくれる人を増やすには、やっぱりここに加わると楽しいんだと思ってもらう必要があるし、そのためにはまず自分が楽しくなければ、と僕も思う (p.102)

年末ぐらいに多分買って、積み上げてあった雑誌を2月ぐらいにパラパラめくっていたら、やたら面白くしかも本質的に80年代の芸能文化風景を俯瞰した記事があった。

これを書いた人は天才だ、と思ってみたら、なんと書き手が宇野さんでびっくりしたということもあった。

そういう宇野節を楽しみつつ、世界をまさに変えるべく色々仕掛けているワイルドな面々の感性に触れたい、そういう方におすすめだ。


今日ご紹介した本と関連本

静かなる革命へのブループリント: この国の未来をつくる7つの対話

静かなる革命へのブループリント: この国の未来をつくる7つの対話

ITビジネスの原理

ITビジネスの原理

味を失わず世界で生きるとは何か


安西洋之さんの新刊。一見月並みのことにどれほどの深さがあるかを感じられるかを突きつけられるような本です。*1

安西さんは拙著を読んで、僕に最初にコンタクトされた方の一人。ローカライゼーションマップを提唱され、日経ビジネスオンラインでも連載されていたので*2、ご覧になった方も多いのでは?(実はこの絡みで対談をさせて頂いたこともあります、、。*3

この本、いかにもありそうですが、誰も思いつかなかった取り組みです。ちょっとヨーロッパを取材旅行してきましたみたいな人ではなく、イタリアに腰を据えた生活の中で長年感じられてきた感性の上に、ファーストハンドで集められた得難い生の声、情報に満ちています。安西さんの大好きなイタリアへの思い入れが過度に出ていないところがナイスです。*4

日本の刃物とヨーロッパの刃物のそもそもの発想の違いとかのようななるほど系の気付きだけでも面白いのですが、小さくても面白い企業にどのような特徴があるのか、についての多面的な考察は実に面白いです。あまり紹介したくないぐらいこってりしています。

僕自身が経営改革に関わっているさなかであるので、ちょっと読むごとに考えさせられることが多く、読み切るのに結構時間がかかりました。これをさらっと読んでしまう人は、もう少し色々仕掛けられるとかなり味わいぶかく読めるのではないカナ?そういう意味で読者の経験値をかなり問いかける本だろうなと思います。

他人への敬意と自らへの尊厳を持たなければ年30%の成長は出来ないという話、ワークライフバランスについての深遠な議論などは頷きつつもかなり考えさせられました。

一つ残念なのは、これほど面白そうな企業が沢山紹介されているのに、ほとんど全く知らない会社ばかりなので、もう少しそれぞれに付いて写真付きとか、せめてURLを紹介してくれたら良かったのに、というところですが、紙面の都合もあると思うので、まあしょうがないのかも。

最後の最後に自分の対談の言葉が出てきて!?!でしたが、それは無視して頂いても十分価値のある内容かと思います。

ということで、これを読んで面白そうだと思った方、書店でまずは手に取ってみて損はないかなと。


世界の伸びている中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?

世界の伸びている中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?

*1:このところ、なぜか知人の出版ラッシュが続いていて、大量に送られてくるものに対応しきれない状況にあるのですが、これは送って頂いてよかったと思う本でした。

*2:http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110404/219301/?rt=nocnt

*3:http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110725/221670/

*4:米国やアングロサクソン中心主義的な感覚の我々から見るとちょっとアタマが揺さぶられた感じになりますが、その意味でも読む意味があるかもです。

ただやりたいことをやろうとするのが本当に幸せか?


Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII
Cambridge, UK

僕は何だか色々な相談を受けることが多い。

よくある相談の一つが、本当はこういうことをやりたいんだけれど、その辺をやったことがないので踏み込むべきかどうか分からない、というものだ。

これが大学出るかどうかぐらいの人だったら、「まあ深く考えずにやってみたらどうか?」という話になるわけだが、結構ないい歳になっていて、労働人生の何割かを過ぎてしまったような人の場合、これがむずかしい。

なぜだか、こういう相談をしてくる人に限って、そこまでの人生でそれが本当にやりたかったらそういう人生を送って来ていないだろう、という選択をしてきているケースが多い。*1本当にやりたいことがあるのだったら、それなりの経験をし、失敗もしているかもしれないけれど、そういう経験から、それなりのスキルを身につけている、、人に話してもそういうことをやらせてみてもいいと思う、、そういう人生を送っているはずなのに、そうじゃない人、というのが結構多いのだ。*2

