噛みしめることを大切にしよう


この何年か、頭は良いのだが、反応が極めてデジタルで、深みがないというか、心にしみる感じのない人(特に若い人)にときたま出会う。全てのことを単なる表層的な情報としてそのまま処理しているというか、とにかく恐ろしく厚みのない判断をしている感じを与える人だ。以前も少しいたが、有意に増えているように感じる。


サクサク物事はこなすし、一見、明快な部分は気持ちもいいのだが、一方で、極度に表層的な印象を受け、これで良いと思っていること自体に対する気持ち悪さもある。そのためにこの人と本当に会話しているのか、ちゃんと会話出来ているのか、ということについて、不安を感じる。もっとやっかいなのは、話をしているとしても、そもそも何も伝わっていないのではないか、理解、共感のベースが低すぎるのではないか、と思ってしまうことだ。


そのことを、僕が指摘すると、真顔で「何を言っているのか分からないので説明してください」というようなことを言う人間も何人かいる(もちろんこの人には悪意も邪気もない)。その度に僕はこんな"馬鹿"*1と話してもしょうがないと思うのだが、なぜかつい丁寧に説明してしまう(苦笑)。無意味かもしれないが、こんなことを千回繰り返せばその中の何回かは、実際に意味のある変化につながるかもしれないと思ってだ。


ちょっと不安である。



Leica M7, 50mm Summilux F1.4, RDPIII @Grand Canyon, AZ

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自分の頭でモノを考えることは、ここは多少疑義があるかもしれないが、ある程度の知性がある人であれば、正しい訓練さえすれば、それほど難しいことではない。何事もgivenとせず、確かに自分の目で確かめたことをベースに世界観を作り上げていけさえすれば、それほど筋の悪い見立てになることもない。


ただ、その際に、情報の一つ一つの重さや重層性、関連性を認識することなく、考えを進めていけば、必ず短絡的な困難に陥るはずだ。この点で問題を感じるのだ。


この辺りの短絡的でうすっぺらい表層的な論理的のみの思考をする人間は危険*2と言わざるを得ない。世の中にロジカルシンキングなるものが出回っているが、聡明な読者諸兄姉のお気づきの通り、これだけでは、ほとんどの問題は解決しない。だから世の中の問題解決本がいくら出回っても、あまり何の進化も起きず、使えない、あるいはない方が良いぐらいのパワーポイントばかりがあふれることになる*3

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実際には一つ一つの情報の重さや関係性、その複合的な意味合いを考え抜く必要があり、それらをしっかりと掴むためには、どうしても人が言う話ではなく、自分でファーストハンドの情報をつかむ必要がある。そう言う意味で、むしろ難しいのは、「自分なりに感じること」なのだが、このことの重要性について、いわゆる上記の問題解決本などはほとんど触れていないのではないかと思う*4


「一次情報を死守せよ」というのは、私の大先輩であり、師匠の一人が私にかつて授けてくれた教えの一つだが、これは実に正しく、真実にたどり着くための道の入り口であり、出口でもある。


その時に、どこまで深みのある情報をつかむことが出来るのか、がその人のベースの力そのものであるのだが、これはその人の中の判断する尺度、Frame of reference、あるいは判断のメタフレームワークの充実度の問題であり、一朝一夕で身に付くものではない。知能や学歴は高いかもしれないが、こいつは馬鹿だ、と思う人間が妙にあふれているのはかなりがこの問題ではないかと、僕は考えている。

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脳は自分で(脳自身が)意味があると思うことしか認知できない。そしてその意味があるかどうかは、これまでそのような入力が意味があると言う場面にいくら遭遇してきたかによって決まる。この辺りは、わたしの認知に関する稿をコレまで読んできて頂いた人には良く分かって頂けるだろう。


