能力主義とメリトクラシー


Leica M7, 90mm Tele-Elmarit F2.8, RDP III @ Grand Canyon National Park (Mooseと並ぶ、北米最大のシカ、Elkです。)


能力主義という言葉がある。

このように不景気になり、沢山の若い人がちゃんと仕事に就けない状態が続くと、若い人たちのコミュニティに熱望されているのではないかと思う。一方で、歳を取って、守るものが多い人たち、多くの場合、その仕事を始めようとしている人たちの親の世代では、しかるべきポジションについている人ですら、あまりやり過ぎは良くないと考えているだろう。何しろ、自分の家族や子供をどうやって養っていけば良いか分からなくなるからだ。

実は、僕は一度もいわゆる年功序列的な仕事をしたことがない。もともと科学者にずっとなりたいと思っていたから、ということもあるが、少なからず、歳を取った人たちにアービトラージ、日本語のえげつない表現で言えば、「さやを抜かれる」のがいやだなと思っていたからでもあると思う。もともとお金を儲けようと思って仕事を始めた訳ではないけれど、いわゆるサラリーマンに夢を抱くことが出来なかったことも大きな理由だったと思う。僕が大学四年だったバブル全盛、バブル最後の年(1990〜1991年)で、生涯賃金が、最も高いといわれた興銀(日本興業銀行*1)でもうろ覚えだけれど確か5億だとかで(殆どの大手企業は当時3億円以下だった)、かたや自分が腰を痛めて診てもらっていた接骨院の親父が「このあいだも株で1500万円もうけた」なんて言っていて、最大稼げる企業に運良く入り、全ての夢を捨てて、身を粉にしてもこんなものかと思うと、なんだかバカらしくなったこともある。もう少しリスクをとって、今風(?*2)に言えば確変モードを狙いにいきたいと思っていたのかもしれない。

で、能力主義なのだが、当時はあまり何も思っていなかった言葉だけれど、今さんざんビジネスの現場で変革に携わり、実際に結果につながることに携わってきた結果、かなりくせ者ではないかと思っている。

「力」があれば重用されるべきなのかと言えば、正直クエスチョンだからだ。

事業、事業体というのは英語の会計用語でgoing concernということから分かる通り、常々変化に対応して、成長していく、少なくとも生き延びて先々に向けて投資していくというのが役割だと思う。

能力主義のいうところの「力」というのが実際に変革を起こす力であるとか、結果を産み出す力ということであれば良いのだが、往々にして世の中的には、あの人はこういう資格を持っているとか、こういうことをやらせれば出来るとか、経理に詳しいとか、あの分野に付いて良く知っているとか、しまいにはあの人は高い教育を受けているみたいなことばかりを「能力」と捉えがちだ。で、結果、英語学校ブームとか、資格とりましょう〇〇キャンみたいな、話がまき散らされることになる。*3

仕事を始めるぐらいの本当に若いうちはそれでもいいだろう。自力で引き起こした結果が何もないのが殆どのケースなのだから、そういう代替指標でもないと、多くの場合判断のしようがないだろうことはある程度しかたないと考えられる。

ただ、実際に仕事を何年も行えば、必ずその人の人生の後に何が残っているのかが、明確になる。

どのような変化を起こし、実際に今いる組織でどのような動きを引き起こし、それがどのような結果につながっているのか。その中で、どれだけの人を育て、どれだけの組織をまとめ、どれだけの希望と力を産み出したのか、だ。つまりgoing concernとしての組織にどれだけポジティブな効果を産み出したのか、そして産み出しているのか、が形になる。

決して、一発屋的な発明とか、大きな商談を一つとりましたという話ではない。問題はあくまで継続的に、あるいはシステマティックにそのような望ましい変化を産み出すことが出来ているのか、ということだ。

そう言う視点で考えると、多くの会社にかなりの数でいる「あの人はなかなかあの領域に詳しい」「あの人はこの分野ですでに何十年だ」という人は、組織にとっての価値は本当のところかなり怪しい。望ましい効果を産み出す人は、単に技能や知識があるだけでなく、それを使って結果を産み出せる人だからだ。心の問題が一つであり、大半の場合であれば、リーダーシップの問題でもある。人を一つの方向にまとめあげ、それに沿って結果を産み出せる人でなければ、ある程度以上のインパクトを産み出すことが事実上不可能に近いからだ。またそれが、会社や大学、研究所というものが人の集まりであることの意味でもある。


非常にシンプルで古典的な枠組みにSkill & Willマトリックスというのがある。

素朴な枠組みなのだが、人だとか自分がどこにいるのかを考える上で大変参考になる。組織を動かそうとする時に、組織の現状を考え、どこをレバーにして動かしていくのかを考える際にも、大変深い示唆を与えてくれる。

当然、どの組織にとっても宝になるのは、右上の象限の人であって、これはもう「人材」ではなく、「人財」というべき人だ。通常、大組織であれば5%とかそのぐらいしかいない。このような人たちを腐らせているようではその組織に未来はなく、どんどん任せていくべきだ。そして人の上に立つ人であれば、まずここに入ることを目指す必要がある。

縦軸は単にやる気として捉えられていることが多いが、これは本来は気持ちの心構え、心の素地というべきもので、右に行けば行くほど、その力に見合ったその結果のリーダーシップ、人望、牽引力が含まれる。付いて行こうとする者(follower)がいなければ、リーダー(leader、つまり牽引する者)とは言えない、と英語の世界ではよく言うが、まさにこれだ。

問題は、多くの組織において、能力主義で重用されたり、若い人が目指している領域が、右下にあることで、これらの人たちが大量にたまっている組織はかなり不健康だ。上のマトリックスでは暫定的に、左上と右下で人材1、人材2としたが、右下の人たちは僕は人材だとは思わない。