代わりにというわけじゃないが、そこまでの10年なり、15年なりの労働人生で身につけてきたスキルとか、比較的意味のある仕事というものがあり、その延長だったら他の人も何か仕事を任せてみてもいいなと思ったりするわけだが、それがどうも心の中の夢なのか、隣の青い芝生なのか分からないが、どうも違うらしく、悶々としているというケースが多い。*3

そういう人に対してどういうアドバイスが出来るか、といえば、「まあ自分の人生だし、後悔しないように好きにするのがいいよ」ではあるものの、本当にその人の幸せにとってどうかということで考えれば、迷う程度の漠然としたことをしたいために、10年とかやってきたこと、これならば人よりうまくできること、を完全に捨てて、何か全く新しいことをいい歳して、新人のように学ぶというのはどうなんだろうと思う。

その場合、何しろ何のバリューも出ないのだから、それこそまたイチから薄給でも耐えて生き抜く覚悟がいる。失敗するリスクもある。自分で選んだ道だから誰も助けてくれない。

本当に覚悟があるのであれば、僕は止めないし、むしろ「思い切ってやったほうがいいよ」と背中を押すが、結局踏み切れないで僕に相談するという人の場合は、覚悟も足りず、自信もないというケースが多い。

そういう人に僕が言うのは、「バリューが出るところで、バリューの出る仕事をするべし」「どこならば食っていけるのか、どこならば一人前、一流になれるのかで考えるべき」だ。

人の幸せというのは何か、ということを考え出すとアランの幸福論じゃないが、なかなか難しい問題になる。

幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)

ただ、こと仕事ということについて言えば、自分が自分らしい価値を産み出せることをやらないと、認められないし、達成感も生まれない上、当然、成功もしない。そうすると自分がいやになってしまう。

なので相当量の時間、全く異なることに好きであろうと好きじゃなかろうと打ち込んできたのであれば、それをモノにした方が良いと思うのだ。

(もちろん、今までやってきたことに全く適性がないのであれば話は別だ。そのようなときは、さっさと鞍替えするとともに、なんでそれが分かるのにそれほどの時間がかかったのか自体を自分でよくよく内省すべきだ。普通に考えれば半年、一年もすれば分かるはずのことだからだ。)

人は好きなこと、出来たらステキだな、と思うが何の経験もないことをやるのと、好きかどうか分からなくてもバリューが出ることをやるのとどちらが幸せにつながるかといえば、多くの人は後者の場合だと思う。

例えば、僕は音楽や物理の話を聞くのは好きだが、それで食っていけるとは全く思わない。画期的なサービスを作るソフトのエンジニアもかっこいいとは思うが、今からやってモノになるか、というと無理だと思う。

結局、人はいい仕事をして認められれば、そのことに自信を持つし、うれしさも感じる。更に努力もする。スキルも更に伸びる。成功もしやすくなる。気が付いたらその仕事が好きになる。それが生理的に拒絶するようなことであれば別だが、そういうことに長年時間を投下できるような人は普通はいない。

なので、ただこういうのやりたいんだー、と18の青年が思い、そこに飛び込むのは見事な青春で「どんどんやれ」と思うのだが、それなりの歳の人で、それなりの自分の時間を何かに投下してきた人の場合、それが余程、適性のないことじゃない限り、それを生かした方がいいと思うのだ。

これは実は、何が向いているかわからないという若い人に、「与えられた仕事、目先の仕事、ご縁があった仕事にまずは全力を尽くすべし」「やるからには一生その仕事をやる位のつもりでやるべし」というのと本筋で同じ話でもある。

実際上のようなコメントをすると、多くの人が、自分としてバリューの出る選択をし、結局、そのまま幸せになっている。確かに憧れと、現実は別なんだと、いい歳になって気付く、そういうわけだ。

みなさんどう思われるだろうか?