例えば、有名な実験で、猫が生まれてから縦縞しかない空間で育てると、その猫は、横の線が見えなくなる。結果、例えば、四角いテーブルに載せると、そのかわいそうな猫はエッジが見えなく、落ちる。コレがものすごく簡単に、上の話を裏付ける奥深い話である。これは回路(Wiring)そのものの形成に影響が出たケースであるが、そもそも脳にとって特定の情報処理が出来るということは、特定の記憶が起きることに本質的に近く(知覚と記憶の稿を参照)、特定のことについての意識が起きるということは、その特定のことに関する情報処理(歴のある)回路がある程度活性化していることに近いことなので、まさにかなり近いことであると言える。よくある話で、日本に来て日本語を覚えてから急に「肩が凝る」ようになった外国人、というのも似た話だ。


同様に、例えば、ある商品の戦略作りであれば、単に市場への洞察や、競合視点での狙いどころだけでなく、もの作りの行程、調達のこと、生産工程、技術的な他力の活用、また、物流におけるDCの動き方、また販社の役割、などについてかなりの具体性を持ってイメージでき、そこである変化が起きたときに何がおこるのか、推定する力がなければ、到底正しい判断は出来ない。また実行に向けた解決に当たっては、歴史的な経緯、組織力学的なことへの理解は常に不可欠だ。(一方知りすぎていては「知恵」がでないのも事実であるが、このことに付いてはまた別途どこかでチャンスがあれば考察したい。)


またいちいちこれらを理解していくにはそれなりの年月が必要であり、問題に立ち向かってから調べるのでは到底間に合わないケースがほとんど。これは科学研究においても同じだ。どこまで現在分かっていること、あるいは最近の発見のその意味合い、課題を深く筋の良いコンテキストに沿って理解できるかが第一の勝負なのだから。

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危なっかしいのは、とにかく表面的なロジックとイシューのみで議論する輩である。分かっていてやっているのであれば良いが、それが本当にそれだけでいいと考えているのであれば、そのような人間と話したくはないし、そのような人間は、その案件には関わらない方が良い。これは企業が、社内の事業部、あるいは統括的な企画部門におくべき人間を考えるときはまさにそうであるべきであり、外部のコンサルタントのような人間を使うときはよりいっそうそうでなければいけない。


そう言う視点で考えると、若干本稿のオリジナルの議論から外れるが、世の中で一見、problem solverとして存在している人のどれだけ多くが、フリーの人であれ、組織内に属している人であれ、本質から外れた危険な輩かということが良く分かる。


私がコンサルタントをやめてからも、何人かの元々のクライアントの方のご相談を受けた。多くが「使える、あるいは真に相談に足る人がいないのだが、どうしたら良いと思うか」という話であった。


僕も同じ立場にたって考えると、それは本当に悩ましい問題だと思う。確かに組織の担保する力はかなり組織により差があると思うが、どんな名門のファームであろうと、会社の名前と組織力ではある程度のクオリティしか担保できない。本当のところ、人による部分が大きいからだ。頭だけで歩いている輩をうまく嗅ぎ分け避けることが出来るか、また、何もかも分かってもらえなくても良い、と割り切ることが出来るか、そこが肝心だ。

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ということで、僕として今望むことは、少なくともこのブログを読むような人(特に若者、青年)であれば、そういう情報を噛みしめる人、様々な意味合いをappreciate*5できる人であってほしいということだ。そして表面的なロジックで考えた振りをするような人間にならないでほしいな、ということだ。


コレが本当に大切なことなのだが、どうも逆ぶれしている人が増えている気がしてならない、というのがこのエントリの趣旨だったりする。


読者諸兄姉(みなさん)、どう思われますか?


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ps. 本エントリをさらにぐっと深めた知覚と知性についての論考を、8年余り経ってハーバード・ビジネス・レビューに書きました。書籍ではなく売り切れる可能性が大いにあるため、ご関心のある方はどうぞお早めに入手してご覧頂ければ幸いです。


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*1:もちろん頭そのものの意味ではない

*2:関西弁でいう"アホ"

*3:別にこのような本を出している人を攻めているわけではありません。彼らの多くは半ば確信犯なのですから。一部、分からないまま書いている人がいるだろうことは否めませんが。

*4:私自身は読まないので、もしかしたら誤解があるかもしれない

*5:価値や重さを正しく理解できるというような意味の言葉

ストレッチはするが無理はしない


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @萩、山口県

ごめんなさい。
このところ全くメンテできていません。
師走だからか何だからか、めちゃめちゃ忙しい!