こういう人たちが、ああだこうだと文句ばかり言って、多くの場合、深い問題意識をもつこともなく、変革をくじく。そして、裏でぎゃーぎゃー言う。変に組織に長くいたりするので、影響力もあったりして、dark forceになりがちだ。なので、僕は能力主義というのは危険だなと思うのだ。

一方、左上の人たちは、多くの場合、未来への希望だ。この人たちこそ、鉄は熱いうちに打てで、どんどんとチャレンジさせないといけない。思い切りストレッチしてようやく出来るかどうかというチャンスをどんどん与える。もちろん、ただ任せるだけであれば無茶であり、無責任としか言いようがないが、ここは任せつつ、成長とトラブルがないかを近づきすぎずに見守る。信じて任せられ、思い切りがんばることなしに、人が大きく伸びることはあまりないのではないのかなと、僕自身の経験からも思う。

これまでそれなりの数の企業や組織を見てきたが、比較的能力主義と言われる中途の人が多い職場で右下な人たちを随分大量に見た。ちゃんと一緒に働いた人の声を聞くなどという基本チェックも含めた、十分にjob marketが発達してこなかったためかもしれない。これらの人たちは、何かを比較的つつがなくまわすことは出来ても、環境の変化に応じて、色々なことを仕掛け、その新しい試み、変化、イノベーションのために関係するお客様や沢山の人たちを動かすなんてことはしない。そして何か分かったようなことだけを言う。それは組織にとっての本当の力にはならない。

逆に良く練れた年功序列の組織の方が、帰属的な愛のある組織であれば、却って上の方の人たちは役割を担おうとしていくことがあっても全然おかしくない。

そう言う意味で、右上の度合いこそを組織は大切にするべきではないかと思う。これが会社にとってのmeritによる評価であり、これをmeritocracyという。なぜか、自分の元いた組織以外で日本語では聞いたことがないが、能力主義という言葉の底の浅さと、問題がこれだけ多くの組織で露呈してきている現在、メスを入れるべき、改善の方向性ではないかと思っている。

今、Wikipediaで検索してみたが、英語であれば、リンクのようにかなり徹底的に説明してあり、次に見る多くの言語での説明がある。が、日本語ではやはりないようだ。

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このコラムがある種の一石を投じることになればよいなと願っている。

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この間、ためにためてあったNHKのプロフェッショナル、仕事の流儀のうち、井上雄彦さんの回を偶然見、その結果、『バガボンド』を読んでいる。まだ20巻までしか読んでいないのですが、なぜか、上のようなことを思った次第です。

Hope you had a great weekend!


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*1:すでにバブル崩壊の過程でなくなり今はみずほコーポレート銀行の中の母体というべき存在。今から考えれば二重にバカ話かもしれないけれど、トップ官庁を蹴っても行っても良いという人がいたぐらいの日本屈指のエリート企業だった

*2:少なくとも当時はあまり一般的ではなかった言葉だと思う

*3:註:これらを行う事業者に罪はない

多謝!


Leica M7, 50mm C-Sonnar F1.5, RDPIII @ Phuket, Thailand


kaz_atakaです。皆さん夏を楽しまれていることと思います。


先週末よりPhuketにて久しぶりのバケーションを楽しんでいるのですが、昨年10月に書いたエントリに再び火がついてびっくりしています。


ちょうどこのホットなエントリも含む、プロフェッショナルレベルの(素人向けではない)問題解決の全体像について、私が前職で長らく教えていたようなことも含めて本当のところを書き物としてまとめている最中だけに驚きました。ある種のencouragementと考えてがんばってなるべく早く書き下ろします。


実は1次バージョンは6月ぐらいに相当レベルまで書いたのですが、仕事を一緒にしている相手に話す調子で書いたためか,あまりにも内容が難しすぎるということで、いったんボツにし(泣)、現在、あくまで読者をサイエンティストなどプロの問題解決を行う道を歩むことに決めた人ということにしぼって書き直しています。


現在話題になっているエントリ自体はいつものように30−40分でざっと書き流したものですが、これ以上日本語化するのはかなり困難な内容です。またほとんど対応する概念が存在しない、しかも通常語られないことが次々と出てくるので、一度や二度見ても理解できない人が大量にいるのは良く理解できます。が、それは新規の概念を大量に見た時(初めて見る教科書を開いたときと同じ)と同様とお考えください。実際には思考の道具なので、物理の法則などと同じく、何度もいろんな場面で利用して初めて本当のところを理解できることばかりです。


現代の日本語自体が、すくなくとも欧米語の一つをマスターしないと正しく理解できないのと同様に、ここで議論していることの多くは日本語で対応する概念が存在しません。例えば、イシューは日本語では適切な対応概念が存在しません。(コンセプトを無理くり「概念」と訳した明治人のような漢文脈の教養が私たちにはもう失われています。)


頭の中が、和文脈一辺倒の自分の親などには非常に理解できない内容だということは重々理解していますが、そもそもこの流れをこれだけ統一的に実践者の視点で説明しているものは、世の中にほぼ存在しないと思われ(だからこそこれだけのブックマークなどを頂いているのだと思います)、なおかつ、本当の実践にまつわるうっとうしいことについてはほとんどこのエントリでは割愛しています。したがって、これ以上シンプルさを求められるのであれば、このウェブの片隅で、個人的な隙間を見て書いているだけのブログで対応するのは、ほぼ難しいとお考えください。


なるべく早めに上記のモノをまとめますので(世の中にいつ出せるかは、私の原稿だけでなく、本屋さん次第でもありますが)、もしこれ以上の本格的な関心をお持ちの人がいらっしゃれば、そちらをご覧頂ければと思います。ここや世の中ではほぼ全く説明されていない、問題解決スキル向上の本質、また分析的な思考とは何を意味するのか、という根源的な内容について、極力噛み砕いて、本当にこれらの力を身につけて生きていく必要のあるプロの道を歩き出した人(科学者、コンサルタントなど)向けにまとめようとしています。


もちろん、話題のエントリの中での個々のステップについての押さえどころについても触れる予定です。


Much appreciation for all of your interest!


