米国横断フォトエッセイ11:この空は生きている

空が生きている。



Leica M7, 35mm Biogon F2.0, RDPIII


アリゾナに入ってから、そのことを実感する。


空にも重力がある、、、そう言ったのは藤原新也さんだったか。

ふと、そんな言葉を思い出す。


かつてマナウスに着き、初めてアマゾン河の支流、リオネグロを目にしたときと同じだ。


存在は確かに意識に影響する。



(関連エントリ:ブラジル旅行記 3:リオネグロ

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米国横断フォトエッセイ10 : アメリカンドライブ

Grantsを発ち、アリゾナに向かう。



Leica M7, 35mm Biogon F2.0, RDPIII (出来たらクリックして大画面で見てみてください)


たまらなくなるようなアメリカンドライブだ。


日本の道を走るのと違い、こんな道なら何時間でも走れる。中央分離帯だけで100フィートぐらいは*1ある。対向車線も全く気にならない。

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これはそんな中、立ち寄ったあるパーキングの風景の一コマ。



Leica M7, 35mm Biogon F2.0, RDPIII


これこそアメリカだ、


そう思える風景がそこにあった。


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*1:約30メートル。1フィートはアメリカの尺。

米国横断フォトエッセイ9 : 西部到着

ABQ(アルバカーキ)到着。ニューメキシコだ。ここからアリゾナ辺りが、いわゆる西部劇の舞台。

雨上がりだからか、神々しい空からの光が降り降りている。



Leica M7, 50mm Summilux F1.4 (以下同じ)


緑などほとんどない砂漠の大地だが、かえって神の土地といわんばかりの眺めだ。


この日はあまり走らずに、一時間半ほど離れたGrants(グランツ)という小さな宿場町に泊る。



こんな感じの一見おそろしくしけた感じのモーテルなのだが、砂漠の中を抜けてきているとこれが本当に安堵の空間になる。ちなみに写真の左の方にある変なネットがこの辺りの特産である、ドリームキャッチャーの大型版。どこかでチャンスがあれば述べるが、手のひらに乗るようなコンパクトなのがどこに行っても土産ものとして売っていて、ネイティブアメリカンたちの大きな収入源になっている。


モーテルなんてラブホじゃないのか、ぐらいに思っている人のために付け加えると、これがなかなか便利。クルマを停めたその前が寝る部屋なので(だから普通二階建てだが、1階の方がちょっと値段が高い)、ホテルのチェックインからカバンを運ぶ、あるいは運んでもらってチップを渡すなんていうけったいなことがない。しかもこの看板を見て分かる通り、激安。高い部屋でも80ドルぐらいだ。


BEST VALUE UNDER THE SUN (このおてんとさんの下で最高の価値!)というニューメキシコらしいコピーが泣かせる。

クルマで走り続ける旅には、それにふさわしい寝床があるんだなということが分かったりする。


で、到着して腹が減ったと思うと周りに何もないことがちょっと不安になる。


でも大丈夫。こんなときには必ずあるのが、コレ



中華五千年の歴史。こんなに小さな集落でも、人さえいればあるのが中華料理。

でひさしぶりに醤油を使った料理にありつき、就寝。

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朝起きてみると、まぶしくもあり肌寒い青空だ。



朝食を食べたところで出発する。


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米国横断フォトエッセイ8 : デンバーの空港にて

米国横断の途中、コロラドデンバーから、アルバカーキ、いわゆるABQ*1まで飛行機に乗った。

で、デンバーの空港について歩いてみると、大きな金属とガラスのハコの中に、実に見覚えのあるものが大量に並んでいる。



Leica M7, 50mm Summilux F1.4 @Denver, CO


んっ、、、。


ガラスの中をよく見てみると、ほとんどアップルストア(直営店)の棚そのもの。

目を疑うが、どうみてもiPod自動販売機のようだ。


そりゃいくらなんでもないだろ、と思い近寄ってみると、確かに、商品をえらんで、カードを通せとある。



Leica M7, 50mm Summilux F1.4 @Denver, CO


しかしなんていうものをこの連中は作るんだ、と思ってちょっと感動する。たしかに冷やす必要もないし、ハコだけだけれど、大量生産する訳でもないので、おそらく一台数百万はするだろう。なお、この辺りは、コカコーラ辺りから万台単位で発注される飲料の自販機とは大きく違うはず*2