*1:もちろん、何かきっかけがあって、突然気付いたというのだったら、ステキなことだが、そういう人はまれだし、そういう場合、相談ではなく、決意を表明されるケースがほとんどだ。

*2:少なくとも、主たる仕事の世界においては、意に添えず別のことをやっていたとしても、隙間の時間とか、それ以外の時間とかはそれに向けて精進したり、色んなところで経験を積んでいたりして、意外と人のつながりが出来ていたり、技を身につけていたりするはず。

*3:一つ意外とありがちで厄介なケースは、大学の時とか交換留学とかしていたり、大学卒業後に少し留学などしていて、ちょっと英語が出来るが、他にこれといって何も出来ないケースだ。親の教育方針か何かかもしれないが、サブスタンスのない英語力などあまり意味がない。英語だけで食べるような通訳などで食べていくということならいいのかもしれないが、それはそれでかなり厳しい道だし、それなりの立場の人の多くが、かなり英語が使えるようになってしまった現在、そのニーズはもはやそれほどなく、先細りの道とも言える。そしてそれはほとんどの場合、もはや、希少性を失った価値なので、余程一流でない限り、そもそもペイしない。

巨人サンガー逝去


Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII
Cambridge, UK

タンパク質のアミノ酸配列を世界で初めて決定し、DNAの配列決定法を発明、更にRNAの配列決定法も産み出したフレデリック・サンガー(Frederick Sanger)

ノーベル化学賞を二度受賞した唯一の人物。サイエンスをはじめた頃からずっと僕のヒーローの一人だった。

その彼が19日火曜、イギリスのケンブリッジで亡くなった。

享年95歳。

彼がケンブリッジのラボの片隅で、テクニシャンとたった二人で10年間こつこつと仕事を行い、人類が世界で初めてタンパク質の配列を決定した仕事は現代の伝説であり、サイエンティストの目指す一つの夢だ。

身体の最も大切な構成要素の一つであるタンパク質(protein)が、22のアミノ酸がチェーン状に組み合わさって出来ているものとしか分かっていなかった当時、この巨大分子の1次構造を本当に紐解けると考え、インシュリンを題材にやり遂げたのは彼一人だった。

しかも、それは巨大チームとはほど遠い、小さな小さなチームの放った大きな一撃だった。このアプローチがその後のいくつものタンパクの一次構造決定の引き金になる。この仕事がどれほど多くのインスピレーションを世界の科学者に与えてきたのか、その影響は計り知れない。

明らかに解くべき問題があり、それを解けると考え、人の判断に左右されずに自分のジャッジを基に、取り組みを行う、そのことの大切さをサンガーの人生は教えてくれる。

ちなみに、彼の最初のノーベル賞はこのたった5本の、しかし、人類にとって計り知れないほどの価値を持つ論文からなる仕事のわずか4年後に与えられた。どれほどのインパクトのある仕事だったか、この事実だけからも分かるだろう。

最初のノーベルを40歳でとった後も、彼はラボからでることなく、コツコツと自分のベンチ(実験台)の前から離れることはなかった。「自分は人のために実験を考えることは得意じゃない、人を管理したり、教える才能がない」*1、彼はそう言って、自ら手を動かし続けた。

本当にサイエンスが、そして研究が好きな人にしか出来ないことだ。PI(principal investigator: ラボのヘッド)になったとたんにふんぞり返り、実験は若い学生、研究者に任せる、多くの研究者とは対照的だ。しかしそのほとんどの人は、サンガーには遥かに劣る衝撃しか世の中に与えない。

僕の知る限り、多くの実験科学者は、手を動かすことは労働ぐらいにしか思っていない。ただ、中にはほんの少し、それ自体に喜びと専門家としての矜持を持ち、その前後の中で多くのインスピレーションを得ていく人がいる。そのことの大切さをしみじみ感じさせてくれるのもサンガーだ。

静かな研究生活の中から、彼は、我々の遺伝情報を運ぶ物質の画期的な配列決定法を開発する。基本となる要素はわずか四つと、タンパクよりも格段に少ないが、タンパクとは比較できないほど長大で、手の付けられなかったDNAが相手だった。誰もが大切と分かっていながら手の付けようがなかった超巨大分子、DNAの配列決定。その後、サンガー法と呼ばれるようになる。これが彼の二つ目のノーベル賞となる。

同時期に産み出され、利根川さんののちのノーベル賞につながる免疫系の仕事で一緒に仕事をしたギルバートによる手法は、今はほぼ使われていない。高速な配列決定法(シークエンシングと呼ぶ)も現在は多く存在するが、その大半の原理的な部分はサンガー法だ。この事実上のデファクト的な手法によって、ヒトゲノムも配列が決定された。この世を根底まで揺さぶる仕事だ。