Best wishes,

白と黒の間

この間、どうやったら筋の良い思考が出来るのか、どうやったら筋よく答えの仮説にたどり着けるのか、と真顔で、マネジメントコンサルタントを行っている知人に聞かれた。

彼は、僕の長年勤めていたプロフェッショナルファームにいる訳ではないのだけれど、十何年前の学生の頃、僕のいたファームでリサーチャーとして(今で言うインターンみたいなものだ)バイトに来ていて、その頃からの知り合い。

僕が随分長い間アメリカに行っていたりしていたこともあり、同じ会社にいた訳でもなく、完全に音信不通だったのだが、数ヶ月前、たまたまある大先輩が催しているパーティに行ったところ、久しぶりに出会ったのだった。

僕はどうも彼たちのチームのチューターをしていたらしく、いやチューターでもないのに、色々訳の分からない爆撃を繰り返していたらしく(笑)、彼にはずいぶんな野郎だと鮮烈に覚えられていたようだった。

実に素敵な人物なのだが、僕はすっかり忘れていて(本当に失礼な野郎だ!苦笑)、五分ほどお話ししているうちにようやく思い出した。


Leica M7, 35mm Biogon F2.0, RDPIII @Grand Canyon National Park

僕は割合、あっという間に仮説が立つほうで、デタラメかもしれないけれど、まあそれは適当にメッシュよくこうなんじゃないかな、なんて思う。というか、わりとポンと、この辺じゃないかな、この辺は筋悪だな、というのが(正しい、正しくないとかというのと別に)割とすぐに思い浮かぶ方だ。もちろん間違っていることもあるにはあるが、ここは長年の訓練のこともあり、経営関連、特にマーケティング周りのことであれば、それほどずれることは多くない。

そんな「野生の勘」野郎(笑)の僕のことを彼は良く覚えていてくれていて、それでせっかく久しぶりにあったので、これをチャンスに、ということで、長年の謎?を僕に聞いたのだった。

僕は「感性こそ知性」、という価値観、あるいは信念、考えを長らく、実に歳にして17-18の頃から持っており、彼に、「一瞥したときに、あるいはその生の事象を見たときに、いったい何をどこまで感じられるかが、実は勝負なんだ」とそう言った。

このことが、どうやって答えの仮説につながっているのか、彼には落ちなかったらしく、手を変え足を変え聞かれた。

僕の言わんとすることは、最初に今起こっていることの本質と、課題、あるいは見極めのポイントを、どこまで一度に感じられるかが勝負なんだ、ということだったのだけれど、これがなかなか分かってもらえない。

そういう感じることに対して、本当に価値があると思うこと、そして区別する必要があると自分で本当に思っていること、経験していることしか、瞬時に区別することも、認知できないんだ、とそう言って初めて少し分かってくれたようだった。


そこで僕が彼に説明した比喩は、こういうことだった。

白と黒がある。

この区別はどんな人にだって出来る。なのにひとは白黒つけたがる。これは白だ、これは黒だって。

これは愚かであり、間違いなんだ、というのが僕の言ったことだった。

世の中は白と黒で出来ている訳ではない。

むしろ白も黒もない。白と黒の間にある無限の段階のなかにこそ、世の中の本質がある。

そこをどこまで細かいメッシュで差を見分けることが出来るか、その濃淡を感じ取ることが出来るか。またその濃淡が生み出すパタンやクセ、形をどこまで見分けることが出来るか、それがその人の価値観であり、生き様であり、そして学んできた世の中の理解、それに対するappreciationそのものなんだ、、、そう伝えた。


そう、世の中を白と黒で見分けるのは間違っている。そしてこれは非常に馬鹿げたことだ。

自然に向かう科学の現場であってもそうだし、経営の問題解決の現場でもそうだ。人間関係なんて、そればかりだ。

自然に立ち向かう時、新しい発見はだいたい非常にsubtleな、つまり微妙な差異にひそんでいることがほとんどだ。そう言う話をずいぶんと目にし、耳にしてきた。私の行ってきた限られた経験でもそうだったし、ノーベル賞をとられたときに、田中耕一さんがお話しされていた話もまさにそうだった。


そうそんな微細な差異や違いをどこまで見分けることが出来るか、それが意味があると思うかが、やはり知性であるし、感性であると思うのだが、いかがだろうか。これこそ(メルロ)ポンティのいうところの裸の知覚だ。

そしてそれを磨くことが、自分の何か深いものを磨き、問題解決につながることではないか、

僕は、そう思っている。




関連エントリ

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この国はどのような人間を育てようとしているのか?