デンバー(DEN)は米国中央部のハブ空港の一つ。なお、航空会社の運営システムについて補足しておくと、ハブ空港というのは当然ヘビには何の関係もなく、主要な航空会社が長距離便を乗り継いだり、長距離便から短距離便につなぐ指定空港のこと。


このDENは、砂漠一歩手前の空間の真ん中のようなところではあるけれど、確かに大量の旅客が乗り継ぐ主要な空港だ。

いま上にリンクを張ったWikiを見て知ったが、何と全米一大きな国際空港(世界で二番目!)ということだ。であれば、それなりのPR(パブリシティ)的な効果はあると思うが、しかし思い切ったことをする。


通りがかった人が結構覗き込んでいくところを見ると、それなりに設置は(売りはともかくとして)ワークしているようだ。

まあ、こんなとんがった自分たちの主張を、世界で最も成功している専門店の一つアップルストアの乗りで、しかも、アップルストアのように人手も面積もかけずに伝達する。国際空港なので、ある程度、lay person(普通の人)の中でもきっと少しはinfluenceがある人(僕ですらこの片隅のブログを書いていたりする。笑)に見られることだろう。


なかなかの技である。金の問題以前にこういうことで実験してみようというのは面白い。


アップルを愛するユーザの一人であるが、ちょっと久しぶりに「一本!」という感じがした。ありそうでないなかなか面白い試み。他にこんなに面白い自販機はニチレイの電子レンジ付き自販機ぐらいしか知らないなあ。日本もうかうかしていると、自販機大国の地位も危なくなるかも、、、。


まあこんなちょっとしたことが旅の面白さ。こうやって更に元気づけられて次の移動へとつながる。



Leica M7, 50mm Summilux F1.4 @Denver, CO


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ps2. 実はまだ夏の米国横断旅行で撮った大量のフィルムを読み込めていません。が、まあ少しずつでも取り込んで載せていけたらと思っています。

*1:空港コード

*2:飲料ぐらいの台数を頼むと、どこの会社であれ、さすがにかなり廉価で手に入る、、、あくまで業務用のみの受注だが

高峰譲吉博士とノーベル賞

Leica M7, 35mm Biogon F2.0 @Sedona, AZ


先日、といってももう一月ほど前になるが、久しぶりに生の演劇を見た。新宿の紀伊國屋サザンシアターで、高峰譲吉博士の人生を描いたものだった(『サムライ 高峰譲吉』)。私の20年来の大切な友人の一人である串間保君が主演だった。帰国以来、随分バタバタしていて、なかなか見れていなかったのだが、久しぶりの観劇は串間君、他皆様の熱演、好演もあり、なかなか感慨深いものだった。それと共に、これほど志の高くそれを貫き通した日本人がこれほどの昔にいたことに感動を禁じ得なかった。


高峰譲吉、と聞いてこの人は何か、分かる人がいればなかなかの科学通である。


高峰博士は、私もこの劇を見て知ったのだが、今から150年以上前、黒船来航の翌年、嘉永7年(1854年)、明治になる直前に現在の富山県高岡*1で生まれ、金沢で育った。加賀藩御典医の家に生まれ、幼少の頃より神童であったという。長崎に留学し、坂本龍馬や、写真界の草分け上野彦馬らとの出会いが譲吉の目を世界に向けさせる。その後、福沢諭吉が学び、事実上慶応義塾の精神的母体と言っても良い大阪の緒方塾で学ぶ*2。後に工部大学校(現在の東京大学工学部)を首席で卒業(第一期生)。


1880年より官費で三年間英国グラスゴー大学に留学(間違いなく欧米でしっかりと学んだ最初の日本人の一人)。農商務省に入省するが、ニューオリンズでの万国工業博覧会にて出会った米国女性と恋に落ち、そのまま1887年に結婚、永住。時まだ明治20年、実に120年以上前のことである。日本人、特に男性の欧米人との国際結婚の嚆矢でもあった。


ウイスキーの製法に、麦芽モルト化(発芽させること)せずに、米麹を用いて作るという画期的な「高峰式元麹改良法」を発明。但し旧来の製法を守る勢力の妨害があり、これに関するシカゴでの事業は失敗。