とにかく僕が心がけているのはぷちっとならない範囲でやること。そもそもあんまり「がんばる」という言葉自体が好きじゃない。竹槍特攻隊みたいに負けてしまうイメージ。(笑)

「ストレッチ」のレベルであれば、なんとも言えず気持ちいいのですが、これがもう自分を押すのも大変なときになってまでやるのは、運動でうさぎ跳びをするようなものでもうダメダメ。

必ずダメージが来ます!断言。

僕はあるレベルの疲れなのか状態になると勝手にスイッチが切れて、外に行ってしまいます。適宜、うまく休みを取るのも大事な技。結構これで長い間、タフな仕事を乗り越えてきた気がする。

仕事を始めた頃は、これが出来なくて苦労した。しまいにミーティング中にうとうとしてしまい、先輩から足を踏まれたりして、、、。(ホント恥ずかしいですね。笑)

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ということで、やばくなってきたなと思うとすぐに休憩。
僕はやたらブレイクの多い男なのです。ハハ。

気分転換はとっても大切。活用している技は三つ。(何でも三つといってしまうこのコンサルタントライクな癖が悲しい。。。)

1.手を洗って顔も洗う。出来たら鼻うがいもする。風邪予防も含めて一石二鳥!

2.何か飲み物を買いに行く(何でもいいですが、一つ気晴らし、あるいはオンオフを切り替えるドリンクを持っているといいです。)

3.散歩。軽いダメージであれば、全然仕事と関係のない人とお茶とかするのが最高。空襲のようにやっていき、その人を連れ出す。

本当にやばいときは、整体とか、好きなカメラ屋に逃亡する。公園などで寝るのも最高*1。ちなみに今日は、一言「休む」とチームに言い放って、オフィスのビルの裏にある大きな公園に逃げ出した。

この四日ほどおんなじことをずっと考えて、ちょうどまとめきってアウトプットをdispatchした直後だったので本当に急に疲れが出てヘトヘト。

かなり美しい公園なのだが、芝生に転がりたいと思ったら、全部「養生中」との看板!ふざけるな全然きれいジャン!とか思いつつ(ごめんなさい、疲れてマス)、、、ベンチで横たわる。

空が本当に青いことに気付く。

考えてみると都心で活動していて気付かなかったけれど、実は今は夕焼けや空が一年で一番きれいな季節。アメリカにいた頃は、秋の日、帰りの車をshoulder(路肩)に停めて、写真を撮るのが本当に好きだった。

15分ぐらいかな、横になっていると変なおじさんに声をかけられる。「すいません、ここは横になっていただかないことになっているんですが、、、」見ると、公園管理のおじさんらしい。はい、と言って、今度は斜めに座る。
もう公園なんだから寝させてくれ、と言いたいが、僕はそんなにやばい格好だったのだろうか、、、。(悲)

何やかんやでいくつか隣接のお店も見たりして歩いているうちに、だんだんすっきりしてきた。

時計を見ると55分ぐらい経っていた。
オフィスに戻ると、ちょうど一時間ですっきり。

僕は大体こんな感じでメリハリを埋め込んで楽しくやっています。
皆さんはどんな工夫をしていますか?

ではでは!


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*1:アメリカで研究していた頃はよく釣りに行っていた。クルマで10分ぐらいでかなりいい釣り場があり、ちょっと投げて一、二匹スズキ (Striped Bass) を引っ掛けて帰る、というのがいつものパタン。大きさの制限がものすごいので(たしか26だか28インチ)、もちろんリリース。これはこれで本当に楽しかったが今はもう無理!