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @Greenwich, CT


昨日とても考えさせられるディナーがあった。

友人の一人が、Yale College*1を卒業後、New York Cityのある有名な投資グループで働いているのだが*2、ここのところ、日本での事業の立ち上げで東京と往復する生活をしている。

また何ヶ月ぶりかで日本に1−2週間かいるというので、ほかのYale関連の日本の知り合いも含めて集まって、飲んだ。僕が先週ずっと風邪を引いていて病み上がりだったということもあり、西麻布辺りでおでんを食べた。

とある顕著な構造不況にある業種の友人もいたので、その辺の不況話もしたのだが、そのニューヨークからの彼とした話で最も心に残ったのは、日本からのYale College applicant(応募生)の質の低さの話だった。

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アメリカで名のある大学は、書類、エッセイや試験の結果、成績、推薦状だけで人をとるなどということはしない。必ず人を通し、人柄、人としての将来的なポテンシャル、人間としてのマチュリティ、志、夢、希望、展望などを総合的に判断する。長らく大統領、Senatorなど社会のリーダー層のかなりを生み出してきた、Yale, Harvardの二校*3、とりわけ、自分たちに課している要求とその果たすべき役割への意識がクリアで、将来の世界のリーダーを養成することを明確な目標としている。

たとえば、昨年President Levin(現Yale総長)から我々卒業生たちにきたメールにはこうある。

The mission of Yale College is to seek exceptionally promising students of all backgrounds from across the nation and around the world and to educate them, through mental discipline and social experience, to develop their intellectual, moral, civic and creative capacities. The aim of this education is the cultivation of citizens with a rich awareness of our heritage to lead and serve in every sphere of human activity. . .

(Yale Collegeのミッションは、突出して将来のポテンシャルの高い学生たちを、アメリカ全土、そして世界の隅々のすべてのバックグラウンドの中から「探し出し」、精神的な鍛錬と、人の交わりの中の経験を通じ「教育し」*4、知的な、倫理的な、社会に生きる市民としての、そして創造的なキャパシティを「育成する」ことにある。この教育の狙いは、人類の行うあらゆる広がりの活動をリードし、それらの活動に仕えるための、我々の受け継いできたものに対する豊かな見識を持つ市民を養成することである。、、、)

若干余談になるが、Yaleのundergraduateたちで、これに違和感を感じる学生は恐らくいないだろう。日々の教育現場での取り組み、また随時仕込まれるおおきなイニシアチブ、結果としての卒業生たちの活躍などを継続的に、目撃し、体験しているからだ。たしかにそういうinstitution(教育機関)だという理解で、たしかにそういうところだから、やってきたという学生がすべてだと思う。はったりでもなんでもなく、真顔でLevin総長は語っている。

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三億人を超す人口の国で、1割ほどのinternational studentを入れてもわずか1300人の学生(日本の人口規模であれば500人程度の大学*5)しか採れないということもあり、その選考はかなり厳しい。当然かなりmatureな人格、自分の足で考える力、バランスのとれた判断力、自分なりの考えの上での判断が期待される。

で、応募者のうち、ある程度以上に見込みのあるものについては、インタビューになるわけだが、数が数なので、これは信頼でき、まともな卒業生が初期段階を行っていることがそれなりにある。そのニューヨークからの友人はまさにそれをこの所、一部やっているのだ。

で、彼曰く、日本の応募者のクオリティが、もう考えられないほど低いというのだ。そもそも、世界でも指折りの倍率の中から、わざわざ大学が採る必然性を感じなければならない場にあって、自分が何をどう漠然としてでも目指したいのか、だから、その中でYaleがどう位置づけられているのか、なぜ、あえてそのようなcompetitiveで、世界中から優秀な人間が集まる大学に行かないといけないと思うのか、そのぐらいは、本当に行きたいと思っているのであればすらすら答えられないといけない。だが、彼がいままでやってみたところ、例外なく、どれほど助け舟を出してもできない、と言う。単に英語の問題ではない。International schoolや、American schoolの学生でもそうだというのだから。

箸にも棒にもかからないという人間ではないということぐらいは、書類で見ているはずなので、単なるIQの問題ではないだろう。人間としての自立性、自分で考える能力、マインドセットの問題なのだ。付け焼き刃であれば、ちょっとたたけばすぐに分かる。これは僕もこれまで、かなりの数の大学生、院生の採用インタビューをしてきたのでよくわかる*6。そして彼が指摘する問題は、その学卒以上のレイヤでも僕もいやになるほど見てきたので実に共感できるのだ。今回の新しいのは、それが大学以前にも根ざした問題だということにある。

インターだとかアメリカンスクールの学生が主のようだと聞いて、僕はある種、絶望的な気分を感じている。後々の、実際の人生で求められるリーダシップや決断力、判断力の視点から見れば、明らかにどうでもよい1点や5点の差だけが意味のある普通の日本の教育を受けてきて、こうだというのであれば多少わからないでもないのだが、そうではない。これは日本人の心性がこのような子供たちを育てているということを示しているのかもしれないと思うのだ。

僕の前の職場のプロフェッショナルファームでは、どちらかというと中学、高校ではドロップアウト的に、ある種自分なりの自我を持って好きに生きてきた人間が、実に多かった(実は僕もそうだった。笑)。自立的に判断できてものを考え、実際に行動してきた人間(要は「大人」)が欲しいと思うと、ついそういうタイプの人の濃度が上がったりしたのだと思う。

この社会そのものが、全体としてそのような自立性、maturityを認めない、育てようとしない、ということが癖として、あるいは習慣としてあるのだとすれば、これは大きなハンデキャップとなる。

現実には、そのようなグローバル大学は、世界の各地で才能の発掘にあたり、グローバルな企業も同じように発掘にあたる。そのときに求めるものは当然、人として自立しており、知的にも自立していることが何よりの基本だ。「頭が良くなること」に対してfanaticな執着を持つ多くの日本人には申し訳ないが、ちょっと普通より頭が良いというのは、これはある種コモディティで、それほどたいしたことはない。IQなど単なる偏差の問題なので、賢いだけの人間などいくらでもいるのだ。むしろ独創的な発想を、自分の感性なり、経験、考え方から生み出し、それを多くの場合、鍵となる周りの人を巻き込みつつ、実際の形にできるかどうかが本当の意味での才能だ。自分が人を採る立場になればあまりにも自明のことだが、そういうものが、上に述べた基本としての人間性に加わって初めて、これは際立って面白いやつだ、未来のあるやつだ、ということになる。

どうもこの国は、かなり本質的な体質変化が必要なのではないだろうか。なかなか頭の痛い問題である。私の勘違いであればよいのだが、、、。

また、これが本当であるとすれば、国家機密的に隠したい問題でもある。このようなグローバルな世界では、上の事例のようなことがあるので、リーダー層から瞬く間に本当のことが広がっていくのが常であるのだが、その広がり以上のスピードで対応するのは恐らく無理。すくなくとも実際にこれが悪さをおおっぴらにし始める前に(実は、私の周りではもう悪影響が出始めている)、なんとかしたいものだ。

皆さんどう思われますか?