英国人で2つのノーベル賞を得た唯一の人物であるにも関わらず、サンガーはKnightの称号を受け取らなかった。Sirと呼ばれることを好まなかったからだという。*2

研究をやめて久しくたった今も、彼の生き方を考えるたびに、僕は自分の生き方と意味を考える。

今、本当に自分は大切な問題に立ち向かっているのか、自分は今やっている仕事を心から楽しんでやっているのか、指先から立ち上る、そして分析の現場から生まれる、そんなひらめきと考えをちゃんと大切にしているのか、と。

遠い極東の片隅から、サンガー博士のご冥福を祈る。

CGCATTCCG
TTTCGCGAAGAT
AGCGCGAACGGCGAACGC *3

*1:I am not particularly adept at coming up with experiments for others to do and have little aptitude for administration or teaching

*2:サイエンスで二度受賞した人は、他に二人しかいない。キューリー婦人こと、Marie Curie (Physics in 1903 and Chemistry in 1911) とJohn Bardeen (Physics in 1956 and 1972) だ。

*3:http://phenomena.nationalgeographic.com/2013/11/20/cgcattccgtttcgcgaagatagcgcgaacggcgaacgc/

富士の世界遺産内定に思う

GXR, Nokton Classic 35/1.4 (上空から見た富士)


富士山が世界文化遺産に内定したそうだ。

>「富士山」世界遺産に登録へ NHKニュース http://cro.st/mc5j

ニュースをご覧になった方も多いだろう。実にめでたい話のはずなのだが、なぜか初めてこれを聞いた時、僕は全くうれしくなかった。尽力されて来た方々には、本当に申し訳ないが、正直、なぜだか失礼な話だとすら思ったのだ。

それはほとんど生理的な反応だった。概ねこの国の何かが称えられることについてはうれしいというのがいつものことなのに、だ。

なぜなんだろう?

以下、自分なりに考察してみる。

まずそもそも、「富士」は、古(いにしえ)からの日本というか、この我々の住む土地の象徴であり、恐らく長い長い間、崇拝の対象であったはずだ。

富士は比較的新しい山だとはいえ、あの存在感とまれに見る形態の美しさから考えるに、天津神(あまつかみ)の末裔である現在の天皇家がこの国を祭るようになる以前からの崇拝の対象であったことは恐らく間違いないだろう。この国が葦原中国(あしはらのなかつくに)と呼ばれていた頃どころか、そのまた前の文字が伝わる以前の恐らく縄文の頃からそうだったと考えてもそれほどムリはないはずだ。

特に千年ほど前までは百年に一度ぐらいは噴火していたという話なので、存在の偉大さと、畏怖心が織り混じった感情が古代日本にあったと考えてもそれほどおかしくはあるまいと思われる。

そのような我々、日本に住む人々にとって明らかに格別の存在である山に、「世界遺産」というような肩書き、称号が必要なのだろうか、というのが第一。

そんなものがなくとも我々は富士を守ると思うし、乱開発などするとは到底思えないのだ。

この山は日本、日本人にとって唯一無二の存在だ。2012年末で962もあるという世界遺産の一つになっただけでむしろ貶められたとすら感じるというのはいい過ぎだろうか。

世界遺産を選定するUNESCOこと、国際連合 教育科学文化機関の条約本文を見ると、条約制定の理由の一つとしてまず次のようにある。(Wikipediaによるとアラビア語、英語、フランス語、ロシア語およびスペイン語を正文として作成されている、とのことなので、この中で私が唯一読める英文をまず掲げる。正文はUNESCOより。正式の翻訳が見つけられなかったので訳は意訳)

the cultural heritage and the natural heritage are increasingly threatened with destruction not only by the traditional causes of decay, but also by changing social and economic conditions which aggravate the situation with even more formidable phenomena of damage or destruction,

文化遺産と自然遺産はますます破壊の脅威にさらされつつある。通常の劣化理由だけでなく、社会的そして経済的な状況の変化により、更に手強い損傷や破壊がおき、状況が悪化している)

富士は本当にこのような状況におかれているのだろうか。むしろ、世界遺産に選ばれたことで、人が更に大量に押し寄せ、悪化する可能性の方が高いのではないだろうか、、。

しかも、なぜか今もほぼ無条件に日本人のほとんどが富士山を愛し、大切な存在だと思っている。裏日本で育った私もそうだ。菊の御紋を掲げていて国粋主義者と言われることがあったとしても、富士の写真を掲げていて、そのように言われることはまず考えられない。あまりにも我々日本人の多くにとって素直な感情だからだ。