渡米して最初に思ったこと(5) - 夢の大切さ

先週まで載せていた11年前のメモの続きです。このシリーズ、間もなく終了です。



Leica M7, 50mm Summicron F2.0, Fortia SP @目黒、東京


アメリカに来てから、こちらのスポーツ選手のインタビューを聞くと、いつも彼らが例外なく自分の考えを持って自分の足で立っていることが分かる。やはり人間として自立しているんだと思う。誰か(コーチとか)になだめすかされてやっているんではなくて、自分の意志で選んだ道を自分の内面から自分を押す力でやっているから、当然「自分を支える考え」というのを持っているんだと思う。


また、アメリカでは、「医者になるわけでもなく、弁護士になるわけでもない、そんな夢を子供達に与えよう」というようなポスターまでいっぱい貼って、スポーツ選手が色んなところに積極的に子供に夢を与えるための活動をしている。これは彼らの本心だと思う。日本の清原のように小金を持ってしまったために自分を見失い、銀座で姉ちゃんを引っかけているような奴には出来ないだろう。初心をもっと大切にして欲しい。なぜ清原にみんな希望を持つかというと、彼が高校を出てドラフトの結果、巨人に入れなかったときのあの涙があるからなのに。あいつはわかっていない*1


夢を与えていかないと、アメリカではまともに成長出来ない子どもが多くいるからだ、というねじれた見方もある。しかし、本来人間は目指す方向に向かって歩こうとする生命であって、これは非常にまともなことであると思う。更にいえば、アメリカは一人一人独立した個人の社会だから、どんなに恵まれた人でも、自分の意志と生きたい方向(夢)がなくなると生きていけないことがクリアになる。


かたや、「子どもに夢を与える」なんて言葉、日本であんまり聞かない。それほど日本の子供は恵まれた環境にいるという人もいるかも知れない。しかし、本当にそうか?ある意味で日本ほど夢のない国はない。ほとんどの人が、そこそこの人生しか送らない*2。野望は国の規制に打ち砕かれ、外圧のみが変え得るようなそんながんじがらめの社会。異常に画一的な目標しか子供にはなく(東大に行く、医者になる、官僚になるなど)*3、覇気のない大人が大手町を歩いている。アメリカで Harvard college, Yale college卒というのは確かにエリートの象徴ではあるけれど、みんなそれを目指しているわけでは全然ない*4。J.D. (law school出), M.D. (medical school出)というのも同じ。


日本では夢を持っている人がいなさすぎるから、誰も語らないのが実態ではないか?誰も自分の生きたかったように生きようとしていない。自分の夢に自分の人生を賭けない。夢があるかどうかすら分からない。


日本では誰もエキサイティングな人生を望んでいないのかもしれない。20歳そこそこの人間が「やりたいことがないからとりあえず商社にいく。」と言ったり、人生の目標で「東京郊外の一戸建て」をあげるのは非常に気持が悪いし異常なこと。ブルーハーツの詩のように「生まれたからには生きてやる。」という考えがない。これは、悲しい。生きてきたからにはうきうきしていたい。生きてきたという実感のない毎日なんてつまんない、そうは思わないのだろうか。


なんていうかパワーがなくなってしまうと、悲しい。いわゆる生き生きしているという顔があるけれど、ぼくはいつもああいうvividな人でありたいと思っている。人間らしく、悲しんで、楽しんで、痛がって、気持ちよくなって、、、そういう生きている自分でありたい。



(Summer 1997)

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*1:この辺り1997年という時代を表しています。:)ちなみに僕は清原と同学年で、桑田も含めて特別な思いがあります。

*2:この状況は、この数年後におこるネットバブルによって多少変わったようだ。

*3:この辺りはこのメモを書いた当時10代であった現在の20代の人に話を聞いてみたい

*4:但し、大統領を目指すのであれば、どん底からの叩き上げ(=アメリカンドリームの体現者)でなければ、このいずれかの大学に undergraduateか、law school辺りでからんでおいた方が良い。ビル・クリントンはこの両方を満たす稀な事例。

悩まない。悩んでいる暇があれば考える


Leica M7, 90mm Tele-Elmarit F2.8, PN400N @Santa Monica, CA

これはだいぶ以前からの僕の仕事上の信念。
kaz_atakaの教えの1(イチ)と呼んでいる。

多くの人は悩むことに時間を使いすぎている。そして悩んだことを仕事をしたと思ってしまう。でもこれは僕は大きな無駄だと思っている。

考えることと、悩むことは違う。全く違う。僕はそう思っているのだが、なかなか分かってもらえない。

僕が一緒に働く若い人にいつも言っているのは大体こういうこと。

「悩んでいると気付いたら、すぐに休め」

「10分以上(君のbrilliantな頭で)真剣に考えても埒(らち)が明かないときは、もう考える筋がないのだから、そのことについて考えるのは一度やめたほうが良い。それはもう悩んでいる可能性が高い」

「悩んでいるかどうかも分からないのであれば、もう悩んでいる可能性が高いのでやっぱり休んだほうが良い」

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考えると悩むって、それぞれどういう意味だと思いますか?