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*1:Yaleのundergraduateのこと。Harvardもそうだが、Ivy schoolを筆頭に、多くのアメリカの大学は、学部教育のことをcollegeと呼び、その部分のみのDean [校長] をmedical school、law schoolなどと同様に置いている。

*2:日経新聞を読んでいる人であれば日本人でもだいたい分かるようなところ

*3:たとえば1989-2009までの大統領はすべてYale出身

*4:原則として、Ivy schoolはOxbridgeに習い、いずれも全寮制である

*5:少子化効果、外人比率を考慮していないのでかなり過大評価した値。実際には20歳前後で4倍以上の人口があるので、そこも補正すれば日本にあれば定員300人ほどの大学ということになるだろう。

*6:10年以上にわたり、これまで会ってきた数は、1000人は下らないのではと思う

アメリカのPh.D.はどこに行くのか


Nikon F2, 50mm Planar F1.4 @Tokyo

これはmasa346さんのご質問に対するエントリです。

アメリカではPh.D.の人の未来はかなり自由です。エンジニアリングスクールであればマスター出は結構いますが、純粋サイエンスでは、修士課程がないので、まあ、日本とはちょっと違うフレーバーですが、大学院卒として待ちに待った感じで、フレッシュに世に出て行きます。(もちろんさっさと見切りを付けて、マスター出、学卒として世に出る人、別の専門の学校に入り直す人もそれなりにいます。)

ポスドクを始めるのがそれなりに当然います。が、結局、そのうちファカルティポジションを取って残るのは、トッププログラムでも半分いるかな、ぐらいかなと思います。まあ、そこでの海外からのポスドク組も含めたcompetitionで、世界に冠たるアメリカの科学の質が保たれている訳です。

ポスドクでの研究テーマは、独り立ちするときのテーマそのものになることが普通なので*1、そのときのテーマを見越した新たな弟子入り先は、dissertation workを始めた頃から考え始めている人が多いです。ポジション探し、売り込みは、ポスターで発表するようなことが出てきたらすぐに始まります。発表の場でも売り込むし、そうでなくてもコネがあろうが、なかろうがどんどん行くのが普通です。そんなに躊躇しない。ちょっとやり取りして、実績も含めまともそうであれば、よほどの大御所じゃない限り、会うぐらいはそれほど困難ではないと思います。また大きなプログラムであれば、なんやかやで、つながりのあるファカルティは、普通は探せば周りにいるものです。

一つ明らかにいえるのは、彼らはもっと伸びやかに考えているということです。

アカデミア*2を出ようと考える人間もそれなりにいます。というか、それを考えるのはかなり普通です。多彩な才能がある人であるほど、サイエンスで一生やっていくかどうかと、それ以外のオポチュニティをあるところまで、天秤にかけていると思います。何らかの専門性を持って、それをベースに自分なりのユニークな価値を生み出そうと思うという訳です。人に習うというより、自分でキャリア設計していると言った方が良いでしょう。むしろ最大の財産の一つである「若さ」「時間」の巨大な投資をするので、学生のうちから色々考えていると言った方が良いかもしれません。

トップスクールであれば、私のいたようなプロフェッショナルファームに行く人間もたまにいます。例えば私のいたのは、かなり名の通ったファームだったので、行けることであれば行きたいと思っている人はそれなりにいました。私は、例外的にそのようなバックグラウンドを持っていた学生だったので、undergraduateだけでなく、まわりのPh.D.学生から随分相談を受けました。で、インタビューを受ける人はそれなりにいるのですが、ほとんど実際には通らないので、行く人もいる、という感じです。

また、そこから更にメディカルスクール、ロースクール、あるいはビジネススクールに行く人間もいます。多くの大きな大学では、joint-degree program (MBA-Ph.D., J.D.-Ph.D.など)も盛んです。私の10人の同級生の一人も、Ph.D.をとったあと、medical scientistになるためにmedical schoolに行きました*3。サイエンスの専門性をもったpatent lawyerなどは、うまくやると、かなり花形かつ儲かる仕事なので(本質的に賢いこと、対人折衝がうまいことが前提)、そのような道を歩む人もいます。

Ph.D.の経験、知恵、ネットワークをめいいっぱい、テコとして使って、IntelYahoo!、最近であればGoogleの創業者たちのように、自分で何かを始める人間もそれなりにいます*4CaltechでのPh.D. studentのうちに、Harvard Business Schoolのビジネスアイデアコンテストのようなものに応募して入賞した友人もいます。当然そうなれば、事業開始のファンディングにはとりあえず困りません。

若干低めのリスクで、人にとりあえずは雇われようと思ったとしても、Ph.D.が求められるポジションというのは、専門にもよりますが、普通はそれなりにあるので、まあちゃんとした学校の出身で、それなりの人柄であれば、何とかなるという感じだと思います。また、アメリカでは「天は自らを助くるものを助く」というのが、すべての基本にあるので、募集をしてようがしていなかろうが、やりたいことがあれば、自分はどういう人間か、何をしたいのか、どうして自分を採ることが意味があるのかなど、自分を売り込みにいきます。必要があれば、周りの人だとか良く知っている教授などに推薦してもらう。これはこれで立派なことです。

大学であれば、プログラムディレクターであるとか、私立学校や、しかるべき政府のポジションというのもあるでしょう。

より詳しいイメージを持ちたければ、米国のjob searchサイトをご覧になってはいかがでしょうか。たとえば、http://www.careerbuilder.com/

Ph.D.と入れて、ちょっと叩けば、

Dean of the Division of Social Sciences (これなどは典型的なPh.D.が必要なポジション、、、大学のマネジメントというのは一つのキャリアパスです。)
Job type: Full-Time Employee
...Counseling, Sociology, Psychology and Public Administration. In addition, the City University of New York Ph.D. programs in ...