苦痛の一方、四年後、この醸造発酵技術の過程で強力な消化酵素「タカジアスターゼ」を発見。世界で最初の科学的な胃腸薬であるこの製品は米国を始め爆発的に売れた*3。日本における商権のみは売却しなかったため、これをベースに三共(現、第一三共)が生まれ、初代社長を務める。


これだけでも驚異的な人生なのだが、彼は数度に渡る生死の境を越えつつ、牛の副腎より、世界で最初のホルモン抽出、結晶化に成功(1900年)。これがアドレナリン。譲吉こそは内分泌学、神経科学の創始的な一人でもあった。この業績がいかに困難かつ、偉大なものかということは生物系で多少なりとも内分泌学に親しみのある人であれば即座に理解して頂けるだろう。ホルモンは実に微量の成分であり、現在の生化学、分子生物学的な手法をもっても、新種のホルモン抽出、精製は相当に難しいからである。


確かに経済的には成功したかもしれないが、これほどの人生、これほどの科学的業績であるのにも関わらず、高峰博士はノーベル賞はおろか世界的なメダルすらもらっていない。その上、恐らく劇を見る前の僕と同じく、現在の日本人の多くにもタカジアスターゼという名前で朧げ(おぼろげ)に知られている程度ではないかと思う。

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かたや、ノーベル賞の授賞式が先日あり、これだけの数の日本人受賞が同時に起きていながら、特に騒がれることもなく、日本でも、世界でも受け入れられている。そして受賞を受けた四人の名前は日本人の頭に刻まれる。


、、、何とも言えず、感慨があった。


今、韓国では一人でもノーベル賞受賞者を生み出そうということで、必死であると、まま聞く。日本も、高峰博士、北里柴三郎先生と歴然とノーベル賞に値する仕事をしても頂くことの出来なかった人が、このように二十世紀とともに始まったノーベル賞創始の頃より*4、連綿と存在する。


日本も遂に本物の大国になったということだろう。感無量であると共に、このことを当たり前のように受け入れてはいけないと思う (We certainly should not take it for granted)。そんなことをこの度しみじみと思った。

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世界に遅れを取らない日本人研究者育成のため、理化学研究所の創設を強く提唱し、実現させたのも高峰博士だった。


一方では、豊田式自動織機の事業化につまづき、失望のどん底にあった豊田佐吉翁を励まし、事業化の情熱を再度焚き付けたのも高峰博士だった。


晩年、「無冠の大使」として、次第に危うくなる日米の親善のために、事業成功で得た富を惜しみなく投じたのも高峰博士だった。その一つ形として残っているのが、あのワシントンDCにおけるポトマックリバー沿いの桜。この3000本に及ぶ寄贈を私費で行ったというのは驚きとしか言いようがない。このことを知っていれば、かつてDCに行ったときの感慨は更に深かったことは間違いない。


高峰譲吉博士の偉大な人生にこのウェブの片隅で乾杯と感謝を捧げたい。


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ps. このエントリに限らず、写真にもスターなど頂けたりするととてもうれしいです。



*1:なんと私も同じ!

*2:この辺りは「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」に詳しい。もしまだであればオススメ

*3:なお、その約10年前に発見されたジアスターゼ(アミラーゼ)そのものは、なんと私も今回知ったのだが、世界で初めて単離された「酵素」であり、譲吉は酵素学の父の一人とも言える。

*4:ノーベル賞は1901年が第一回目

渡米して最初に思ったこと(6) - 幸せとは?

Leica M7, 50mm C-Sonnar F1.5 @Mother Farm, Chiba


日本では勝つという言葉が意味していることは非常に狭いけれど、アメリカ人が使うwinという言葉の意味は非常に広い。Are you winning?と毎日言っている、かつて僕のチームメンバーがいたけれど(外人)それは何というか「うまくやってる?」位の意味で、方向や内容までは規定しない。だから、百人いればそれだけのwinningな状態があるという意味ではアメリカはいいところだと思う。


何かはっきりした方向に向かっているということ(トラブルはあっても前進しているということ)が幸せな状態だと思う。辛いことを乗り越えているのが一番生きている実感のある充実した瞬間だと僕は信じている。



(Summer 1997)

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ps. この一連の11年あまり前の稿はこれで終わりです。一週間以上の長きに渡り、お付き合いいただきありがとうございました。


上の記事も含めて、今から見るとかなりこっぱずかしいものがありますが、まあこういう日々があって今があるということで、基本的に手を入れずに出しました。


今からでももちろん構いませんので、何か気になったエントリにでもコメントなど書いて頂けたりするととってもうれしいです。


ではでは!