僕の理解では、

「悩む」というのは、答えが出ないという前提のもとに考えるふりをすること。

「考える」というのは、答えが出るという前提のもとに、建設的に考えを組み上げること。整理すること。

似ているような顔をしているが全く違う。

「悩む」というのはつまり、いくらやっても徒労感、変な自己満足しか残らない活動なのだ。そしてアウトプットが出ない人に限って、この悩む時間が長い。だからこいつ悩んでいるな、と思うといつもこう言ってる。

「悩んでいるぐらいなら女の子(男の子)と遊びにいくなり、映画でも見て来た方がまだまし。何も思いつかないなら、ナンパでもしてきてはどうか。ナンパ100人してうまく行けば楽しいし、全部ダメだとしても何か悟るだけまだまし。」(笑)

僕はパーソナルなこと、つまり恋人とか家族みたいな、もう答えが出るとか出ないとかというよりも「向かい合い続けることが意味があること」以外は、一切悩むことは意味がないと思っている。(それでも悩むのが人間であるし、そういう人は嫌いではないのだが、その人間らしさについての考察については省く。笑)

特に仕事(研究を含む)において、悩むというのはばかげたことだ。仕事は何かを生み出すためにあるものであり、変化を生まないと分かっている活動に時間を使うのはばかげている。

が、これを明確に意識していないと、すぐに悩んでいることを考えていると勘違いしてしまう。だから、僕と一緒に仕事をする若い人には、「とにかくもう悩んでいると気付いたらすぐに休む、悩んでいる自分をすぐに察知できるようになろう」と言っている。

暴論に聞こえますか?(笑)

見ていると、大体、この教えの本当の意味が分かって、実践に入るのに一年ぐらいかかるようだ。でもあるところで、みんな吹っ切れて「ようやくkaz_atakaの教えが分かるようになりました」とうれしそうにいうようになると、大体professional problem solverとして一皮向けた状態になっている。そして、何を習ったよりもこれが一番深い教えでした、と言うことが多い。

悩んだり、考えたりする対象がないような仕事をしている人にはちょっと関係のないことだけれど、知的生産に関わっている人にはかなりクリティカルなことではないかと思っている。

なんだか、腰が痛くて仕事できないでいるのだけれど、これは悩んでも考えてもしょうがない課題。とにかく早く直すしかない。この明瞭さが大切、、、なんて思っていたらこんなことを書いてしまいました。

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というような僕の基本的な考えについても、ちょっとずつ書いていけたらと思う。

異論、反論、オブジェクション(©筑紫哲也さん)色々あると思うけれど、それは承知。がんがん書き込んでみてください。


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ps. これまで、沢山頂いたみなさまの声に少しでもお応えできればと思い、このエントリの話も含めて一冊の本をまとめました。(2010.11.24発売予定)知的生産に本格的にご興味のある方は、どうぞ!

内容については、次のエントリをご覧頂ければと思います。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

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三連休促進、はんたい!


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8, RDPIII @沖縄、西表島


法律が変わって、祝日のあるたびに、何でも三連休になってからとても苦労している。

四日しかない週があまりにも多く、辟易する。9回あると思って戦っていた野球の試合がいきなり7回裏で終わってしまうような感じ。(笑)


僕は仕事が好きなのだ。そして五日間を起承転結的に進めること、次の週に向けて勢いと達成感を埋め込みつつ週を上げるというのが非常に楽しい。その僕にとって、四日というかなり崩れたリズムで楽しく働き抜くことはかなり厳しい。仕事の日々はどうしても何割かの事務的なことが税金的に発生するから、たった二割の仕事時間の減少が、著しく落ち着いて考える時間を奪い取る。