つまり、富士は今も我々の多くの心に普通に生きている。海外に長く住んで日本に帰って来た時、多くの人が富士を飛行機や新幹線から見て、心から安堵するような存在なのだ。

日本最古ではないかもしれないが、少なくとも格式では一番であり、極めて古い歴史を持つ伊勢一帯(少なくとも内宮と外宮)が仮に世界遺産になったとしても、僕は同じく違和感を感じるだろう。富士も神宮も廃墟になってしまったアテネの神殿ではないのだ。ノアの方舟のたどり着いたとされるアララト山のような神話とセットになった話でもない。今生きて、存在していることに存在価値のすべてがある。伊勢の場合、巨大な杉の木は沢山あるかもしれないが、文化遺産に選ばれているバチカンのように特別の歴史的な美術品、古い建築物で取り囲まれた存在でもない。

そのような今も愛される我々の国の本質の一部と行っても良いような存在が、「世界」の保護監視下におかれる「文化」遺産になるということがなんともしっくり来ないのだ。

また条文に戻ると次のようにある。

protection of this heritage at the national level often remains incomplete because of the scale of the resources which it requires and of the insufficient economic, scientific, and technological resources of the country where the property to be protected is situated,

(この遺産の国レベルでの保護は往々にして完全ではない。必要とされるリソースの規模が大きいことと、その保護されるべき対象がおかれた国の経済的、科学的、そして技術的なリソースが不十分なためだ)

この豊かで技術大国の日本で、今も生きて愛されている富士という対象に対して、上の話が当てはまるということは考えにくいのではないだろうか。

第三に、この山ほど知られている日本の存在は殆どない。アメリカにいた頃、日本に初めて行く人の相談に乗ったことがなんどかあるが、彼らが持っている日本についてのイメージには常に富士と京都があった。これと秋葉原に代表されるハイテク、詳しい人なら浮世絵、枯山水などのミニマリズム的デザインが入り交じった不思議な国が、海外から見た際の日本という国の概ね共通に近いモチーフだろう。

そのぐらい知られている存在を、あえて世界遺産にしてまで、更に名を上げる必要が本当にあるのだろうか。それよりも、もし世界遺産すら取れなかったらどうするつもりだったのだろうか。

ちなみに今回、富士が選定された文化遺産の条件は以下の通りだ。(訳は文化庁のもの)

For the purposes of this Convention, the following shall be considered as "cultural heritage":
(この条約の適用上、「文化遺産」とは、次のものをいう。)

monuments: architectural works, works of monumental sculpture and painting, elements or structures of an archaeological nature, inscriptions, cave dwellings and combinations of features, which are of outstanding universal value from the point of view of history, art or science;

記念物:建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件及び構造物、金石文、洞穴住居ならびにこれらの物件の組み合せであって、歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの )

groups of buildings: groups of separate or connected buildings which, because of their architecture, their homogeneity or their place in the landscape, are of outstanding universal value from the point of view of history, art or science;

建造物群:独立した建造物の群又は連続した建造物の群であって、その建築様式、均質性又は景観内の位置のために、歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの )

sites: works of man or the combined works of nature and man, and areas including archaeological sites which are of outstanding universal value from the historical, aesthetic, ethnological or anthropological point of view.

遺跡:人間の作品、自然と人間との共同作品及び考古学的遺跡を含む区域であって、歴史上、芸術上、民族学上又は人類学上顕著な普遍的価値を有するもの )

このMonuments, Groups of buildings, Sitesの三分類で言うと、富士は明らかにSites*1だと考えられる。

ここの works of man or the combined works of nature and man, and areas(人間の作品、自然と人間との共同作品及び区域)という言葉には、やはり違和感がある。富士は自然の作品だからだ。仮に300年ぶりの爆発かなにかが起きて、人間が造った登山道や神社がなくなったとしても、それほど価値は低減しないだろう。

which are of outstanding universal value from the historical, aesthetic, ethnological or anthropological point of view(歴史上、芸術上、民族学上又は人類学上顕著な普遍的価値を有するもの)ということについては全くその通りだと思うのでココには違和感はないのだが、、。

引用が多くなんだか長くなってしまったが、僕ののどに骨が引っかかるような感じを理解していただけただろうか。

ということを書いていたのだが、今朝、富士周辺の方々の喜びの顔をテレビで見ていると、まあいいやと思ってしまった。(笑)

ハッピーならそれでいいのだが、ホント、自分の複雑な感覚に時たまやられてしまうそんなゴールデンウィークの独り言でした。



*1:遺跡という訳は不適切