渡米して最初に思ったこと(5) - 夢の大切さ

先週まで載せていた11年前のメモの続きです。このシリーズ、間もなく終了です。



Leica M7, 50mm Summicron F2.0, Fortia SP @目黒、東京


アメリカに来てから、こちらのスポーツ選手のインタビューを聞くと、いつも彼らが例外なく自分の考えを持って自分の足で立っていることが分かる。やはり人間として自立しているんだと思う。誰か(コーチとか)になだめすかされてやっているんではなくて、自分の意志で選んだ道を自分の内面から自分を押す力でやっているから、当然「自分を支える考え」というのを持っているんだと思う。


また、アメリカでは、「医者になるわけでもなく、弁護士になるわけでもない、そんな夢を子供達に与えよう」というようなポスターまでいっぱい貼って、スポーツ選手が色んなところに積極的に子供に夢を与えるための活動をしている。これは彼らの本心だと思う。日本の清原のように小金を持ってしまったために自分を見失い、銀座で姉ちゃんを引っかけているような奴には出来ないだろう。初心をもっと大切にして欲しい。なぜ清原にみんな希望を持つかというと、彼が高校を出てドラフトの結果、巨人に入れなかったときのあの涙があるからなのに。あいつはわかっていない*1


夢を与えていかないと、アメリカではまともに成長出来ない子どもが多くいるからだ、というねじれた見方もある。しかし、本来人間は目指す方向に向かって歩こうとする生命であって、これは非常にまともなことであると思う。更にいえば、アメリカは一人一人独立した個人の社会だから、どんなに恵まれた人でも、自分の意志と生きたい方向(夢)がなくなると生きていけないことがクリアになる。


かたや、「子どもに夢を与える」なんて言葉、日本であんまり聞かない。それほど日本の子供は恵まれた環境にいるという人もいるかも知れない。しかし、本当にそうか?ある意味で日本ほど夢のない国はない。ほとんどの人が、そこそこの人生しか送らない*2。野望は国の規制に打ち砕かれ、外圧のみが変え得るようなそんながんじがらめの社会。異常に画一的な目標しか子供にはなく(東大に行く、医者になる、官僚になるなど)*3、覇気のない大人が大手町を歩いている。アメリカで Harvard college, Yale college卒というのは確かにエリートの象徴ではあるけれど、みんなそれを目指しているわけでは全然ない*4。J.D. (law school出), M.D. (medical school出)というのも同じ。


日本では夢を持っている人がいなさすぎるから、誰も語らないのが実態ではないか?誰も自分の生きたかったように生きようとしていない。自分の夢に自分の人生を賭けない。夢があるかどうかすら分からない。


日本では誰もエキサイティングな人生を望んでいないのかもしれない。20歳そこそこの人間が「やりたいことがないからとりあえず商社にいく。」と言ったり、人生の目標で「東京郊外の一戸建て」をあげるのは非常に気持が悪いし異常なこと。ブルーハーツの詩のように「生まれたからには生きてやる。」という考えがない。これは、悲しい。生きてきたからにはうきうきしていたい。生きてきたという実感のない毎日なんてつまんない、そうは思わないのだろうか。


なんていうかパワーがなくなってしまうと、悲しい。いわゆる生き生きしているという顔があるけれど、ぼくはいつもああいうvividな人でありたいと思っている。人間らしく、悲しんで、楽しんで、痛がって、気持ちよくなって、、、そういう生きている自分でありたい。



(Summer 1997)

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*1:この辺り1997年という時代を表しています。:)ちなみに僕は清原と同学年で、桑田も含めて特別な思いがあります。

*2:この状況は、この数年後におこるネットバブルによって多少変わったようだ。

*3:この辺りはこのメモを書いた当時10代であった現在の20代の人に話を聞いてみたい

*4:但し、大統領を目指すのであれば、どん底からの叩き上げ(=アメリカンドリームの体現者)でなければ、このいずれかの大学に undergraduateか、law school辺りでからんでおいた方が良い。ビル・クリントンはこの両方を満たす稀な事例。