仮にどうしようもなく発生する事務処理、つなぎ込み的な会議、調整が実量で週1.5日あるとしよう、これは週4日になっても当然ほとんど減ることはない。とするとウィークデイが5日の場合、3.5日ある生産に向けられる時間が、週4日しかない場合、2.5日になってしまう。なんと、3割減だ。リズムが崩れて8がけぐらいの生産性だとすると、更にこれは悪化し、実質週わずか2日、4割以上短い時間で作業することになってしまう。


週の中日に祝日が来る際には、週5日あるとする生活を前提でまわすので、休みの前とあとにうまく凝縮した時間を埋め込むと、それほどリズムも崩れずにまわすことが出来る。メールぐらいであれば間の休みにこなすことも出来る。

また大きな問題を考えているときは間の休みも含めて、五日間ぶっ続けで考え続けることも出来る。結構、入り組んだ問題、バランスが難しい問題は頭のどこかに転がしておいた方が良いことは多い。暇なときに表からだけでなく、裏からとか下からとか何気なく見ているとクッと前に進むことを経験されたことのある人は多いのではないかナ?


かたや週4日しかない場合、元々異様に休みの多い国なのに、同じリズムでまわすことは不可能。連休中に、1日だけ仕事の予備活動をするのは、家族メンテの視点からも至難の業。僕もいざ連続の休みになるともともとメリハリがクリアな人間なので、仕事の本なんて1行も見たくない。

仕事について考えると、いや1日は仕事に使わなきゃと思うだけで、疲れが抜けなくなってしまう。

だから本当に四日分しか働けず、上の効果で生産量ががた落ち。結果、仕事モードの頭で仮に連続で考えられるのは四日が限度。このタイプの思索にもかなり悪影響が出ている気がする。


僕のような人が他にもいるような気がしてならない。


どうしてこんな決まりを作ってしまうんだろう?そんなことより1年に1回でもいいから、長期的なバケーションを家族と取れる国になってほしい。メリハリがないとひとの調子が落ちるのは自明なのに、どうしてずるずるとやることばかりに逃げるんだろう?


この国の妙に生産性が低く感じる原因の一つは、こんなところ、あるいはこんな方針を導入する判断をしてしまうところに、あるのではないかと僕は思う。


ちょっとおこってマス!プンプン。:)


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iPhone到来


Leica M7, 50mm C-Sonnar F1.5 @Mother Farm, Chiba


先週、お仕事端末としてiPhoneを入手した。これがないと、これからのIT・ネット上のサービスを考えるのはかなり困難、というのが表向きの理由だが(笑)、ただ単に欲しかった、と言った方がむしろ本音。


前職ではお仕事端末は日本到来以来、長らくブラックベリー(BB)だったが、これはもう真逆を言っているというぐらい全然違う端末。同じくスマートフォンと言っていること自体に違和感を感じる。ブラックベリーは言ってみれば究極の(英語)メール、スケジュール端末で、会社のノーツとシンクして、最新のメール状況、スケジュール変更にのみ特化した端末だった。ウェブ状の情報を見るのには極度に不適切で、異常に遅く、なおかつ表示も今イチだった。枯れきった技術だけで作られたウルトラリーン端末。(註:リーンとは「贅肉をそぎ落とした」というような意味の経営でしばし使われる言葉)


'94年頃、会社で配られて、等しくいやがって誰も持ち歩かなかったポケベルの進化系とも言える。当時、口の悪い僕たちは、「大体、猫の首に鈴をつけようなんて言う発想自体が間違っている」なんて良く言ったものだ。

ただ、この現代のポケベル、BBは、確かに見るだけの価値があり、スケジュールが次から次へと変わる時、また人に合う場所がこまめに変更される時、いちいちアシスタント、秘書業務をやっている人に確認する必要が全くなくなったのはとても大きい。


一つの問題は、あまりにもスケジューリング、メール確認に特化しているために、これをもっているとメールを見ていないという状況が許されない空気が発生することで、結果、会議中であってもメールを確認して、1行ぐらいの返事をする、なんて言うのが続発する。

will get back to you soon.(すぐに折り返す)とか、
(it) should work. (多分大丈夫)とか、
i am fine w it. (僕はそれでもいいよ)とか。