Program manager- semiconductor -Ph.D.
Job type: Full-Time Employee | Pay: $125k/year
...learn from pears. Write Proposals, and / or teaks for R&D of aspects of solar cell development. Design and man experiments...

Bioanalysis Research Investigator (Ph.D) 、、、典型的なライフサイエンス業界の研究職(こういうのが大企業、ベンチャー共々ものすごい量である)
Job type: Full-Time Employee
...Biomedical Research (NIBR) is looking for a highly qualified Ph.D. level scientist with emphasis in the area of analytical......
Novartis Institutes for BioMedical Research MA - Cambridge

こんな感じで、確かにPh.D.がないと回らなそうなポスティングが、実に多様にあります(みなさんも興味があればどんどん日本から応募すれば良いと思います)。LinkedInなどに入ればもっともっと無数にあります。もちろん、大学院に行く段階で、どんな分野で学位を取ると最悪どんな仕事に就けそうか、ということぐらいはみんな周りの人に聞いたり、こうやって調べたりして当たりをつけています。Phoneticsみたいな変わった専門を選ばない限りは、それなりの仕事があるのではないでしょうか。(それでも英語学校ぐらいは開けそう。)

(こんなネット時代なので、皆さんですぐに調べられることも多く、エントリを立てるのもどうかとちょっと思ったのですが、何だか、議論が閉塞しているようなので、ちょっと書いておきたいと思います。)

そういう意味では日本の博士課程の学生に欠けているのは、単に求人ポスティングというより、むしろ、健全な想像力、なのかもしれませんね。


関連エントリ

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*1:学位は手堅く取り、ここで新しい技の取得やテーマに取り組む人も多い

*2:academia: ブクマを見ていると、この言葉を使う人をうさん臭いと考える人がいるみたいですが、意味、ニュアンスともに適切な言葉は日本語にないと思います。

*3:なお、一応MD/Ph.D. programという、国から特別なファンドが出ている、特エリートプログラムがアメリカにはあるのですが(いっさい学費がかからず、両方の学位を7−8年で取るプログラム)、これは全米で数百人程度の異常にセレクティブなプログラムで、神がかった成績と、優れた人格、これまでのとんがった実績がないとまず通りません。

*4:例に挙げたのは特別な成功例ですが、そうじゃないが何か始める人も普通にいます。

ポスドク問題について思う2


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @Los Angeles, CA


(これは昨日の呟き編の続きです。ごはんを楽しく食べていたら書くのを忘れてしまってました、、、。昨日のを読まれていない人は、まずそちらをご覧ください。)


wackyhopeさん、いつもコメントありがとうございます。


ふーん、へぇーーーでした。学位を取ろうとする人の集団は、いくら何でも民間企業に働くことを最終目的にした人が主ではないと思うので、あのような検討をしたのですが、まあ要はアカデミアは無理でもやっぱり仕事に就けないということが問題ということで、supply(社会への供給量)とdemand(社会の需要)の問題ということは変わらない訳ですね。


(、、、昨日書いた通り、明らかにアカデミア側のキャパがたりない状況下で、「もし」ですが、自分のトンガリ、売りもないのに、非現実的にアカデミアの道のみを考える人ばかりが大量にいてあぶれていて、それをブツブツ言っているのであれば、それは人としてのimmaturity、空想癖の問題なので、それは人間そのものを大人にしないとどうしようもありません。「自滅」としか言いようがない。)


僕は、Ph.D.、あるいは日本の博士号取得者を労働社会が吸収できるかどうかは、国というより、その社会の、その分野における基礎研究の強さに著しく依存しているので、一般論で議論すること自体にあまり価値はないと思います。たまたまその分野で強ければ沢山吸収できる。


例えば、アメリカの基礎研究の半分ぐらいを占めるlife science(生物系の科学)の場合、民間での最大の吸収先は、当然、アメリカを代表する産業の一つである医薬系ということになります。


ではその規模は、というと次のようなものです。(Wikipediaによる)


2007年度医薬品メーカー売上高ランキング(トップ20)


圧倒的に欧米系、特に米国資本が多く、日本勢はホント悲しいぐらいに小さいことが分かります。このトップ20での事業規模(売上高の総和)は次のようなものです。


アメリカ    196,670 (日本の10.1倍)
ヨーロッパ   204,155 (日本の10.5倍)
日本      19,437

アメリカとヨーロッパが大体20兆円、日本は2兆円)


おおむねR&Dの規模感というのは事業規模に連動しますので*1、ライフサイエンス系Ph.D.の民間吸収余力の指標としては、かなり適切なものでしょう。アメリカは少なくともこのような分野では、我が国(日本)とは圧倒的に吸収余力が違うのです。


また、ヨーロッパ系の開発拠点は世界に散っているとは言うものの、実際には大半がアメリカを本国並み、あるいはメインの開発拠点にしています*2。ですからこの数字以上に、アメリカは吸収余力が大きいと見てまず間違いありません。