ちょっと3-4人に一人ぐらいがなんやかんやで端末をチロチロ見ているのは、異様な風景で、これが一見、『生産性』を上げているように感じさせるところが何とも言えず問題。この「枯れた」技術で出来た端末が、明らかに(生産性を)上げるのは新幹線みたいな通常のネット接続、ケータイからの電話がほぼ難しいところでの連絡、確認で、それ以外のところでは、ちょっと仕事に縛られたアリみたいな生活になってしまう。これを持たされている間ずっと、エンデのモモの世界を感じさせられた。働け、そして働け、だって時間なんてないんだから、、、なんて感じ。時たま、得意気に触っている人を見ると、ちょっとかわいそうに思う。



翻って、iPhoneは全くそういう感じの端末ではない。

このiPhoneを三日ほど前に触り始めた時、何かとても懐かしい、忘れていた感覚が戻って来た気がした。しみじみとこのなめらかな感触に降れ、滑らかな、そして生き物のようなインターフェースと戯れていると、ケータイが僕の友達になったような気がした。そう、これは18年ほど前、僕が初めてマックに触れたときの感触そのものだった。


MS-DOSの黒い画面がPCというものそのものであった時代、アップルのマウスとフォルダー、ファイルのビジュアル表示を核とするインターフェースは革命的なものだった。いわゆるPCとは全く同じカテゴリーのものとは言いがたく、10年以上かけ離れたマシンが世の中に現れたという感じがした*1。この体験を当時共に出来た人なら、100人中98人は同意してくれるだろう。


そして学生ながら、大変なローンを組んで初めて自分のアップルが家に届いたときの感動、スタートキーを押し、立ち上がったマックから、Welcome to Macintoshの文字を見たときの感動は、一生忘れられない。、、、、今回、 iPhoneをしみじみ触っていて、思い出したのは、まさにそのときの全く新しいものに出会った感動に近い。


iPhoneのファミリー上の長であるはずの、iPodは第二世代あたりから始めてmininanoとすでに5−6台ほども買った。確かに非常に優れたインターフェースであったけれど、ずっとAppleユーザで、明日つぶれると言われていたときも、持ち金を崩して「買い支えなければ」とPowerBookを買い続けてきた僕としては(バカです)、アップルユーザだけはどんどん進化するねぇ*2、ぐらいにしか思っていなかった。形も無骨だったし、大きさも今イチだった。くるくる回すクリックホィールはたまらなく好きだったけれど、初めてマックを見た時の衝撃、未来からの使者が来た、という衝撃はなかった。


しかし、このiPhoneには明らかにそれがある。入力のクセは多少あり、まだどうやって効率的に日本語を入れたら良いのかすら良く分からないが*3、触る度に未来に触れている気がする。これはジョブスが戻って来たときに、苦渋の決断で退場させたNewtonの直系の子孫であり、初代マッキントッシュ以来のMacintoshの魂を持つAppleの純粋な子供でもある。


こんな本当の思いを捨てることなく、それを純化し、生み出し続けることのできるアップル、そしてその中心であるスティーブジョブスを心から尊敬する。そしてこの時代をともに生きることが出来る幸せをしみじみと感じる。



With my deepest appreciation,


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*1:実際、ウィンドウズがゴミ箱までコピーして、それがそれなりに使えるようになるまで10年近くかかった。そしてOS X、Aquaの非常に安定で、優れた、そしてJobsのいうところの「なめたくなる」ようなインターフェースが出て、ウィンドウズは追いつくことをやめたようにすら見える。

*2:ご案内の通り、しばらくの間、iPodはPC対応していなかった

*3:これはこの間まで使っていたブラックベリーも同じ、、、だから殆ど上のように英語のメールしか書かなかった

Too much tips might kill you. (急いては人生を仕損じる?)


Contax T2, 38mm Sonnar F2.8 @北海道、洞爺湖

この間たくさんのブックマークを頂いてから、いったい何を自分は書いたらいいんだろうと思って少々悩んでいる。確かにあれは僕の書きたいことの一つであったのだけれど、そのブックマークに沢山のライフハックなるタグがついていることに気付き、そのタグからライフハックという言葉を知った。

あまりにもナイーブに生きて来たからか、あるいはあまりにも効率性や生産性の高い空間で生きて来たからか、あまりそういう知恵的なことを追求してこなかった気もするし、ここまで生き延びてくるためにたくさんのtips(日本語で言うと、「何か」をやるためのコツとかちょっとした知恵)を無意識に吸収して来た気もする。


僕は、自分で言うのもどうかと思うが、恐らく比較的生産性の高い方で、でも、その本質は、沢山のことを短時間に行う能力ではなく、同じ時間で意味のあることのみに活動をフォーカスする力だと思っている。僕は若かった頃(10数年前の昔)、エクセルで分析をするのが得意だったけれど、かといって叩くのが異常に早い訳ではなく、なんというか無駄なことをせずに、割と簡単なことの組み合わせでモノを整理するのが得意なだけだった。日本でマスターをとって、一度サイエンスをやめて、プロフェッショナルファームに入ってしばらくした頃だ。


悩んでいる更に若い連中に、僕が教えていたのは、

  • 例えばシート形式で使うのはやめる(1ファイル1メッセージ方式)。
  • 少しでも手を加えたら、それは違うバージョンとしてとっておく。
  • ファイル名を見ると中身と作成時間が分かるようにしておく。
  • ソルバーのような、説明が困難な方式を使わない。
  • フィードバックループが入ってくるならエクセルに固執せず専門のソフトウェアを使う、

など基本的なことばかりだった。

で、一緒に10分ぐらい僕と一緒に叩いていると、なんだ、こんな簡単なことで、うまく行くんですね、といって帰るのがほとんどだった。

長い間、問題解決を専門とするプロフェッショナルファームでも、その問題解決や、分析について教えて来たけれど、それも一番基本的なことを大切にする、それがいつも一番大切だった。


何だか、社会が生産性に追い立てられるのは分かるのだけれど、でも僕はちょっと道がずれていっているような気がしている。『生産性』をあげることの本質は、そういう本質というか一番基本的なところを明確に押さえていくことであって、そんなちょっとしたチップスを、ただただ、貯めていくようなことではないと思う。

確かに生産性の高い人は、いくつかのチップスを持っているし、自分のやり方もそれなりにあり、なおかつ、いつもちょっとずつかもしれないけれど、工夫をしている。学ぶ心も旺盛だ。だからといって、無数にチップスを集めたり、そういうことをあさることはしない。僕がこれまでサイエンスでもビジネスでも見て来た超人的な人、スーパーな人はなぜか例外なくそうだった。

ものすごいスピードでアウトプットを出したり問題解決をするけれど、それは人の10倍仕事をするからではなく、せいぜい人の2−3倍程度の仕事量だけれど、意味のないこと、意味の見えないことをしない。失敗したらそれを無駄にしない、そういうことを、無骨に繰り返している、それがそういう人に毎度繰り返し僕の見て来たことだ。


その大切なところへの徹底的なフォーカス、それがやっぱり肝であり、ちょっと僕の言葉の理解している度合いが悪いのかもしれないけれど、チップスオリエンテッド(チップス志向の)な意味でのライフハックというのはちょっとずれている気がする。本質的なライフハックならいいけれど、そこはどうかな、というところに自分としては常に立ち返りたいな、、、そんなことをちょっと、でもまじめに思う。

そしてそんな僕の思う本物の意味で読んでもらえたんだったら、あるいは色々考えてもらうきっかけになっているんだったら、それはすごくうれしいことだな、と思う。


ちょっとつぶやき系ですが、僕としてはとても大切なことだと思うので。:)

Hope you are having a great weekend!


ps. このエントリのタイトルはQueenの名曲、Too Much Love Will Kill Youへのオマージュです。


ps. 冒頭のエントリに対し、沢山頂いたみなさまの声に少しでもお応えできればと思い、一冊の本をまとめました。(2010.11.24発売予定)知的生産について、本格的にご興味のある方は、どうぞ!
内容については、次のエントリをご覧頂ければと思います。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」