ヘルスケアの世界では90年代初頭からはげしい企業合併が繰り返されてきましたが、その最大のドライブは、販路の拡大でも、生産コストの低減でもなく、十分なR&D力の確保でした。一つの大型新薬の開発に800-1000億、しかも上市まで10年ほどもかかるという非常に統計学的なビジネスであり、開発力にある程度の規模がない限り、事業が安定しない。だから、合併の度に事業規模だけでなく、ということで、R&Dのランキングも発表され議論されてきたのは業界の人であれば(日本のメディアは良く分かりませんが)ご案内の通りです。


同じようにアメリカの基幹的な産業である、IT・ハイテク系、航空系においてはアメリカは世界のどの国の追随も許さないレベルの民間R&D規模があります。が、一方、電気的なエンジニアリング、クルマの新型エンジンの開発などに関しては、日本の方が吸収余力は大きいでしょう。ただ、残念なことに、このような分野ではPh.D.はほとんど要求されません。


つまり日本の場合、もっとも吸収余力を持つ分野に集中して、しかし吸収力を勘案しつつ、Ph.D.の育成(生産)を行うべきだが、実際には、そのような分野は少なく、増産は危険である、ということが言えると思います。

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ということで、やはり国の吸収余力がない分野に対して、日本は不必要に学位取得者を生み出しているということは、ほぼ明らかではないかと思います。根にあるのは雇用の柔軟性というよりむしろ、産業構造の問題であり、国としての産業分野の強さの問題なのです。


それに見合った数しか生み出してはいけないのに、それを越えて生み出せば、あふれるに決まっており、昨日のエントリの話と総合すれば、構造的に二重にまちがった増産が行われていることが分かります。


1.大学の吸収力そのものが低い(具体的に検討していませんが、国立研究所、理化学研究所などもほぼ同じでしょう、、、トップ大学に並ぶポジションですから、大学以上に大きい理由がない)


2.産業的な強さを全く反映せずに生み出されている


大量に学位取得者が生み出されたのだから、産業を強くしろ(そして大量に受け入れろ)というのは、ほとんど言っても詮無いことです。武田だって、別に好んでこの規模なのではないのです。全力を尽くしているのですから。上の二つはどちらも明らかに、産業側ではなく、アカデミア、政府の側、そして単純な算数もせずに行ってしまった*3学生の側の問題です。


無理した増産をすれば起こることは、メーカーの経営と同じで、在庫が積み上がる、そして積み上がれば普通は価値が落ちる。在庫処分をすれば、叩き売り、すなわちインフレになります。アメリカの10分の1のバケツに、同じ量の水を流し込めば、どうなるかは言うまでもありません。


もう一つ厄介なことは、欧米とは異なり、同じ日本の大学院が非常に似たスペックで若干安い人を大量に生み出していることです。すなわち、日本ではterminal degreeとして修士を生み出すプログラムが存在し、それが一般化しているために(註:エンジニアリングはともかく、サイエンスの修士課程は少なくともアメリカではほとんど存在しない。最近のエントリ『専門教育に関して悩まれている人へ贈る言葉』を参照)、大学院卒を採るということはマスターを採ることとほとんど同義語化しており、わざわざ歳をとって学位を取得した人を採る意義をあまり感じないということがあるでしょう。つまり身内に敵 (competitor) がいる。これも上と同じく企業側ではなく、大学、政府側の問題です。本来博士課程を増強するなら、修士課程をつぶすべきでした。*4


という需給バランスを無視した供給が起こっていることが、現状の最も本質的な理由*5であり、とにかく増産、そして上のダブり生産をやめることが即効性の高い打ち手になるでしょう。そして適正な量を分野ごとに見直す。増産部分で余剰状況になっている社会の在庫(かわいそうなポスドクたち、、、100年前の政府にだまされて行ったブラジル移民のようなものです)については、社会のサンクコスト*6にならないように、何らかの社会的な打ち手が必要だと思います。


しかし、こんなに経済の基本のようなことが分からない人が教育行政に携わり、それを大学もあまり考えずにやり、学生もほとんど盲目的に進学しているという総思考停止状態を止めないことには、このようなことは繰り返されるのではないかと思います。


学生の人たちへ、、、自分の人生は自分しか守ってくれません。文句を言っている暇があれば、どうやってこのリスクを回避できるか考えましょう!


ではでは。



参考エントリ:

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*1:実際には大きいほどR&D比率は上昇する

*2:これは、このような良質なPh.D.ホルダー取得の容易さの問題であり、言葉の問題でもあり、また世界最先端の研究を行う優れた大学への近さの問題でもあります。つまりアメリカが生み出すPh.D.のグローバルな「市場価値」は少なくともこの分野では世界のどこよりも高いことがここから分かります。

*3:100歩譲って、「計算したけれど、その数字の持つ意味をいざという時に、都合良く忘れているか、受け入れられない」

*4:これは、ビジネス的にはあまりにも基本的な問題でもあります。大切な新商品を出すときに、カニバル [喰い合う] 可能性がある昔の商品を整理するのは、いかなる商売、マーケティングにおいても基本中の基本ですが、それが出来ていない。2008年モデルを引き上げずに、2009年型の新車を店頭で売ることなんてあり得ないですよね。こんなことをすれば、株主総会やIRでボコボコにされるのが落ちです。人類の知の象徴であるはずのアカデミアが、自分のことすらロジカルにモノを考えられないのであれば、もう存在意義があるのか、とすら思います。

*5:昨日書いた、アカデミア以外の道を検討しないという非現実的な行動習性を持つimmatureな人が多いのではないか、という問題は除く

*6:sunk cost: その事業や取り組みをやめても回収できない費用

ポスドク問題について思う


Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII @Grand Canyon National Park, AZ


休載宣言以来、案の定ほとんど書けていませんが、なんというか日本の学位取得者について考えさせられるメールが来て、ちょっとだけ。


ポスドク*1問題というのが日本ではかなり深刻だという話をたまに聞いたり、見たりするのですが、なんというかちょっと不思議に思っています。


どうも騒がれていることの本質は、学位をとっても研究職、特に大学や公的研究機関に就ける人が少ないということのようです(もし私の理解が間違っていたらごめんなさい。その場合、以下は読む必要ないです)。


しかし、それは本当に問題なのでしょうか。アメリカのトップスクールのようにセレクティブで、どのPh.D.プログラムでも10人ぐらいしかとらないようなところでも(一つのプログラムで学位を取るのはそのうち5-6人/年)*2、最終的に大学のファカルティになるのなんて2割もいるかどうか。それ以外の人は当たり前のように民間に出て行きます。つまりなんでアメリカとは違って、日本ではそれを問題にしているのか、と僕は思う訳です。


まして、日本のように「大量生産」していれば、ファカルティには1割ぐらいしかなれない、適切なポスドク職を探すのも困難なのは当たり前なのではないでしょうか。ほとんどロースクール*3卒業生と同じ問題のように聞こえます。


大量生産、ということについてですが、例えば、アメリカで最大級のPh.D.養成機関の一つであるHarvardで、理系文系など学問分野を問わず生み出されるPh.D.は年間約540人(この資料のp.11)、同じくかなり大きな大学であり、学生一人当たりの運用資金全米一を誇るYaleで360人にすぎません(しかしこれだけ生み出せる大学は数えるほどしかなく、この生み出す数をこの二校は大学の質を証明するアウトプット指標としてとても誇りにしています)。Berkeley, Stanford辺りがPh.D.産出パワーで(笑)ここに並ぶクラスだと思いますが、ほとんどの大学はそれほど大きなプログラムがある訳ではないので、そこまで生み出すことは出来ない。


一方、日本では、東大だけで年間1100人以上(米国には事実上存在しない論文博士180人を含めると約1300人)、京大が年500人強、全国ではちょっと古い資料でも年16000人!、妙に数字が多い保健分野を除いても年9000人も生み出されている。そもそも個々の大学の基礎的な実力、体力*4としてこんなに生み出せるはずがないと思うのに加え*5、総数としても人口比アメリカの2.4分の1しかないことを考えれば、「主力になる大学」が生み出す学位の数が、かなり多いことは自明。


(註:なお、アメリカにおいても主たる大学におけるファカルティは、[日本とは全く違うロジックの結果ですが] かなり名の通った大学の出身者が殆どですから、ここでの比較はある程度、nearly apple to appleの主力の大学同士の生み出す学位取得者で考えています。地方の末端州立大学ぐらいまで含めれば、学位の総数はさすがにアメリカの方がずっと多いでしょう。むしろここからあとの議論の通り日米では受け入れ余力が全然違うにもかかわらず、同じ人口で生み出す学位数に、日米の差がそれほどなさそう、、、つまり作り過ぎに思われることが問題。*6


しかも、アメリカは世界レベルのアウトプットを出す、それなりの研究を行う有力大学だけで数十はあり、それぞれがかなりのラボの数を持ちますから*7、ポジションははるかに多い。なお、日本のような講座制をとっていないので、一度assistantであろうがprofessorになってしまえば、アメリカでは原則PI(principal investigator:ラボの長)です。それでもPh.D.の大多数は結局ファカルティにはならない訳です。


ちゃんと研究を行う大学の数も、大学辺りのラボも少ない日本でこれだけ博士号を生み出せば、より結果が強烈になるのは当たり前なのに、その程度の算数も出来ない人が、日本では大学院に行くのでしょうか?(そして、自分のとったリスクを棚上げにして、文句を言っているのでしょうか?)しかもいくつかのエントリで考察した通り、英語の問題があって、ドイツ人などヨーロッパの学位取得者のようには、自由に海外の研究職も探せないということであれば、もう吸収先がないのは当たり前。


ということで、もし上で私が書いたことが、本当に騒がれていることの中心であるとすると、まったくもって解せません。当然のことを当然だと思えない、ある種のimmaturity課題がそこにはあるのではないかと思うのですが、これは下衆(げす)の勘ぐりなのでしょうか?


大学に行けば、あるいは大学院に行って学位を取れば関連する仕事があると思っているのは、途上国を除けば、日本人だけなのではないかと僕は思います。そう、それは明治、日清、日露戦争時代のスキームなのです。


暴論でしょうか? 僕は、一歩日本を出れば、これが世界標準の考えに近いと思いますが、、、。



追伸:コメントを拝見し、続きのエントリを書きました。そちらもご関心があればどうぞ。

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*1:postdoctoral fellow/associate: 博士号を取得してその後、独り立ちするまで、更に、多くの場合、別のラボに行って研究している人

*2:ファンディングのリソースの大きさと、ファカルティの数によって大体規模は決まります。僕がいたプログラムが典型的なものの一つだと思いますが、学生は毎年10人しかとっていません

*3:法科大学院

*4:金、ファカルティの数、ラボの中の人の数など

*5:例えばなぜ東大はファカルティの層、研究費ともに巨大なあのHarvardの倍以上も生み出せるのだろう?

*6:統計上の総数についてはトラックバックを頂いたnext49さんのエントリでかなり詳しく検討されています。refer多謝。誤解を生んでいたら申し訳なし。ただ、本エントリの後半を読んで頂ければ分かる通り、吸収力を無視して、[人口辺りで] アメリカとたいして変わらない程度に生み出していること自体が過剰だと言うことを問題だと思うという筋は変わりません。また同様に、日本の主要大学がかなり際立った数の学位保持者を生み出していることは認めざるを得ないと思います。

*7:私のプログラムの場合、学生年10人に対し、参加するファカルティ(つまり選択可能なラボ数)が90ほど当時ありましたが、ちょっと日本ではなかなか考えがたいことです